yokoken001’s diary

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Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (4)-2

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014), Chapter 4. 後半(pp.124-178)

 

  ようやく第四章を読み終えました。正直、かなり苦戦しています。特に電子工学に関わる内容はほとんど理解できていません。史料として多数の回路図に依拠しているので、理解するためには通信工学の知識がどうしても必要になってきます。(誘導結合とか高周波トランスってなんだろう?)

 技術的な細部についてはまだまだ理解の途上にありますが、ロッジについての伝記的内容はある程度理解できました。ロッジはやはり科学者であって、特許を申請することや企業の経営には乗る気でなかった姿など、マルコーニとは対照的です。ロッジ-ミュアヘッド社の経営がうまくいかなかった理由は、ロッジの同調回路という利点が十分に生かせる英国市場で展開できなかったことが大きいです。

  20世紀にもなれば、GEやデュポン社など企業内に研究所を持ち、科学・技術の成果を、すぐさま製品に反映させる体制が整備されることは珍しくないですが、19世紀末では、まだまだロッジのような純粋な科学者のメンタリティと、企業家のそれとの差異が際立っていたということがよくわかります。そうすると、やはり無線通信という実験室内での成果を、無線電信システムという形で世界的な事業化に成功したマルコーニという人物に関心が向きます。これは次の第五章の内容で、きっと面白いに違いないでしょう。

 

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 1890年までに、彼の科学的な関心は、既に無線電信を直接改良する方から離れていた。マイケルソン・モーリーの実験(1887年)のロッジにとって「変則的な」実験結果を受けて、物質が移動したときその周りにあるエーテルがそれにともなって動くかどうかを確かめる実験装置の考案に時間をさくようになった。ロッジにとって1894年の実験は緊急を要するものではなかった。彼のコヒーラの特許を申請することさえも不快なことだった。1896年にマルコーニがイギリスに来るまでの間に、ロッジは新しい友人を得た。彼の名はAlexander Muirheadといった。彼は王立協会のフェローの一人で、1894年6月に催されたロッジの講演の聴衆の一人だった。また彼の兄弟は有線電信機器のメーカーを営んでおり、そのパートナーでもあった。Muirheadはロッジのシステムに内在する商業的な見込みを直ちに理解した。オックスフォードでの実験の際に用いられたミラーガルバノメーターなどの器具は彼に負うところが大きい。二人の出会いは、科学的才能と起業家との出会いというだけではなく、有線の成熟した技術(※ミラーガルバノメーターは有線電信の微弱な信号を検知する装置だった。)と無線という新しい技術との出会いでもあった。

 1901年に二人は”syndicate”の創作でより強固な関係を結ぶことになった。これは1894年時点では必要性を感じていなかったものであり、ミュアヘッドMuirheadがロッジに説得していなかったら特許の取得は実現していなかっただろう。ロッジの最初の特許の出願は1897年だが、これはマルコーニの英国到着(1896年)によって促進されたということは、ほとんど疑いのないことだ。(もちろん、マルコーニを強調しすぎることは誤解を生じさせる。1894年のロッジのオックスフォードでの実験で見せた送信機と受信機を用いた似たような装置を用いて無線電信の実験を行なった人物は他にもいるからだ。だが、マルコーニが他の人々と異なっていたのは、彼が長距離通信を実現した点が大きい。) 今日的な観点からすると、これらの装置の著しく欠けていたものは、チューニング(ロッジの言葉で言うとsyntony)と、波が減衰してしまうことであった。ロッジが直面していたトレードオフは、効果的な伝播を求めると鋭い同調を損なうという関係であった。これを避ける方法は、(1)火花式をやめ他の発振方法を考案すること、(2)新しい回路構成を模索するという二つがあった。そして、ロッジが採用したのは、後者の選択肢だった。

 

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ロッジは、1897年に四つの特許を取得している。そのうち2つ(16,405と18,644)はコヒーラに関するものなので、ここでは触れない。その他の二つは「同調電信の改良」に関するものであり、法的にも技術的にも、長い視点に立ったとき非常に重要な特許である。もちろんアイデアそのものは特許の対象とはならないが、ここでロッジが描いているシステムの本質はやはり「同調」というアイデアである。1896年にマルコーニもヘルツ波を用いた伝送技術で特許を取得しているが、両者はコミュニケーション技術に含まれるべきアイデアについて、対象的な考えを抱いていた。

1897年のロッジの送受信装置を見ると、アンテナは大地にアースされていない。これは波の大地の伝わり方と空間の伝わり方とが理論的に異なると考えられていたからであり、何もない空間をエネルギーが伝播するということを信じることが困難な時代にあって当然のことだったとも言える。その意味で、ロッジがヘルツの実験結果を確かめるとき、有線を用いた姿と同じである。いまひとつの理由は、アースアンテナを用いることで同調しづらくなるという事情があった。アース設置型のアンテナは長距離通信には向いているが、同調特性はすぐれていなかった。ロッジの技術の主要な革新点は、(1)インダクタンス=同調コイルを挿入することでアンテナをチューニングできるようにしたこと、(2)複数(3つ)の異なったインダクタンスをスイッチすることで、チューニングを変えることができるようにした点、(3)高周波変成器(トランス)を用いた点だった。

 

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 1897年のロッジの特許は、その後10年間にわたって、ロッジ自身によってもミュアヘッドによっても、他社(例えばマルコーニ社)による権利の侵害を防ぐ手続きが取られなかった。なぜロッジは自身の特許権を守ろうとしなかったのかを説明することは簡単ではないが、科学者として情報を開示しようとする役割と、特許権を代表しての独占的・排他的な役割との間でいくらか葛藤を抱えていたということは想像できる。が、これだけでは十分な説明とは言えない。

また、ロッジでないにせよ、ミュアヘッドが1897年時点で特許を申請することができたはずだ。しかし、実際には1901年になってようやく有限責任会社が創立し、産業界に姿を現した。だがこの時点で、マルコーニ社を味目として、ドイツのテレフンケン社、アメリカのユナイテッド・ワイアレス社(ドフォレストの特許に基づく製品を扱っていた)なども出現しており、ロッジ-ミュアヘッド社は未熟な会社で、唯一の特許といえば、ロッジの同調回路のみであった。

 ロッジミュアヘッド社は、機器の製造と販売を行う会社で、特に特定の需要者にオーダーメイドで製品を作る点が特徴的だった。需要者は、オペレーターに頼ることなく、自分自身でその特注(custom-built)の機器を操作する。それに対して、マルコーニ社はマルコーニ社に雇われた通信士によって操作されたという点に違いがあった。

 写真資料は、あまりinformativeではない。むしろ回路図が残っていればそちらのほうが便利である。1903年に開発された送信機の回路からは、1897年の特許に比べると二点が改善されていることがわかる。一つ目が高周波トランスを用いている点で、二つ目がアンテナにコイルが挿入され、接地される設計になっている点である。受信機の方を見ると、検波回路が挿入されていることがわかる。さらに特筆すべきことは、コヒーラが改良され、「車輪型コヒーラーwheel cohere」が採用されている点である。車輪型は従来のコヒーラーに比べて機械的に安定しており、タップして元に戻す必要もなく、また一定のインピーダンスを備えている点で優れていた。

 1909年に描かれた図からは、まずアンテナが大きく変化していることがわかる。二枚の水平面の中に4つの四角形ができるような形をしており、それが垂直にたてられた4本の柱に結び付けられている。これらは非接地アンテナだった。1897年のアンテナとの連続性はあきらかで、前者では2つの「コーン」であったところが、8つの「コーン」になっていると見做すことができる。また、キャパシティ・エリアを設けている点も同じである。受信機では、一点大きな変更点があり、それは多様な選択性が施されている点にある。受信機は、アンテナに対して変成(トランス)結合transformer coupled?している。受信機のコヒーラー回路も調整された周波数に同調することが可能だった。送信機のほうに際立った改良点がみられるかどうかはそれほど自明なことではない。送信の方は周波数を操作できるものではなく、この回路の共振周波数である50.60Hzを放射するものであった。ロッジは同調にこだわり、マルコーニは長距離通信にこだわった。ただし、マルコーニにせよロッジにせよ、火花式から純粋なサイン波を得ようという不可能な試みをしていた点では同じだった。

 

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  1911年にロッジとミュアヘッド(Muirhead)の企業が倒産するまで、同社の製品は植民地政府を中心に、アフリカ、カリブ海シンガポール、香港方面へ浸透していた。しかし、同社は商業的には失敗したことは否定できない。失敗の理由は、(1)製品それ自体の問題、(2)市場の問題、(3)経営の問題の3つが指摘できる。第一の点についていえば、同社の製品が高品質であったということは疑いない。だが、製品の特徴は比較的小規模の操作を想定しており、受信周波数の選択ができるということがポイントだった。(一方、マルコーニ社は長距離通信を重要視していた。) つまり、混信を防げるといった点が肝であったが、ロッジ-ミュアヘッド社が展開した市場は、必ずしもその技術に適合していたわけでなかった。混信を防ぐことが最も重要だったのは、船や局で多数の通信が飛び交うイギリスを中心とした市場であったが、そこはマルコーニ社に支配下にあった。さらに皮肉なことに、ロッジ-ミュアヘッド会社は英国郵政省からのライセンス発行を申請したとき、既存のマルコーニ社の通信を干渉させるとの理由で断られた。要するに、もっとも技術的に適した英国市場で足場を築くことができず、植民政府においてかろうじて足がかりを得ていたというのが、二つ目の市場に関わる理由であった。第三の点については、無線通信の初期の段階では、技術そのものというよりは、その装置が使われる通信のネットワークシステムを構築することが必要になってくる。しかしこれに成功したのは、ロッジ-ミュアヘッド社ではなくマルコーニ社だった。加えて、ロッジのミュアヘッドにとっての会社経営はいわば副業だったと言う点も指摘できる。ロッジにとって会社経営とは講演や大学の仕事から気をそらすものであった。経営陣の会社への深い忠誠心の欠如というのも、マルコーニ社のそれと異なっていた点である。

 

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 1901年にロッジ-ミュアヘッド社が設立されたとき、唯一保持していた特許はロッジの同調式の無線電信だった。10年後には新たな改良を求める者も少なかった。だが、マルコーニ社がロッジの特許権を侵害していることを否定したのみならず、英国陸軍省がロッジミュアヘッド社の製品を、マルコーニ社の同調技術の特許(1900年)を侵害しているといった理由で購入しなかった。ロッジは、この袋小路を、特許権を7年間延長する申し立てをすることで突破しようとした。(元来は1911年に失効することになっていた。) マルコーニ社はこれに応訴した。当時、英国においてマルコーニ社の地位は安定していたが、ドイツとアメリカではマルコーニ社の特許権の地位は揺さぶられ始めていた。ドイツでは、テレフンケン社がマルコーニ社ではなくロッジの特許を侵害しているとの見解を持っていたし、アメリカではマルコーニの同調技術への特許申請は、John Stone Stoneによって先を越されていたとの見地から拒否されていたからである。マルコーニ社のアイザックス(Godfrey Isaacs)は、財政や法律に詳しかったため、マルコーニ社の特許権の擁護の任務につかされた。アイザックスとロッジの調停は難しく、ウィリアム・プリースの仲介によって実現することになった。皮肉なことに、もともとプリースはロッジと対立する立場にあったが、のちに彼はマルコーニ社の経営を批判するようになっていた。調停は、ロッジの特許権をマルコーニ社が購入する代わりに、ロッジーミュアヘッド社は解散されるという形で成立した。こうして、1897年に生み出された同調回路の基礎は、1911年になってようやくマルコーニ社側にそれがロッジに帰属するものであることが理解され、米国の最高裁がロッジの特許を認めマルコーニ社の特許が失効したのは1943年のことだった。ロッジは、自然科学の真実はシンプルで調和的なのに、経営の人間はその発見の成果を引き出すのは誰かを巡って約半世紀もの時間を要した事実を不思議に思っていたかもしれない。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)