yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 19.

Chapter 19 Wireless at the Outbreak of the Great War (pp.158–168)

 

第19章は、マルコーニ社(あるいは無線技術全般)と第一次大戦との関係に関する内容であって、本書の中でも重要度の高い章であると考えられる。

論点としては、戦時の電信員養成に平時のアマチュア無線家の訓練制度が役立ったこと、無線の方向探知機が戦術上極めて重要な役割を演じたこと、1915年にラングミュアのハードバルブの開発を受けてフランスでは直ちに高真空の「フレンチヴァルヴ」が開発されたこと、航空無線機が実装されたこと(及び航空用の電話の重要性が認識されたこと)などが挙げられる。

なお本章の記述を読むと、海外と日本の動向が連動していたことがよくわかる。例えば、マルコーニ社の派遣員がナウエン局の見学から撤退した後、同局は軍によって撤収された。このとき、日本からは林房吉がゲッチンゲン大学に留学しており、テレフンケン社やナウエン局の見学も行なっていたが、まさにほぼ同じ時期に(1914年)海軍技師として帰国している。この背景には、WW1によって日本人のドイツ滞在が困難になったという事情もあった可能性がある。

加えて日本陸軍は1910s末に東京電気に「フレンチヴァルブ」の製作を命じていたはずだが、このことからはWW1にフランスが製作したハードバルブをいち早く導入しようとしていたことが読み取れる。

 

 

  • イギリスとドイツの外交的な関係は徐々に悪くなっていたのに対して、マルコーニ社とテレフンケンとの「戦争」は平和的な共存の期間に入っていた。そこでは、双方の関係者の訪問による技術情報の交換が行われていた。1914年7月末、マルコーニの派遣者はベルリンを訪れ、変わらない友好的な扱い、寛大な慈善心を与えられた。その計画には、さまざまな工場、研究施設、200kWのナウエン局の見学が含まれていた。
  • しかし、彼らがナウエンを去った後、ナウエン局は通常のオペレーションを終え、(訪問者=マルコーニ関係者の出発を待っていた)軍がそれを引き継いだ。8月1日には英国の領海では、同国の船舶以外は無線の使用が禁止され、翌日には英国政府がメッセージの統制を行うようになった。8月3日には、英国海軍は領海におけるすべての商船による無線電信の使用を禁止し、アマチュア局も閉鎖させ、道具の押収を手配した。一方のドイツでも、ナウエンは不特定多数のドイツ商船に対して、近くのドイツ領の港か中立国の港へ向かうように呼び出しを行なった。
  • 戦争における最初の行動は、ドイツの海底ケーブルを切断することだった。これによって、ナウエン局がその国の唯一の対外通信手段となった。
  • 戦争が勃発するとまもなく、マルコーニ社は英国海軍によって引き継がれた。クリフデン–Glace湾間での商業通信は認められていたものの、海軍通信による妨害や波長の変更が許可された。加えて、Hall Streetの実験部は、ドイツの無線送信の傍受を行う場所となった。
  • 訓練された無線オペレータの需要は非常に大きく、この点で同社の平時の活動の興味深い側面が、予期しない形で実った。同社は褒賞などによってアマチュア無線家の関心を刺激し、モールス符号の実践セットを利用可能なものにしていた。
  • イギリス海軍志願予備員(RNVR)は、戦艦だけではなく、飛行船に設置されたマルコーニ社の設備を操作する電信員の数が圧倒的に不足していた。マルコーニ社は、すでに3000人商船に派遣されていたオペレータに加えて2000人の追加員を探すことを引き受け、この目的のために、King’s CollegeとBirkbeck Collegeの教室が、マルコーニハウスにかかる重圧を軽減するために使用された。
  • 帝国無線網の建築に怠慢だったことのツケは明らかだった。そのようなシステムの欠如は、低出力の局を高出力のそれに素早く置き換える必要のあった海軍において顕著だった。その結果、エジプトに緊急で局が建設された。
  • 8月9日にはドイツのDar-es-Salaamが破壊され、12日にはYapが破壊、24日にはKaminaを自爆させた。
  • 無線は、ボーア戦争時代の実験的なおもちゃ(toy)ではなく、本質的で不可欠なものだった。1914年に存在していた通信における空白が海軍にとって試練となり、広大な土地に散在するドイツ艦隊の一団を追い詰め、撃破するという不運な任務を担っていた。
  • 第一次大戦においては、無線電信が戦略上重要な役割を果たしたという数しれない自励がある。しかし、新型の技術=無線方向探知機(wireless direction-finding)が開発されたことが重要だった。1916年にはこれらの秘密の通信局が実装されていた。
  • 無線方向探知機は、ラウンドによって、ソフトバルブ(C valve)と、Bellini-Tosi方向システムを用いて、戦争の前に開発された。この知らせは軍需局に知らされ、ラウンドはインテリジェンスの任務に預かり、フランスに最初の2つの局を建設することを命じられた。
  • 英国海軍も英国島において同じような局を必要としていた。それは、潜水艦だけではなくゼッペリンやドイツの戦艦を監視することを目的としていた。1916年までに、英国の海岸線はこうした目的の局で覆われた。海軍の戦艦には、実験的な方向探知装置が設置されてもいた。
  • ドイツ海軍は方向探知機が用いられていることに気がついていたが、ドイツ自身のものよりもラウンドの真空管増幅器が進んでいるとは考えなかった。その結果、ドイツ軍艦は自国の海域では低出力無線電信を自由に使用し、イギリスではその信号を受信できないと確信していた。だが、実際にはこれらの船舶の方向はすべて捕捉されていた。
  • 1916年5月に、英国の報告探知局は、ドイツの戦艦が数の信号をやりとりしていることを報告した。英国海軍は、ドイツの戦艦は出港しつつあり、これらの信号は出港命令であると推測した。そして、このことは英国が長らく待ち望んでいた機会だった。というのも、それは効果的な攻撃を加える都合の良い時間を捉える機会を与えたからである。英国の艦戦は直ちにBightへと向かった。翌日に「Jutlandの戦い」が繰り広げられた。
  • 陸軍もマルコーニ社を必要としていた。1914年8月に、マルコーニ社の訓練学校の長が軍需局に出向し、将校の指示、陸上での無線電信の使用などについて大規模な訓練学校を組織する仕事を割り当てられた。ただし、当初から陸上での無線の使用の可能性が理解されていたわけではなかった。進歩的な(avant-garde)シニア将校でされ、無線を視覚とline signalingとの間を繋ぐもの(騎兵隊と参謀との通信)としか見ていなかった。しかし戦争が続くにつれて、軍団の参謀(HQ)が前線の状況について継続的に十分な情報を得る必要があることが認識されていった。
  • 1914年12月に、2台の方向探知局(ベリーニ-トッシ装置と、16式マルコーニ受信機。後者は鉱石検波器とラウンドの軟真空管増幅器が含まれている)がフランスに輸送された。そして12月16日にBlendecquesに設置された。それ以来、ドイツ陸軍の最新の位置(ゼッペリンや航空機の位置を含む)の情報を伝える地図が毎週作成されるようになった。1915年1月2日には、Wireless Signal Companyが発足したことで、英国陸軍における無線の重要性が認識された。
  • 翌月には、従来の鉱石セットがラウンドの真空管によって置き代わり、受信感度がますことで、傍受の量を増やすことができた。
  • 1915年にはラングミュアによるハードヴァルブの発明があった。そして高真空のタングステンフィラメントの真空管の製造について発表された。このことは英国とフランスの真空管製造に直ちに影響を与えた。つまり、フランスにおいては、Colonel (のちにはFerrie将軍)の指示のもとで、戦後に「フランスバルヴ」として知られるより優れた真空管が作られたのである。
  • 方向探知の重要性が示されるにつれて、陸軍用の多くのinstallationsが建設された。この中で、価値ある技術知識が蓄積された。マルコーニ社のTremellenは1915年に”Night Error”と呼ばれる現象を報告した。Adcockは、より正確なアンテナ構造を考案した。
  • 1911年以来、マルコーニ社は、陸上-飛行機間での航空無線の実験的な仕事を行なっていた。同社のBangayによって良好な航空無線機が考案されたが、雑音だらけのコックピットの中で受信するという点がボトルネックになっていた。そしてそれは戦争の勃発時点で十分に解決されていなかった。
  • 英国陸軍同様、イギリス陸軍航空部隊(Royal Flying Corps=RFC)も無線の役割を十分に認識していなかった。Captain Lewisは既存の偵察方法よりも時間を節約できる点に注目していた。
  • 航空機に無線を採用すること上での困難は、飛行機には搭載可能重量の制限があり、それゆえに無線機の重さを減らす必要があるということだった。1915年初頭に、改良された一連の受信機と火花式送信機がフランスにおけるRFCの任務のために、マルコーニの工場から送受信機が送られた。これは偵察機と地上基地間での共同作戦を目的とした装置であり、その価値が認められたため、海上での使用にまで拡大された。
  • 開発に尽力されたおかげで、1915年末までにマルコーニ社は20ポンドの軽量型の航空無線機を製造していた。さらにPrinceは航空機用の連続波を扱う(つまり電話)真空管式送信機の開発も行なっていた。1915年の夏には、300mの波長で、20マイルの機上–地上間での通信を達成していた。(垂下アンテナの長さは250フィートだった。)
  • しかしWW1において、地上–機上間での無線電話は一般的に採用されなかった。しかし、航空機隊内間での通信の需要は生まれていた。それは、哨戒時や戦闘時にリーダーが戦闘機隊をコントロールするという戦略上の目的に起因していた。このとき、電話技術にはメリットがあった。指令のスピード、単座での利用可能性、電信の特別な訓練を受けていなくでも操作できる、といった点で電話の方が電信よりも都合が良いからである。そして、Princeが航空機用の電話機の研究を進めた。