yokoken001’s diary

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ダーウィンルーム読書会を終えて (2022年、4月13日)

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫、2016年)の読書会をダーウィンルームでオンライン開催し、縁があってこの読書会のキュレーターを務めさせていただいた。ホストや親切なスタッフの方々の支援もあり、無事終了することができた。ここ最近は研究書ばかり読んでいたので、本書を読み、読書会に参加したのは非常に新鮮な心地がした。記憶の新しいうちに会を終えての感想を書いておきたい。

https://darwinroom-dokushokai20220413.peatix.com/view

 

  本書は独ソ戦に動員された500名の女性の証言をまとめた「オーラルヒストリー」であり、衛生係、砲兵、外科医、看護師、通信兵、洗濯係など、数多くの役職にいながら戦争を体験した人々の声を書き留めている。この「多声性」とはいったい何なのか?まずはこの点について新しい理解を得られたと思う。

  日本にとってのアジア・太平洋戦争の主な主戦場は本土ではなく、外地だった。それゆえ、日本人市民(あるいは女性)にとっての戦争体験といえば空襲や原爆投下などの印象が強く、ある意味「被害者」としての記憶がよく残されているような気がする。

  それに対して、本書では被害者だけではなくむしろ戦地で戦った加害者としての証言も含めた多くの目線からの記憶が記されている。戦場においては、これだけ多くの役職があったのかと圧倒される。言い換えれば、「被害者」としての銃後の視線という戦争のごく一側面だけを切り取ったものではなく、さまざまな立場で戦争に関わった人々の証言を拾うことで、戦争の全体的な「構造」を浮き彫りにしている。それこそが、「多声性」という言葉の真の意味なのかもしれない。

 もちろん、それが可能であったのは、著者があくまで生活者の視線に寄り添って、戦争を体験した女性から声を引き出したからに他ならない。この証言をevokeする力の背後には、話し手と聞き手の間の真の信頼関係があったに違いない。重要な証言は、ごく一瞬に訪れるものである。その一瞬を掴むというのは並大抵のことではない。

 

 そしてもう一つ重要なのは、実は本書に拾われなかった声があるかもしれないという点である。それは、(1)著者によって捨象されたもの、(2)話し手が言葉にできなかったものがある。特に(2)の意味は大きい。

 人が過去を語るとはどういうことなのか?そこには何かしらの「知識」によって脚色されたストーリーが介入しているのかもしれない。逆になんら脚色されていない生の記憶というのを我々は滔々と理路整然と証言することなどできるのだろうか?

 本書は読みにくいという感想が複数回出た。それは、もしかするとこの「語れなさ」に由来する部分もあるのかもしれない。

 

 最後には、日本が戦争をするとなったら、もしかすると多くの人々が進んで戦争に参加してしまうような、日本独特の危うさがあるのではないかという話になった。世界中、電車に乗っているほとんど全ての国民がマスクをしているのは珍しいらしい。「自粛警察」といった現象も含めて、この「個人」という「調和」をみたいな民族性は、戦争となれば一挙に団結することの裏返しなのではないかといった話だ。

 

 元来、この読書会の狙いは、「戦争はよくない」といったこの本を読む前からわかりきっている事実を確認するだけの会にならない、戦争に対するそれ以上の理解を得るという点にあった。そしてその目標はおおよそ達成できたように思う。リアルな証言にちゃんと向き合うことで、人間や戦争の複雑さに思いをはせることができたように思う。

 

最後になりましたが、参加していただいた方々、ダーウィンルームのスタッフの方々、本当にお世話になりました。

 

明日から本腰を入れて、論文完成に向けてとぼとぼとがんばります。