小川原正道「大正・昭和初期における海軍士官の米国留学 – 山本五十六、山口多聞、伊藤整一を中心に」『法学研究』94(8) (2021年)
ここからDL可。
- はじめに
- 1919-29年にかけて、太平洋戦争の際に日本海軍を率いることになる3名の海軍士官が米国駐在を命じられ、米国の名門大学に留学した。
- 米国・英国への留学は、日本海軍における重要な出世コースとなっていた。「海外駐在および留学は、小荘士官に見聞を広める機会を与えるとともに、将来の外交戦に備えて有力な戦士を養成することを目的として」いた。
(ただし、米国は帝国国防方針(1907年)でロシアに次ぐ仮想帝国とされていた。)
- 海軍士官の米国留学は、明治期については知られているが、大正・昭和初期において海軍士官の留学の軌跡を追った研究は皆無である。
→3人は大学で何を学び、現地で何を見聞し、吸収し、帰国したのか?日米双方の資料に依拠して検討する。
- 山本は、1919年4月5日に米国駐在を命じられ、1919-20年にかけてハーバード大学に留学した。このとき35歳。なお、1920年12月に永野修身(のちの軍令部総長)が「駐在日本大使館付海軍武官」を命じられ、山本の上司となっている。
- 1919年4/28に決済され、5/20に出発、ワシントンDC(6/9)→ボストン(6/14)。
- 1919年9月~1920年2月までの五ヶ月間、ハーバード大学へ「特別学生」として在籍。
- 山本自身は、「英語のみを向上させなければなりません」と書いている。イングリッシュEというコース(外国人学生に向けた英語の特別指導を行うコース)を履修していた。しかし、レポートの評価は「C+」であり、苦労していたことが伺える。
- 学外では、カリフォルニアやテキサスの石油産地や製油所などを視察し、関連文献や新聞を読み込んでいた。メキシコの油田の視察にも出かけ、航空機にも強い関心を持って研究と現地視察を試みた。
☜永野の前に、駐在武官であった上田良武の指導に由来。(上田は永野と交代して帰国した後も、海軍の航空畑を歩み続ける。)
- 1920年7/19に帰国。1925年12月に「駐米日本 大使館付 海軍武官」を命じられ、再度渡米。上田によって航空機に開眼した山本は、駐在武官という同じ立場に立ったときに、後進である三和に対して、航空機研究について指導した。
- 二度の米国駐在を通じて、山本は米国人の国民性・航空技術、石油についての知見を深めていた。
- 1921年2/25に米国駐在を命じられ、海軍大尉で渡米。28歳。米国に到着し、ワシントンDCの日本大使館を訪れると、石油研究に取り組んでいた山本がいた。彼の机には石油関連の文献が山積みになっていたという。
- 1922年1-6月にかけて、プリンストン大学に留学。「アメリカ合衆国史」と「立憲政府」などを履修。また、ワシントン海軍軍縮会議にも裏方として参加。国際的視野を開く。
- 1934年に再度渡米。
- 1927年5/1、海軍少佐で米国駐在を命じられる。36歳。1927年7/10にワシントンの武官事務所へ。このとき山本が、アメリカにおける旅行(現地見聞)の重要性と、旅費捻出のための節約などについて助言。
- イエール大学では、経済学、社会学、米国政治学を履修。また山本の助言通り、各地を視察旅行する。
- むすび
- 3名は約2年間の滞在中、半年~1年ほどの間、大学で学んだり、視察などの情報収集活動に取り組んでいた。また、山本の留学・視察の経験が、山口と伊藤に影響を与えていた。
- どこに留学して何を学ぶか、何を視察して研究するか、といったことは、山本に対する上での指導に見られるように、監督にあたる駐在武官の裁量によるところが大きかった。
- 一方、このときすでに米国は仮想敵国となっており、カリフォルニアにおける日本人移民差別問題、黄褐論の台頭など、日米関係には亀裂が入りつつあった。山本も米国政府からチェックされており、彼らの情報収集活動は困難を伴う側面のあった。
→1930年代、満州事変後は、日米の利害が激しく衝突し、海軍士官の米国留学にも大きな影響がでてくる。(中澤は留学先をスタンフォードへ変更)
- 1900sにおいては、日米は良好な関係にあったが、WW1後、1919-29年にかけては、角逐と衝突の30s、40sに向かっていく狭間にあって、次第に緊張の度を高めていく過渡期でもあった。この時期に米国留学を積んだ海軍士官たちが、その後の日米関係の悪化の中でどのような役割を果たし、対米観を変化させていったのかは今後の課題とする。
議論
・海軍士官による「駐在武官」や留学制度の全体像(何人くらいがどの大学に行っていたのか?留学先国別の武官数はどのように変化していったのか?など)を知りたい。全体像はまだ明らかになっていないのだろうか?
・「駐在武官」というのは、基本的にはワシントンの日本大使館を拠点とし、大学留学や、各地に視察に出かけるといったイメージで良いのか?
・技術系の海軍士官にとっては、「駐在武官」制度はどういった意味を持っていたのだろうか?
・末尾で議論されていたように、日米関係という大きな文脈の中で駐在武官を捉える視点が重要であると感じる。山本は監視下にあったというが、ハーバードなどの大学側は、海軍士官をどういったモチベーションで「特別学生」として受け入れていたのだろうか? (日本側は、アメリカを「仮想敵国」としていた一方、日露戦争後は比較的日米関係が良好だったから?)