yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

和田,2014

工部大学校の学科の全卒業生211人のうち最も多かったのは鉱山科(48人)であり、その次が土木科(45人)だった。その意味で土木科は同校の主要な学科であると言え、本科での実地教育の内実を明らかにすることは重要な課題だろう。

 

和田正法「工部大学校土木科の実地教育 -石橋絢彦の回想録から」『科学史研究』第53号(2014年)、49-65頁。(ここからDL可)

 

  • 従来、工部大学校の実地教育については、卒業論文・実習報告書の一覧の作成や、カリキュラムに注目した分析がなされてきたものの、実習の内実まで検討したものがなかった。そこで本稿では同校で鉱山科の次に卒業生が多かった、中心的な学科である土木科で行われた実習教育の実態を解明する。史料は第一回卒業生である石橋絢彦の回顧録を基本ソースとしている。
  • 石橋は明治6年に第一回生として工部大学校に入学し、明治12年に卒業したが第二等及第であり学位は得られなかった。しかし卒業後にイギリス派遣学生11名の中に選ばれ、ロンドンで海上工事や灯台工事に従事した。
  • 工部大学校開校当時は6年中4年(2/3)を実地作業に宛てることが構想されていたが、明治10年に実地は3年次以降に行われることになった。それでも1000日以上が実地に費やされるはずだったが、実際に石橋が経験した期間は240日程度であり(平均は214日)、予定よりも圧倒的に少なかった。従って、実地教育が時間とともに減少したという量的変化は土木科には当てはまらないという。
  • 石橋は、川崎、横浜、千葉、茨城、横須賀、秋田、長崎、そして工部省所轄の機械製作工場であった赤羽工作分局で実地を行なっていた。このうち、川崎、横浜、千葉、横須賀は土木科教師ジョン・ペリーが引率した。ここで興味深いのは、石橋が書き残しているペリーの「変つて居つた」教育方針である。川崎での出張で、あるとき電信の針金がブーブ鳴っていた。そこでペリーは生徒(※工部大学校は優れた卒業生には学位を出したが、同校入学者は慣習的に「学生」ではなく「生徒」と呼ばれていたらしい)にこの理由を問いただし、「自然科学ならなんでも持つて来ひ」と実地問題に答えさせ、その度ごとに自問自答の練習させた。こういった現場で臨機応変に出題するペリーの方法は、石橋らにとってよほど変わった方法だったが、教育的だった。またペリー自身も、生徒らが集めてくる情報は歴史的・工学的に興味深いものだったという感想を残している。

和田,2012b

 どうして工部大学校が日本の工学の形成に影響を与えたと言えるかと問われれば、それが工学会を設立したからである。工学会は、日本における工学分野の学協会の先駆けである。「工学」とは「学問的に体系化された技術」であるとすれば、その工学の形成にとって、技術者らが互いに知識を共有し合う場(学会や学協会)や媒体(学会誌など)を持つこと、かつそこで前近代的な徒弟制における暗黙知の伝達ではなく、言葉で記述する=形式知を公の場で発表し、第三者がそれらを吟味できるような活動(これを研究というかどうかは微妙だが)が行われることが必要であると思われる。こうした意味での「技術の制度化」を主導した全てではないにせよその一部は、工部大学校だったと言える。本稿は、そうした先駆的学協会=工学会の形成を論じた論文である。

 

和田正法「工学会の成立 -工部大学校同窓会から学会へ」『科学史研究』第51巻(2012年)、148-159頁。(ここからDL可)

  • 本論文は、明治12年に工部大学校を卒業した第一期生23名によって設立された工学会(現在、100以上の工学系・理学系の団体が加盟する日本工学会の前身)が、日本の工学の発展に及ぼした影響を調べることを目的にしている。特に、同会が同窓会といった私的な性格から公共的性格を担い、一般の工業・工学関係者に開かれた団体に移行する過程に注目される。

 

  • 明治6年に工部寮に入校した32名のうち、23名が6年後の明治12年に同校を卒業した。工学会の公式記録によると、卒業後もときどき会合を開いて顔を合わせるのがよいという意見が共有され、同年11月に会の規則草案を討議し「仮規則」が作成されたという。幹事、主記、会計、「工学会」の名称もこのとき決まった。

 

  • 仮規則の原本は発見されていないが、筆者は会務報告にある改正記録をもとに内容を辿っている。第一条である設立の趣旨の内容としては、友情が変わらないように、親睦を深めるため、学術交流や知識の交換を促すといったことが盛り込まれていた。こうした趣旨はダイアーが提案していた、欧米の工学系学協会=立場や友情に拠るべきではなく技術者の地位向上を目指し(当時英国ではengineerがlearned professionの一つとして認められていなかった)、技術者の能力だけで評価される学術機関の設置とは大きくことなっている。加えて会務記事ではダイアーの原案への言及は皆無であり、工学会の設立にダイアーの主張が影響を及ぼしたとは考えられないと述べられる。

 

  • 第一回卒業生=工学会会員23名のうち11名が留学し、その他東京外に赴任する者も多く、同会の当初の仕事は会費を受け入れる程度の事務作業だったが、翌年(明治13年)に40名が会員に加わったことで会の勢いは確かなものになっていった。
  • 同年には『工学叢誌』が発刊された。これは大正11年まで全452巻が発刊されることになり、工学会の成り立ちのみならず、日本の近代化・工業化の過程を知る上で貴重な資料である。http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/kogakkaishi/index.html
  • 明治13年6月に開かれた臨時集会において、幹事の杉山が会誌を発行することを呼びかけたことがきっかけである。その背景には、会員相互の連絡がないという危機感があった。しかし当初編集作業は順調に進まず、明治14年に体裁をあらためた会誌が第一号第一巻として発行され始めた。そしてこのとき、会誌を公刊する運びとなった。この方針転換については、外部から公刊の要望が寄せられていたためであるとしている、
  • 会誌が一般発売されるのに合わせて、工学会は同窓会という位置付けを解消し、学術団体として新出発することになった。但し工学会は当初から必ずしも閉じた性格の機関であったわけではない。例えば明治13年にはすでに卒業生ではない金子精一が準員として同会に加入していた。しかし明治14年には100名を超える団体に成長し、その発展に応じて新たな会則が必要とされるようになった。そして明治15年に全役員を改選した新体制が発足し、同年2月に卒業生以外のメンバーが正員として承認された。この年を境にし、同窓会という私的性格から学術団体として公共的役割を担うようになったと著者は主張している。
  • ここで重要な役割を果たしたのは、明治15年から35年にわたって同会会長を務めた山尾庸三であった。彼は会の運営にはほとんど関与していなかったが、出身者は彼を崇拝しており、彼を会長に置くことで会の権威が高められ、正当性を保証する上で大きな役割を果たしていたと分析される。山尾は明治13年に政府において工業・工学を司る工部卿に就任している。
  • 以上、本稿では工学会形成の初期段階が検討された。なお、大正11年以降は個人会員制から12 の工学系学協会を会員とし、学協会間の調整的存在として新たな役割を担っていくと述べられ、この過程の解明は今後の課題とされている。

和田,2012a

最近は和田氏の工部大学校関連の論文をフォローしている。これは『化学史研究』に投稿された、工部大学校化学科にフォーカスした論文。非常に実証レベルが高く、推論過程も精緻。以下は要約とコメント。

 

和田正法「工部大学校における化学科の位置付け- 実地教育の分析から」『化学史研究』第39号(2012年)、55-78頁。

 

  • 先行研究では、工部大学校の教育に関して日本における近代技術教育の先鞭をつけるものとして顕彰的に扱われ、「成功」したと評価されてきた。その一方、工部大学校の教育の意義について、批判的立場からの研究はほとんどなく、検討の余地が残されている。本論文は工部大学校化学科のとくに実地教育に着目し、困難や矛盾に目を向けながら、同校における位置付けを行っている。加えて教員ダイバースの教育方針を検討したのち、化学科卒業生をプロソポグラフィの方法を用いて出自・就職状況が分析される。

 

  • 明治3年山尾庸三によって理論の教育に力を入れた工学寮構想が示され、翌年には工部省から太政官に「工部学校建設ノ建議」が提出された。そこでは日本が外国人の力を借りずに事業を行う人材教育の必要性が説かれていた。工部寮(工部大学校)はイギリスの技術・文化を導入する方針を採り、明治6年には英国から9人の教師が招聘された。同年最初の32人が入学し、明治12年に初めての卒業式が行われる。同校が文部省に移管される明治18年までに総勢493人が入学し、211人が卒業した。6年間の課程は予科、専門科、実地科と2年ずつ充てられ、最初の四年間は半年ごとに修学と実地を交互に行い、最後の2年は全て実地に従事することが定められており、実地に重点を置くことが最大の特徴だった。

 

  • 工部大学校では多くの専門分野が配置されたが、それらが同等に位置付けられていたわけではない、と著者は指摘する。ダイアーは工部省の部局で「エンジニア」という言葉が通常よりも広い意味で(=土木・機械だけでなく製造業まで含めて)使われていると述べ、そうした日本の状況に対応せざるを得ない側面があった。例えば彼が重視した図学を一様に導入する際に、「化学や電信といった、製図がそれほど重視されない分野においても、すべての生徒は、器具の図を書き…」と「歯切れの悪い」弁明をしながら一様に導入した。要するに、化学科はダイアーにとっては教育的注意が届きにくい付加的な学科として設置されたと筆者は主張する。

 

  • 工部大学校化学科での教育を担当したのはダイバースであった。彼は実地に応用できる知識を獲得することではなく、体系的な知識を身につけ「独創的な研究」を行うことを重視する教育方針を掲げていた。従って、工部大学校が重視する実地偏重に従順である生徒の姿勢を彼は快く思わなかった。さらに著者は当事者の複数の回想録の記述を拾い集め、ダイバースの研究志向は工学的というより理学的であったことを示している。

 

  • そのような化学科にはどのような生徒が在籍していたのか。著者は、まず化学科卒業生25名のうち大多数は生没年すら判明していないことを強調し、高峰譲吉などの後世に名を残し広く知られる者は例外であったと論じている。それでも本稿で判明した情報からは、帝国大学へ移管される直前に明治17,18年においては7割を超える人員が士族出身であったことが明らかにされる。士族主流の傾向は、化学科だけをとっても同じである。
  • 次に、工部大学校入学前の学歴を見てみると、第4回以降の卒業生には工学寮小学校に在籍した記録が残っている者がいた。同小学校には328人が在籍し72名(28%)が工部寮・工部大学校に入学した。この数字は決して高くないが、そのほかには(吉川阪次郎のように)7年間の受験準備期間の間に科目ごとに学校を変えるなど、手探りで入試に備えていた者もいた。
  • 卒業後の進路を見てみると、88% の化学科卒業生が公官吏になっていることがわかる。官費生の場合卒業後7年間の奉職規定があるが、私費生にとっても公官庁が有力な就職先だった。明治15年には政府への人材供給の過剰を受け、官費生の7年間の奉職規定を外したが、卒業生がすぐに民間に移れたわけではなく、就職難への対策として「非職技手」の規定が策定された。卒業生が民間へ就職することが難しかったのは、民間の産業が未発達であったことに由来し、その傾向は明治20s後半まで続いた(そのことは、門野重九郎の回想に顕著に記されている)。しかしこうした卒業生の困難は工部大学校設立前から予測されていた。山尾は産業の未発達を指摘する反対論に対して「人作レバ其人工業ヲ見出ヘシ」と断行していたのであり、むしろ工部大学校の設立は民間をはじめとする国内産業全体を育成するための端緒とみることができると筆者は主張している。
  • なお、東京大学と工部大学校の間で学士の称号について統一した基準が設けられていなかったため、後者の厳格な卒業基準が災いして、就職時に不利な立場に置かれる(工学士の称号が与えられないケースが多かったから)という現象も生じた。
  • 化学科には第1等卒業生が少なかったが、その理由は予科課程の成績が比較的よくない者が同学科に集まったからではなく(予科課程の順位と進級先の学科との間に相関はないことを実証している)、化学科が特に他の科に比べて厳しい基準が課されていたからである。そしてそのことは、生徒を卒業後不利な立場に置かせることにつながった。

 

  • 後半では、化学科の実地教育について分析される。筆者は『工部省年報』や「工部大学校報告」に依拠し、学科別の出張先件数と一人当たりに課せられた日数を表にまとめている(但し、記録に残っていない赤羽工作分局での実習も含めれば、表に示された日数以上になると推測されることを付け加えている)。化学科の派遣先については、東京都では板橋火薬製造所、王子製紙場、品川工作分局、近畿では大阪鉄道、大阪造幣局などが挙げられる。明治18年頃になると、規模は小さいものの、群馬や栃木など北関東への派遣も行われるようになった。化学科において複数年にわたって継続的に派遣が行われたのは東京を中心として、限られた工場だけだった。

 

  • 化学科の生徒が派遣された工部省管轄の工場は、品川工作分局のみである。同局は明治9年にガラス製造会社の興業社を買収して創設されたが明治18年に民間払い下げとなっている。そこでの実習では、紅色ガラスの原料である赤鉛や炭酸カリを化学実験所で製造してする作業を「実地」と称して生徒に充てていた。しかし製造業への関心が低かったダイバースは、生徒をこうした工場へ派遣させることには消極的だった。
  • 従来、工部大学校では工部省所轄の工場で実地が行われていたことが強調されてきたが、実際には学科によって研修場所や期間は多様であり、内容にもかなりの幅があった。言い換えれば、「実地」、「出張」と表現しても、その活動内容は「見学」から「研鑽」、「遂行」まで幅広い意味で用いられていた。

 

  • さらに実地の内容は、6年次の1-3月にかけて執筆されることになっていた卒業論文(以下、卒論と略記)の内容からも推察される。そこでは実地において行った作業に基づいて論文・意匠・仕様書をまとめることになっていたからである。残念ながら化学科の卒論は現存しないが、残された表題一覧からは一つの化学物質をテーマにした論文が多いことが読み取れ、かつそれは当時の産業と密接な関係を持っていたことがわかる。例えば、第一回卒業生の深堀芳樹が卒論の内容に基づき『工学叢誌』に投稿した論文「内国製石鹸試験」では、同時代に国内で製造された石鹸と外国製との比較を行って、より良い製品(水溶性、洗浄力が高いもの)を作る方法を考察していた。ここでは調査研究的なものを超え、卒論の執筆に際して実験が行われていたことも窺い知れる。これは実験室での作業を重視したダイバースの指導によるものであると指摘される。

 

  • 以上、本稿の分析からは、(1)化学科は工部省事業との関連が低いこと、(2)地方を含めた公官庁に就職する者が多かったこと、(3)化学科における学位取得率が低く、このことはダイバースによって難易度の高い教育が行われたことに由来し、卒業生の立場を低くする現象につながったことが明らかになった。特に(2)は民間産業が未熟だったことに起因しており、国内産業の状況に応じて技術教育が発展したのではなく、人材を育成してから彼らに産業の発展を任せようという山尾の意図が背景にあった。

 

 

感想

本論文には120を超える註があり、多種多様な資料を駆使して化学科の位置付け、卒業生の進路、実地内容を細かく描き出している。それだけではなく、推論プロセスも厳密であり、見習うべき点が多い優れた論文であると感じた。工部省というと鉄道・電信や土木といったインフラ事業を想起しやすい。対して化学科に焦点を充てた本稿によって、工部大学校の従来の記述が偏っていたことが明らかにされたように思われる。 (例えば、実地は必ずしも工部省所属の工場で行われていたわけではないことなど。)

 ただし、ダイアーの「エンジニア」概念と、日本でより広い文脈で使われる「エンジニア」概念との違いについては、もう少し説明がほしいところだった。引用されているのは彼による図学の導入に関する弁明であるが、やや主張と資料との間に飛躍がある、というか結論が先にある感がある。

和田, 2010

和田正法「工部大学校創設再考 – 工部省による工部寮構想とその実施」『科学史研究』256号(2010年)、86-96頁。(ここからDL可)

 

 以前或る学会で、海外の研究者から日本の電気工学教育の歴史について(いつ始まり、どんな特徴があるのかなど)質問を受け、面食らってしまった。その反省もあり、とりあえず工部大学校からおさらいしたいと思っていたら、2ヶ月も経ってしまった。以下概要と感想。

 

 

  • 工部寮は行政組織として明治4(1871)年工部省に設置され、明治6(1873)年7月に工部寮が学校の名称として用いられ始める。同年10月に工部大学校と名称を変え、明治19(1886)年に「帝国大学令」の発布とともに帝国大学工科大学に引き継がれた。従って、工部大学校の研究=帝国大学工科大学の成立の前史の研究であり、高等工業教育史上重要なテーマとなる。
  • 工部大学校に関する従来の研究では、お雇い外国人教師のヘンリ・ダイヤーに「一切の権限」が与えられ、「白紙の状態」から理想の教育機関を実現したなどといったストーリが語られてきた。それに対し本稿は、ダイヤーの教育計画のみならず、出自の異なる日本側の工部大学校構想のせめぎ合いを視野に入れ、その構想の大枠はダイアー以前の工部省案ですでに決定されていたと主張する。

 

  • 最初に検討されるのは、明治政府における初代Engineer-in-chiefエドモンド・モレルが1870年5月に提出した「建築局」創設建議の中にある技術教育案である。ここでは1/5を学理に残りの大部分を実地研修に教師リソースを割くという内容が示されており、工部省修技校の形式に近いもので、工部大学校の直接のモデルになった可能性は低いという。
  • 同年9月には大島高任が「坑学寮新設に関する意見書」を上申し、鉱山開発に必要とされる学理・技術を教授することを提案している。ここでは外国人教師7人を雇い、全体は数十名規模で、一般的な課程期間は5-6年を基準にしていた。また藩閥に限らず全国から人材を集めることを想定しており、講義内容を出版し学外に啓蒙する案も示されている。さらに、実地教育を「西洋の学術」をいち早く現場に導入する手段とみなしていたことも窺い知れるという。なお、伊藤博文は大島の上司であり、大島の構想について伊藤の念頭にあった可能性があると指摘される。
  • 1871年に工部省(おそらく山尾庸三が作成したと推測される)は「工部学校建設ノ建議」を出しており、それは、工部寮建設は日本人の手で諸事業を運営したいという自立の精神に基づいていた。この建議に依拠し、「工部学校建設概要」、「定即ノ概略」が布告された。伊藤博文はこの後者の策定に山尾とともに関わっていた可能性が高いとしている。伊藤は明治5年2月にワシントンから一時帰国するが、再出発してロンドンのマセトン商会に教師の人選を依頼する時点で、「工部学校建設概要」と「定即ノ概略」にいたるまでの工部寮構想案を完全に把握できる状況にあった。従って、これらの全てを伊藤はマセトンに提示したのではないかと著者は述べている。
  • 工部省案と大島案を比較すると、(1)教師は全て西洋人にすること、(2)洋学を積極的に導入しようとしたこと、(3)学理とともに実地の研修を行うとした点が共通している。一方、大島案では通訳を使うことを想定していたのに対し、工部省案では外国人教師から直接授業を受けるために語学の習得を必須としていた点に違いが見られる。

 

  • 1872年岩倉具視使節団がロンドンに到着してから、伊藤はマセトン商会に教師の人選を依頼し、翌年1月にはダイヤーを雇うことが決まりつつあった。ダイアーの『大日本』によれば、日本に向かう船中で「カレンダー」(教育課程)の作成を行い、山尾に提出すると「修正されることなく受け入れられた」と書かれている。ダイヤーが来日以前に工部省の工部寮構想を知り得た可能性としては、林とマセトン、ダイヤーとの接点が挙げられるという。林は交渉に当たった人物だが、林の証言からは、依頼はすでに伊藤が済ませており、林は教師の同伴者としての任務に当たっていた(彼は語学が非常によくできたからである)。そしてダイヤーの回想には、同行した林から日本の歴史について最初のレッスンを1873年に受けたとあり、この際工部省による工学寮構想を伝えられていた可能性があると推察している(※この点は裏付ける資料がないので、若干微妙な気がする、というか確言はできないだろう)。
  • ダイアーのカレンダと工部省案とを比較すると、(1)入試を行うこと、(2)教育期間を4年間→6年間にすること、(3)その2年間を用いて実地教育を増加させたこと、という3点で彼の独自性が認められるとも著者は指摘している。その一方で学理と実地の接合という案は、工部省案や大島案にもすでに表れており、ダイヤーのみに帰せられるわけではない。あくまで課程期間内での実地教育を重視した点に彼のオリジナリティがあるという。
  • そして、カレンダーで設定された土木、機械、電信、建築、化学、鉱山、冶金の7科は、工部寮の観工、鉱山、鉄道、土木、灯台、造船、電信、製鉄、製作の部局に対応したものと見ることもでき、実際彼の教育課程の計画では、日本の状況に対応せざるを得なかったことが窺い知れる証言もある(※このあたりの推理もやや無理がある気がする)。加えて、ダイアーが山尾に提出したカレンダーと「工学寮入学式並学課略則」を比較すると、いくつかの点で相違があり(衣食住の経費を官費でまかなうこと、50名中30名を官費入寮生、20名を私費通学生とすることなどはカレンダーに書かれていない)、「どのような修正をされることなく政府に受け入れられた」というダイアーの記述は事実に反し、山尾が追加修正を行っていたことを明らかにしている。また修業後5年の奉職義務も工部省原案にあったものをダイアー案が採用したと考えるのが妥当であるとする。
  • 工部寮建設の目的も、工部省が学理を重視したそれを意図したのに対して、ダイアーは現場を重視した厳格なエンジニア教育を目指した点で異なっていた。それは留学に対する態度にも反映されていた。前者は学理の習得に重点を置きつつ当初より留学重視の姿勢が一貫していたのに対し、後者はあくまで国内の教育で完結すべきであるという考えが強かったという(「我大学校ノ教育ハ英蘇両国尋常ノ大学ニ比スレハ遥カニ其右ニ出ルト云ヘリ」Dyer『工学叢誌』1881年)。要するに、ダイヤーは教育の実質を重視した一方、工部省は留学という形式に拘っていたという相違があった。

 

  • 以上まとめると、工部大学校の教育の大枠はダイアー来日以前にはすでに決まっており、彼のカレンダーも独断で作成したものではなく、工部省案を受け入れつつ作成した。工部省が留学制度を重視し、第一回卒業生のうち優秀な11名を1880年にイギリスに留学させたことに加え、第二回以降の卒業生が工部大学校の教師に着任した後も留学させていたという事実が、あくまで国内の6年間課程で教育が完結するものとみなすダイアー案に反して、工部省が主体的に参与していたことを示している。すなわち、恋部大学校の設計・運営の基本的性格は、ダイヤーというよりはむしろ工部省が規定していたということになる。

 

感想

工部大学校はダイヤーの構想がほとんど修正されることなく実現されたものであるという従来の説に対して、日本側の工部寮(工部大学校)構想案を検討し、ダイヤーがそれらを参考にして日本の条件に合わせつつ構想を練ったこと、教育内容においても留学重視の工部省案が(ダイアー案に反して)採用されていたことを明らかにし、工部大学校創設における日本側の主体性を主張している。先行研究の対比が鮮やかで、非常に興味深い論文である。一方、事実を裏付ける資料が必ずしも十分であるとは言えない箇所もあり、やや長めの補助線が引かれていると思われる部分もあったように思う。のちに発表されている論文も読む必要がある。

大江健三郎『個人的な体験』再読。

 

 大学1,2年(19,20歳)の頃、この小説を初めて読み、これは今まで読んだ小説の中で一番好きな作品なのではないかと思った。そしてその後、今に至るまで6年くらいが経過して、小説の中身の大部分は忘れてしまったが、おそらくその後に読んだ小説も含めて、最も好きな小説のベスト3には入るのではないかと思い返し、今回再読してみた次第である。

 結論から申し上げると、私はやはり、この小説が過去に読んだ作品の中で最も好きなものを挙げろと言われれば、3本の指には入ることを確信した。(ちなみに現時点で他にはカフカの『変身』が入り、後の一つはまだわからない。)

 この大江健三郎の他の作品も読んでいるが、『個人的な体験』は、作者の創作過程の中でまさに「覚醒」状態で書かれたのではないかと疑うほど、奇想天外でエッジの効いたキレッキレのアイデアに満ちている。冒頭のアフリカの地図を買う場面から、ゲームセンターでの少年たちとの揉め事(この箇所はアクション映画さながらの描写である)、義父から譲り受けたウイスキーを情人と飲み二日酔いになり勤務先の予備校で事件をやらかすシーン(これはコメディ映画を彷彿とさせさえもする)、病院での医師についての戯画的な描写、そしてなんと言っても、新しい命=奇形児と向き合いながら揺れ動く主人公の鳥(バード)の一喜一憂に、ページをめるく手を止めることができなくなってしまう。特に、鳥とその他の人々との会話のやりとりの面白さは半端でない。私が同じく私淑する芸術家である宮崎駿の作品でいえば、『千と千尋の神隠し』が本作に相当するのかもしれない。要するに、凡人が何年もかけて漸く思いつくであろうアイデアが惜しみなく際限なく詰め込まれている、その意味で信じられないほどの密度を持った作品であるというのが、私の評価である。

 抜群に面白い小説であることは間違いないものの、「個人的な体験」というタイトルとその意味することについて、どのように理解すれば良いのだろうか?

一応、このタイトルに関連する描写を拾い集めることができる。

 

それ〔赤ちゃんの異常〕をめぐって他人にしゃべることはおろか、自分であらためて考えてみようとするだけでも、きわめて個人的な熱い恥の感情が喉もとにこみあげてくる、鳥固有の不幸だった。それは地球上のすべての他人どもと共通な、人類すべてにかかわる問題ではありえないという気がする。(p.80)

最も個人的なものと思われる体験の中に、ある種の「普遍」を見出すみたいな言い方は、誰でも思いつくだろう。しかし、それは鳥自身が否定している。

個人的な体験のうちにも、ひとりでその体験の洞穴をどんどん進んでゆくと、やがては、人間一般にかかわる真実の展望の開ける抜け道に出ることのできる、そういう体験はある筈だろう?(中略) ところがいま僕の個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、絶望的に深く掘り進んでいるいることにすぎない。(p.230)

あるいはこんな文章もある。

おれは、いまもっぱら奇怪な赤んぼうという個人的な厄介にかかずりあっていて、この現実世界には背をむけてしまっている。(p.237)

 私たちは、公/私という二つの次元の中で生きているのだとすれば、本作で描かれるのは、もっぱら私的な問題であり、逆にその問題が公の(ソ連の水爆実験への態度など)問題への参与を阻害しているところまで描かれている。

 とはいえ、僕はやはりこの作品から、マイケル・サンデルがいうところの「生の被贈与性(giftedness of life)」という議論を思い出さずにはいられない。出生前診断、遺伝子操作によって、技術的には自分の子どもに望むような色々な細工を施せることが可能であったとしても、子どもは「天からの授かり物」であると考えることで、たとえどれほど望まない性質があったとしても、あるいはむしろそれゆえに、親子の関係は特別なものになるという、おそらくはそのような議論である。

 最後の「✴︎」以降の数ページはcontroversialな部分である。英語版のエディターからはカットすることをサジェストされたという。しかし、僕はこの形でよかったと心底思う。作者自身は、冒頭で出会した少年たちとの再会を描くことで、最初と最後を対照させ、主人公の成長ぶりを描きたかったということを後書きで書いている。そのこと自体、一種のテクニカルな理由であるに違いないが、僕はやはりこの作品の「倫理性」(もともと鳥は普通に愛人と浮気をしているので、倫理もクソもないといえばそうなのだが、)を貫徹させる上で最後のシーンは残しておくべきだと思った。

 

 蛇足だが、作者がこだわった不良少年たちと主人公の対決と、ラストの両者のすれ違いを対照させることで、鳥の変化・成長を表現するというアイデアは、他の名作にも見られる類型的な手法だと思っている。

例えば、同じく好きでたまらないロバート・ベントン監督の『クレイマー・クレイーマ』における、最初と最後で親子でフレンチトーストを作るシーンの対比。また、ジョン・クローリー監督でシアーシャ・ローナン主演の『ブルックリン』における、最初の最後の船で年下/年上の女性にアドバイスをする/されるシーンの対比。いずれも深く胸にしみるシーンである。

 

P.S.

 ラストは見事な「ハッピーエンド」なのであり、「安易な結末」であるといった批評があるようだ。確かに脳ヘルニアではなかったと書かれているものの、知能(IQ)が低い子どもになるかならないかは五分五分であるとも書かれてあり、完全にハッピーエンドというわけではないだろう。むしろ最後は、「贈与された生」としての赤児を引き受けることを通じて鳥が一つ成長する最後のプロセスとして、不可欠な部分だと思う。

 

 

 

 

Merritt Roe Smith (ed), Military Enterprise and Technological Change: Perspectives on the American Experience, MIT Press, 1987.

或る研究会でコメントいただいた先生に推薦された本である。以下では序章をまとめているが、技術の変化と軍事的活動との関係をめぐる諸論点が包括的に整理されている。編者であるMerritt Roe Smithは、MITで長らく教鞭を執られた技術史家で、深い技術史的素養に裏付けられつつ、本書が提起するテーマに対して非常に冷静でバランスの取れた議論を展開しているように思われる。ゾンバルト、マンフォード、マクニールらの著作の位置付けも行われており、技術史に限らず、広範囲な読者にとって示唆に富む内容だと思う。

 

Merritt Roe Smith (ed), Military Enterprise and Technological Change: Perspectives on the American Experience, MIT Press, 1987.

 

Introduction (pp.1-37)

 

  1. Historical Perspectives
  • 18C末から19C初頭にかけての経済の発展や社会変化を「産業資本主義 industrial capitalism」として説明するとき、私的な個人・会社による社会への直接の影響が明らかにされる一方で、産業化と政府の組織の間に存在する重要な関係は無視される傾向にある。その中でもとりわけ重要なのが、技術革新や産業統合の担い手としての軍事の役割である。
  • 本書では、それを通じて軍事力が促進・コーディネートされ、技術変化を方向づけ、(それによって)直接/間接に近代産業の方向性に影響を与えてきた広範囲にわたる活動を、軍事的事業(“Military Enterprise”)と呼ぶ。本書が追求するのは、戦時における技術の武器への応用といった直接的な関係だけではなく、平時において軍事的事業は近代産業時代の制度的・技術的次元を決定する上でいかに強力な影響を及ぼしてきたのか、という間接的な問題も含まれる。そしてそれらの問いは、アメリカに限っても、まだほとんど探究されないままでいる。
  • 近年の歴史家が、技術変化を論じる際に採用する解釈上の観点は、以下の4つに分類される。
  • 技術=知識普及の形態として見る観点。最も古い。本アプローチの特徴は、技術の有形(tangible)の側面や、その主題(=有形の側面?)の技術的・認識論的な展開に力点を置くことにある。
  • 技術=社会的勢力(social force)とする観点。本アプローチも、技術を物事の中心に置きつつ、社会への影響を論じる。(技術→社会。Cf 技術決定論)
  • 技術=文化的状況によって形成される社会的産物とみなす観点。作業場(workplace)における技術革新だけではなく、産業的なコミュニティー、地理的な領域、国家的文化における技術変化を分析する。(社会→技術。Cf 社会構成主義)
  • (前3者の根底にある観点として)技術変化=社会的過程とする観点。技術の発展における最前線のみならず、発明の初期の段階においても社会と政治の相互作用が起こり、実験室や研究所から日常生活に技術が導入され際にそれら(相互作用)はより複雑になると考える。要するに、人間関係の脆さ(fragile)や変化する際には付き物であるところの緊張(tension)を認める立場である。ただし、人間の選択が新技術の形態にいかに影響を与えるかを明らかにする方法では必ずしもない。
  • 本書でも、この4つの観点が含まれている。以下の論考では、技術変化の制度的な側面、つまり、軍事的な援助のもとでいかにして技術革新が民生利用へと移転されたのか?軍事の内外の人間が新技術の導入にいかに対応したのか?といった問題が論じられる。

※ハウンシェルの論考は、民間の製造技術が戦時下で発展した場合に生じる問題を扱っているが、いずれにせよこれらは軍事的事業がアメリカの歴史を駆動力としていかに重要かを描いている。

 

  1. Main Themes in the History of Military Enterprise
  • 本書の主なテーマは、軍事的事業がアメリカの工業力の上昇に中心的な役割を演じていたこと、連邦(republic)の早い段階から産業力(工業力)が軍事力と密接に結びついていたということである。機械生産や最新の自動工場の起源を探るとき、そこには軍事的影響の痕跡がある。
  • あまり知られていないが重要な点は、産業革命の初期の段階における軍事的圧力の存在である。ヨーロッパでは(ゾンバルトが指摘するように)、武器などの軍需が鉱山、冶金、機械生産の発展に大きな影響を与えていた。しかしこれらの発展は、19C初頭において米国で起きたことと比べると、散発的でまとまりがないものだった。というのも、米国人は40年という比較的短い期間で、3世紀かけて欧州で起こったことを取り入れ、普及させ、拡張したからである。実際、アメリカでは、互換性工業、工作機械、鉄道(、繊維)という主要な4つの技術変化のうちの3つは軍事的事業と密接に関係していた。(残りの1つである繊維は、連邦政府の支援の下で展開した。)
  • 以下では、米国における軍事的事業の主要な側面を5つのテーマから外観する。米国経済における軍事的影響の広汎性やその社会的帰結を評価することが狙いである。

 

  1. Design and Dissemination of New Technologies (新技術の設計と普及)
  • 技術革新の多くの側面の中で最も重要なのは、
  • 仕様(specification)の確立
  • 設計(design)の実行

各段階で軍事的要求や目的を反映する決定がなされ、究極的にそれらが技術に体現されるため、これらはとくに軍事的事業において重要である。

→この文脈において、技術は必然的にメーカーの価値観や熱望(aspiration)を反映するということを強調することは大事である。

  • さまざまな製品(goods)の標準や仕様を確立し、それらを製造するために民間会社と契約を結ぶことによって、軍事は最終的には民生利用(civilian use)される多くの物(artifacts)の設計に影響を与える。いかにして軍事的基準が民生利用の受け入れられた価値観に挑戦し、社会に望まれない価値観を押し付けるのかを理解することが難しい場合もある。産業製品(industrial product)から産業過程(industrial process)へ視点を移すと、状況はさらに複雑になる。David Nobleが言うように、process-oriented manufacturing 技術が軍事から民生へとシフトした場合、統率・管理についての根源的な問題がしばしば生起する。
  • スピンオフの最も有名な事例は、核エネルギーの利用である。Richard HewlettとFrancis Duncanの詳細な研究が示しているのは、限られた軍事的利用にとって合理的で操作可能なものに思えたものが、民生へと幅広く拡張された場合には問題が発生し、政治問題化する(politicized)ということである。
  • 軍需品の設計は、パフォーマンスと統一性に力点を置き、コスト(費用)には二次的な注意しか向けない。航空学の事例では、Alex Rolandが指摘しているように、軍用機ではスピード、機動性が最も重視されるのに対し、民生機では安全性、経済的合理性、快適性が重視される。しかし彼の結論は、どちらかの領域における根源的な前進は、他方の領域にも概して応用可能である、というものだ。すなわち、軍用/民用の間に明確な線は存在しないということである。
  • プロセス志向(process-oriented)技術について言えば、パフォーマンスと経済とを区別する線はより曖昧である。工作機械などの新しい製造技術は、しばしば旧式の製造方法と同じように効率的に操作することを妨げるボトルネックを有することがある。実際、新技術が普及するには長い時間が必要である。スプリングフィールド造兵廠(The Springfield armory)を例にとると、互換性製造の新規的な技術を消化し、伝統的な手工業的方法によって作られた製品よりも安く生産できるようになるまでに10年以上かかった。軍は、多額の費用がかかるにもかかわらず、新規的ではあるが経済的に不透明な技術の採用を民間会社に促すことに成功してきた。この成功の秘訣は、契約や助成のネットワークの広範囲にわたる制御を通じて軍が行使してきた大きな影響にある。
  • 19Cにおいて、契約を維持しようとするならば、兵器請負会社は最新の技術を採用することが求められた。請負会社は工場建設のための直接費用を負担しなければならなかったが、軍はしばしば彼らに金銭的なアドバンスや最新の特許や技術資料、その他軍部で蓄積した情報へのアクセス権を与えた。
  • この文脈で重要なのは、新技術を育成し、保護することの重要性である。

←他の機関も同じような役割を演じるが、軍ほど大きな資源と決断をもってこれらを行える機関はないから

←特にWW2以降、国防への広い関心が政治的な防御(political shield)(=その計画を社会の様々なセクターから生じる反対運動から保護するもの)を提供するから

Horwitchが指摘するように、マンハッタン計画アポロ計画はそのような政治的保護が与えられた事業だったが、大規模な演示計画が国防から商業的な目的にシフトすると、そうした保護は消え、消滅した(ex: SST)。

 

  1. Management
  • 軍が新技術を育成・保護することは、軍事的事業のマネジメント(管理)の中心性という重要な問題を提起する。19C初頭の互換性製造の導入にせよ、20C中頃における原子力潜水艦の建造にせよ、技術革新には管理上の革新が含まれている。技術と管理は密接に関係しており、軍事的事業の下では、前者が後者を駆動する、すなわち、技術の変化が管理の調整を促すのである。
  • 歴史的資料からあまり明らかでないことは、軍事的事業が実際に近代産業におけるマネジメント(管理)の台頭にどの程度影響を与えてきたのかということである。軍とは最も古い官僚組織であるにもかかわらず、経営史家らは経営上の革新のクレジットをそれに与えるのを拒否し、代わりに市場の力に帰する見方を示してきた。

フォーディズムは19C陸軍産業に起源があることを理解すれば、軍事-産業の道理性と中央集権化が米国文化にいかに深く根ざしているかが分かるようになる。

  • 科学的管理法
  • トップレベルのマネージャーの台頭は、経済的な力だけでは説明できない。

権力や権威が、軍事-産業事業のエートスに深く根ざしている。

 

  1. Testing, Instrumentation, and Quality Control

近代的なマネジメント(管理)の根底にある2つの前提:

  • その主要な目的は、労働状況の制御である
  • その制御を行う主な手段は、標準化である。

←A. 行政のレベルでは、その制御は、仕事上のルールを課す、中央計画方式を採用する、会計手続きを統一化する(=科学的管理法の導入を図る)ことによって追求される。

  1. B. 技術のレベルでは、その制御は、製品とプロセスの画一的な試験(testing)によって追求される。試験は、標準化(standardization)にとって本質的であると同時に、軍事的事業においても重要である。軍事的事業が、米国産業システムの形成に伝統的に最も大きな影響をを行使してきたのは、この試験と標準化である。
  • 試験とそれに付随する計装(Instrumentation, 計測機の整備)には様々な形態があるが、それら全ては、生産されるのが何であれその質を制御することを目的としている。

単純なレベル:(例えば一片の布に欠陥がないか確かめるように)、目と手で調査することが含まれる。

高次の試験:構成要素の精度や強度を決定する標準寸歩(gauges)を適用することが含まれている。

←それらの調査の目的=標準に満たない製品をふるい落とすことにある。Edward Constantによれば、さらに洗練された試験には、(それ自体が主要な技術的達成であるような)複雑な試験装置(test rings)の制作が含まれる場合があるという。そうした特別の機器を利用することで、様々なパフォーマンスレベルや状況におけるシステムの個々の構成要素の振る舞いについてのデータを収集することができるようになる。Constant による試験の説明には、フィードバック概念、すなわち、試験された製品は、設計や材料の弱点についての情報を明らかにするという含意がある。最も単純な試験でさえ、変化や調整が必要とされることについての価値ある情報をもたらしてくれる。

  • 製品試験の担い手としての役割において、軍は民間の製造にとっての目標を提示し、それゆえに技術革新の過程に影響を与える。従って、試験を行う能力は軍が産業的な設計・製品に影響を与える主要な通路(手段)を提供する

←軍がもたらす様々な影響の中で最も顕著なものは、軍が保有・操作する施設を民間企業に数年間にわたって貸与するサービスである。このinstallationにおいて行われた試験はしばしば、技術的実践の「標準」となるものを定義することを手助けする。19Cにおける冶金学の展開は、この例を説明する。

  • 1841年に(アメリカ)陸軍兵器部は、鉄金属の試験のための最初の計画を開始した。その時点から南北戦争まで、科学志向の技術武官(“soldier-technologisits” )は、数量的な改良点をもたらす一連の試験・実験を行った。南北戦争の後も試験の伝統は継続し、軍の関心は徐々に鉄鋼の兵器応用へ向かった。ここで重要なセクターはWatertown造兵廠であり、そこには1879年に流れ作業による(long line)油圧試験の原型となる試験装置が設置された。設計者であるH.Emeryにちなんで「エネミー・テスト・マシン」と呼ばれ、Ames Manufacturing CompanyやChicopeeの企業(スプリングフィールド兵器工場や「アメリカン・システム」と密接な関係にあった)によって製造されたこの装置は、最大で引張80万ポンド、圧縮100万ポンドの能力を持ち、銃の鍛造品のような重いものから、羊毛のような脆いものまで試験することができた。1881年から1912年まで3000回の試験が行われたが、そのうち753件は、民間企業向けにわずかな費用で提供された。
  • 19Cから20C初頭にかけて、軍は試験活動を継続・拡張した。海軍、とくにNaval Experimental Battery、Naval Torpedo Station、Washington Navy Yardは鉄板、鋼の鍛造、鋼兵器について何百もの試験を行った。それらは並行して、爆発物を典型とする化学産業においても創造的な仕事をした。海軍兵器局と共同した企業リストは、ヴィクトリア時代の紳士録のように読むことができる。そのうち最も卓越しているのは、テイラーによる最も古い会社であるMidvale Steel Companyである。1880s-90sにおけるアメリカにおける鉄鋼産業の勃興と、海軍の復興が同時に起きているのは偶然ではない。もりとん、軍事的事業だけがその理由ではないものの、明らかに主要な要素の一つであった。

 

  1. Uniformity and Order - 統一性や秩序という価値観
  • 軍事技術は、統一的な生産だけではなかく、統一的な振る舞いを強調する制度的な状況の中に深く埋め込まれている

統一性=秩序の配置を表し、物事が秩序だっていることを望む。

軍隊は長らく統一性を表現してきたが、現代に関連する制度と関係し、その他のアイデアと相互作用するとき、〔軍隊的な統一性に〕新たな意味が加わる。

  • 19Cのアメリカの技術武官、軍需局の職員の間で、統一性が切実な要求となり、技術に対する軍事的方針の形成における原理を牽引し、それは20Cにも引き継がれていく。この文脈では、統一性=標準化され互換性を持った物を製造する機械能力以上の何かを意味している。むしろそれは、軍事的事業に浸透する、現場の労働をも含んだ全てにおけるシステムや秩序を強調する精神的な態度(mental attitude)を指している。

←軍隊は、絶対的な基準と、後方支援や戦術上の問題に対するfail-safeな解決策を追求し続けることで、現代生活の特徴を定義する制度の最前線に立ってきた。

  • 近代的(現代的)制度は複雑な官僚的階層や、組織のネットワークについて秩序を追求するという意味において共通しおり、それぞれそれを達成する権力や維持する方法は異なるが、産業文明を支持する価値観(=統一性)を共有している。そして秩序こそが、効率性や統制といった目標を達成するための前提であるので、これらの制度はお互いに相入れるようになる。
  • →そうなれば、ますます秩序を追求し確立することを可能にする。18C以降、秩序だった制度が国家的、国際的な文化の元締めとなり、そうした官僚的な制度の力が、西洋文明の勃興の主たる要因となった。そしてそうした価値観は、究極的には、技術の取る形態に反映される。このことを理解することで、社会的産物としての技術の意味、その上での軍事の重要性について、包括的に把握することができる。
  • 統一性は、長期間にわたる技術の広範囲の発展のみならず、軍事的事業や技術の変化を条件付ける価値観を調べる上での主要な理論的レンズを与えてくれる。

 

  1. Innovation and Social Processes – 新技術への反応
  • 画一的な標準を伴った官僚制が拡大し、中央集権化する傾向が現代(近代)という時代を定義するようになってくると、最も合理的な組織や秩序だった事業でさえも、技術変化に対する抵抗に遭遇するということを発見する。新技術がいかに無害なものに見えても、技術は古い価値観に対抗する。それらに素早く適合することができる人間もいれば、それを深く根付いた伝統を破壊するものであるとみなすものもいる。
  • 人々が変化を牽引し対応する方法は、彼らが誰であり、何をしており、どのくらいの期間行ってきたのか、そして新技術にどれほどの潜在的な効果があるかを認めるかに依存する
  • Ex: 部署間の対立が、新技術の採用をめぐる争いに表れることがある。

 

  1. Catalysis to Innovation - 技術革新の触媒
  • 技術革新を推進する条件は、それを制約する条件と深く関わっている。

→軍事的活動が、新たな意味を持ってくる。

先行研究:(1)能力を持った人材、(2)制度の柔軟性が技術的創造の重要な触媒である。

  • (1)人材

A.個々の性格=若々しいエネルギー、官僚機構への軽蔑、技術的に「甘い(sweet)」なアイデアへの熱望、軍前的な出来事の中に新しい概念を発見する才能。

⇄B. 個々人の性格というよりは、むしろ、研究開発のグループや彼らの仕事を機器の製造・設置(the production and installation of equipment)に翻訳することへ注目。(Ex.  海軍のHopper)

翻訳者=異なった配置にあるものを統一すること、その結果として新技術が繁栄する環境(=人々が効率的に仕事ができる環境)を作り出すことに秀でている。

  • (2)制度の柔軟性:小規模な探索的な研究を、公式な認可や資金提供なしに行うことができる柔軟性。必要なときに、官僚的な手続きを変更できる能力。

←技術革新を推進する企業家的能力と同じくらい重要。

 

  1. Historiographic Perspectives
  • これら全てのテーマは、戦争と人間の進歩(development)との関係という古いが無視されてきた歴史記述の問題と関連している。とくに、ゾンバルト、マンフォード、ヌフという三人の学者が、この議論の輪郭を形成してきた。
  • (1)ゾンバルト『戦争と資本主義』:第一次大戦の直前に書かれた本。武将(warlord)の連合(union)や資本主義者(capitalist)が、食料、衣類、軍需品といった増加する需要を満たすべく設計された大規模事業の創造を招いたことを示す多くの証拠を集めている。それらが、冶金、機械、標準化された製品の前進を引き起こし、そうした達成は軍事主義の負の効果を上回ると論じた。
  • (2)マンフォード『技術と文明』(1934):ゾンバルトから約20年後、彼の議論に多くをおいつつ、「軍事主義が、近代的で大規模で、標準化された産業の発展の道を整備した」ことを論じている。しかし、ゾンバルトと異なり、彼は戦時下での生活の荒廃を強調している。「社会にとって、軍のような強権的組織が機械の近代的形式の誕生を統括することを残念なことである」。
  • 1934年時点で、彼の悲観は穏やかなものだったが、後の軍の編成やそのトラウマ的な効果を強硬に批判するようになる。特に、エリートパワーの複合体である”メガマシーンthe magamachine”への批判を展開した。
  • (3)ゾンバルトヒトラーを支持していたこともあり、後の経済史家らから厳しく批判された。そのうちの一人がヌフである。彼は『戦争と資本主義』と那智政権との連関を主張するに至った。「戦争は物質的な進歩や大規模事業を妨げる」という彼の主張は勝利を収めた一方で、彼の攻撃の強さは不運な結果を招いた。核兵器ケインズ主義の時代における戦争と技術の関係について研究することを気掛かりに(uneasy)に感じる歴史家は、そうした悩ましい問題を無視し、戦後のより気性にあるテーマに移ってしまった。一部の経済史家を除いて、社会・経済の展開における戦争と技術との関係という問題は、多くの学者の注目を得ることに失敗した(Wintet, War and Economic Development: Essays in memory of David Joslinを参照)。科学史・技術史家も同じくこの問題を大部分無視してきた。軍事史家も同じである。
  • マクニール『戦争の世界史』:国政術(statecraft)の道具としての武器に限定し、軍事の技術革新における産業・社会的側面を主張していない。この意味で、彼の議論はゾンバルトよりも狭い。彼は(あくまで)、西洋資本主義の勃興と軍事技術の政治的側面の共進化・相互作用についての一大パノラマを展開した。彼はゾンバルト同様に、軍主導経済と資本主義の台頭との密接な関係を示した。

→要するにマクニールは、ゾンバルトのテーマを復活させ、トーンの上ではより穏やかだがより包括的な方法で再主張した。

 

  1. Assessing Military Enterprise
  • 軍事社会が追う同義的責任を別にしても、問題は残っている。すなわち、軍による民生産業の発展への影響が良いものなのか?軍事的事業は、新技術を生み出す効率的な方法なのだろうか?社会は恩恵を受けてきたのだろうか?

→これらの問いに答えることは、個々人の価値観はいうまでもなく、時間、場所、状況に明らかに依存する

  • 国防という観点から軍事的事業を捉えれば、これらの問いに対する答えは「yes」である。この主張の支持者らは、国防で優位に立つという条件のもとで、その他の方法では受け取れないような研究・開発を合法化してきたのであり、それが政府による技術革新の効率的な刺激の一つの方法であると述べる。
  • しかし近年は、国防費のエスカレーションを受けて、多くの経済学者や政治学者が「no」と答えるようになっている。彼らは、軍事費は国内経済から貴重な人的・物的資源を剥奪し、その結果、民生市場において商品やサービスの需要が十分に満たされず、インフレが進行するという弊害を指摘している。

→Lloyd Dumasは、「科学者・技術者の才能が軍事研究に不当に配置されることで、1960s以降、商業的な技術革新が明らかに減速している」と主張する。言い換えれば、技術革新、解雇、インフレは、軍事的活動に密接に関わっている。

  • 技術革新の生産性という議論に関連して、軍がスポンサー(出資者)となった技術の民生市場へのスピンオフ(スピルオーバー)は正の社会的影響があるかどうか?という問題がある。

→Dumasのような経済学者は、1974年にNational Academy of Engineeringが出した「第二次世界大戦以降、連邦政府が出資した計画から広範囲で重要なスピルオーバーは認められない」とする報告書を引用し、スピンオフ(スピルオーバー)概念に懐疑的である。

⇄しかし、スピンオフの議論を全く無視することも間違っている。マクニールやゾンバルトは、重大なスピンオフが起こっていることを明らかにしている。彼らは技術を、知識の拡大ないし社会的な力(social forth)と解釈しているので、彼らはスピンオフの過程に正の光を当てている。

⇄スピンオフの結果は複雑であることを示す証拠も存在する。スピンオフ問題の複雑さを正確に理解するためには、それがどこまで経験的な証拠によって支持され、どこまでがそうではないのかを理解すべく、テーマを分解する必要がある。

  • Tomas Misa: Army Signal Corpsは、研究にお金を出し、工学の発展や工場の建設を支援し、価格を標準化し、成果を普及させることによって、トランジスタ産業の初期の構造を決定する上で重要な役割を演じたことを論じている。そして、1955年以降、トランジスタ産業の発展のペースが増加したことも明らかにしている。

⇄しかし、単純な「呼び水的経済効果 ’pump priming’」解釈は十分ではないと注意を喚起してもいる。

トランジスタが民生市場に広く普及することを促進する際、軍による高い水準要求とベルシステムの商業的利害との間に摩擦が生じ、1958年以降、ベルの取締役は、軍の〔仕様に対する〕要求は複雑で、生産効率を下げるかもしれないという懸念を表し始めた。Misaは「スピンオフの効果はせいぜい不完全である」と結論づけている。

  • David Noble:NC(数値制御)工作機械の展開を事例に、Misaと同じような議論をしている。

→1950sにおいて、米国空軍はその新技術の促進者として影響した。しかし、空軍の設計要件は多くの製造会社が必要とし、余裕を持てる仕様以上に複雑で、結果としてドイツや日本からより安い機械が導入されるとすぐにそれらにとって代わった。スピンオフが生じること事実であるが、長期的に見れば、NC工作機械は商業的ニーズより軍のそれを満たすように設計されていたので、スピンオフは、国内のbuilderを犠牲にするように働いた、と彼は論じている。

  • 加えて彼の議論で重要なのは、軍事技術それ自体につきものである価値観(ex: 統一性など)の取り扱いである。つまり、軍事技術が民生にスピンオフしたとき、これらの価値観はいかにしてスピンオフするのか?という問いである。
  • 最後に、(スピンオフが起きるか起きないかという議論ではなく)スピンオフは社会経済的意味において有益なのかどうか、もしそうであるとすれば、社会のどのメンバーにとって有益なのか?という問いがある。技術の進歩においては、いつも勝者と敗者が存在する。

Ex: より安いコストで商品を生産できるようになる能力は、洗練された生産技術を導入することだけではなく、現場の労働者の規律を正すこと、あるいは(不幸なことに)彼らを解雇することを通じて獲得される。

→産業家や消費者は歓迎するかもしれないが、〔商品価格の低下によって〕誰かが犠牲になっているのである。つまり、Nobelが「誰にとっての何にとっての前進なのか?」、「社会としてaffordしうるのはどんな種類の前進なのか」と問うことを駆動したのは、こうした事情である。

  • アメリカにおける経済成長や産業発展についての膨大な研究が存在するのにもかかわらず、なぜ軍の参加についての研究がほとんど存在しないのか?

→その理由の一つは、自由な企業活動を是とし、政府による経済への介入を否定する伝統が深く根付いているから。

⇄しかし、軍事は技術や管理の革新において極めて重要な担い手であった。国防と福祉と結びつけることで、軍事は全ての種類の研究開発に出資し、新技術の普及に重要な役割を演じてきた。技術変化における軍の役割についての評価は、広範囲に渡ってその影響力を歴史的に深く理解することが必要である。

 

 

 

Hunt (1991), Intro-Chapter 1

Bruce Hunt, The Maxwellians, Cornell University Press, 1991.

 

電磁気学史の古典。読んでいないとまずい本。

 

Introduction (pp.1-4)

  • マックスウェルの電磁場理論は、19世紀だけではなくあらゆる世紀における最も顕著な知的達成であるとみなされている。晩年のリチャード・ファインマンは、人類の歴史の中で19世紀におけるもっとも重要な出来事は疑いなくマックスウェルによる電磁気学の法則の発見であると述べ、1860年代においてはアメリカの市民革命でさえ、それに比べれば取るに足りないとも述べた。1890年代半ばまでに、4つのマックスウェル方程式は、ニュートンの力学原理と並んで、物理学全般における最も強力かつ有効な基礎の一つであると認められた。そしてその頃までには、マックスウェル方程式は、無線通信という新たな技術の出現のみならず、電信、電話、電力産業において実用化されていた。
  • だが、マックスウェルの『電気磁気論』(1873年)には有名な4つのマックスウェル方程式も、いかにして電磁波が放射され検波されるのかというヒントさえも含まれていないということを知れば驚くかもしれない。1879年に彼が癌で亡くなったときたったの48歳で、『電気磁気論』の第二版の校正を1/4まで終えたところだった。そして彼の理論の「潜在的な(latent)」側面を掘り起こし、その含意を探索する作業は、主に英国の若い物理学者グループに残された。FitzGerald, Lodge, Heavisedeら(彼らはMaxwelliansと呼ばれた)は、ドイツのHertzの貢献とともに、『電気磁気論』にある豊かであるが手付かずの素材を、強固でわかりやすく、よく確かめられた理論(=今日「マックスウェルの理論」として知られるもの)へと変えていったのである。
  • マックスウェルの死後、「マックスウェルの理論」が辿った展開は、科学に共通して見られる際立ったプロセスを示している。すなわち、科学理論は一人の人間の精神から全てが生まれるのではなく、後の科学者らによって修正・再解釈され、その結果最初の姿とは大きく異なったものへ変わることがしばしばある、ということである。科学の世界では、理論の呼称にその創始者の名前をつける習慣があるが、これは科学的な成果の統合が達成されるまでの歴史的過程を無視している。
  • 本書の第一の目的は、「マックスウェルの理論」に統合されるまでの理論の形成過程を詳細に跡付け、”Maxwellianism”が多くの点で彼の後継者の仕事であったことを示すことである。
  • そして本書の第二の目的は、Maxwelliansを一つの科学者集団の展開とみなし、彼らがお互いにいかに刺激を与え、助け合っていたのかを示すことである。科学は、通常信じられているよりもずっと社会的で協力的なプロセスである。そしてその豊富さを捉える有効な方法の一つが、小集団の仕事を詳細に調べることである。本書では現存する書簡やノートに依拠して、彼らの思想や行動、その影響関係などを吟味していく。

 

Chapter 1 FitzGerald and Maxwell’s Theory

 

  • Maxwellが書き残した電磁気学に関する文書の最後のものの一つが、1879年の2月に王立協会のために準備をした査読コメントだった。それは、FitzGeraldによる論文に向けたもので、Maxwellの理論が彼自身の手から新しい世代へと渡る最も際立った時点を示していた。FitzGeraldによるこの論文は、電磁気学の理論を屈折、反射、光磁気のまで拡張するものだった。それは元のMaxwellの理論に重要な付け加えを行った最初の研究で、その後の電磁気学理論の発展に大きな影響を与えた。しかし、当初はいくらかの混乱があり、Maxwellもいかにして改善すべきかを提案していた。FitzGeraldはMaxwellの査読コメントを大いなる関心を持って読み、まるで本人と直接会ったかのような親しみを覚えた。これが真実であったとしても、Maxwellの影響は実際、死後の出来事となってしまった。王立協会のG.Stokeが仕事を先延ばしにしていたこと、Maxwellが病気の兆しが見えたことが理由で、その査読書は彼の死の2日後、すなわち1879年11 月7日に出版されたからである。

 

  • FitzGerald and Dublin School
  • FitzGeraldは1851年8月3日にダブリンで生まれ、Trinity College Dublin(ダブリン大学トリニティカレッジ)の申し子(product)であり、アイルランドプロテスタントエリート階級の小さいが活発な知的党派の一派だった。彼の父William FitzGeraldはトリニティーカレッジの道徳哲学の教授で、後にbishop of Corkを務め、1862年にはKillaloe を務めた。彼はアイルランドの顕著な高位聖職者とみなされ、著名な作家、形而上学者であった。彼自身に自然科学の才能ななかったが、母のAnne Stoneyとその弟George Johnstone Stoneyは物理学者であり、王立協会のフェローだった。母が亡くなった時、FitzGeraldとその兄弟は家庭教師に教育された。
  • FitzGeraldの才能は16歳でトリニティーカレッジに入学した後まもなく開花した。特に幾何学がよくできた。1871年に数学と実験科学を主席で卒業すると、「ダブリンの人たちが選ぶように」、フェローシップの獲得を目指して、幅広い読書コースに身を投じました。当時ダブリン大学のフェローシップは、終身のポストと、高額の給料、多くの時間が保証されていた。かなり厳しい試験があったが、FitzGeraldはそれをパスして1877年にチューターになった。
  • FitzGeraldの最も際立った点は、その知的能力の高さ=超自然的な機敏さだった。「彼は誰よりも頭の回転がはやく、独創的な頭脳の持ち主である」とヘヴィサイドは述べる。しかしそれは必ずしも利点であるだけではなかった。FitzGeraldは新しいアイデアを生み出しては決定的な結論にまで到達しなかった。彼はじっくりと腰を据えて包括的な理論を作り上げるのではなく、他人のアイデアを最も良い形で描き出し、良い仕事を鼓舞することができた。
  • トリニティカレッジのフェローシップ試験のための読書生活=受験生活は、彼の後の思考と仕事の深い影響を及ぼした。
  • FitzGeraldの時代にはすでにダブリン大学トリニティカレッジの数学的伝統は敬うべきものになっていた。現代的な反映はBartholomew Lloydによる制度改革にまで遡る。その改革で、ダブリンはケンブリッジと並行して、あるいはそれを超えて、「分析革命」が生じ、それによって1837年までにはダブリンを数学的な中心地になった。ダブリン学派からはハミルトン、MacCullagh, Humphrey Lloyd,Jellett, Salmon,そして FitzGeraldが輩出された。ダブリン大学の数学の学派は、ケンブリッジのより大きな数学派と繋がりを持っていたが、それとは独立した線を持っており、ケンブリッジ以上に大陸とのつながりを親密にしつつ発展していった。ダブリンにはケンブリッジのトライポス試験は発達せず、19C中頃までに英国の数学学校の悪い増加(plague)をもたらした偏狭な形式化を避けることができた。
  • ダブリン学派を形成したのは、MacCullagh(マッカラー)の仕事だった。彼の仕事の主要な特徴は、幾何学的推論の重要性を唱えたことであった。
  • マッカラーの短いキャリアの中で重要な業績は、物理光学におけるそれだった。フレネルの弾性個体エーテル(偏向現象を示す横の振動を説明するためのもの)は、1820-30年代に、フランスの学者らの仕事の中で、うまくいかなくなっていた。しかし、1839年にFitzGeraldは反射・屈折・偏向を含んだ結晶光学の複雑な現象の全てを、エーテルラグランジュ関数のための特定の形式を想定することから導きだされうるということを示した。(現代的な言葉で言うと、エーテル要素の位置エネルギーを絶対回転の二乗に比例させた。)
  • それは実験データとも符号していたが、媒体が回転弾性力を持つことが物理的に可能なのかを疑う人が多くいた。マッカラーはそれ以上説得力のある議論を提示することはできなかった。彼の回転弾性力への疑義は、ケンブリッジ大学の数学者であるGreenの1837年の論文によってさらに強められることになった。
  • 1862年にStokesが「マッカラーの理論は力学原理に完全に反する」と宣言したことで、さらなる打撃を受けた。グリーンの弾性個体ないし「ゼリー」の理論は、トムソンやストークスやそのほかの権威の心を捉え、30年間に渡って英国でマッカラーの理論を封殺していた。
  • しかしダブリンではマッカラーの理論はまだ息づいていた。それはトリニティーのカリキュラムにおいて古典として重要な部分を占めていたのである。FitzGeraldは1870sにフェローシップの試験の準備のためにそれに接し、トリニティーのシニア数学者であるHaughtonとJellettによって、ダブリン大学出版からマッカラーの論文集(1880)が出版されたことで、彼の理論は注目を集めた。1881年にFitzGeraldはその論文集の書評を書き、彼の光学理論を称賛した。序文の中で彼は「2,3の初歩的な方程式によって結晶光学現象を説明したことは、マッカラーの稀有な才能を示している」と書き、最近のマックスウェルの電磁波理論は、マッカラーの理論に再評価の基盤を与えていると書いた。マッカラーの方程式のための正当な物理的基盤を模索するために、FitzGeraldはMaxwell場の理論に回帰した。そしてこれは、両方の理論にとって遥かな帰結をもたらすことになる段階(step)だった。

 

  • 1870sにFitzGeraldがMaxwellの理論を取り上げたとき、それはまったく新規だったというわけではなく、(Maxwellの理論は)それよりも40年ほど前にファラデーとトムソンによる仕事にまで遡る。ファラデーは1830-40sに、電気粒子間の直接の遠隔作用の結果電磁現象が生じるのだとするオーソドックスな見方に反論し、周囲の空間を取り巻く「場」の理論を唱え、想像上の電気粒子の動きではなく、場の緊張や収縮に注目すべきだと主張した[1]しかしこの「場」の理論は、同時代の人間にとって、遠隔作用論と比較した際に曖昧でぎこちないものに思われた。1840sにトムソンが数式化に取り組むまで、それはほとんど前進しなかった。Maxwellが1850sに研究を始めたとき、ファラデーのアイデアの社会的地位は周辺的なものだった。
  • 1856年にトムソンが「ファラデー効果[2]」を動力学的分析に晒したとき、電磁場の構造の解明の主要な前進が見られた。ファラデーは1845年に、偏光のビームは電磁場におけるガラス片を通るとき、偏向の平面がやや一方偏ることを発見した。そしてトムソンは力線の周りを回っている”渦原子(molecular vortices)”によって電磁場が満たされているとすれば、こうした現象が起こりうると考えた。そして1861-62年にMaxwellが「物理的力線について」の論文の中でモデルとしたのは、このvorticesだった。このモデルは、静電現象と電磁現象とに一つの説明を与えることができ、磁場の生成や電流の誘導を細かく描写できた。それはまた重要な2つのアイデアを生み出した。第一は、電場の変化がおきているいかなる間でも、「遊び車の分子(idle-wheel particle)」が新しい位置に移動することが、一時的な電流として振る舞うということを示唆している点である。そのような「変位電流」がMaxwellの理論の核心だった。第二に、弾性渦の媒体の放射速度は光速と同じであるということを発見したことである。
  • Maxwell自身は、光学と電磁気学との統合を最も重要な発見の一つとみなし、それを「遊び車の分子idle-wheel model」以上の仮説的ではないものへと基礎付けたかった。1864年の「電磁気学の場の動的理論」では、変位電流や光の電磁気理論を含んだ彼の主要な結果を、ラグランジュの解析を行うことでエーテルのメカニズムの詳細を省いて導くことができた。彼はいつかエーテルの力学的構造が発見されることを望んだ。しかし、実験的な証拠によってより決定的なことが言えるようになるまで、彼は可能な限り仮説的ではなく、一般的な基礎として、電磁気学の法則を発見することが最善であると思った。
  • 1860年代に発表されたMaxwellの論文には彼の理論の主要な要点が全て含まれていたが、ただちにインパクトを与えたわけではなかった。彼のアイデアが注目を集め始めるのは1873年に出版されたTreatise以降であり、それもゆっくりと注目されていった。それはアイデアで満ちていたが、明確な焦点がなく、読みにくい本だった。彼自身のシステムを説明するというよりは、彼は電気科学についての包括的な扱いを書くことに取り掛かる必要があり、それゆえに、彼独自の決定的なアイデアが、雑多な現象についての長い説明の下に覆われて、見えにくくなっていた。ファラデー効果について扱ったということ以外に、彼は光の電磁気理論に彼の初期の仕事に付け加えるものはほとんどなかった。例えば、彼はいかにして電磁波が生じるのかという説明を与えなかったし、屈折や偏向現象についても扱っていない。もし彼が生きていたら事情は変わっていたかもしれないが、実際彼は18Cのキャベンディッシュの趣向の編集やケンブリッジ大学に新しいキャベンディッシュ研究所を創設することに時間を費やし、彼のTreatiseの2版の校正を1/4ほど終えたところで亡くなってしまった。Treatiseから一貫した理論を抽出し、汎用性のある形式に仕上げるという仕事は、Maxwelliansらに残された。
  • FitzGeraldは自分でTreatiseを読むことで、Maxwellの理論を学び始めた。1870sに彼が購入した本は現在も残っている。
  • 彼の最初の書き込みは初歩的なもので、専門用語や理論のキーポイントを明確にするためのものだった。彼はときどき誤読をしていた。しかし彼は徐々にMaxwellのミスを捉え始めた。電磁場の一般的な方程式の中で、FitzGeraldはこの部分にはのちの議論と整合していない箇所があることを指摘し、スカラーポテンシャルψの代わりに電気力Eが用いられるべきであると述べた。彼は1882年に論文を出版し、誤りを訂正した。そして1892年に出版されたTreatiseの3版に収録された。ψとEは等価であるとみなされることもあるため彼の指摘はマイナーなものに思われるが、この修正は移動する電荷(charge)の扱いや1880-90sに顕著になるそのほかの議論にとっては重要な示唆をしていた。さらに、このことは、ポテンシャルから離脱して、FitzGeraldとHeavisideがのちに主導することになる電磁力ベクトルの方向へとシフトすることを予見していた。

 

  • Reflection and Refraction (反射と屈折)

 

 

  • FitzGerald Achievement
  • 反射と屈折、Kerr効果についてのFitzGeraldの業績は、2つの点でMaxwell電磁気学論を強化した。第一に、それは旧来の弾性固体理論がそうであったのと同様に、Maxwellの理論は全ての通常の光学現象を説明できるということを実証し、重要で新しい現象にも適応できるということを示した点である。第二に、それはMaxwellの理論と弾性個体エーテルとの間の不一致をさらにはっきりと示した点である。Maxwellの理論が生き残るためには、弾性個体エーテルへの依存を断ち切る必要があった。FitzGeraldは王立協会に提出した論文の最後で「もしこの論文が我々に物質的なエーテルのしがらみから解放することへと導くのであれば、それは自然の理論的説明におけるもっとも重要な結果を導くかもしれない。」と書いている。それは、エーテルがまるである種の「ジェル」とか、弾性個体物質として取り扱う「物質的な」エーテル理論への反対キャンペーンの始まりであった。ほかのMaxwelliansらと同様に、FitzGeraldはマックスウェルの理論の適するエーテルの種類を考案することを求め、変位電流の概念の新しい、less literalな解釈をしようとした。彼は1880sにおける、マックスウェル理論の物質的概念や、エーテルの機能変容するプロセスの最中にいたのである。
  • このようなアイデアの転換は、人員とも関わっていた。英国においてMaxwelliansらが姿を現し、電磁気学の研究を主導し始めるのは1870-80sである。Maxwell本人はすでに亡くなっており、トムソンやストークスといった長老科学者らは古い弾性個体理論に固執するあまり、新しいアイデアを吸収することができなかった。マックスウェルの仕事を拡張する課題は若手の科学者に残され、1880sまでにFitzGeraldは最も有望な後継者の一人として認識されるようになっていた。

 

[1] ファラデーらイギリスの物理学理論は、大陸の「遠隔作用説」に対して「近接作用説」と言われることもある。

[2] 磁性体中を直線偏光が通過した時に,光の進行方向と平行に磁界をくわえると磁界の強さに応じて偏光面が回転する。これはマイケル・ファラデーによって1845 年に発見され,ファラデー効果と呼ばれている。