yokoken001’s diary

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Douglas, 1987, Intro~Chapter1

Susan Douglas, Inventing American broadcasting, 1899-1922, (Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 1987)

 

ラジオの歴史における必読書の一つである。本書は無線電信が放送というメディアへと変化するプロセスを「社会構成主義」のアプローチから分析するもののようである。すでに第一章でもその性格が見て取れるが、中には「そうかもしれないが、ほとんど実証不可能」だと思われる記述もあり、首肯できない部分も多々ある。

 

Introduction

  • 本書は、無線電信が無線放送(radio broadcasting)という20C社会の基盤をなす技術へと変容する過程(1899-1922年)を調査し、無線の初期の歴史を分析するによって、アメリカの放送制度が最終的にどのような構造と役割を持つに至ったかを理解することは非常に重要だ、ということを示すことを目指している。
  • 本書は、無線の社会的構成(social construction of radio)についての研究である。
  • 本書は、アイデアのパターンや、ラジオどのように用いられるべきであり、誰が操作するのかといった信念を形成する出版物(press)の役割に着目し、どういった定義や解釈が、(電信が放送になる変容する時期に)役割を果たし卓越性を獲得したかを調べることを目的とする。
  • 言い換ええれば、いかにして放送メディアそれ自体が、既存の印刷メディアの価値観や信念によって形成されたのかを明らかにする。
  • しかし、本書は出版物が決定論的に無線技術を形成したということを暗示するのでない。むしろ、(1)いかにして発明は設計・改良されたか、(2)発明家や組織はいかにしてその発明を利用することに成功/失敗したか、(3)出版がカバーした(しなかった)物語の側面とは何であったか、という3つのストーリが、無線の技術的同一化・正当化のプロセスを理解する上で絡み合っているのである。
  • 本書が先行研究と異なる点は、初期の展開(1899-1922)に着目していること、そして解釈学的視点(interpretive perspective)を持っている点である。例えばAitkenは、放送や「連続波」を生み出した科学的・技術的なアイデアの思想史(intellectual history)に着目した。それに対して本書は技術の詳細を描くのではなく、Aitkenが扱わなかった主題、つまり、いかにして出版物がラジオを覆っていたか、アメリカ海軍はいかにしてその発明に反応したかといったものを論じる。

 

 

Chapter 1 Marconi and the America’s Cap – The Making of a Inventor-Hero

 

1-1

  • 英雄崇拝と自己肯定は互いに手を取り合っている。そして、英雄はしばしばアメリカがどこにいたのか、そしてどこに向かいつつあるのかを体現する。
  • 1899年末、2人の英雄がニューヨークにたどり着いた。
  • George Dewey (デューイ):アジア艦隊の指揮官で、マニラ海戦で勝利に導いた人物。彼がアメリカに1899年9月に帰国したとき、英雄として拍手喝采で迎え入れられ、当時ニューヨーク市長だったテオドア・ルーズベルトは2日間の祝日を宣言したほどだった。そして、当時の新聞・雑誌は、パレードの様子を報道し、彼を賞賛した。

→報道官や編集者にとって、デューイはステレオタイプ的な英雄であり、ドラマや神話の必要条件に貢献できるものだった。

→彼の人間性や多くのアメリカ人が信じていた利他主義を捉えた優しさは、キューバやフィリピンを「解放」することを動機付けた。

→デューイは、アメリカが「世界の将来において新しい位置」にいることをアメリカ人に理解させることを手助けした。アメリカのミッションは、民主主義を広げることであり、それは技術の応用を通じて実現される。1899年の出版物(ex: Scientific American, Popular Science Monthly)において、技術と社会の進歩が絡み合いながら進んでいくといった確信が流行していた。一面ではそれらは「技術決定論」に与するものでもあった。

→さらに、デューイは、自然(女性)を征服する男性の優位性を強めることにも一躍を買った。

  • Guglielmo Marconi(マルコーニ):アイルランド人とイタリア人の混血で25歳の若者が、デューイが帰国する5日前にニューヨークに到着した。

→もしも彼が出版界に、彼は無心で彼の発明は自由企業、民主主義、利他主義に奉仕するものであろうということを確信させたならば、彼もまたジャーナリズムのアリーナにおいて勝利を得ることができただろう。

←彼はすでにJames Bennett(ニューヨークヘラルド紙の創始者)と知己であった。

:1899年初頭に、マルコーニはヨットレースの実況を無線電信で送信する申し出をしており、それをベネットはヨットレースの5000$を賄うという条件で認めていた。

  • ベネットにとって、無線電信は、移動と通信技術の進歩のギャップを埋める可能性があるものだった。(船舶で遠くに移動できても、有線通信網から外れてしまう。)
  • マルコーニが到着したタイミングはこれほど良いものはなかった。:彼が到着したのは9/30日であり、ヨットレースは10/3だった。デューイの帰国は、楽観的、畏怖、新しい発明の熱烈な需要にとって必要な進歩への信念を想起させ、ムードを作り出すことを手助けした。またヘラルド紙は、発明の民主的利益についても強調した。=「ヘラルドは科学だけでなく、アメシカのヨットレース(cap)の歴史の中で最も多くの関心を集めているコンテストの結果を待ち望んでいる何百万人もの人々にとっても有益なものとなるであろう。」

 

1-2

  • なぜ、モールス、エジソン、ベルを生み出したアメリカが電気通信における最新技術を導入しようとしている外国人に目を向けたのか。マルコーニはいかにして無線電信の「発明家」になったのだろうか。
  • 空間を隔てた信号の送信というアイデアは、数十年前にすでに存在していた。Joseph Henry(ヘンリー)とMichael Faraday(ファラデー)は、1829-30sにかけて電磁誘導の法則を発見した。これは、磁場を変化させることで電流が流れるという法則であり、物理的に離れている場所で電流を誘導することができることを示していた。
  • 1938年にはすでにconduction transmissionの発明があった。これは電磁誘導を電信に応用する試み(wireless telegraphy by induction)であったが、通信距離が数マイルに限られており、この方法は潰えてしまう。技術が前進するためには、さらなる理論的・経験的作業が必要であった。そしてそれを行なったのが、マックスウェルとヘルツである。
  • マックスウェルは、1865年に「電磁場の動的理論」を発表し、電場・磁場における加速された変化は、有限な速度で空間に(エーテルという媒質を通じて)広がる波をつくること、そして光はその波の一種であることを論じた。
  • マックスウェルの論文が発表されると、英国だけではなくドイツにおいても注目が集まり、特に大学において組織的な研究体制や実験室が整備されつつあったドイツではヘルムホルツらが中心となってヘルツの実験に取り組まれた。そしてヘルツは1878年から彼のもとで研究を行うようになり、1886-1888年にかけての実験を経て、電磁波は光と同じ速度で移動するということを実験的に証明した。
  • ヘルツの装置は、ライデン瓶、誘導コイル、火花間隙、ループアンテナなどを使用するものであったが、その後ブランリーの発明したコヒーラーを改良したロッジのそれ(デコヒーラーを含む)が使用されるようになる。
  • 1894年時点での最新技術はそういったものであったが、大学のネットワークにおいて、ヘルツの実験を商業的に応用するといったことにはほとんど関心が持たれなかった。学者にとって、それは下品(vulgar)なところがあったのである。科学と商業、さらには大衆のイメージの領域を繋いだのは、マルコーニであった。
  • イタリア人の父とアイルランド人の母の元に生まれたグリエルモは、13歳までは公式な教育を受けていない。しかし、幼少期から機械をいじり、フランクリンやファラデーの仕事に基づいた実験を自分で行なっていた。そして、Technical Institute in Leghornに入学すると物理学に関心を示したため、母親は家庭教師を雇った。そしてボローニャに戻ると、彼はリーギ(Righi)の実験室で非公式の教育を受けるようになった。彼はマルコーニに、マックスウェルやヘルムホルツ、ヘルツらの仕事を教授した。
  • マルコーニの成長にとって、母親の存在は極めて重要である。彼女はしばしばマルコーニの事業をよく思っていなかった父親との良好な関係を犠牲にしてでも、グリエルモの挑戦を支援した。なによりも、母親が流暢な英語をグリエルモに仕込んだことは大切だった。英語能力がなければ、彼が英国や米国で成功することはなかっただろうと想像されるからである。
  • マルコーニの目標ははっきりしていた。それは無線通信を商業化することである。そのためには、長距離通信を達成しなければならなかった。彼は(生涯にわたっての特徴である)試行錯誤の熾烈な努力(painstaking process of trial and error)を通じて、垂直接地アンテナを利用して長距離通信を実現できることを発見した。
  • 母親は息子の達成の可能性を確信すると、顧客を探し始めた。最初はイタリアの郵政庁に問い合わせたが、利点を認めてもらえず支持を得ることはできなかった。イタリア海軍は関心を示したものの、結局待つことができず、1896年2月に彼女の親戚がいる英国へ移動した。英国では海洋通信の改良に対して大きな関心が持たれている場でもあった。
  • 彼らは早速ウィリアム・プリース(郵政庁の技師長)の知己を得た。さらに、彼のいとこのDavisの示唆に基づき、自らの特許を管理する会社(1900年に「マルコーニ無線電信会社」となる)を1897年に設立した。ここで、科学-学会のセクターから市場へと無線通信は移行することになった。
  • マルコーニは、その技術を大衆化し、その効果を実証しなければならなかった。1899年には英国海峡を隔てて、英国-仏国間の長距離通信に成功した。
  • マルコーニは宣伝(promotion)についての素晴らしい才能があった。そしてそれは何よりも、彼が当時愛国主義が高まっていたアメリカにおいて同国の報道(press)や大衆の心を惹きつけたことに表れていた。

1-3

  • ヨットレースでは、PonceとGrande Duchesseという2つのボートにマルコーニの無線装置が装備された。そして、レースの進行状況をNavesink Highlandsとニューヨークにある受信局へと中継する。そしてそこにいる報道官は最新の情報を、有線を通じて都市の掲示板へ送信した。
  • ヨットレースは、デューイのパレードと同じくらいの景観を呈していた。何千もの人々が掲示板の前に集まり、レースの進捗を聞き入っていた。
  • 10月4日、ヘラルド紙は「マルコーニの無線電信の勝利」や「無線掲示板は魔法のようだ」と持ち上げた。マルコーニ自身が回想しているように、大衆を最も強く印象づけたのは、そのシステムの並外れたスピードだった。都市部で見守る人々は75秒以内、場合によっては30秒以内に実況に接することができた。
  • レースが終わると、マルコーニ公の恩人としてラベル付されるようになる。ボートが沈没したなどといった虚偽の情報が流れた際、それを修正し、「何千もの人々を不安から」救ったのもマルコーニの電信から送信された情報だった。
  • デューイの熱狂がマルコーニの素地としてどれだけ機能していたかは不明だが、報道における扱いはデューイのそれに匹敵していた。報道は、彼の科目で控えめな性格を描いた。彼は自分の仕事が先人の仕事に負っていることを絶えず述べた。また彼は聴衆にアメリカを称える気持ちを表現し、それは英国以上にsupportiveだった。
  • マルコーニは彼の実際の姿と、報道陣が期待した姿との間の不一致を記憶していた。彼はまた発明家=英雄モデル(inventor=hero model)として形成されていた。彼は大学で教育を受けた理論家ではなく、教授ができなかったようなことを達成した実験家だった。アメリカの人々は、誰が最初に何かを考えたのかということを気にしなかった。むしろ彼らはそれをやったのは誰なのかを気にしており、マルコーニが無線の仕事を成したのであった。
  • これはメディア研究でいわれる「技術的展示(technological display)」というバイヤスがかかった現象であった。それはドラマと公(public)に関係する現象である。それはまた、新しい視覚的・聴覚的な経験にも関わっている。このバイヤスは、公(public)やドラマ(drama)を好み、反対に私的なこと、漸進的で小さなこと、理論的なことを軽視するものである。
  • また発明の神秘的な性格も、またジャーナリスティックな想像力を掻き立てた。無線はテレパシーを想起させた。多くの人にとって無線は、科学と形而上学との間を、既知と未知との間を、そして実際の達成と無限の可能性との間を橋渡しするものであった。
  • 無線が最も初期に「日常業務」へ応用されたのは、船舶と陸上基地との間の通信であり、それにより災害を防ぐことができた。(また軍事的応用についても多くのことが書かれた。) 無線は、民主的な利益(democratic benefit)をもたらし、より平和な世界に近づくといった倫理的な力を持っていた。というのも、当時のアメリカには、ウェスタンユニオンとベルテレフォンという、有線通信を独占していた2つの会社が存在しており、通信料金も高額だった。マルコーニの無線は、この体制を打破するチャネルとして期待されたのである。無線は、人々が憧れていた民主的で非中央集権的な通信技術であった。そして、彼らが望むときにはいつでも操作・使用できる装置でもあった。
  • マルコーニはただちに電信を拡張することだけではなく、ますます柔軟性がなくなっており人気がなくなっている有線への代替物の可能性を提示しつつあるということを理解し始めた。
  • 1899年に報道は無線の意味を構築し始めた。無線は孤独になった個人を社会的なレベルでつながる手段を提供し、共同体意識を取り戻すものであると。
  • 彼のジャーナリスティックなアリーナにおける成功は、彼自身のプロモーターとしての能力と、当時確立されていたジャーナリスティックな慣習とのダイナミックな相互作用の結果であった。
  • 彼が知ることができなかったことは、アメリカ人の中には、無線技術のビジョンを自分自身のものの代用としようとする人がいたということである。マルコーニがヨットレースで成功したときでさえ、熱烈な競合者は、彼の特許を避ける方法を考慮していたのである。