yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

『津田梅子 – 科学への道、大学の夢』(2022年) 書評・感想

古川安『津田梅子 – 科学への道、大学の夢』(東京大学出版会、2022年)

 

 津田梅子といえば、日本の女子教育の発展を牽引した人物、あるいは現在の津田塾大学創始者といったイメージが定着しているように思うが、本書は科学史家の手によって生物学者という津田梅子のもう一つの側面を描き出す試みである。津田梅子という女性を主人公としているため、当然、「科学とジェンダー」という視点から取り扱うことが不可欠になる。本書はジェンダー研究における理論を適用することは意図しないとしつつも、「科学教育・研究に関わるジェンダー的問題を剔出し」、「明治時代を駆け抜けた一女性がアメリカで自然科学と出会い、それがその女性のその後の人生にどのような意味をもったか、どのような葛藤や確執があり、そのような創造へと繋がったのかに焦点を当て」るとされる。

 第一章では、梅子の生い立ちと父との関わりを検討した上で、彼女が最初のアメリカ留学から二度目の留学へ向かうまでの過程が辿られる。梅子の父である津田仙は、農学者にして教育学者で、当時の日本でも最も西洋科学や思想に精通している人物の一人であった。例えば、津田縄による媒助法を提唱する際には、チャールズダーウィンの最新の理論を下敷きにしていた。ところで明治政府は明治四年、岩倉具視使節団に便乗する女子留学生の募集が行われた。その留学プログラムは、10年に渡って「アメリカ家庭生活の体得」を目指すもの、言い換えれば、19Cの白人中産階級の女性規範であった「家庭性」のイデオロギーを植え付け、彼女らを通じて日本に模範的な「賢母」を導入することを目的としていた。無論、その背景には、富国強兵という明治政府のスローガンがあった。梅子は父の激励によってこの女子留学生に推され、山川捨松らとともに5人のメンバーに選出される。ここで興味深いのは、梅子は上記のような留学目的を必ずしも額面通りに受け取らなかったという点である。すなわち、梅子は「良妻賢母」といった日本婦女の模範になることよりも、自らが教師になって日本女子の教育に尽力することを使命と考えていた。従って、帰国3年後に、華族女学校に英語教師として就職した。しかし、彼女は大学を出ていないという後ろめたさもあり、次第にアメリカに再度留学する希望を抱くようになる。さらに重要なことは、梅子が単なる英語教師として満足することはできず、「何か専門の研究をして見たい」、「持って生まれた天分を伸ばして見たい」、そうすれば「魂をうちこむ仕事も見つかるであろう」と考えるようになっていたことである。

 第二章では、このようにしてブリンマー大学に二度目のアメリカ留学へ向かった梅子が、現地で何を経験したのかが述べられる。当時は「第一波フェミニズム」の先頭に立っていたケアリー・トーマスのもとで、ブリンマー大学には従来の「良妻賢母」的女性を育成しようとする女子大学のポリシーとは一線を画する風潮があった。そして女性にも男性と同じような研究ができるという確信のもと、研究者養成教育が重視された。さらに、重要な点は、当時のブリンマー大学生物学科が、勃興したばかり実験発生学の一つの牙城になっていたということである。梅子はそもそも留学の表向きの目的が「英語教授法」の習得であったように、専攻を「英語と歴史学」と暫定的に登録したものの、梅子の自然科学への関心・資質、ブリンマー大学での生物学教育の充実ぶり、トマスの推薦などを背景に、実質的には量・質ともの生物学を専門とするようなカリキュラムを消化するようになっていた。

 第三章では留学生活の後半、帰国後の梅子と生物学のかかわりなどが検討される。ブリンマー大学での後半は、後にノーベル賞を受賞するトマス・モーガンの指導下で、アマガエルの卵を材料にする実験発生学的研究を行った。その成果は、1894年にモーガンと共著で論文として発表されたが、それは日本人女性が外国の学術誌に投稿した自然科学系論文としては初めてのものだった。梅子には、このまま正規学部生として卒業し、大学院進学を果たし、生物学者として活躍できる道が開かれていた。にもかかわらず、梅子は日本へ帰国する決断をした。国の税金で計14年間も留学されてもらった(しかも1年間の延長も認めてもらっていた)上で、米国に残り好きな学問を続けることは、個人主義的な行為を許さないという彼女モラルが認めなかったのである。そして、帰国後に梅子は東大の箕作佳吉やモーガンと個人的な研究交流をおこなうものの、日本で生物学者になることはほぼ不可能だった。当時の日本は、制度的にも内容的にも生物学の導入にようやく動き出していた時期であり、欧米の学問的状況とは隔世の感があったことに加え、当時の帝国大学は事実上男子校であり、女性が科学者として生きる選択肢はなかったからである(東北帝大が初めて女子学生の入学を認めたのは1913年である)。

 第四章では、梅子が設立した女子英学塾に目が転じられる。明治以来の日本の教育制度の根底には、女性には高等な(高尚な)学問は不必要であるという、「女子高等教育不要論」が存在していた。女子が高等教育を受けることで、晩婚化が進展し、人口減少を引き起こし、国益を損ねるといった「有害論」さえ展開されていた。さらに、女子教育を推進する人々の間でも、「母性」をより発揮させるために人間形成・婦徳形成を目指すといったものが多く、女性の人格を認めるものはほとんどなかった。それに対し、トマスのもとで学んだ梅子には、科学(学問)は男性のものといった通念を打破すべきといった認識があった。1903年に新設した女子英学塾では、カリキュラムこそ英語が主体であったが、英語以外の幅広い教養を身につけることの重要性が説かれた。ただし、梅子は女性の社会的地位向上をめざしつつも、近代化政策の一員として育てられてきた人=天皇国家や階級社会に疑念をもつことはないエリートであり、社会運動家の山川菊江らの世代とは価値観の違いも見られた。とはいえ、最晩年は山川と親しく近所付き合いをする仲だった。1929年、梅子は満64歳でこの世を去った。

 第五章では、梅子の後継者ともいうべき、星野あいらの活動に焦点を当て、梅子の夢であった大学への昇格が実現する過程が(戦時下などの時代状況との関係も含めて)論じられる。星野あいも、梅子と同様ブリンマー大学へ留学し、生物学と化学を専攻した。そして、このときの経験が、のちの理科創設につながる原点となった。女子専門学校の大学昇格は何度も反対に遭い実現することはなかったが、思わぬ形で状況が一変した。それが太平洋戦争の勃発であった。1943年には男性が出兵したことによる科学者不足を背景に「教育ニ関スル戦時非常事態措置方策」が閣議決定され、女子専門学校における科学教育が一気に推進された。津田英学塾の場合は、さらにもう一つの要因があった。それは、敵性語である英語教育が傍流に追いやられ、在籍学生の減少に歯止めがきかなくなっていたという事情である。こうして数学科と物理化学科からなる理科増設が1943年に認可され、同年4月より授業が開始した。ここでは、科学史家としての著名な桑木或雄が主任を務めるなど、科学史に関わる人脈も関係していた。戦後になると星野らの主導で大学昇格運動が推進され、1948年ついに英学塾は津田塾大学へと昇格した。ここに、津田梅子の「大学への夢」が実現されることになった。

 エピローグでは、梅子がもし生物学者への道を選んでいたとしたらといった想像や、「科学とジェンダー」全般について俯瞰的な議論が展開される。もし梅子が日本に帰国した後、生物学者としてのキャリアを築いていたら、何らかの研究成果を出していたかもしれない。しかし、そうならなかったのは、初期の女子高等教育機関はあくまで教育の場であり、研究の場でなかく、研究を行うためには、外部機関に依存しなければならなかったからである。研究者になるためには、メンターが存在し、母校への教員ポストへ着任し、新たなロールモデルが出現するといった循環が生じる必要がある。こうした構造ができるのは、20Cに入って以降であった。それに対して、梅子よりやや年下の丹下ウメには、3人のメンター(長井長義、真島利行、鈴木梅太郎)がいて、かつ、日本女子学校、東北帝大、理研という活動の場所があった。このことは1890sと1920sではインフラ環境が大きく異なっており、科学者という地位は個人の能力・才能だけではなく、「社会的に構築される」ことを示す例である。無論、彼女らは当時のジェンダー観に反して、積極的な努力の積み重ねによって地道に制度を変革してきた。筆者は、津田梅子は英語を通じて欧米の思想や科学にも目を開かせる、そして日本におけるジェンダー格差の大きさ、障壁の大きさにも目覚めさせることにもつながるといった信念を持って英語教師の道を選んだのではないかと推察する。そして、星野らが梅子の残した遺産を引き継ぎ、戦後に「真」の女子大学設立を果たした。梅子の評価はこうした後世に与えた影響を含めた上でなされるべきだとして本書は締め括られる。

 本書を読んで感じたことは、津田梅子という一人の女性は、本来「科学者」になるはずの存在だったにもかかわらず、当時の明治以来の社会制度や通念によって、そうはならなかったという事実である。筆者がエピローグで述べているように、科学者は「社会的に構築される」のであり、我々が津田梅子=科学者として認知してこなかった根底には、ジェンダーの歴史があったということを再認識される。本書はジェンダー理論を意識的に適用することなないとしつつも、淡々とした筆致で「科学とジェンダー」の問題へと思索を誘う。

 最も意味深だったのは、モーガンが「彼女〔梅子〕があのような業績をあげ名声を勝ち得たのは、生物学と完全に縁を切ったからだ」と断言したエピソードである。これは一種の皮肉であるが、皮肉として通用するには、ジェンダーバイヤスが存在している現実がなければ無理であるのはいうまでもない。モーガン自身は、梅子の才能を認め、共著論文まで書いたノーベル賞を受賞する科学者であった。彼が、まるで100年先から達観したようにこう断言をしているところには、色々と考えさせられるものがあった。