出口康夫・大庭弘継編『軍事研究を哲学する – 科学技術とデュアルユース』(昭和堂、2022年)
序章 デュアルユースとELSIに取り組む総合知へむけて
- ことの起こり
- 2015年に防衛装備庁が「安全保障技術研究推進制度」(=非軍事研究機関に資金を提供し、デュアルユース技術(軍民両用技術)の研究を委託する仕組みを)創設した。
→「日本の非軍事研究者や研究機関が、我が国の軍事予算を用いて軍民両用技術の研究を行うべきか?」(=狭義のデュアルユース問題)をめぐって、さまざまな議論が巻き起こった。
⇔その後も同制度は着実に運用され続けている。(ex 2021年度は101億円の予算に対し、91件の応募があり、23件が採択された。)
- 本書のあらまし
- 本書は、同制度の是非、狭義のデュアルユース問題を論じるものではない。
⇔「デュアルユース」や「軍事研究」をめぐるファクトを洗い出し、それらの概念を哲学的に掘り下げることを目指すもの。
- 「ファクト」の論点
- デュアルユースにまつわる国内外の歴史的経緯
- 制度やそれに対する学界の反応、
- 学問とデュアルユース・軍事研究一般との関わり
- 「哲学」の論点
- デュアルユース・軍事研究に対して、概念的な交通整理を行ったり、隠れた論点を摘出する
- 科学技術の倫理
- 科学技術と人間の関わり方
- このように、本書では技術が社会に対して与える正負のさまざまな影響が複雑に絡み合っている状況を見極め、解きほぐす努力を重ねるもの=ELSIへの挑戦
- デュアルユースとは何か
- デュアルユース:同じ一つの事物・事柄(被使用物)が、二つの異なったカテゴリー(デュアルカテゴリー)に属する使用に供される(と予想される)こと。
- 2つの使用は、独立別個(=一方が存在しなくても他方が存在し得る)である。
また、一方は純粋な軍事利用であり、他方は明白な民生利用である。
⇔①シングルユース:一つの使用物に対して、一方のみが対応する。
②ミックスドユース:デュアルカテゴリーにいずれかに明確に振り分けることができない使用。(ex 情報セキュリティなどの「混用的」な使用。)
- ※デュアルユース研究:技術(被使用物)自体がボーダレス化しているが、使用はボーダレス化していない。
⇔ミックスドユース研究:技術も、その使用もボーダレス化している。
※安保研究制度は、技術の軍民区分は前提としていないが、使用の区分は踏まえている。
- 軍事研究の多義性
- 単用的研究―(1)軍事的単用研究
(2)民生的単用研究
両用的研究―(3)プロパーな両用的研究
- 軍事的両用研究
(5)民生的両用研究
- 混用的研究
- デュアルユースの多義性
- デュアルユースの最大公約数的な定義:「同じ一つの被使用物が、二つの異なったカテゴリーに属する使用に供される(供され得る、供されることが予想される)。」
- デュアルユースカテゴリーの曖昧性・恣意性・社会性
- デュアルユースカテゴリーは、時代や地域によっても異なることもあり、「社会的」な区分である。
Ex 散弾銃:殺傷能力などの銃の性能に応じて軍用銃と民生銃を分けるという対応が各国で取られている。
⇔散弾銃の軍民仕様(spec)=使用の線引きは、恣意的で社会相対的である。(量的指標のどこまでを軍事用/民生用とするかは、地域・国によって違う。)
- 社会問題としてのデュアルユース問題
- このように、デュアルユースカテゴリーは一定の社会的慣習・規則・制度によって支えられており、社会的カテゴリーである。=デュアルユースカテゴリーは、社会的意味・価値を担っている。
→両者の社会的価値が不均衡である場合に、デュアルユースが「問題視」されるようになる。
Ex 軍事技術に伴う殺傷や侵襲、情報秘匿といった「社会的意味」が、侵襲性を持たず公開される民生技術と比較して不均衡であるとみなされるために、デュアルユースが問題化する。
- さまざまなデュアルユース問題
- 本書が焦点を当てるデュアルユース問題は、広義の問題である。
=デュアルユースはどこまで普遍的(あるいは特殊)なのか?
→本書では、シングルユースの存在に懐疑的な立場をとる。
→ボーダレス化した世界にいかにして向き合うべきか?という問題に敷衍される。
コメント:デュアルユースとシングルユースの違いは自明だが、ミックスドユースとデュアルユースを区別することはあまり聞いたことがない議論であった。しかし、哲学的には重要だということになるのだろう。
第一章 歴史学的手法で論点を整理する
- 歴史的観点の必要性
- 安保推進制度では、冷戦後の米国の軍事研究予算のありようが踏まえられていた。
→戦後米国の軍事研究費に関する歴史を確認する必要がある。
- 冷戦後の米国における「デュアルユース」
- 冷戦が終わり、軍事費の縮小が避けられない中、クリントン政権は「デュアルユース政策」を打ち出す。OTAは1993年に『国防からの転換』というレポートを提出。
;「研究開発を国防目的からデュアルユース、または民生用目的へと転換させる可能性について検討」した。
→技術を民間企業に開いていく可能性を模索。
- ただし、技術の軍事利用を悪、平和利用を善とするニュアンスはない。
☜WW2の戦勝国として、技術力が国力の基礎であるとの認識は国民にも広く浸透し、自国軍を持つ軍事大国米国では、政治的には、技術の軍事利用は国益に適ったものであるとみなされてきた。(実際、1993年時点で、政府支出の6割が軍事研究予算であった。)
→「デュアルユース」という「魔法の言葉」により、研究者が例戦後も軍事研究費の恩恵に預かり続けることになった。=プラスのイメージを持つ言葉。
- 1995年に国防総省が出した報告書に見られる3つの柱
- デュアルユース技術への投資
- 軍用/民生を同じ生産ラインで作るための生産技術の確立 (ex GPS)
- 民生品部品をできるだけ兵器製造に取り入れる。
- 日本の安保推進制度は、(1)の軍事ミッションを持たない研究助成のスタイルであるといえる。
☜ここでは、「学問の自由」との齟齬はそこまで大きくない。
⇔問われるべき論点は学問の自由に関してではなく、「どうした自国軍の存在が前提の、軍セクターを通じての助成スタイルを、自国軍の存在が前提とされない日本に持ち込む必要があるのか」ということである。
- 戦後日本の軍民両用技術の扱い
☜ここでは、WW2で用いられた兵器を支えた技術のデュアルユース性は、(基礎研究・教育目的であっても、)最大限に軍事利用可能であると判断された。
- 戦前の学術団体の旧弊を打開すべく、占領軍の理想主義的な改革方針のバックアップのもとで、日本学術会議が1949年に発足。
→軍事研究を行わない声明も占領下で出されたものであり、学界の平和主義的態度の担保と引き換えに、占領軍が研究禁止の解除を行った。
- これは米国と対照的である。
:戦争に負け武装解除が進められていた日本では科学者が今後戦争に加担しないと表明して研究体制を取り戻していた頃に、米国では科学者が国防への貢献を忘れないことが大事だとされていた。
- 米国にとっては、軍事技術が敵国側に利用されることは、国益を損ねることを意味した。
→COCOM禁輸、ワッセナー協約:デュアルユースの使用例が見られる。
☜冷戦機には、戦後直後に比べて、禁輸対象となるデュアルユースの範囲が広範になっていった。
- 「軍産複合体」に関する議論に学ぶこと
- アイゼンアワー大統領による、1961年の退任演説:「軍産複合体」
;巨大な軍と巨大な軍需産業との結びつきによって、誤った権力が破壊的に生まれる可能性がある。こうした組み合わせが、自由や民主的なプロセスを危機にさらすことを許してはいけない。
- 1966年以降、軍需産業の弊害について激しく議論されるようになる。
⇔1980sになると、軍に依存する体制に逆戻りしていく。
Cf: フィリップスとシラーの議論;日本の戦前の財閥も含めて、兵器製造で巨大な利益を得る企業があることは歴史的にみても戦後の米国に固有の現象ではないと論じる。
=国の経済構造そのものが常設の軍とその巨額の支出を前提とし、それに依存する形になると、国の研究費にもその構造が現れ、反戦や軍事費拡大への反対をきっかけに批判が集まって、それが抜本的な構造改革にはならないことを示している。
※ただし、近年ではグーグル社において「殺傷につながる可能性」を閾値として軍事的応用に対して問題視する価値判断がなされたケースがある。
- 歴史の教訓:
- デュアルユースに関する社会的評価には、善悪の判断を伴い、それは背景によってさまざまに現れる
- 米国では、国益としてのデュアルユース技術の善用な利用そちえの軍事利用は全否定されることはなかった。
コメント:学術会議の設立の経緯が、日本国憲法のそれを瓜二つなような感じがあった。改憲の議論と、軍事研究の議論は、今後パラレルで進んでいくと予想される。