yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 20.

Chapter 20 The Great War (continued) (pp.169–173)

 

第20章は、全章に引き続いてWW1とマルコーニ社との関係というトピックが扱われる。本章の記述からは、日本海軍が1920–30年代に開発した無線機の多くがWW1ですでに実装されていたことがわかる。例えば、戦艦用の真空管式送受信機、戦艦同士の隊内電話、航空機同士の隊内電話、超短波を用いた短距離通信などはすでにWW1時点で活用されていた。WW1で無線がいかに利用されていたかは、600台の無線機を積んだ飛行機、1000の陸上局、18000人のオペレータという数字が示している。WW1の参戦度が低かった日本では、こうした英国(特にマルコーニ社)の成果を、1910s末から20s初頭にかけて次々と導入していった。そして、20s後半以降、これらの輸入品を日本海軍の設計による製品に置き換えていくことになる。

(ここまでで第一部は終了であるので、少し休憩する。)

 

  • 1916年までに、陸海軍のサービスが無線に過度に依存していた。同年6月の攻撃の際には、無線は飛行機、砲兵、歩兵の間を結ぶ唯一の通信手段だった。さらに、ドイツの諜報を行う落下傘部隊にも無線が利用された。
  • 1916年初頭に、マルコーニ社は真空管式の送信機のセットを用いた試験を、航空機(Scape Flow=短距離の水上機)と英国海軍のCalliopeとの間で行った。試験成績は良好だったので、主力艦隊(Grand Fleet)75隻に同様の設計の真空管式セットを装備した。同時に、Uボートを監視するための海上機にも搭載した。
  • 1917年までに、無線の使用の重要性によって、Marine Observers’ School (R.N.)が設立され、そこでは多くのマルコーニ社の社員がスタッフとされた。
  • 1917年にはまだ飛行船が軍用目的で使用されており、製造もされていた。飛行船は可燃性の気体を含んでいるので、火花式無線機は危険であると考えられ、真空管式の送信機が搭載された。
  • 1917年末までに、イギリス陸軍航空隊(RFC)は夜間の爆撃機の納品があり、それらにはマルコーニ社のセットが装備された。同時に、連続波の電信機もRFCの地上ネットワークが導入され、電話は隊内間の通信用に導入された。戦隊のコントロールを可能にする新しい戦術は、敗戦が濃厚なドイツ軍にとって厄介なものだった。
  • Brooklandの学校では、無線電話の使用や、航空機の雑音の多い環境で明確な発音を行う訓練が行われた。
  • 航空機同士の双方向の電話(two-way telephony between aircraft)は重要な発展であり、それらが製造され始めると第141飛行隊の無線将校であったS. Mockfordは航空機にこれらを装備し、乗組員を訓練する任務を与えられた。
  • もう一つの重要な発展は、1917年にPrinceが航空機用送信機の変調回路に「チョーク・コントロール(choke control)」を加えて点である。これによって発話の質は大いに改善された。これらは”Mark Ⅱ choke controlled telephone set”と呼ばれた。
  • 終戦時には、無線機を装備した600台の飛行機、1000の陸上局、18000人のオペレーターが存在するまでになっていた。
  • ではこの間、マルコーニ本人は何をしていたか。1914年3月に彼はイタリアにて、Regina ElenaとNapoliとの間の45マイルの通信試験を行なっていた。この装置はラウンドによって設計され、彼のC valve(軟真空管)が用いられていた。1915年4月13日はアメリカマルコーニ会社とアトランティック通信会社(テレフンケンの子会社)との権利訴訟をめぐる問題の関係でアメリカに向かった。彼はそのときに、アレキサンダーソンの高周波発電機式の最初の設計を目にした。
  • 5月24日にイタリアは宣戦布告を行った。Lusitania船は英国の海で魚雷の攻撃を受ける可能性があるという警告が出された。そして実際に本当に魚雷の攻撃にあって沈没したことは多くの人々にとってショックだった。ただしマルコーニは身分を隠してセントポール船に乗って、5月31日にロンドンに到着した。そしてそのままイタリアに行き、陸軍無線部隊の組織の担当として中尉として仕事を行うことになった。
  • しかし、これは決して彼の職務の範囲になかった。それと並行して、海軍電気設備委員会は、マルコーニをして無線通信に最新の改良を施し、イタリアの戦艦において利用可能なものにせよとの要望もあった。さらに、彼はロシアとイタリアを結ぶ長距離無線通信の技術コンサルタントとしても仕事をしていた。
  • 1915年12月に、連合軍司令官の会合に出征し、無線を軍需への応用することについての新しいアイデアをイタリアに持ち帰った。
  • 一つの記す価値のある結果は、地中海で混信が激しかったことによってもたらされた。そこでマルコーニは1916年に波長が2m(超短波)に注目し始めた。このシフトは、従来、大出力+長波=長距離通信という経験法則に反するものだった。彼は今や長距離通信ではなく、むしろ超短波を用いた船舶間同士の(視覚的距離を超えた)通信を目的としていた。
  • この目的のために、フランクリンは火花式の超短波用送信機を設計した。この当時、まだこのような波長で発振を行うような真空管は存在しなかった。) 実験の成功によってマルコーニは喜んだものの、彼は当時この機会の歴史的重要性を十分に理解していなかった。これは明らかにターニングポイントだった。1916年の実験では、それまで無視されていたλ に再び注目することになった。さらに反射板を使うことで、これまで四方八方に分散していた電力を一点に集中させることができた。イタリアで行われたこの研究は、それ自体は短い距離の通信しか考えていなかったが、短波への道を開き、やがて世界の長距離無線回路の基幹であるビームシステムを進化させることになった。
  • 1917年6月6日に、マルコーニはコロンビア大学から名誉博士号(?)D.Scの学位を授与された。
  • 1922年6月に、IsaacsはWW1で戦死した348人(うち大部分がMarconi International Marine Communication Companyのメンバー)を追悼するために記念版(memorial plaque)を発表した。そこには、”THEY DYING SO, LIVE”と記されていた。