yokoken001’s diary

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大江健三郎『個人的な体験』再読。

 

 大学1,2年(19,20歳)の頃、この小説を初めて読み、これは今まで読んだ小説の中で一番好きな作品なのではないかと思った。そしてその後、今に至るまで6年くらいが経過して、小説の中身の大部分は忘れてしまったが、おそらくその後に読んだ小説も含めて、最も好きな小説のベスト3には入るのではないかと思い返し、今回再読してみた次第である。

 結論から申し上げると、私はやはり、この小説が過去に読んだ作品の中で最も好きなものを挙げろと言われれば、3本の指には入ることを確信した。(ちなみに現時点で他にはカフカの『変身』が入り、後の一つはまだわからない。)

 この大江健三郎の他の作品も読んでいるが、『個人的な体験』は、作者の創作過程の中でまさに「覚醒」状態で書かれたのではないかと疑うほど、奇想天外でエッジの効いたキレッキレのアイデアに満ちている。冒頭のアフリカの地図を買う場面から、ゲームセンターでの少年たちとの揉め事(この箇所はアクション映画さながらの描写である)、義父から譲り受けたウイスキーを情人と飲み二日酔いになり勤務先の予備校で事件をやらかすシーン(これはコメディ映画を彷彿とさせさえもする)、病院での医師についての戯画的な描写、そしてなんと言っても、新しい命=奇形児と向き合いながら揺れ動く主人公の鳥(バード)の一喜一憂に、ページをめるく手を止めることができなくなってしまう。特に、鳥とその他の人々との会話のやりとりの面白さは半端でない。私が同じく私淑する芸術家である宮崎駿の作品でいえば、『千と千尋の神隠し』が本作に相当するのかもしれない。要するに、凡人が何年もかけて漸く思いつくであろうアイデアが惜しみなく際限なく詰め込まれている、その意味で信じられないほどの密度を持った作品であるというのが、私の評価である。

 抜群に面白い小説であることは間違いないものの、「個人的な体験」というタイトルとその意味することについて、どのように理解すれば良いのだろうか?

一応、このタイトルに関連する描写を拾い集めることができる。

 

それ〔赤ちゃんの異常〕をめぐって他人にしゃべることはおろか、自分であらためて考えてみようとするだけでも、きわめて個人的な熱い恥の感情が喉もとにこみあげてくる、鳥固有の不幸だった。それは地球上のすべての他人どもと共通な、人類すべてにかかわる問題ではありえないという気がする。(p.80)

最も個人的なものと思われる体験の中に、ある種の「普遍」を見出すみたいな言い方は、誰でも思いつくだろう。しかし、それは鳥自身が否定している。

個人的な体験のうちにも、ひとりでその体験の洞穴をどんどん進んでゆくと、やがては、人間一般にかかわる真実の展望の開ける抜け道に出ることのできる、そういう体験はある筈だろう?(中略) ところがいま僕の個人的に体験している苦役ときたら、他のあらゆる人間の世界から孤立している自分ひとりの竪穴を、絶望的に深く掘り進んでいるいることにすぎない。(p.230)

あるいはこんな文章もある。

おれは、いまもっぱら奇怪な赤んぼうという個人的な厄介にかかずりあっていて、この現実世界には背をむけてしまっている。(p.237)

 私たちは、公/私という二つの次元の中で生きているのだとすれば、本作で描かれるのは、もっぱら私的な問題であり、逆にその問題が公の(ソ連の水爆実験への態度など)問題への参与を阻害しているところまで描かれている。

 とはいえ、僕はやはりこの作品から、マイケル・サンデルがいうところの「生の被贈与性(giftedness of life)」という議論を思い出さずにはいられない。出生前診断、遺伝子操作によって、技術的には自分の子どもに望むような色々な細工を施せることが可能であったとしても、子どもは「天からの授かり物」であると考えることで、たとえどれほど望まない性質があったとしても、あるいはむしろそれゆえに、親子の関係は特別なものになるという、おそらくはそのような議論である。

 最後の「✴︎」以降の数ページはcontroversialな部分である。英語版のエディターからはカットすることをサジェストされたという。しかし、僕はこの形でよかったと心底思う。作者自身は、冒頭で出会した少年たちとの再会を描くことで、最初と最後を対照させ、主人公の成長ぶりを描きたかったということを後書きで書いている。そのこと自体、一種のテクニカルな理由であるに違いないが、僕はやはりこの作品の「倫理性」(もともと鳥は普通に愛人と浮気をしているので、倫理もクソもないといえばそうなのだが、)を貫徹させる上で最後のシーンは残しておくべきだと思った。

 

 蛇足だが、作者がこだわった不良少年たちと主人公の対決と、ラストの両者のすれ違いを対照させることで、鳥の変化・成長を表現するというアイデアは、他の名作にも見られる類型的な手法だと思っている。

例えば、同じく好きでたまらないロバート・ベントン監督の『クレイマー・クレイーマ』における、最初と最後で親子でフレンチトーストを作るシーンの対比。また、ジョン・クローリー監督でシアーシャ・ローナン主演の『ブルックリン』における、最初の最後の船で年下/年上の女性にアドバイスをする/されるシーンの対比。いずれも深く胸にしみるシーンである。

 

P.S.

 ラストは見事な「ハッピーエンド」なのであり、「安易な結末」であるといった批評があるようだ。確かに脳ヘルニアではなかったと書かれているものの、知能(IQ)が低い子どもになるかならないかは五分五分であるとも書かれてあり、完全にハッピーエンドというわけではないだろう。むしろ最後は、「贈与された生」としての赤児を引き受けることを通じて鳥が一つ成長する最後のプロセスとして、不可欠な部分だと思う。