yokoken001’s diary

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平野啓一郎『透明な迷宮』を読みました。

 

 『透明な迷宮』は、2014年に刊行された短編集で、著者自身による創作時期の分類によると、第4期(後期分人主義)に含まれる作品だ。一つ一つの小品は完全に独立しているわけではなく、テーマや要素が緩やかに重なり合う6つの短編が収録されている。

 作風としては、不思議な国のアリスの世界というか、エッシャーの絵画のようというか、メビウスの輪のようというか、、、物語を筋を追っていくと、何が正しくて何が間違っているのかが分からず混乱してくるような不思議さを備えており、まさに「迷宮」の中を彷徨うような感覚におちいる。

 個人的には、6つの作品の中で、「family affair」と「Re: 依田氏からの依頼」の二作品が特に面白かった。両作品は、「姉妹」という要素が共通しているが、もう一つ、(タイトルの『透明な迷宮』という言葉とも関係してくるが、)「無意識的な強制」というテーマも併せ持っているように思われた。

 

 「family affair」は、享年86歳で亡くなった古賀惣吉の葬儀に参列した登志江(姉)とミツ子(妹)の、惣吉の遺品をめぐるやりとりを中心に描かれる。この二人は、姉妹であるにも関わらず、対照的な人物として描かれており、饒舌でしたたかな妹に対して、姉は普通にしていても笑っているかのように見え、「いつ本当に笑っているのかも、なかなか分からない」という穏健な人物のイメージが湧く。だがそのせいで本当の表情も分かりづらい。

 登志江は、父のなくなる7年前から自宅で寝たきりの彼を看病し続けいていた。周囲の親類は、父の死は悲しいに違いないが、登志江の献身さを労い、ホッとしてもいいだろうという「やさしい」考えを持つことで一致していたと書かれるが、もちろん登志江の本心は不明である。本当は、父の死を誰よりも悲しんでいたのかもしれないが、なにせいつも笑っているような表情をしているので、どんな考えを抱いているのか分からない。そんな具合に、本作品は、姉の自発的な行為でなされているかのように見えながらも、実は妹が強制的に誘導された結果であるように翻弄される姿が印象的な短編である。

 

 「Re: 依田氏からの依頼」も似たようなテーマを持っている。本作は、恋人の涼子を失った劇作家の依田氏の身に起こった特異なエピソードについて、涼子の姉の未知恵の依頼によって、彼女から提供された素材を元に、小説家である主人公がそれを小説に仕立て上げるという内容である。そして、ほとんどの部分は、この「小説の中の小説」のテクストが占めている。が、肝となるのは、このとき依田は時間感覚が混乱するという一種の病に冒されており、日常生活を送ることが困難な中にあって、小説の素材も、未知恵の口述筆記によって書かれている。依田の本心は、誰にも分からないのである。

 

 Twitterなどのメディアには、日々、たくさんの情報が洪水のように溢れており、何が正しくて何が誤りか、見極めることがとても難しくなってきている。自分が「信頼できる」と思っていた情報に基づく判断であっても、実は背後に巨大な力学が働いていて、その大きな力による強制になっていることもありうる。そして、それが難しい問題であればあるほど、外的な環境に左右されやすく、自分の本心がどこにあるのかということが見えづらくなっていく。知らない間に自分の価値観が変容され、ある方向へ誘導されているという感覚。それが、ただの迷宮ではなく、「透明な」迷宮ということなのだろう。

 実際、本当の意見を持つということが、とても難しくなってきているような気がする。もちろん、自分の意見というのはゼロから生まれるのではなく、他人の意見を含めた外的環境の影響を受けながら形成されていくものだ。だが、「こういう意見もあるし、ああいう意見もある。みんな違って、みんないい」というある種の相対主義に陥ると、これもまた迷宮の中をたださまよっているだけになってしまう。

 

 我々が生きている現代という時代の混沌さを、著者独特の方法で表現した、なかなか面白い本だった。まあ、あまり深く考えなくとも、迷宮の中を彷徨うような不思議な体験が得られて楽しい。

 

 

 

透明な迷宮 (新潮文庫)

透明な迷宮 (新潮文庫)