yokoken001’s diary

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推し、燃ゆ

 第164回芥川賞を受賞した宇佐美りん氏の『推し、燃ゆ』を読んだ。

 16歳の少女あかりが、彼女の推しである上野真幸というアイドルに心酔し、自身の身体や生活を、彼のために捧げる生活を丹念に描写した作品。

 言うまでもなく、idolには「偶像」という意味がある。その言葉の通り、推しの写真を崇め奉る対象として自室に飾り、その他もろもろのグッズを収集し、彼の言葉をまるで神からのお告げであるかのように逐一ノートに書き取り、彼のトークの文字起こしをブログで公表したり、、など、推していない人々から見れば、気が狂っているのではないかと疑うような「オタク」の言動が緻密に描かれている。

 授賞式のインタビューで筆者が答えていたように、宇佐美氏自身にも実際、長年「推し」てきたアイドルが存在するのだという。ただ、この作品の特徴は、そういったアイドルオタクの生活に自らも浸った状態で内側から湧き出る言葉を書くというのではなく、いったん書き手が「オタク」という人間の性質を分解し、それを効果的に組み立てていくような書き方をしている点にあると感じた。茂木健一郎のレビューでは、そうした作業は「メタ認知」そのものであって、その結果、「現象学的な解像度が高い描写」という成果につながっていると評価されている(※1)。また、なしちゃんも、「推す」というこれまで取り上げられてこなかった新しい概念を、言葉で丁寧に説明している点を評価しているようだ(※2)。

 だが、僕の読書体験としては、そうしたオタクという存在を客観的に描写したときの細部が、正直、物語の世界観にコミットするのを妨げていたところがあった。特に、主人公のあかりが綴る丁寧なブログの記述には、ある意味リアリティがなく、頁を閉じてしまうことが何度もあった。

 

 最初に推しが女性を「殴って」炎上するというシーンから始まっていることからもわかるが、身体に関する描写が目を引いた。背骨や遺骨、爪、汗、白髪、吐瀉物、体液などなど、生の身体が本作品の重要な構成要素になっていて、それらが随所で結びついているように思えた。特に、遺骨の描写からの最後の綿棒を拾うシーンへ移行する箇所は、圧巻だった。そして、なぜこうした身体が重要かといえば、やはり、idolである真幸(=身体のない空想上の偶像)と、腐敗し、退廃していくリアルな世界との対比を明確にさせようとしたからなのではないかと想像した。

 また、アイドルがいる世界/あかりがいるリアルな世界との対比という点において、示唆的な文章があったので、少し引用する。

 携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。(62頁。)

 アイドルとあかりとの関係は一方向であるから、双方向の関係の中で、アイドルから憎まれたり、嫌な思いをさせられたり、アイドルにイラつくということがない。また、2人で長い散歩をすることで呼吸が合ったり、微妙な体の動きに反応するといった身体的なつながりも全くない。だからこそ感じる「安らぎ」が、「推す」という行為の背後にはあるのかもしれない。

 

 全体的に、「推す」という流行語や、twitterやブログ文化、インスタライブの記述など、現代に根ざした生活感覚をふんだんに取り入れ、かつ21歳という若さにも関わらずしっかりとした筆致でこれだけの物語を作り上げたということはすごいことだと思う。

 ただ、前回受賞した遠野遥の『破壊』では物語に完全に没入してしまうような強い磁力があったように思ったが、そのようなエネルギーを感じることはなく、本当に面白い作品とは言い難かった、というのが正直な感想だ。

 また物語の構成要素も、必要十分な量の記述が過不足なく盛り込まれているというわけではなく、父親の隠れた趣味についてや、友達の整形についての話題など、うまく処理し切れていない場面がいくつかあるという印象を抱いた。

 

 最後に、一言だけ。

 アマゾンのレビューを見てると、これは「発達障害」の人物を描いた作品である、みたいなコメントがあり、それなりの共感を読んでいるようだ。しかし、僕はその読解には反対である。確かに、主人公は何らかの病気を抱えているということは書かれているし(91頁など)、保健室登校していて進級できなかったり、漢字の練習をどれだけこなしてもすぐに忘れてしまうといったシーンもあって、彼女を「発達障害」だと言うレビューが出てくるのはあり得ないことではないと思う。ただ、作者はあかりに対して決してそのようなラベルを貼っているわけではない。ましてや小説が人間をそのようなラベリングを通じて何らかの線引き(例えば正常と異常との線引きなど)をし、人間を狭隘な存在に押し込めるようなことをすることがあって良いとは思えない。むしろ、あかりのような言動の幾らかの部分は自分にも当てはまるし、仮に当てはまらなくてもそのような言動は理解できるよね、というように登場人物に接近するべきであって、「発達障害」だというレッテルを貼って、「正常」である自分との間に線を引く読みは間違っていると思う。(ただ、あのレビューでは、「発達障害」の人間にもスポットを当ててくれたというような書き方をしているので、自分自身を「正常」な人間だと必ずしも見做していないかもしれないが。)

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

 ※1 

www.youtube.com

※2

https://www.youtube.com/watch?v=RY5qBLBnuDg