yokoken001’s diary

書評を中心に記しています。

山田朗『軍備拡張の近代史-日本軍の膨張と崩壊』1997年

 

 戦史ではなく「軍事力の歴史」を扱った史書。少し古いが、軍事史以外の異分野でもしばしば引用される文献の一つ。

本書では戦時体制にない時期に、いかなる思想のもと、どれほどのエネルギーを費やして軍事力が建設されたのかという問題が主に扱われる。その際、その軍拡/軍縮の実態を数量的なデータで裏付けるアプローチが特徴である。本書の問題設定の背後には、「軍事力が国民の冷静な監視下におかれていない」という戦前・戦後日本に通底する筆者の問題意識がある。読みやすく簡便な書物ながら、濃い内容を備えている。

 

1870年代前半に、明治政府は「近代国家」建設のために様々な改革を始める。71年には御親兵が創設され、73年には徴兵制が施行され、74年に陸軍の歩兵連隊が編成された。77年に西南戦争を経て日本の軍事力は増強されるが、基本的には国内の治安維持のための力だった。同時に、山県有朋ら明治国家指導者の中には、帝政ロシアの南下に備えて日本が先手を打って朝鮮半島を確保しなければならないという戦略を唱える者がいた。こうして、1880年代に入ると治安維持能力は対外侵攻のために再編成されていく1888年には初めて師団が編成され、以後陸軍の主力部隊となった。

 朝鮮半島から清国の影響を排除すると、今度はロシアと直接に対立するようになる。軍事思想的に日露戦争は、(陸戦では)「ドイツ式の火力主義(迅速に機動する小銃・砲兵火力の集中により圧倒しようとする考え)とフランス式の白兵主義(堅固な築城によって相手の火力をかわし、火力の支援によって接近し、歩兵の白兵突撃によって一挙に勝敗を決しようとする考え)」の対立という図式を読み取ることができる。日本は前者、ロシアは後者を体現していた。近い将来欧州で軍事衝突が起きることを予期していた欧米列強は、この戦争を注視しており、重機関銃榴弾砲、有刺鉄線の重要性を学んでいた。(以後、重機関銃と重砲の配備は急速に進み、第一次大戦の大量殺戮につながる。)

 だが日本は皮肉なことに、日露戦争を経て火力主義から白兵主義へと転換し、欧米列強とは異なったルートを歩み始めた。その転換の原因を、著者は、(1)砲弾・小銃弾の欠乏=工業力の欠乏により火力主義が貫徹できなかったこと、(2)効果の薄い榴散弾を大量使用したことで歩兵に犠牲を強い、砲兵に対する不信を招いたこと、(3)白兵主義の敵国ロシア軍兵士の負傷率が比較的低かったことを挙げている。以来、陸軍では、歩兵の銃剣突撃至上主義=「日本式戦法」が定着する。一方海軍では、艦隊決戦で海戦史上類を見ない成功をおさめたことで、日露戦争以後は、艦隊決戦のシナリオから思考していく習慣が植え付けられた。また日露戦争勝利に伴い軍部の発言力が強まり、軍事戦略が国家戦略をひきづる端緒となった。

 

 第二章 日露戦争から第一次世界大戦

 陸軍は、第一次大戦を経て欧米との軍需工業力の格差を認識し、「皇軍」の「精神的優位性」に疑問が持たれはじめた。しかしこの焦燥感は陸軍の装備・編成・組織の近代化にストレートに結びつたわけではなく、欧米の戦闘にあくまで「日本式」に対抗しようとする姿勢を崩さなかった。

 日露戦争から第一次大戦に至る10年間は、海軍力の拡大によって特徴付けられる。膨張主義政策において海軍力が必須であるとみなされていた歴史的段階において、1890年に記されたマハンの『海上権力論』は、海軍力が権力政治の指導理念としての地位を獲得し、以後マハン理論に基づく大建艦競争時代に突入する。イギリスのドレッドノート建造で始まった世界列強の猛烈な建造競争の中に日本も飛び込んだが、英国の水準に追いつくことはできなかった。1911年には英国ヴァッカース社に発注して巡洋戦艦金剛を起工し、1913年に完成する。この時期の日本は、国産化路線を変更してまでも世界最高水準に主力艦を手にしようとした

 第一次大戦後は日米間での建艦競争が激化した。日米間には植民地分割をめぐる衝突が存在していたわけではなかったので、国際的な地位を強化するための軍艦建造だった。

 

第3章 軍縮期の日本の軍事力

 無理な建艦競争を推し進めていたのはアメリカも同じであり、1921年アメリカのハーディング大統領は英・日・仏・伊に軍拡停止・海軍軍備制限に関する国際会議を提案した。原敬内閣は英米強調路線に従い、この提案を受け入れた。こうして1921-22年にかけて「ベルサイユ体制」に対応する新しい国際秩序の構築を目指してワシントン会議が開催された。会議では海軍軍縮条約が締結され、主力艦と航空母艦保有比率を米:英:日=5:5:3とする要旨が盛り込まれていた。日本海海戦当時の連合艦隊参謀長であった加藤友三郎の絶大な権威は、加藤寛治らの「対米7割」論者を押さえ、果てしない主力艦の建造競争に歯止めがかかった。これにより日本の国家財政は破綻から救われたし、日米間の関係悪化も免れた。そしてこのワシントン会議は大国同士の話し合いで軍縮が実現された事実上最初の事例として、国際的な軍備管理に新しいページを開いた出来事でもあった。

 ワシントン海軍軍縮条約締結後、海軍部内は2つのグループに分裂した。一つは軍政系統で「6割」を受諾するグループ、他方は軍令系統で強大な軍事力を保有し、速戦即決を志向するグループである。1922年5月に加藤寛治が軍令部部長に就任すると情勢は変化し始め、「帝国国防方針」第二改定が軍人主導で行われ、米国を仮想第一敵国とし、索敵→漸減→決戦という3段構えの作戦構想が確立した。特に、主力艦の劣勢を補うための「漸減」(決戦の前に少しでも相手の戦力を減らしておこうとする考え)作戦を実現するために、(1)潜水艦の速度の上昇、(2)大型巡礼艦の攻撃力と速力の上昇という問題の解決に取り組んだ。こうしてワシントン条約後は、補助艦の質が向上していった。陸軍側も、山梨軍縮と宇垣軍縮を経て、師団や将兵の定員が縮小されていったが、この動きに対応して陸軍の機械化・近代化が進んだとは言い難かった。その主な原因は陸軍内の近代化路線(永田鉄山ら)と白兵主義を突き詰める現状維持派の対立だった。1928年の「統帥綱領」では勝敗の主因は依然として「精神的要素」にあることが唱えられた。そして陸軍の総動員準備も国民の精神動員体制の整備から始まった。永田鉄山らがまとめた『国家総力戦に関する意見書』では、精神動員が実現すれば「国民動員」や「産業動員」、「財務動員」なども円滑に進展することが予想されていた。

 ワシントン海軍軍縮条約締結後、補助艦船の制限のための国際会議が行われることは確実であり、1929年にロンドン会議開催が提唱された。この条約をめぐり、海軍内部では再び、妥協案で条約締結もやむ得ないとする軍政部らの「条約派」と、それを拒否する軍令部らの「艦隊派」とに分裂した。またこの条約は、天皇統帥権を補佐する軍令部長が反対する条約を政府が無理やり結んだため「統帥権干犯」であると追及され、条約派は窮地に立たされた。結局、ロンドン条約は日本の補助艦船の保有をほぼ追認する内容となり、軍縮というよりは部分的な軍拡さえも許容するものになった。

 

 第4章 軍拡・戦争期の日本の軍事力

 ロンドン軍縮条約の抜け道の一つに航空戦力の拡張があった。1930年には航空主兵論者山本五十六が航空本部技術部長に、31年には松山茂が本部長に就任し、軍用機国産化を主導した。航空機が戦力として戦史に登場するのは第一次大戦であるが、日本海軍内部では1914年にすでに中島知久平(のち、中島飛行機社長)が「航空機構造に関する私見」という意見書を海軍当局に提出している。欧米における航空主兵論者であるジュリオ・ドゥーエやウィリアム・ミッチュエルは軍当局から処罰を受けていることからもうかがわれるように、当時ではまだ中島の戦艦無用論も異端の軍事思想だった。海軍ではまず航空機による索敵、支援能力に注目され、1927年に航空本部が設置される。そして28年に改定された「海戦要務令」では、偵察以外に「漸減作戦」にも活用することが示された。1935年には世界トップレベルに九試単座戦闘機を完成させている。航空本部では、表面的には「漸減作戦」構想に従って航空機の開発を進めていたが、同時にその艦船決戦戦略の枠を超え、究極的には基地航空部隊単独で艦隊を攻撃することも企図されていた。一方の陸軍では、勝敗を決するのは白兵による銃剣突撃であるとする方針は変わらず、航空部隊を陸戦協力兵力とみなし、地上部隊を支援する軽爆撃機が重視された。このように陸海軍の航空作戦にはそれぞれ独自性が強く、独立した空軍建設は厳しくなった。

 1936年にワシントン・ロンドン両条約が失効すると「第三次補充計画」(1937年)、「軍備充実計画」(1939年)を通じて海軍力の大幅な拡張が行われた。また日本以外の国も建艦を再開した。そうした中起工された大和型戦艦は、日本の大艦巨砲主義の究極の産物だった。だがそれと同時に、(各国とも航空母艦の使い方は確立していなかったが、)「漸減」の主役は巡洋艦から航空母艦に変化しつつもあった。太平洋戦争開戦時においては、日本は航空母艦では隻数・トン数でアメリカを上回っていた。

 

 第5章 戦前期の日本の軍事力の崩壊

 1941年海軍は基地航空戦力の大部分を持って「第十一航空艦隊」(基地航空部隊)を、海上航空戦力の主力として「第一航空艦隊」(空母部隊)を編成した。これらの位置付けは、大艦巨砲主義者と航空主兵論者とでは異なっており、前者はあくまで漸減段階の戦力、および艦隊決戦の支援の戦力としてみなし、後者は撃滅のための独立した戦力とみなしていた。両者の構想は分離したまま戦争に突入しようとしていた。実際には、大艦巨砲主義者らの「待ち」の艦隊決戦構想は、アメリカからの石油輸入を止められていた状況では実現し難く、漸減作戦を積極化して航空戦力の全面的な依存のもと、日本側からハワイを叩くという作戦が展開することになった。緒戦では、航空隊の少数先鋭主義、零式観戦の高い攻撃性能、作戦の電撃性が功を奏し、連合軍に対して優勢を維持することができた。しかし、ミッドウェー開戦でベテラン搭乗員1881名を失い、彼らの再生産を根底から破壊する決定的打撃を受けた。陸軍側も「少数先鋭」主義はとても維持できない状態に追い込まれ、将校一人当たりんの下士官兵の数は45年には24.6人にのぼり、これはアメリカの8.3人に比べて相当な「水膨れ」状態になっていたことを示している。

 そもそも日米間の戦争潜在力=war potentialの格差は圧倒的で、GNPと鉄鋼生産量にして約12倍、石油備蓄量では41年で7.8倍もあった。さらに生産性格差も大きく、42-43年間の航空機製造の生産力格差は、3倍近くに開いていた。日本の航空戦力は安定した工業的基盤を確保できていなかった。このような総兵力だけではなく、陸軍では決戦の「型」こだわるばかり、現実の戦争の中から作戦を構想するのではなく、戦争が思い描いた「型」に当てはまるのを待っていたところがあり、持久戦への思想的な準備もなかった。日本軍の作戦の根底には、極端な精神主義と、総合性・ネットワークの欠如という問題があり、時と場合に応じて持てる力を総合して柔軟に対応する発想力がなかったという。様々な軍事的単位を結びつけて戦おうとする発想がなかったゆえ、通信や輸送などの各単位を結びつける分野は軽視され、レーダーや航空機無線の開発も立ち遅れたり、偏ったりした。

 

感想

・近代日本には「資源」の問題が重く横たわっているという印象を受けた。太平洋戦争の敗戦はいうまでもなく、日露戦争後の白兵主義への転換も「資源」の問題(弾丸不足)が絡んでいた。

日露戦争を経て、ドイツ式火力主義からフランス式白兵主義へと(ある意味世界の潮流に逆行するかのように)転換してしまうというのは興味深い。素人目線からだと、あきらかに火力主義の方が有利であるように思える。(これもやはり資源の問題が大きいか。)

・開戦時、米国よりも空母の隻数・トン数で上回っていたというのは意外だった。

・日本軍の作戦の根底に、総合性・ネットワーク性の欠如という問題があり、それゆえ、レーダーや通信機・輸送などの軍事的単位を結ぶ領域にある装備品の開発が立ち遅れたという指摘がある。だが、通信や輸送といった側面についての記述は本文ではことごとく捨象されている。(日露戦争マリアナ海戦は特にこの「通信」部門が戦局を左右したことはよく知られている思うが、それさえも扱われていない。) よって、(少なくとも開発の水準については)本書からはその真偽は確認しようがないのでは。

 

 

軍備拡張の近代史―日本軍の膨張と崩壊 (歴史文化ライブラリー)

軍備拡張の近代史―日本軍の膨張と崩壊 (歴史文化ライブラリー)

  • 作者:山田 朗
  • 発売日: 1997/05/01
  • メディア: ペーパーバック