yokoken001’s diary

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和田,2014

工部大学校の学科の全卒業生211人のうち最も多かったのは鉱山科(48人)であり、その次が土木科(45人)だった。その意味で土木科は同校の主要な学科であると言え、本科での実地教育の内実を明らかにすることは重要な課題だろう。

 

和田正法「工部大学校土木科の実地教育 -石橋絢彦の回想録から」『科学史研究』第53号(2014年)、49-65頁。(ここからDL可)

 

  • 従来、工部大学校の実地教育については、卒業論文・実習報告書の一覧の作成や、カリキュラムに注目した分析がなされてきたものの、実習の内実まで検討したものがなかった。そこで本稿では同校で鉱山科の次に卒業生が多かった、中心的な学科である土木科で行われた実習教育の実態を解明する。史料は第一回卒業生である石橋絢彦の回顧録を基本ソースとしている。
  • 石橋は明治6年に第一回生として工部大学校に入学し、明治12年に卒業したが第二等及第であり学位は得られなかった。しかし卒業後にイギリス派遣学生11名の中に選ばれ、ロンドンで海上工事や灯台工事に従事した。
  • 工部大学校開校当時は6年中4年(2/3)を実地作業に宛てることが構想されていたが、明治10年に実地は3年次以降に行われることになった。それでも1000日以上が実地に費やされるはずだったが、実際に石橋が経験した期間は240日程度であり(平均は214日)、予定よりも圧倒的に少なかった。従って、実地教育が時間とともに減少したという量的変化は土木科には当てはまらないという。
  • 石橋は、川崎、横浜、千葉、茨城、横須賀、秋田、長崎、そして工部省所轄の機械製作工場であった赤羽工作分局で実地を行なっていた。このうち、川崎、横浜、千葉、横須賀は土木科教師ジョン・ペリーが引率した。ここで興味深いのは、石橋が書き残しているペリーの「変つて居つた」教育方針である。川崎での出張で、あるとき電信の針金がブーブ鳴っていた。そこでペリーは生徒(※工部大学校は優れた卒業生には学位を出したが、同校入学者は慣習的に「学生」ではなく「生徒」と呼ばれていたらしい)にこの理由を問いただし、「自然科学ならなんでも持つて来ひ」と実地問題に答えさせ、その度ごとに自問自答の練習させた。こういった現場で臨機応変に出題するペリーの方法は、石橋らにとってよほど変わった方法だったが、教育的だった。またペリー自身も、生徒らが集めてくる情報は歴史的・工学的に興味深いものだったという感想を残している。