yokoken001’s diary

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テクノロジーとイノベーション

 

 ブライアン・アーサー(日暮雅通訳)『テクノロジーイノベーション- 進化/生成の理論』(みすず書房、2011年)

 

 興味深い内容で、技術史研究に取り組む上でも非常に示唆的だったので、詳しくレビューしていきます。

  本書は、Brian Arthur, Nature of Technology: What It Is and How It Evolve, New York: Free Press, 2009. の邦訳である。著者は複雑系経済学の旗手の一人だが、経済学のみならず、科学史や技術史の成果も取り入れられている。

 原著のサブタイトルが示すように、本書は大きく分けて二つの部分から構成される。第一部(第二章から第四章)は、そもそも技術 (※以下、テクノロジーと同義で用いる。本書においてもテクノロジーはだいたい「技術」という日本語に対応していると思う)とは何なのかという問題について議論される。多くの先行研究は、個別の技術の歴史を探究し、それがどのようにして生まれたのかを明らかにしている。また、設計過程の検討や、経済的要素がいかにして技術設計に影響を与えるのかについても分析されている。しかし、そもそも「テクノロジー」が意味するところの合意はない。第一部では、そうしたテクノロジー全般の「学(オロジー)」について、根本から考え直される。続く第二部(第五章から第十章)では、テクノロジーはいかに進化するかという問題が検討される。進化の理論を提唱するのは、それがイノベーションの理解につながるからであるとされる。ここで著者が前提にするのは、新しいテクノロジーは既存のテクノロジーの組み合わせによって生まれるという考えである。しかし、新しいテクノロジーは既存のテクノロジーの単なる寄せ集めではないため、それがどのように組み合わさることで新規な技術が生まれるのかという「組み合わせ進化」の一般理論を模索する必要がある。第二部では、この進化の理論について、段階的に議論が積み重ねられていく。

 

 第二章では、まず、テクノロジーについて、(1)人間の目的を達成する手段、(2)実践方法とコンポーネントの組み立て、(3)文化に役立てることができる装置と工学の集合体という三つの定義がなされる。(これらについては、以下で各々定義(1)~(3)と表記する。)

 人間の目的を達成する手段としての技術(定義(1))には、装置や手法、処理などのカテゴリーが含まれる。しかし著者曰く、これらは技術をソフトウェアとして捉えるか(処理や手法)、ハードウェアとして捉えるか(装置)の違いであって、別のカテゴリーではない。

 ところで、個別のテクノロジーには2つの共通の構造があるという。一つ目は、それが「組み合わせ原理」から成っている(定義(2))ということである。つまり、テクノロジーは根本的に、その基本機能を担う主要アセンブリと、それを支援する一組の下位アセンブリから成り立っている。例えばジェットエンジンの場合、吸引口、コンプレッサ、燃焼装置、タービン、噴出口という5つの中核となるアセンブリと、それを支える多くの下位システムから構成されている。テクノロジーがこのようなモジュール性を備えていることには、いくつかの利点がある。まず、それらは特定の目的や変更のために、全体から取り外すことができる。また、テクノロジーを機能上のグループに分割でき、設計過程も単純化できる。ただし、テクノロジーを分割することが意味を持つのは、それが繰り返し用いられる場合に限られる。あるいは別の言い方をすれば、テクノロジーの分割は市場拡大にしたがって増加する

 二つ目は、テクノロジーは「再帰性」という原理を持っているということである。つまり、テクノロジーとは、テクノロジーの中にあるテクノロジーで構成されており、それは基本的パーツの段階まで連続している。テクノロジーには特徴的な規模はない。それは常に構成が変更され、目的の変化に対応して再編成され、改良されている。

 第三章では、テクノロジーが常にある目的達成のために物理現象を利用している側面(定義(3))に目を向け、科学とテクノロジーはどのように関係しているのかについて議論される。

 どのようなテクノロジーを調べても、中心には常にそれが利用している何らの効果がある。例えば、自家動力で動き回るトラックは、特定の化学物質(燃料)が燃えるときにエネルギーを発生させるという現象を利用している。また、転がる物体(タイヤ)は滑る物体に比べて摩擦力が小さいという現象も利用している。このように、技術はある信頼できる効果に依存しているといえる。

 テクノロジーが現象を利用して効果的に作動するためには、調整する支援手段との適切な組み合わせを見つける必要がある。技術は、多くの現象が集められて特定の目的にために「協力」して働く統合体である。また、そのような現象を活用する支援テクノロジーは、「チャンキング」によってモジュールで構成されなければならない。例えば、電子工学では誘導子をコンデンサのそばに配置すると望まぬ振動を起こしてしまうので、通常、それらは離れた場所に配置される。つまり、各々の現象が別のモジュールに割り当てられている。

 以上のことを確認した上で、著者は、テクノロジーの本質とは、目的にかなうように現象をプログラムすることにあると述べる。しかし、現象を利用することで目的を果たす手段の中には、通常テクノロジーとはみなされないもの、−企業組織や法制度、金融システム、契約など−も含まれる。ここでなぜそれらはテクノロジーと感じられないのだろうか、と問われる。例えば、金融システムが利用している現象は、人間が媒体の価値を信頼しそれが将来も続くことを信じているというものである。これは人間の行動にかんする現象である。つまり、通常テクノロジーと言われるものは自然の現象に基づいており、行動的・組織的効果に基づくものは、テクノロジーだとは感じられない。だが著者曰く、これらの広義のテクノロジーである。マーラー交響曲は一般的には美的体験であって技術ではないが、マーラーは私たちの脳内で現象を引き起こすように意図的に音をプログラムしたと考えれば、それは一種のテクノロジーになりうる。したがって物質的な効果に基礎を置いていないとしても、目的や手段を果たす「システム」全体をテクノロジーと呼ぶことは可能であると論じられる。

 後半では、科学はテクノロジーとどのように関係しているかという問題が議論される。まずは、科学は、技術が扱う効果について理解するものだと考えられる。こう考えると、科学=発見/技術=応用というありふれた見方に帰着する。だが、テクノロジーは単に科学の応用というわけではないという。動力飛行をはじめとする過去の多くの技術は、科学などほとんど存在しないときに生まれた。つまり、テクノロジーは科学だけではなく、同時に、自らの経験からも構成されている。

 同じく、テクノロジーも科学の中にしっかりと織り込まれている。自然現象を観察し推論するためには、手法と装置が必要である。それは目的を達成する手段であり、技術に他ならない。さらに科学それ自体も、観察された世界の特徴や仕組みを明確にするという目的のもとで、より単純な概念のパーツを組み合わせる行為である。例えば、ニュートンによる惑星軌道の説明は、質量と質量の間で働く引力についての初頭的なアイデアを組み合わせて作り上げた一種のテクノロジーである。すなわち、科学はテクノロジーを使うだけではなく、テクノロジーからできているということになる。テクノロジーは科学によって明らかにされた現象を利用すると同時に、科学はテクノロジーが発展させた器具・方法論・実験を用いることによって形作られる。その間には原因と結果の好循環がある。

 第四章では、共通の目的を持つテクノロジー構成要素がまとまった「ドメイン」という概念について論じられる。ドメインとは「実践法と知識の収集、組み合わせのルール、関連した指向様式とともに、装置や手法を形づくるために抽出されたもの(90頁)」と説明される。

 まず、ドメインは一種のツールボックスとして存在し、そこから役に立つ要素が引き出され、一組の実践方法が用いられる。設計者はまず装置を作り上げるために適切なドメインを選択する。例えば、レーダーの設計者は電子工学というコンポーネント・グループの中から発振器をドメイン化する。多くの場合、この選択は自動的に行われるが、考慮の末行われることもある(最近では、コンピュータのソフトをまとめるとき、リナックスとウィンドウズのどちらの集合体の中でドメイン化するかを熟慮しなければならない)。

 また、ドメインの選択は時代とともに変化する。それだけでなく、重要なイノベーションは新しいドメイン化によって引き起こされる。ドメインの変更は新しい可能性を提供するからだ。航空機の探知が音響ミラーからレーダーへの変更は、強力なドメインである電子工学を利用したことに由来する。ドメインは、時代やその時代が影響を及ぼす範囲をも規定する。

 著者は、ドメインとは一つの言語体系であるともいう。言語には適切な選択もあれば不適切な選択もあるように、設計にもドメインで許容される組み合わせというルール(文法)が存在する。ドメインの文法は、要素がどのように組み合わせられるか、どんな条件で組み合わされるかを規定する。設計者はその文法に知悉することで、そのドメインの思考法に慣れ、多くの可能性の中から正しいものを選び、それぞれの部分を組み立てる。完璧な設計は、それゆえ、美しい詩のようである。

 さらに、著者はドメインとは、その中で何かができる世界=領域であるともいう。ドメインは、ある特定の操作が可能になる世界である。ドメインはある特定の作業に特化している。例えば、運河は貨物を船で運ぶことに特化している。あるいは、光学データ通信は、光量子によりメッセージを伝送することに特化している。ここで重要なことは、あるドメインから別のドメインに入る時にコストが積み上がるということである。荷物を鉄道輸送のドメインから船でのコンテナ輸送のドメインに移し替えるとき、貨物駅やドック、コンテナを扱うクレーン、積み下ろしを行う人員など、面倒な「つなぎ」のテクノロジーが必要になる。また、ドメイン内で達成できることには、微妙な偏りも存在する。例えば、デジタルの世界が有効に機能するのは、現実世界が定量化できる場合に限る(「素朴さ」を定量化することはできない)。

 以上のように、ドメインはある時代に可能になることを規定し、固有の産業を生み出す。そして、ドメインは、エンジニアが目的を果たせるように導く世界を提供していると論じられる。

 

 

 続く第五章からは、テクノロジーの進化のメカニズムについて議論される第二部に入る。本章ではまず、著者が「標準的エンジニアリング」と呼ぶ活動について説明される。「標準的エンジニアリング」は、トマス・クーンの議論における「通常科学」や、エドワード・コンスタントの議論における「通常エンジニアリング(工学)」に相当する言葉である。クーンは、パズルを解いていくような知識が累積的に増えていく日常業務としての科学を「通常科学」と呼び、エドワード・コンスタントはそれになって「通常エンジニアリング(工学)」について語った。しかし筆者は「通常」ではなく「標準的」という言葉を用いる。この理由は、注釈で「科学的活動にはノーマルな範囲にはない独立した閉口した活動があることを意味するからだ」と与えられている。評者にはその意味がよく理解できないが、おそらく、通常科学は異常科学に対応するが、技術において「異常技術」のような概念は存在しないということだと想像される。

 さて、標準的エンジニアリングの中核部分には、既知であり認められた原理のもとで手法と装置を統合するという活動がある。たいていの設計活動は、いわゆる通常科学と同じく、所定の問題に既知の概念と手法を適用するものである。しかし、このことは標準的エンジニアリングが単純だということを意味しない。目的を達成できる構造概念を現実化できるアセンブリの組み合わせを作るためには、それぞれの階層で設計過程が繰り返される必要がある。あるアセンブリで予想外の欠陥が生じた場合、他の部分を調整して相殺しなければならない。場合によっては計画そのものを最初からやり直さなければならないかもしれない。また、プロジェクトの規模が大きい場合、異なるアセンブリは別々のグループで設計されるため、これらの間のバランスを取るべく議論を重ねる必要がある。

 また、標準的エンジニアリングは、設計で既に知られている何かについての新しい型=実例を作ることだということもできる。テクノロジーの新しい型が要求されるのは、(1)ある異なる物質的環境を設計すべきとき、(2)よりよい性能の部品や素材が利用できるようになったとき、(3)市場が変化したときであるという。新しいプロジェクトは新しい問題を提起している。すなわち、完成した設計は一組の問題に対する一組の解決法だといえる。ただし、先に「意図」があり、コンポーネントの適正な組み合わせという「手段」はそれに後続することに注意すべきだともいう。

 さらに、標準的エンジニアリングは、テクノロジーの進化にも貢献している。特定の解決法は独立のオブジェクトとして扱われるようになることがあり、次の構成に使われる新しい要素になることがある。例えば、電子工学におけるよく知られた発振回路(アームストロング発振回路、ハートレー発振回路、コルピッツ発振回路など)は、標準的な解決法であり、既存コンポーネントの賢明な組み合わせとして生まれたものである。それが役立つ場合はミームのようにコミュニティに浸透し始め、一般的に使われるようになる。それは、新しい用語が語彙の中に含まれていくことに似ているという。だが、解決法が構成要素を生み出していくというこの過程は、厳密にはダーウィンの進化論とは異なるとも述べられる。新しい解決法は瞬時に統合することができる組み合わせであり、生物学的変化のようにゆっくりと蓄積されるものではない。

 第六章では、テクノロジーの「発明」がどのようにして起きるのかについて議論される。

発明とは一言でいえば、目標達成にとって従来とは異なった原理に変更されることである。ここで、必要性と効果とを新たに結びつける方法には2種類あると指摘される。一つ目は、必要性から始まってそれを達成する原理を見出すパターン、二つ目は逆に現象・効果から始まって、その中に有用性を見出すパターンである。前者の場合は、他の分野から借りたり、過去の概念の組み合わせの中からヒントを得る場合があることが議論される。

 第七章では、構造の深化のメカニズムについて、科学理論の展開(※原語はdevelopだろう。翻訳者はこれを「発展」と訳しているが、ここでは「展開」が適切だと思われる)について議論したトマス・クーンのパラダイム論と類比させながら述べられる。

 クーンの議論では、新しい理論モデルが新しい原理に作用し、パラダイムが切り替わった時点でサイクルがスタートする。パラダイムは多くの範型に適用され、通常科学の中で精緻化する。やがて基底にあるパラダイムと矛盾する事例(アノマリー)が堆積し、パラダイムを引き伸ばすことによっても対処できなくなると、次第に緊張する。そして、ついに満足できる論拠(新パラダイム)が一式出揃ったところで、通常科学は崩壊する。

 テクノロジーの場合、新しい原理が生まれ、開発が始まると、内部構造の交換と交換の深化という2つのメカニズムが作用する。テクノロジーが商業的・軍事的な課題になると、その出来栄えに「圧力」がかかり、増産が強いられる(=開発が押し進められる)。そして機能向上のために克服する必要がある課題が生じ、あるコンポーネントが交換される。そして、一つのコンポーネントが変わることで、他の部分との調整が求められる。あるいは新しいパーツやシステムを追加することでも障害を回避することができるが、この場合も性能は全段階で改善され、いっそう複雑化する。

 だが、次第にコンポーネントの交換や構造の深化では性能が大幅に向上しない成熟期が訪れる。既存の原理が安定した地位を獲得する理由の一つは、経済的なメリットがあるからだという。つまり、仮に新原理が今発明されても採用にあたって多額の費用が必要になるため、採用されにくい。また、現場の人間が新しい原理に不安を覚え、今ある原理に依存しようとする心理的な要因もある。

 このように周辺構造と専門的技術があまねく普及し、テクノロジーが成熟期に入ると「ロックイン」が生じる。そして新しい用途や環境の変化が生じても、ロックインされたテクノロジーを引き伸ばして対応するようになる。(本書ではパラダイム論との対応関係が明確に述べられていないが、このプロセスは「通常科学」に似ているということだろう。) そして、ある程度のアノマリーに直面すると、その動作は緩慢になり、新しい原理やパラダイムを得ようとする。

 第八章では、第四章で議論した「ドメイン」はいかに進化し、経済にどう影響を与えるのかについて検討される。

まず著者は、新ドメインは、親となるドメインから構築されなければならないという。初期の段階ではまだ元のドメインとあまり変わりがないが、核となるテクノロジーが急激な進歩を見せると、ドメインは変形する。例えば、トランジスタ真空管にとって替わったとき、電子工学業界の様相は変わった。または核となる応用分野が変わる場合(民生利用から軍事利用に転じるなど)にも、ドメインは大きく変形することがある。そして、情報的テクノロジーはコンピュータと電気通信の間に生まれたドメインであるように、ドメインの変更は新たな下位ドメインを形成していくという。

 ドメインの変更は経済にも影響を及ぼすが、ここで著者が強調していることは、経済の要素は新しいテクノロジーを「採用」するのではなく「遭遇」するということである。つまり、方法・装置・理解・慣習からなるテクノロジー体系と、組織・商習慣・製造法・稼働する機器からなる産業というテクノロジーの集合という、2つの「テクノロジー」が集結するという言い方が正確である。進行しているのは単なるテクノロジーが採用されるプロセスではなく、ドメインと経済の双方が適応するという大規模なプロセスであるから、新しい処理方法を発見し、環境が改善されるだろうと判断するまでに時間がかかる。テクノロジーに関わる事業や商習慣を整理し、テクノロジーそのものが利用者に適応するまで、本当の変革が訪れたとはいえない。

 第九章では、自己創出(オートポエーシス)としてのテクノロジーの進化のメカニズムがより詳しく述べられる。まず、テクノロジーが進化を駆動する諸力として、著者は2つの力を挙げる。第一は組み合わせであり、第二は新しいテクノロジーの必要性である。テクノロジーの組み合わせは、新たなテクノロジーの創出のポテンシャルとして、威力を持っている。一般に、基底要素Nとすると、テクノロジーの組み合わせは、2N-N-1通りである(例えば基底要素がA~Eの5つであるとすれば、それぞれについては、あるかないかのどちらかであり(25=32通り)、そこから単一の要素の場合の5通りと、空の場合1通りを引けばよいので、26通りとなる)。もちろん、構成要素についてすべての組み合わせに工学的意味があるわけではない。しかし、仮に1/100の確率で役に立つ組み合わせがあるとしても、2N-20で近似できる。いずれの場合も、要素数がある閾値を超えると、組み合わせの数は急激に増加をし始める。このような数で供給できても、何らかの需要がなければ新テクノロジーは成立しない。この需要に関わるのが、テクノロジーが有益とみなされるニッチである。この機会ニッチは人間のニーズに起因することもあれば、テクノロジーそのもののニーズから生じることもある。例えば、低コスト、高効率という目標をみたす機会、支援テクノロジーが必要とされる機会、ある問題への解決策への機会などがある。

 では、需要と供給の各々における条件が揃った場合、どのようなメカニズムでテクノロジーは進化するのだろうか。ここで著者は、テクノロジーの集合体をネットワークとして考え、その結節点(ノード)にテクノロジーが置かれているとするモデルを提示する。ノードは「活性集合体」として、経済内で現在使用されている。そこで、新テクノロジーの可能性と経常的な機会のニッチが遭遇することで、新しいノードを形成し、やがて古いノードが不活性になっていく。

 著者は、進化の厳密な順序は予め決まっていないこと、時間の経過とともに一様な変化を引き起こすことはないという点に注意を促す(テクノロジーの集合体から将来を予測することは困難であり、そこには不決定性がある)。また、テクノロジーの進化は、自らをありあげて増殖する有機的な網の様であり、環境とエネルギーのやりとりながら自己再生産を行う。そして、それは(サンゴ礁を生物と考える意味において)生命的であると論じられる。

 第十章では、テクノロジーの進化に伴う経済の進化に目が向けられる。そのためにまず、経済を「生産・分配・消費する体系」とみなす従来の表現から、「社会が自身のニーズを満たすための調整と活動の集合」とする見方への変更を提示する。社会のニーズを満たすために調整を行うものには、例えば、金融システム、銀行、管理システム、法体系などがある。これらは第三章で検討したように、目的達成のために手段であるテクノロジーである。その意味で、経済はテクノロジーの受け皿ではなく、テクノロジーをもとに組み上げた意義のある存在、つまり、経済とはテクノロジーの表現であると述べられる。もちろん経済と技術は同じものではない。ここで示されていることは、テクノロジーが経済の骨格を形成しているということである。新しいテクノロジーが経済に参入する、新たな調整が必要となる。例えば1760年代のイギリスで繊維機械が出現するようになると、家内制手工業が工場にとって替わった。すると機械は向上を構成する要素の一つとなり、工場制度は労働者のニーズを生み出し、ヴィクトリア朝の産業経済の構造を変化させる。この構造の変化は長期にわたって起きる。

最終章では、これまでの議論を整理した上で、将来、我々がどのようにテクノロジーに向き合っていけばよいのかについての提言がなされる。

 着実に成長を続けているテクノロジーに対して、我々は心理的な葛藤を抱くことがある。それは人間のテクノロジーの関係というよりは、人間と自然現象との関係に起因していると分析する。ハイデガーはかつて、技術とは「自然にあるすべてのものを人類が利用できるような潜在的資源として自己顕現させる方法のこと」であると言った。いまや、テクノロジーが世界に適合するのではなく、テクノロジーは世界を適合させようとしている。ハイデガーは、我々がテクノロジーを通じて、単に利用対象としてのみ存在するかのように自然を貶めていると述べた。だが一方でこれまで議論してきたように、テクノロジーの根底にあるのは深淵な自然である。にもかかわらず、テクノロジーが自然だとは感じられない。私たちは無意識のうちに、テクノロジーによる自然への想像を絶する介入に対して深刻な不安を感じている。

 著者は、我々がテクノロジーを持つかどうかが要点ではなく、テクノロジーを顔のない意志を削ぐ存在として受け入れるべきか、それとも、有機的で生活を豊かにするものとして所有するかというところにあるのだと主張する。そして、テクノロジーが人生の挑戦や意義、目的、自然との共存を高めるのであれば、人生や我々が人間であることを肯定していることが述べられ、本書は締め括られる。

 

 第一部で展開されたテクノロジーとは何かに関する著者の議論を特徴付けるとすれば、それは「汎テクノロジー論」と言えそうである。著者は、テクノロジーを、ある目的を達成する手段であり、構成要素の組み合わせからなり(それは再帰性をもつ)、かつ現象をプログラミングするものだと定義した。また、処理や手段といったソフトウェアも、装置などのハードウェアもテクノロジーであるとする。さらに、自然現象だけではなく人間の行動に関する原理を利用するものまで広義のテクノロジーとみなす。そうすると、貨幣や金融制度、音楽など、我々が通常テクノロジーと考えるもの以外の人工物までをもテクノロジーとみなすことは一応可能であるように思う。そうなると、身の回りのおよそ全ての事物がテクノロジーに見えてくる。それはある種の「汎テクノロジー論」ではないだろうか。評者は、この議論は間違っているとは思わない。ただし、上記の定義に当てはまるテクノロジーが真の意味でのテクノロジーになりうるのは、設計者ないしエンジニアが、ある程度現象の利用を意図して創作するという条件がつくと考える。例えば、マーラー交響曲は、作曲家自身が、聴衆の脳内作用を予め計算して、音を紡いでいったとは思えない。もし本当にそれを意図しているのであればテクノロジーと呼んで良いのかもしれないが、そうでなければ芸術作品といった方が自然な気がする。同じく貨幣への信頼も、意図して形成されたわけではないだろう。

 第二部では、標準的エンジニアリング、ドメインなどの概念を用いながら、テクノロジーの「組み合わせ進化」のメカニズムについて考察された。その概要を改めて整理すると、以下のようになるだろう。まず、組み合わせ進化の核には、新たに成立したテクノロジーが次のテクノロジーを創出する構成要素となり、次に生成されたテクノロジーは新たな構成要素となり、といった自己創出のメカニズムが存在する(第五章)。そして、新しいテクノロジーは、ある目的とそれを満たすことができる効果とを新たに結びつけ直すことで発明される。それはまた、「ドメイン」の変更といっても良いかもしれない(第七章)。その目的とは、人間にとってのニーズに由来するときもあれば、テクノロジー自体から要請されたニーズに由来することもある(第六、九章)。その過程において新たに問題が発生し、その問題への解決策がさらに別の問題を引き起こすということもある(第七章)。この過程は一様ではなく、不決定な要素が含まれるため、将来のテクノロジーを予測することは困難である(第九章)。

 以上のような進化のメカニズムは、テクノロジーのインターナルな機構だけでなく、エクスターナルな影響にまで注目した議論であり、共感できる。

 一方で、まずダーウィンの進化論とどこが似ていて、どこが異なるのか。これについては所々で言及があるものの、全体的に判然としない。ダーウィンの進化論とは、評者の理解では、突然変異によって生じた個体の差異が、ある特定の環境において生存に有利に働いた場合は残り、有利に働かない個体は自然淘汰されていくというメカニズムである。しかし、そもそも自然淘汰に相当するメカニズムについての言及はほとんどない。ダーウィンの進化論を持ち出すのであれば、より詳しく整理し、議論をしてほしい。

 次に、組み合わせ進化をクーンのパラダイム論に擬えて説明する箇所があったが、どこが違ってどこが似ているのか、この点についても説明が不足しているように思う。ドメインの変更とパラダイムシフトはどう違うのか。あるいは、パラダイム論の主要な論点である「共役不可能性」は、技術の発展/展開において適応できる議論なのかどうか。こうした点について問いを投げかけたい。    

 さらに、本書では技術者の役割についてほとんど言及がない。本書で描かれるのは、テクノロジーによる自律的な進化であり、そこでは人が不在である。果たして、技術者の役割は軽視できるのだろうか。 

 

 

 

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