yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio (1)

Hugh G.J.Aitken , Syntony and Spark: The origin of radio, Wiley, New York,1976. (Princeton Univertsity Press,Princeton Ligacy Library,2014)

 

 

 技術史家Aitkenによる無線通信史の古典を、少しずつ読んでいきます。

 

 

第一章

 新しい物事はいかにして生じるか?この問いに答えを与えてくれる一般論は存在しない。だが、創造性というのは、まずアイデアの並び方を構成し直すプロセスとして分析されることが重要である。そして、ジョージ・サートンが述べているように、その創造的飛躍が想像し難くいかに馴染みないものであっても、細かく調べればその無数の小さな中間段階を経ていることがわかり、その驚きは消滅するものだということを念頭におくことが重要である。

 科学は、新たな情報が付加されることで既存の知識を並び替え、一般化された概念的枠組みを作り出すことに特化した社会の一機能である。著者はマートンとともに、科学を社会的機能へと統合する見解を共有する。だが、科学的思考や科学的行動は、社会における他のセクター(宗教や国防、個々人が持つ価値の体系など)と異なった特徴がある。マートンが述べた科学者に要求されるエートスに「CUDOS(共有性、普遍性、無私性、組織化された懐疑)」というものがあるが、これは明らかに他のセクターには当てはまらない急務である。そして、科学の知識体系は、科学者自身によってしか評価され得ないという意味で、自律的である。一般市民にとっては、科学的知識を体現した技術的体系に社会的な支持が集まることで、初めてそれを評価することができる。

 新しい物事はいかにして生じるか?この問いの答えにとって、あるひとかけらの情報が新規的な形態へと組み合わされたり配置し直されたりするプロセスを理解することが重要だった。この観点からすると、新しい情報が、科学から技術へさらには経済的生活へと伝送されていく(そしてまたその逆に伝送される)過程を理解することが大切になるだろう。このとき、既存の情報要素の配置替えにとって、新しい情報の入力は、ある種の触媒として機能するだろうというのが著者の仮説である。つまり、それは、起爆剤であり、巨大な雪崩を引き起こす雪だるまのようなものである。そして、これに「火花 spark」という比喩を与える。

 科学と技術は似通った価値観を備えており、社会の部分において、鏡像関係のようである。例えば、合理性、功利性、普遍性、前進性といった価値は、両者に共通するものであろう。しかし、鏡像はよく似ているが全く同じというわけではない。両者には、いくつかの差異もある。例えば、ある規則に従って行動する程度は、純粋科学においては大きいものの、応用科学、そして技術へとシフトするにつれ、その程度は薄まっていく。また、その態度における伝統性の度合いも異なる。伝統性に則るという側面は技術の方が強いだろう。つまり、技術における新規参入者は、その独創性が認められるより以前に、それに習熟していることが要求されるものだ。さらには、特許権の問題も両者で大きく異なる。科学においては、誰が最初にそれを発見したのかというプライオリティーが重視される。そして、一旦それが発見されれば、あとは科学者全員の共有物となる。一方技術においては特許体系によってその独創性は保証されており、発見とはすなわち商品なのである。以上のように、科学はやはり自律性によって保護されているのものの、技術の方は社会的ニーズの圧力にさらされており、経済システムに通じているのである。より単純化して言えば、技術というのはいつも雇われているのであり、純粋科学は決してそのようなことはない。このことは、科学の歴史的展開に適合するゲームのルールと、技術のそれとは一致しないということを意味している。

 以上、科学-技術-経済間で相互に影響し合う要素について検討した。要するに、ある情報が、あるシステムから別のシステムへ伝わるとき、それぞれの異なった価値観の世界にとって意味をなす形態へと変換され、異なったコードへと翻訳されるのである。(そして、歴史学はこの事例に広範なポートフォリオを提供する。) だが、現代社会においては、この接点におけるプロセスは、高度に制度化されているということにも注意する必要がある。社会的なニーズによって、応用科学が純粋科学と技術の間に位置付けられ、技術と経済の間にR &Dが介在させられ、有効に機能する。

 本書では、電気技術と、無線コミュニケーションの起源という単一の事例に集中する。ここで取り上げられる主な人物は、ヘルツ、ロッジ、マルコーニであるが、著者が記すのはいわゆる「英雄的な」伝記ではない。彼らを取り上げるのは、マックスウェルの理論という純粋科学上の概念的な前進を超えて、新しいコミュニケーション手段と(電磁波という)経済的資源を作り出したプロセスにおいて、大きな役割を果たしたからである。すなわち、この三者は、科学-技術-社会という三つの体系における情報の相互伝達を支配したからである。彼らは三つの体系間の「翻訳者」だった。

 ヘルツは、マックスウェル方程式を実験的に証明し、光も電磁波の一部であることを証明した。(つまり、電磁波の速度は光の速度であることを示した。)だが、電磁波をどのようにして生み出すのか?それはどのように検知されるのか?そしてその電磁波の検知が放射された電磁波そのものであって、他の電磁波ではないということをどのように保障するのかといった問いを残した。インダクタンスとキャパシタンスによる共振resonateという現象は、マックスウェルの時代には知られていたが、これを同調syntonyという形で、チューニング可能な技術の形にしようと試みたのがロッジである。だが、ロッジの装置は知的好奇心の産物であり、公演での興味を引きつけるデバイスにすぎなかった。つまり、ここでは技術から経済への翻訳は行われていなかった。それを経済に接続したのが、ほかならぬマルコーニだった。彼は科学者ではなく、工学者であり、実業家であり、商業家であった。マルコーニ社の発足は、経済史におけるエピソードなのである。

 本書では、対象とする時期をマックスウェルの方程式が示された1865年を起点とし、1914年を終点とする。なぜなら、この年に火花放電からアーク放電や三極真空管による連続波の生成という新しい技術へと進展する(真空管の場合は、進展しつつあった)からである。

 マックスウェルは電磁波理論という概念的枠組みを提示し、ヘルツはそれを検証し妥当なものであることを示す技術を考案し、ロッジはそれを洗練させ情報伝達に応用可能な形にし、マルコーニはそれを経済的な場へと持ち込み成長させたのである。そして、「火花」放電は、彼らに電磁波スペクトルへのアクセスを可能ならしめ、「同調」はそれを利用可能にさせ、経済的資源へと変換させたのであった。

 

 

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

Syntony and Spark: The Origins of Radio (Princeton Legacy Library)

 

 

Jeremy Vetter “Explaining Structural Constrains on Lay Participation in Field Science”

Jeremy Vetter “Explaining Structural Constrains on Lay Participation in Field Science”

Isis,Vol110,No2,pp.325-327.

 ↓DL可

https://www.journals.uchicago.edu/doi/full/10.1086/703334

 

 Jeremy Vetterは、20世紀西アメリカのネブラスカの採掘場おけるフィールド科学(Field Science)の研究を通じて、カーネギー博物館の科学者だけではなく、牧場経営をしている現地の人々(クック家)もその科学の実践に加わることで、そこにどのような協働・緊張関係が生じたのかを「説明」する。特に、現地の人が何かの影響力を持っていたということを主張するだけではなく、彼らは何をしようとし、何を達成でき/できなかったのかということを調べることで、その影響力における構造的な制約を説明することが試みられる。 

 方法上の大きな困難は、現地の人々に関するまとまった資料は、科学者とは異なって、しばしば存在しないということである。だが著者は、Agate Fossil Beds 国立博物館に保存されていたクック家の牧場経営に関する文書を発見し、これにより彼らの固有の世界観を読み解く視点を得ることができた。

 クック家の事例は、その地域に住んでいる現地人とは異なって非典型的な例であると言うことは簡単であるが、それゆえ、そこからより広い一般的な結論をひきだすということは難しいように思われる。これは、ローカルな歴史を研究する者が直面する複雑な問題である。だが、Vetterは、その資料群がどれほど豊かで示唆的であっても、広い結論を引き出すことを保証するためには、健全な議論が要求されると述べる。著者の議論においては、Agate Fossil Bedsの事例は、フィールド科学の実践に影響を与えようとした際、現地人が直面した限界点や束縛を示すことにとってのある格好の検証(a suitable test)を与えてくれるということである。

 Agate Fossil Bedsの事例において、クック家は、彼らの所有する土地を超える場所に位置している豊富な化石発掘の丘における公式の所有権を得るために、彼らの有利になるように土地法を巧みに悪用していた。さらに、土地をコントロールできただけではなく、しばしば過疎地域において不足している労働資源を制御することもできた。地域に関する専門知を持っているというクック家のアドバンテージは、彼らが要求していたことを達成する上で有効に活用されていたのである。だが、その一方、彼らが達成できなかったこともある。最も顕著なカーネギー博物館との間の摩擦は、クック家が採掘場において資料を発見した権利を主張しようする試みから生じた。最終的に、彼らの発見に対する正式なクレジットを認めたのはニューヨークの自然史博物館だけであった。現在では、ハロルド・クックが、調教や教育のためにアメリカの博物館に行くように招待されるようになった。

 

メモ:a suitable testの件がよくわからない。この議論の前提は、ある一つの非典型的な個別的な事例を通じて、20世紀初頭の西アメリカのフィールド科学における、科学者/現地人間の構造的な制約というより広い議論をいかにして展開することができるのかという、その難しさである。ここでは、その事例が非典型的であるからこそ、その議論にとっての「格好のテスト」を与えてくれるという文脈であり、一見するとわからなくもない気がするが、ここでは何をテストするというのだろうか?科学者/現地人間の構造的な制約という一般論が妥当であるかどうかを、その個別事例を試金石に、いわばtop-down式に検証するということなのだろうか。

 

参考:

 

 

www.youtube.com

池内了『科学者はなぜ軍事研究に手を染めてはいけないか』を読みました。

 

 本書は、軍事研究の反対論を唱えてきた著者が、若い研究者へ向けて「軍事研究に手を染めてはいけない」という倫理的な規範を示した指南の書である。

 池内了『科学者と戦争』(岩波新書、2016年)は、益川敏英『科学者は戦争で何をしたか』(集英社新書、2015年)に並んで、僕に科学史の研究に取り組もうとするきっかけを与えたくれた本である。少々個人的な事情を申し上げると、僕が大学に入学した年、つまり2015年は、政治的にかなり動乱した年で、そのことは僕の大学生活とも無関係ではなかった。新ガイドラインの制定と、それを法的に体現した安全保障関連法案が成立することで、集団的自衛権の行使が容認され、日本が「戦争が出来る国」になると多くの人が危惧を抱いた。国会前にはSEALDsらをはじめとする多くの人たちがデモに参列した(主催者発表では10万人という日もあったように記憶している)。そして、僕もその中の一人だった。もちろん、人々が主張していた内容はよく見ると各々異なるものだったが、僕は民主主義が踏みにじられているということよりも、日本が「戦争」へ着実に近づいていることに漠とした危機感を覚え、一連の法律の成立そのものに反対したつもりだった。(無論、過去や現在の戦争とは何であり、なぜ反対なのか、きちんと説明することはできなかった。) そうした動きの中で、同年、防衛省は新たな競争的資金制度を創設した。安全保障技術研究推進制度(以下、推進制度と表記)と呼ばれるその制度には、大学の研究者からの応募もあり、「軍事研究」の解禁としてメディアでも取り上げられることがあった(益川先生が出演したクローズアップ現代の衝撃は、特に大きかった)。防衛省側も、研究費に応募した研究者も、科学・技術が民生用途にも軍事用途にも用いられる、つまり軍民両用性を備えていることを「デュアルユース」という言葉で説明した。そのことで、僕は軍事研究と民生研究との線引きがいかに難しいことであるかを実感させられた。池内氏の著作は、このような情勢を背景としつつ、大学の研究者が軍事研究に公然と着手する状況に対して警鐘を鳴らすべく書かれたものである。同氏はその後も、『科学者と軍事研究』(岩波新書、2016年)、『兵器と大学』(岩波ブックレット、2016年)などを上梓し、推進制度の近況を注視しつづけると同時に、日本学術会議の議論にも加わり、軍事研究について力強い反対論を展開してきた。そして僕はこうした本を読むなどして、議論を追いかける中で、戦争と科学・技術の関係という遠大な問題に対してまずは歴史的な観点からアプローチすることが、今日の問題を考える上で重要だと思うようになった。

 現代の戦争にとって、科学・技術は不可欠であることは言うまでもないが、そもそも国家にとっても、科学・技術は本質的な役割を担っている。軍事や国家と科学・技術はどのように関係してきたのか、国家による科学振興のルーツを探るというその作業は、現在自明のこととなっている「科学と国家の関係」について再考することにもつながる。科学者はポケットマネーによって研究することはできず、やはり国や企業をスポンサーとして研究する他はないのだから、場合によってはその間に緊張関係が生じることがある。その関係をどのように考えたらよいのか、その関係の歴史を辿ることで見えてくることがあるかもしれない。これが第一の理由だ。

さらに、科学は、戦争のために破壊や殺傷を目的とした手段であるのではなく、人々の幸福に資するものであってほしいと、池内氏も僕もそう思う。だが、それはおそらく、軍事研究に従事する人々や政策の立案者も同じ願いを持っているはずである。(例えば、まともな人間であれば、大量破壊兵器を好んで開発することなどはないだろう。) だとすれば、この問題について考えるとき、防衛省=悪/大学のリベラルな科学者=善とする図式によって、後者の立場から一方的に反対するだけでは不十分であり、政策する側(ないし軍事研究に取り組む側)の立場に立って、なぜこうした制度や軍事研究が必要とされているのかを考える必要があるだろう。その際、歴史学のアプローチは有効かもしれない。歴史学の基本は歴史主体に寄り添うことで、複雑な過去という時代を理解することであると理解している。もちろん、戦前・戦中という時期は、軍事研究が当たり前であった時代であり、現代とは違う。だとすれば、その時代において、陸海軍の軍人や技術官僚、文部官僚さらには技術者・科学者の立場に立って、なにを目指していたのかを理解することで、彼らにとっての科学・技術、軍事研究の内実を考えることにつながるだろう。その作業は、現代の問題を考える上でも決して無駄なことではないはずだろう。

 前置きが長くなってしまったが、以上の問題意識を持っている僕にとって、本書を含めた一連の著作は不十分であると言わざるを得ない。その意味で、池内氏の著書は僕にとっての原点であると同時に超克すべき壁でもある。もちろん本書は、科学・技術と軍事の歴史的な関わりを概観すること(第一章)、その中で科学者はどのような「口実」に基づき、軍事研究に取り組んだかという科学者サイドに立った分析(第二章)、その一方で人類が平和な世界を創るための数多くの努力もなされてきたという、非戦・軍縮の思想の歴史の紹介(第三章)、そして2015年に創設された推進制度の概要と問題点(第四章)、それに対する研究者側の反応(第五章)、そしてやはりプロとしての科学者が軍事研究に従事してはならないことへの訴え(第六章)と、非常に行き届いた内容を備えていることは事実である。だが、いくつかの点で、さらに進んだ議論が必要であると感じた。したがって、全体の要約を示すのではなく、以下ではこの主要な論点について記しておこうと思う。

 まず、本書の基本的な主張の一つは、防衛省からの資金による研究を軍事研究と見做すことでそれに反対し、代わりに、文科省からの科研費で研究すべきだとことである。しかし、文部省の科学政策の歴史を勉強している人間にとって、この主張には違和感を抱かざると得ない。というもの、確かに創設当初から科学研究費交付金は基礎研究を広範に振興する制度であったが、戦中に文部省の学術研究会議が科学動員の中枢組織と姿を変えるにつれて、その動員政策の一つである「研究班」の資金源となっていったという歴史があるからだ。個々の研究プログラムにとって、それらの成果が戦争に直接寄与したかどうかはまだ不明な点が多いが、少なくとも科学研究費交付金は科学動員の手段になったという歴史を持っている。防衛省の資金との対比で科研費が全く問題にされないのは、これらの歴史を併せて考えると不適切である。むしろ考慮すべきことは、防衛省にせよ文部省にせよ、国家による資金源をもとに科学研究をするということはどういうことだったのか、そして現在ではどういうことなのか考え、かりに国家と科学研究との間に緊張関係が生じた場合、どうすべきかを考えることだと思う。

 次に、本書が前提にしているのは、大学の研究者である。もちろん、大学の研究者が軍事研究に手を染めないようにすることは大事なことかもしれない。しかし、仮に彼らが反対したところで軍事研究は依然として進行する。なぜなら、科学者・技術者というのは大学内にいるのみならず、企業にも所蔵しているからだ。これはいわゆる「大学の神聖化」という問題である。大学こそは軍事研究に反対し、人々の平和のために科学の研究に取り組む「神聖な」場所であるとするこの主張が、軍事研究そのものに反対するものにとっていかに視野の狭いものであるか、深刻な問題である。

 さらに、本書では日本の安全保障体制についての議論がほとんど扱われていない。おそらく著者は非武装中立のスタンスであり、自衛隊にも反対しているのだろう。だが、現在、自衛隊は実質は「軍」として、あるいはそれに準じる組織として、軍事演習を行い、日本の防衛に寄与しているだろう。つまり、現在すでに自衛隊による安全保障体制の枠組みの中に置かれているのである。その事実を捨象して、自衛隊の存在にも反対することはなかなか難しい。軍事研究の是非をめぐる問題を考えるのに際して、そもそも日本の安全保障をどのようにするのかという議論は避けることはできないだろう。(個別的自衛権だけでいくのか、だとしたらそれに資する軍事研究は許容されるのかどうかなど。)

 最後に、これだけの内容をもち、軍事研究に警鐘を鳴らしているにも関わらず、突き詰めるとなぜ軍事研究に手を染めてはいけないのか、その根拠は曖昧なままなのであるという点が指摘できる。軍事研究は、自主性・公開性を奪い、健全な科学研究を阻害するという特有の問題があるということは本書でも触れられるし、日本学術会議の声明文でも指摘されていたことでもある。だが、それは軍事研究そのものを真正面から否定するものではない。自主性や公開性が担保されていれば、その主張は崩れるからである。では軍事研究は、破壊や殺傷を目的とするため、その非人道性が問題であるということが、それ自体に内在する問題なのだろうか。だとしたら、近年進行しているAIやドローン技術の軍事利用や、ソフト面への攻撃技術やサイバーテロ防止の技術などは問題化されないことになる。人に危害を加えることなく、対象物を局所的に破壊し、兵士の心理的・物理的な苦痛を軽減するこれらの技術や、そもそも破壊や殺傷を目的としない軍事技術は、国家の安全保障にとって必要であり、反対すべきではないのだろうか。

科学者は人々の平和と世界の平和のために尽くす人間であるということ、軍拡ではなく、話し合いと交渉によって平和を保つ世界の実現という著者の描く理想や未来に、僕は全面的に賛成である。だが、そのためにはさらに議論を詰める必要がある。

 

 

科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか

科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか

  • 作者:池内 了
  • 発売日: 2019/05/25
  • メディア: 単行本
 

 

論文レビュー (菊池論文 その4)

菊池慶彦「第一次大戦期の世界電球市場と日本の電球産業」『経済学』(東北大学研究年報)第75巻、3,4号 (2017年)、93-121頁。

 ↓以下よりDL可

https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&ved=2ahUKEwjMrp-3lMfnAhWPw4sBHYxRAi4QFjAAegQIARAB&url=https%3A%2F%2Ftohoku.repo.nii.ac.jp%2Findex.php%3Faction%3Dpages_view_main%26active_action%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D126240%26item_no%3D1%26attribute_id%3D18%26file_no%3D1%26page_id%3D33%26block_id%3D38&usg=AOvVaw0JuDchuMv0n_egpRa3yMy-

 

 

 「タングステン電球の普及と東京電気の製品戦略」に引き続いて、博論の第4章に相当する論文。東京電気の電球産業の海外進出に関して先行研究では多くのことが研究されてきたものの、大戦期における欧米企業との関係や日本企業が電球の輸出・海外生産をどのように開始したのかは十分に明らかにされてこなかったと述べた上で、本稿では、日本の電球産業の海外進出と、大戦期の世界市場との関連が論じられる。 

 

 

1903年アメリカのGEとドイツのAEGは特許交換・市場分割協定が結ばれており、この結果、日本は中立市場とされた。GEは1905年東京電気、1909年に芝浦製作所とそれぞれ資本・技術提携を結んだ。技術面では、1904年のGEM球、1910年の引線タングステン、1913年のガス入り電球と革新が起こり、高性能な電球が開発されていた。GEでは、Mazdaという商標用い、引線タングステン電球をMazdaB、ガス入り電球をMazdaCとして販売した。一方の日本では、日露戦争から第一次世界大戦期までに、電球の生産高は輸入高を上回った。またGEと提携を結んでいた東京電気は1911年にMazdaの商標で高性能電球を販売し始めた。さらに、1914年に東京電気はAEGとも協定を結んでおり、大阪電球・帝国電球・日本電球・東京電球製作所・大崎電気といった企業を傘下に収めた。大戦前、例えば1913年での輸出額は約23万円で、中国を最大の輸出国としていた。だが、この時期中国へはドイツ製品が多く輸出されていた。満州でも日本製品が約2割を占めていたものの、破損が多く、価格も高価だった。

 

 第一次世界大戦が勃発すると、連合国側は同盟国のドイツの特許や海外工場を敵性資産として接収し、輸出は減少することになった。ドイツやオーストリアからの電球の輸出の減少を埋め合わせたのが、アメリカ、オランダ、そして日本だった。(GEとの特許訴訟に敗れたオランダのフィリップスは特にイギリスや南米のアルゼンチンに多く輸出していた。また低燭のガス入り電球もすばやく製品化しており、アルゴンガスの自給体制も整備していた。) 日本の輸出先は依然として中国が最も多く、金属線以外にも炭素電球も輸出品に含まれていたと推測される。なお、数量的にはアメリカへの輸出が最も多く、特に大量消費社会の出現により、クリスマスツリーをはじめとする様々な電化を背景とした需要の増大が電球不足を招いていた。そして、アメリカ国内の電球不足は、塹壕線で必要になるイギリス兵士用の懐中電灯などの注文が日本に回されることにも繋がっていた。東京電気は工場の拡大に加えて、1913年に化学実験室を設置するなどして、タングステンフィラメントの国産化へ向けて進めた。東京電気のみならず、中小企業も輸出を拡大しており、下請業者を組織し、部品工場と分業し生産を拡大していった。また、中国での日米間の競争は激化した。GEは上海に子会社を設立する一方、東京電気も同年支那興業株式会社を設立し、電気事業の経営と資金調達を企図した。 第一次世界大戦後は日本の輸出は減少に転じたものの、大戦を契機に電球産業が海外市場の開拓を強化したことは大きな変化だった。

 

 

論文レビュー (菊池論文 その3 )

菊池慶彦「タングステン電球の普及と東京電気の製品戦略」『経営史学』第48巻、第2号(2013年)、27-52頁。

 

以下よりDL可。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/bhsj/48/2/48_2_27/_pdf

 

 本論文は、同じ著者による論文「日露戦後の電球産業の成長」に続く内容で、GEと技術提携を結んだ東京電気のタングステン電球の販売が開始される1911年以降の電球産業の状況が詳述される。(博論『日本における電球産業の形成と発展』(東北大学、2013年) 第3章に相当。) 産業史研究において、技術進歩と産業発展の関係、そしてこれに関連する経済主体の行動を検討することは主要な課題の一つである。しかし、従来のGEと東京電気の連携関係とその変遷を扱ったいくつかある先行研究の中で、タングステン電球の普及過程における電力業と電球産業との関連は明らかにしたものはまだないと述べられた上で、本稿では、(1)タングステン電球の普及と電灯・電球市場の成長の関わり、(2)東京電気の製造・販売の方法が中心に論じられる。

 

 

1910年、GEの企業内研究所のWilliam Coolidgeが開発した引線タングステン電球は、それまでの炭素電球に比べて、能率が3倍、寿命が2倍に高められた高性能の新製品だった。ところで、電球の能率というのは、W/燭光、W/ルーメンで表現される単位である(日本では当初前者が用いられていた)。そして高能率な電球は、1燭光あたりの消費電力が小さい電球のことを指す。さらに、電球はその能率と寿命がトレードオフの関係にあるという性質を持つ。これを簡単に図示すると以下のようになるはずである。

 

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   東京電気はタングステン電球を「マツダランプ」という商標を与え、早くも1911年に引線タングステン電球を販売している。

 東京電気などの電球メーカーにとっての大口需要家は、主に電気事業者だった。電気事業者とは電球需要者との間にあり、需要者の電球の維持や管理を担う。そして電気事業者と需要家との間では主に定額燭光制という料金方式で契約されていた。これは、燭光ごとの定額料金で契約し、その電球を需要家に提供するという方式だった。東京電気がタングステン電球の普及を図る際、まず、電気事業者との取引関係を構築することが重要になる。なぜなら、電気事業者からは電球の高能率化によって料金の値下げ圧力が高まる可能性があるし、長寿命であっても無論、調達費の点で事業者側が不利になることもありうるからだ。

 日露戦争後、電力の需要の増加を受け、中小の電気事業者の数が増えた。タングステン電球の導入は、まずこうした中小事業者から始まった。その理由は、第一に新規参入である中小の電気事業者は炭素電球時代からの取引が継続している場合は少なく、料金値下げの圧力が大企業に比べて小さかったことが考えられる。第二に、比較的規模が小さいこれらの会社では、小さな電力で多数の需要家に答える必要があったため、高性能の電球の普及が早く進んだと考えられるのである。もっとも、これらの流通は漸進的に生じた。電球メーカーにとってなによりも重要なのは、販売戦略だった。

 

  • 東京電気の販売戦略

東京電気は1914年に、新型電気の有用性や電気事業者の導入状況や勧誘方法などの情報の普及を図るべく、『マツダ新報』という新たな機関紙の発行を開始する。主な戦略は、定額制から従量制への移行と、定額燭光制から定額ワット制への移行だった。

このあたりもややこしいので、図示すると以下のようになる。

 

 

定額

従量

燭光

燭光ごとの定額料金で契約。

電気の使用料に応じて料金が計算される。

ワット

消費電力で契約、電球は消費者が選ぶ。(高能率の電球を選ぶのが合理的。)

 

  上記の図のように、ワット制と従量制は、タングステン電球などの高能率の電球に仕向けることができる。なぜなら、同じ消費電力であれば、高能率な電球を使って高燭光の明かりをつけようと判断するのが、消費者としての合理的な判断であるからだ。しかし、これらの戦略はうまくいかなかった。その理由は、まず、従量制に関しては、この制度は事業者にとって需要者に電力の節約を促してしまうと懸念されたからである。従量制は定額制とは異なり、あらかじめ決められた燭光なり電力なりの範囲内で使用する必要はなく、使用に上限がない分、電力そのものの需要が低迷する可能性があった。一方定額制の方でワットはなく、燭光が普及し続けた理由としては、電球の選択権が、必ずしも技術的な知識を持たない消費者の手に譲られることで電球そのものの改良や進歩を阻害すると考えられたことや、電気事業者にとって低品質な電球を使用することはサービス改善の点で問題があったことなどが考えられる。第一次世界大戦期においては、電灯以外にも、電動機の方で電気の需要が高まっていたから、そもそも高性能の電球が望まれる市場条件が整っていたともいえる。全般的にみて、電力事業者は、定額ワット制にシフトするのではなく、むしろ定額燭光制を維持してその中でタングステン電球を導入することで、消費電力あたりの料金を下げ、電球の高能率化という革新効果の大部分を内部化したのであった。したがって、製品仕様についても、アメリカではある程度のところで寿命は固定され、能率重視の方向へ進んだのに対し、日本ではアメリカよりも低能率・長寿命の仕様が標準となっていた。

 1917年には全国金属線化率は94%に達し、炭素電球からの転換はほぼ完了した。

 

 

論文レビュー (菊池論文 その2)

 菊池慶彦「日露戦後の電球産業の成長」『経営史学』第47巻第2号(2012年)、3-29頁。

 ↓以下からDL可。

www.jstage.jst.go.jp

 本論文では、前著「日本における電球産業の形成」(2007年)で扱われなかった1907年以降の電球産業の様子が描かれる。ポイントは、(1)GEと東京電気との技術資本提携とそのインパクト、(2)1907年の長距離高電圧送電事業の本格化を背景とした関連企業の形成、(3)タングスタンフィラメントという技術革新とその導入、などが挙げられる。

 

1905年、GEと東京電気との間に資本・技術提携が結ばれたことにより、GEは同社の株式の51%を取得し、GEの子会社として存続・成長を図ることになる。GEと提携を結んだことで、電球の量産能力を強化させることに成功した。具体的には、茎製造機械(フィラメントを設置する茎=ステムを製造するため、ガラス管を加熱し、導入線と支持線を密閉する機械)、封入機械、頭継機械、排気機械等が導入された。さらに、ガラス製造については深川硝子工場を新設し、内製化した。1907年には口金組み立て機械と炭素フィラメント制作機もGEから購入していた。特に、フィラメントの量産は技術的な壁だったため、この機械の導入により量産体制が大きく改善されたと推測できる。電灯会社との大口の取引においては、定額燭光性が主要な形態であったから、GEとの提携の締結後も、長寿命使用の電球を製造し続けた。1907年にはGE代理店のバグナル社とも販売契約を結んでおり、販売販路の拡大も円滑に進められた。実際、1907年以降、深刻だった在庫問題を解消させ、東京電気は高収益と結びつくように発展していった。

 

  • 中小メーカーの拡大

1907年東京電燈駒橋発電所が運営を開始するなど、長距離電送事業が始まるとともに、電球の需要は激増し、第一次世界大戦期までに、中小メーカーや関連企業が現れ始めた。1902年には錦商会が設立され、1907年に大阪電灯が買収し、大阪電球株式会社が創業した。また、1903年には電光舎を創業し、1909年に帝国電球株式会社に改組設立された。さらに、1905-06年に日本電球製作所、1908年に東京電球製作所、1911年に江東電球合資会社が設立された。こうして1908年以降は、東京電気以外の企業が国内市場の約4割を占めるようになった。これらも東京電気と同様に、大口需要家との取引を背景とした、市場条件にあった低能率・高寿命の電球を製造した。なお、錦商会の創業者である難波守はもと白熱舎の職工で、電光舎の創業者である川勝倉之助は東京電気の技術者であり、新しい中小メーカーは既存の企業のから移動した技術者や職工らによって組織されていた点は注目される。

 

 GEは1900年に企業内研究所を新設し多くの科学者を雇用した。同研究所の所長のホイットニーは、1904年に金属化炭素フィラメント電球(GEM電球)を開発した。1910年にクーリッジは綿密な温度管理のもと、延性タングステン線を製造することに成功し、1911年には引線タングステン電球を発売した。(タングステンは融点が約3380℃と当時はもっとも高く、能率は発光体の温度によって上昇することから、この新素材のフィラメントは高能率の電球にとって最適な素材だった。) 技術提携を結んでいた東京電気は、1911年には早速、引線タングステン電球を発売している。その後、GEと東京電気は市場再編に着手し、様々な経過を経たあと、結局、1912年に大阪電球が東京電気の子会社となった。日露戦争後の1914年までは、「GE-東京電気-大阪電球」の主要メーカーに、中小メーカーが加わるという産業構造になっていた。

Kenneth D. Aiello, Michael Simeone “ Triangulation of History Using Textual Data” ISIS, volume 110,No3 (2019) ,pp522-537.

 

 

 アメリ科学史学会が発行しているジャーナルIsisの特集である”Focus”に掲載された論文。2019年第3号では、” Computational History and Philosophy of Science”と題された特集号が組まれた。本稿では、ビッグデータへの関心の高まりを背景にしつつ、近年利用可能になった大規模なアーカイブにおける資料をテクスト分析する手法と、その実践例が示される。ここでの焦点は、コンピュータによる分析に全面的に依存するのではなく、歴史家も加わった複数の定量的・定性的アプローチを組み合わせることで、対象を多角的に分析する手法(Triangulation)である。

https://www.journals.uchicago.edu/toc/isis/2019/110/3

からダウンロード可

 

 

 1 テクスト分析

  • コンピュータによるテクスト分析は、過去の出来事の社会的、言語的、歴史的文脈に洞察を与える。
  • テクスト分析は歴史研究において特に重要である。

言語や語彙の使われ方は、過去のある時期の間の社会的な状況や、集団のやりとりの仕方、さらには言語と文化の間の相互作用に対し洞察を与える。

Ex ・異なった集団間における言葉の使用を観察することで、社会的変化がどのような言語的帰結をもたらしたのかということを示す研究

・どのような集団が作られ、社会的カテゴリーを強化したかを示すことで、時間と共に集団のダイナミックな変化に証拠を提示する研究

  • ビッグデータ(=データ分析、機械学習、大規模なデータベース)」は、新しいデータや資源を過剰に生み出し、歴史家や科学者の研究に挑戦や新しい手段をもたらしている。

大規模な文書アーカイブの調査になると、歴史家が本質的な役割を果たす。

言葉の文脈や意味、文書のより大局的なパターンの重要性は、コンピュータによって解決できない。

オープンアクセスの多くのコレクション

→今までにない深さと広さで、過去を分析し記録する機会を歴史家に与えている。

  • テクスト分析のもっともやりがいのある部分=トライアンギュレーション

:データ分析の結果(定量的)と歴史記述の方法から得た解釈と専門分野の知識(定性的)とを統合する。

本稿では、データを用いた分析、テクスト分析、その結果の解釈に関するいくつかのアプローチを概観したのち、人間のmicrobiomeに関する近年の科学の出現を扱う代表的な研究例を述べる。

   

 

 2 データの収集とデータクリーニング

  • テクスト分析では、使いやすい状態にし(クリーニング)、整理する(キュレーション)方法がとても重要。

:データをあるソースから別のソースへと移行させる場合(例えばwindows OSからMac OSへ移行するといったように)、空欄の削除、画像や英語でない言語などのせいによる言葉の不適切な結びつき、イタリック体、スペースのある言葉などにより、テクストデータにエラーが生じることがある。

→これらは、テクストサンプルを読むことや、体系的にデータを収集することなどによって防止することができるが、本稿では詳細には踏み込まない。

 

 

3 テクスト分析の応用

  • テクスト分析は、言葉、(二語や三語といった)言葉のつながり、フレーズ、言説、意味や意味論や意図に直接関係した文書の全体の傾向を見ることができる。

→意味内容の変化を特し分析することで、歴史家は言葉、概念、言語、知識に関連した問いを立てることができる。

  • テクスト分析を実行できるからといって、必ずしもそれをすべきだというわけではない。

→単一の資料に依拠しており、言語の使用に関心がなく、一次データ(文書資料そのもの)を分析単位としている場合、テクスト分析の手法は適さない。

⇄まとまったテクストデータを持っており、各々の資料を読むことなくある洞察を得たいという場合には、テクスト分析は意味を持つ。

 

 

4 ケーススタディ:microbiome の文書集積

  • コンピュータによるテクスト分析の力を示すべく、以下の節では、microbiomeに関する科学論文の分析の方法と結果に焦点を当てる。
  • microbiomeという言葉を掲載した論文をPDFとして以下のサイトからダウンロードする。
  • 重複を取り除き、クリーニングをし、手作業でキュレーションを施したのち

→27977のテクストファイルを得る。(2001-2010)=MB corpusとする。

 

 

 

     5 言語における意味の変化

  • 以下では、microbiomeの研究の言説の中での概念的な変化の推測をおこなうため、(1) 頻度分析、(2) 用語索引、(3) キーワード(分析)という、三つのコンピュータを活用したテクスト分析の手法を披露する。≠機械学習

機械学習(教師なし学習):あらかじめ定義されたカテゴリーがない事物の集合をまとめるといった、変数間や対象間における未知なる関係を理解しようとする場合には部分的には有効。(ex 未知の言葉の集団を発見したり、基本的な統計分析を通じては見えないテクストの特性を発見するためには有益)

⇄ここでの関心=テクストの特徴を理解するために、定性的なものと定量的なものと人間の洞察とを組み合わせること。

歴史家=専門知や知識、言語仕様の歴史的な文脈についての気づきを与える存在意義をもつ。(定性的)

  • microbiomeの概念に関連した知識を調べる。

∵Microbiomeの意味の歴史的発展について不明な点が存在する。

:microbiomeという概念が複数のmicrobiomeの概念(コアなmicrobiome、人間のmicrobiome、生態的microbiomeなど)を包含するものであるという可能性を含んでいる。

→microbiomeの解釈やmicrobiomeとともに用いられる核となる他の概念についての合意やコンセンサスはまだない。

 

 

 6 Microbiomeの文書のテクスト分析

  • テクスト内の言葉や複数の言葉のつながりの頻度の分析=基礎的な手法

:文書集積内で用いられている言語に情報を提供し、個人や社会集団、制度や言説などを比較するための基礎となる。

どんな特定の言葉が、いつ、どのくらいの頻度で用いされているかを理解することは、社会や時間的な次元をまたぐ言語や知識の変化に洞察を与える。

  • 社会的な特徴や時間分割といったすでに定義された興味関心のカテゴリーに従って、文書集積を分類することが便利。

→今回は時間によって分割し、頻度分析を行う。

→2001年から2010年までのMB文書集積の言葉のトップ10は、もっとも頻度の高い用語は、「機能語」(助詞、前置詞、助動詞など)であった。

これらの言葉は、調査に洞察を与え難いという意味で、内容語に比べて重要度が低い。

→「ストップリスト」=重要ではないとされる言葉のリストを使う。

 

 

 

 7 ストップワードを取り除いた後での言語頻度分析

  • ストップワードを取り除いた後で、文書集積における2001年から2010年までの各年の言語頻度のトップ10を比較は、時間に沿ってトップ10で使用頻度の高い言葉がどのように変遷したかを示し、研究者集団でのmicrobiomeの言説の移り変わりを示唆する。
  • bacteria、microbes、microbiotaのような言葉は、時間の流れの中でも高い頻度で使用され続けている。

→microbiomeは生物学や微生物学の影響を受けた概念である。

  • 文書集積の初期の段階では、昆虫やネズミといった異なった動物の範囲で高い頻度を示し、その後、人間とともに使われるようにシフトしてきたということを示している。

→microbiome は生態学的概念なのか、人間に特有の概念なのか?という問いに示唆を与える。

  • Cell やcellsといった言葉が2010年のトップ10に入っており、かつ他の年ではこれらの言葉はトップテン入りしていない。

→2010年が分岐点

  • geneという言葉が2006年と2007年に最も多く使用されており、それ以前にはほとんど現れていない。

←これらの結果は、分析単位、分析射程、研究者集団の研究の焦点に帰属させられる。

→microbiomeという言葉のありうる解釈の幅、それに関連した重要な概念の変動をほのめかしている。

 

 

8 「人間」の用語索引

  • MB文書集積において最も頻繁に使用された概念の一つをより深く理解するために、我々は「人間」という言葉がどのように利用されていたのかを調査する。

→用語索引分析は、テクスト内での「人間」という言葉の全ての出現とともに、その言葉が埋め込まれている文についての表を生み出す。

→人間に関連した物事を記述するために形容詞として最も多く利用されているということがわかる。

特に、「人間」と人体の胃腸のシステムの部分との関係を強調しているということもわかった。

ある種の言葉の不規則な揺らぎなのか、それとも、概念の全体の変化の一部なのか

 

 

 9 キーワード分析:語彙の重要性

  • キーワード分析:異なった文書集積間での相対的な言葉の使用頻度を比較することによって、言葉がどちらの方でしばしば用いられているかを明らかにする。

キーワード=2つの文書集積を比較したことによって見出された言葉の統計的な重要性のことである。

=、ある一つの集積における言葉の発生の回数や頻度は、その同じ語が別の集積で発生する頻度と比較される。

準拠集団と興味関心の集積(?) corpus of interest

→他の集合に比べてその集合でより頻繁に用いられる言葉(ポジティブワード)と、他の集合に比べてその集合であまり用いられない言葉(ネガティブワード)を明らかにする。

≒A 準拠集団(reference corpus)=統制群であり、B 比較集団(corpus of interest)=実験群

統制群=独立変数の操作を受けない集団

実験群=〃       受ける集団

       A=統制群として、geneという言葉がもっとも頻繁に使用されていた2006-2007年のテクスト集合とする。

       B=実験群として、humanという言葉がもっとも頻繁に使用された2008-2020年のテクスト集合とする。

    (Aを基準として、Bにおける使用頻度の高いと統計的に判断された言葉を表す??)

    →「女性」という言葉は、2006-2007年と比較した時、2008-2010年の集積においては患者/集団のキーワードとしてカテゴリー化されているということがわかった。

    →「女性」という言葉は、2008-2010年の集合では1441回登場するのに対し、2006-2007年の集合では、13回しか登場しない。そして、女性という言葉は2008-2010年間の文書全体の18%に相当する138のテクストの中で見出された。(頻度分析?)

      →女性という言葉は異なったテクストで複数回用いられており、ランダムなパターンでもなく、単発的な例でもない。

  • 索引分析の結果は、さらに、女性という言葉の実際の使用は、患者/集合の結論を支持するということを確かなものにした。(患者を指し示す文脈で使用されている。)
  • 頻度分析リストの結果から得られるキーワードの結果と索引分析とを組み合わせることで、microbiomeの言説の核心点における重要な差異を際立たせるような言葉の使用の変化を示すのである。
  • キーワード分析に対する批判
  • 標準化された分岐点などは存在しないということ
  • 一般的に比較的規模の大きい文書集積は、小さいそれに比べてより多くのキーワードを生み出すということ
  • キーワード分析の結果は、統計分析、集積の規模、参照集積によって異なる。
  • キーワードは相互に排他的ではなく、ある一つの集合におけるキーワードは、比較対象としての集合の中におけるキーワードであることを発見することもある。

⇄妥当性と解釈と結果を手助けする証拠を与えるために、多くの研究はキーワード分析と詳細な読解と索引とを組み合わせているわけである。

 

 

10 結論

  • 頻度・索引・キーワードの分析は、MB文書集積におけるテクスト的な頻度と歴史、および、言葉の意味を多面的に推測するために用いられた。
  • 方法を組み合わせることは、

(1)言葉の変動やmicrobiomeの概念の変化を特定するために、

(2)「人間」という言葉の意味やその使用に対してあり得そうな解釈を示唆するために、

(3)キーワードの使われ方を特徴付けるために、

(4)言語的なパターンを特定することを手助けするために

用いられた。

  • 複雑な現象を複数のアプローチを組み合わせて多角的に分析すること(トライアンギュレーション)は、テクスト分析の研究におけるよくある脈略である。公式的な方法がないので、量的/質的なデータを組み合わせることを可能にし、そしてそれは歴史的探求にとく適している。

⇄本稿では十分に扱われていないが、これらのデータ分析の方法と、歴史家らによる読解とが結び付けられることで、より深い洞察が得られる。

  • 専門家によって支持された解釈なしでは、未だこれらの結果を参照する枠組みはないままである。

:テクスト分析結果を参照するための枠組みや文脈、結果を支持する証拠を提示する点において、歴史家の果たす役割は重要なのである。

データは理論から独立していると主張する人は、得られたあらゆるデータは情報を集める技術によって解釈され形成されたものであるという事実と、そのデータを提供しているプラットホーム、それらを組織するために使われるデータの存在論を無視している。

 

 

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ISIS Volume 110, Number 3 | September 2019