yokoken001’s diary

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和田,2012b

 どうして工部大学校が日本の工学の形成に影響を与えたと言えるかと問われれば、それが工学会を設立したからである。工学会は、日本における工学分野の学協会の先駆けである。「工学」とは「学問的に体系化された技術」であるとすれば、その工学の形成にとって、技術者らが互いに知識を共有し合う場(学会や学協会)や媒体(学会誌など)を持つこと、かつそこで前近代的な徒弟制における暗黙知の伝達ではなく、言葉で記述する=形式知を公の場で発表し、第三者がそれらを吟味できるような活動(これを研究というかどうかは微妙だが)が行われることが必要であると思われる。こうした意味での「技術の制度化」を主導した全てではないにせよその一部は、工部大学校だったと言える。本稿は、そうした先駆的学協会=工学会の形成を論じた論文である。

 

和田正法「工学会の成立 -工部大学校同窓会から学会へ」『科学史研究』第51巻(2012年)、148-159頁。(ここからDL可)

  • 本論文は、明治12年に工部大学校を卒業した第一期生23名によって設立された工学会(現在、100以上の工学系・理学系の団体が加盟する日本工学会の前身)が、日本の工学の発展に及ぼした影響を調べることを目的にしている。特に、同会が同窓会といった私的な性格から公共的性格を担い、一般の工業・工学関係者に開かれた団体に移行する過程に注目される。

 

  • 明治6年に工部寮に入校した32名のうち、23名が6年後の明治12年に同校を卒業した。工学会の公式記録によると、卒業後もときどき会合を開いて顔を合わせるのがよいという意見が共有され、同年11月に会の規則草案を討議し「仮規則」が作成されたという。幹事、主記、会計、「工学会」の名称もこのとき決まった。

 

  • 仮規則の原本は発見されていないが、筆者は会務報告にある改正記録をもとに内容を辿っている。第一条である設立の趣旨の内容としては、友情が変わらないように、親睦を深めるため、学術交流や知識の交換を促すといったことが盛り込まれていた。こうした趣旨はダイアーが提案していた、欧米の工学系学協会=立場や友情に拠るべきではなく技術者の地位向上を目指し(当時英国ではengineerがlearned professionの一つとして認められていなかった)、技術者の能力だけで評価される学術機関の設置とは大きくことなっている。加えて会務記事ではダイアーの原案への言及は皆無であり、工学会の設立にダイアーの主張が影響を及ぼしたとは考えられないと述べられる。

 

  • 第一回卒業生=工学会会員23名のうち11名が留学し、その他東京外に赴任する者も多く、同会の当初の仕事は会費を受け入れる程度の事務作業だったが、翌年(明治13年)に40名が会員に加わったことで会の勢いは確かなものになっていった。
  • 同年には『工学叢誌』が発刊された。これは大正11年まで全452巻が発刊されることになり、工学会の成り立ちのみならず、日本の近代化・工業化の過程を知る上で貴重な資料である。http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/kogakkaishi/index.html
  • 明治13年6月に開かれた臨時集会において、幹事の杉山が会誌を発行することを呼びかけたことがきっかけである。その背景には、会員相互の連絡がないという危機感があった。しかし当初編集作業は順調に進まず、明治14年に体裁をあらためた会誌が第一号第一巻として発行され始めた。そしてこのとき、会誌を公刊する運びとなった。この方針転換については、外部から公刊の要望が寄せられていたためであるとしている、
  • 会誌が一般発売されるのに合わせて、工学会は同窓会という位置付けを解消し、学術団体として新出発することになった。但し工学会は当初から必ずしも閉じた性格の機関であったわけではない。例えば明治13年にはすでに卒業生ではない金子精一が準員として同会に加入していた。しかし明治14年には100名を超える団体に成長し、その発展に応じて新たな会則が必要とされるようになった。そして明治15年に全役員を改選した新体制が発足し、同年2月に卒業生以外のメンバーが正員として承認された。この年を境にし、同窓会という私的性格から学術団体として公共的役割を担うようになったと著者は主張している。
  • ここで重要な役割を果たしたのは、明治15年から35年にわたって同会会長を務めた山尾庸三であった。彼は会の運営にはほとんど関与していなかったが、出身者は彼を崇拝しており、彼を会長に置くことで会の権威が高められ、正当性を保証する上で大きな役割を果たしていたと分析される。山尾は明治13年に政府において工業・工学を司る工部卿に就任している。
  • 以上、本稿では工学会形成の初期段階が検討された。なお、大正11年以降は個人会員制から12 の工学系学協会を会員とし、学協会間の調整的存在として新たな役割を担っていくと述べられ、この過程の解明は今後の課題とされている。