yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Baker(1970), Chapter 3.

Chapter 3 The Infant Company (pp.35–43)

 

 第三章では、創業してまもないマルコーニの会社の様子が描かれる。この時期は、KempやMurrayといった限られたメンバーによって次々と無線通信の試験が行われていた。最も重要な指摘は、マルコーニが出版業界を味方につけることの重要性を理解していた、という点であろう。なぜなら、報道を通じて、「企業イメージ」を向上させることができたからである。より正確に言えば、報道機関をうまく利用することで、マルコーニの会社は、実験装置のガラクタを販売するのではなく、信頼できるロバストな無線通信手段を提供する会社であることをアピールできたのである。マルコーニが優れていたのは、まさにこうしたpublicityの側面においてであった。これは、ちょうどAitkenがSyntony and Sparkの中で、マルコーニを「技術」から「ビジネス」への「翻訳者」として特徴づけたことと見事に符号している。

 

  • この本の歴史は、1897年7月に「無線電信信号会社(The Wireless Telegraph and Signal Company Limited)」が発足したときに始まる。資本金は10万£であった。デイビス(Jameson Davis)が最初のディレクターであり、アレン(Henry Allen)が秘書だった。オフィスは、ロンドンのMark Laneに構えられた。
  • マルコーニ本人はそのときイタリアにいたが、イタリアの国王と女王の前での演示に成功し、イタリア海軍の注目を集めることもできた。さらに10月には郵政省のためにも実験を行い、Salisbury–Bath間の34マイルの通信に成功した。
  • しかし、一方で郵政省はマルコーニの装置を使って、自前で秘密裏に一連の実験を行なっていた。この実験は成功しなかったが、ある前兆を示していた。今やプリースはマルコーニの会社を郵政省の独占体制にとっての挑戦であるとみなしていた。
  • さらにプリースは英国と仏国の間で無線電信のサービスを始めるという夢を抱き始めていた。そのためには彼は不十分な技師であり、リアリストすぎた。
  • 他方でマルコーニの関心は、船舶無線にあった。彼はアラム湾(Alum Bay)に海岸局を建設し始めた。同時に、ロンドン南西鉄道会社と協定を結び、SolentやMay Flower号の上に受信機を設置し、実験を行う許可を得た。12月23日に蒸気船での実験が行われた。
  • 1898年1月、マルコーニ社を公に知らせることになる出来事が起きた。そのときの大雪で、アラム湾から5マイル離れたところにあるボーンマスがロンドンから通信孤立に陥った。このとき、マルコーニはボーンマス→アワム湾→ロンドンへと通信をつなぐことに成功し、多くの新聞がこの偉業を報道した。これにより、マルコーニは出版報道業界と友好関係を築くことにもつながった。彼は公に出ることの価値を理解していた。
  • 1898年5月には、イタリア海軍が正式にマルコーニのシステムを採用することを決定した。さらに、ロイズ(保険)を代表して一連の試験も行った。ロイドは船舶通信に関心を抱いていた。当時は岸にいる人が目視で確認し、それをヘッドへ有線で伝えるという方法が主流であった。そこで、霧の中でも無線での通信できるかどうかなどを確認したかった。そして、Rathlin島で試験が行われた
  • 1898年6月には、当時英国で最も著名な科学者であったケルビン卿がマルコーニのもとを訪問した。ケルビンはヘルツ波の調査のために、多くの資金を必要としていた。彼にとってマルコーニとその会社は一筋の希望だった。そこには多くのデータがあり、大規模で無線の実験を行っている唯一の組織だったからである。彼にしてみれば、調査に納得すればマルコーニを全面的に支持するというのは当然の選択だった。
  • ケルビンはアラム湾での作業の雰囲気に強い印象を受けた。マルコーニとケルビンは友人関係を持った。マルコーニは今や、プリースとケルビンという、英国で最も影響力のある人物の支持を得た。
  • 1898年のボートレース(Kingstown Regatta)では、さらなる熱気を持って報じられた。こうした報道は、マルコーニにとって重要だった。それは今日でいう「会社イメージ」を向上させることにつながるからである。マルコーニの会社にとっては、単にもろい実験器具を取り扱う組織ではなく、新しく、堅強で、信頼できる通信手段を販売する会社であるという印象が必要だった。
  • マルコーニの洞察力は、こうした報道の意義を評価していたことである。もう一つの洞察力は、先見性である。それは、たとえ会社の景気がよくないときでも、ケンプと並んで重要な技術者としての役割を果たすMurrayを(ケチることなく)実験助手に採用するという決断をしたことにも現れていた。
  • 一つの見込みのある市場は、灯台船であった。トリニティーハウス社はこうした通信を望んでおり、船舶–陸上間での通信試験がケンプのもとで行われた。ケンプは船酔いやその他のことに由来する体調不良にもかかわらず、22日もの間船舶の上で粘り強く試験を行った。
  • だが、注文に関してはほとんど何の成果もなかった。トリニティーハウス社の社長のVivianは、実験の成功を公に認めたものの、彼の会社は最初からいかなるコストも負うことを拒否していたので、1900年2月に設備が解体されると、マルコーニの会社は500£の損失を生み出した。
  • この時期、わずかのスタッフによって膨大な試験が行われた。彼らは、「絆で結ばれた兄弟 small band of brother」といった感じであった。新たなスタッフであるCave、Pagetも含めて、Murrayや、マルコーニの兄弟であるAlfonsoは、同じテーブルで食事をし、時には音楽をともに演奏することもあった。