yokoken001’s diary

書評を中心に記しています。

沢井実『近代日本の研究開発体制』とその書評を読む。

 沢井実『近代日本の研究開発体制』(名古屋大学出版会、2012年)

 

 本書は、研究開発体制(ナショナルイノベーションシステム)の近代日本における特質を約半世紀に及ぶ長期的な視点に経って600頁以上に渡って考察した大作である。著者が描く見取り図は、幕末から第一次大戦期までの「近代前期」とし、第一次大戦から1950年代までの「近代後期」、そして、近代の終わり=現代の始まりという過渡期である高度経済成長期を経て、1990年から「現代」が始まるというものである。第一次大戦以降の近代後期という時代は、欧米列強に対する技術的なキャッチアップを至上命題とし、そのための軍産官学の諸部門が緊密な連携を構築し、政府部門が強い主導性を発揮した時代であった。その近代後期の現代に対する規定性は圧倒的である。戦後、戦争完遂、必勝のための科学技術は経済復興のための科学技術に転轍したものの、研究開発体制における政府部門の主導性には強い連続性が認められる。我々は「近代」からの蓄積と制約の重さを抜きに、「現代」における選択肢を語ることはできない。それゆえ、近代日本の研究開発体制を探究する意義は大きい。全体の構成は、第一部(第1-4章)が戦間期の研究開発体制、第二部(第5-11章)は戦時期の研究開発体制、第三部(第12-14章)が戦後復興期の研究開発体制、第四部(第15-19章)が1950年代の研究開発体制となっている。以下では第2部までの内容をまとめ、複数の書評を確認したのち、私自身のコメントを加える。

 

  • 第1章

 第1章「「帝国」の技術者」では、工業専門学校、大学を卒業した技術者の数(=供給)を統計的に把握した上で、初職市場の動向・勤続年数(=移動)さらには、導入教育・OJT(=技能形成)について記される。注目すべきは、日本国内のみならず、朝鮮や「満州国」、台湾などの技術者、留学生の動向まで視野に入れて分析されている点である。このことで、帝国日本圏内全体における技術者の動態の解明が試みられている。まず、供給と移動については、(1)工業専門学校(以下、工高と表記)、(2)大学、(3)朝鮮、台湾、関東州、「満州」の各学校を卒業した技術者の数や、カリキュラム、初職市場などが示される。原敬内閣期において、高等教育機関の大拡張計画の一環として1920年代に多くの工業専門学校が新設され、重化学工業の進展に対応した技術者供給が可能になった。また満州事変以降は大学卒業生の民間企業への就職者が急増し、官庁技術者の割合が低下していることが特徴的である。しかし5年後の勤続率を見ると、東京・京都帝大工学部の卒業生が7~8割台であるのに対して、高工卒業生は5-6割代と大きな差があった。また、帝大工学部はやや少なかったものの、工業専門学校とともに外国人留学生も受け入れており、その中でも中国人留学生らは、母国へ帰国してから民族紡や学校などの場で活躍することによって、東アジア全域における技術者供給のあり方に影響を与えていたことも指摘される。

 

  • 第2章

   第2章「官公私立鉱工業試験研究機関の変遷とその特質」では、総力戦である第一次世界大戦の勃発により、銃後の国民的生産力を満たすべく総動員体制の確立が要求され、また、欧米諸国からの輸入途絶・減退・遅延を補うための研究開発体制の整備が求められた戦間期における官公私立工業史研究機関の変遷が追跡される。まず研究開発の担う人材である技術者の数の推移を見ると、1910年に5078人、20年に14162人、34年に41080人へと増加しており、このうち民間技術者の割合は、10年で56%、20年で73.2%、34年で61.7%といった具合に増加しており、第一次大戦期の民間部門の成長を反映して、技術者分布の民間比率が急上昇していることがわかる。また分野別に見ると、34年に入るとそれまで多くのウェイトを占めていた鉱山、繊維、造船などとならんで機械、電機・電波、化学などの重化学工業部門の割合が上昇している。次に、民間試験研究機関の動向をみると、分野別では、20年代初頭からすでに重化学工業に傾斜していたことが特徴的である。また戦間期では、工場内に設置された研究係・研究室などが次第に拡大して研究部などに昇格し、その後研究所として分離独立するケースが多く、民間企業がこうした試験研究機関を有する場合が増えていたことも特徴的である。続いて官立試験研究機関では、1931年時点で陸軍8機関、海軍7機関を含む計73機関があり、研究者数は陸海軍を除いて829人だった。その中でも逓信省電気試験所、東京帝大航空研究所、東北帝大金属材料研究所、電気通信研究所(35年設立)、京都帝大化学研究所等の附置研究所、陸軍技術本部・陸軍科学研究所、海軍技術研究所、海軍航空廠などが有力な試験研究機関だった。最後に公立の試験研究機関を見ると、当該地方の在来産業・地場産業の展開と関係しているものが多く、代表者は高等工業学校の卒業者であることが多かった。分野も繊維、機織、色染、染料化学、などがほとんどだった。以上のような戦間期における官公私立試験研究機関のあり方について認識・指摘されていた問題点は、第一に、民間企業における試験研究部門と現業部門との連絡の悪さだった。つまり、研究機関で熱心に研究している事項は、営業上もっとも改善が必要とされているものだとは限らないケースが多かった。第二に、官公立試験研究機関と産業界、および試験研究機関相互の連絡の悪さだった。したがって、研究機関所属の技術者が価値あるものと信じているものが、産業上案外利用価値がないものである場合があった。しかしその一方、陸海軍と特定の民間メーカーとの深いつながりはこのころからすでに存在しており、1930年代半ばの海軍技術研究所は国防科学協議会を通じて部外研究機関への研究委託を行なっていた。例えば、電気研究部の場合は東北帝大電気通信研究所の抜山平一が嘱託になっていた。しかし軍産学間の研究交流もいまば部分的、散発的なものに止まっていた。

 

  • 第3章

   第3章では、陸軍技術本部および陸軍科学研究所を中心にとりあげ、戦間期陸軍の兵器研究開発の実態がいかなるものであったのかが検討される。1919年に設置された陸軍科学研究所と陸軍技術本部は、前者が基礎研究、後者がその成果を利用し、兵器開発につなげる役割を担っていた。しかし、実際に技術本部から陸軍科学研究所への委託は少数にとどまっており、そのような分業体制は確立していなかった。加えて、陸軍技術本部は当初構想していたように、兵器に関する全ての調査研究を一括し実施することはなく、その役割は限定的だった。技術本部の編成は、1931年時点で総務部(庶務班、調査班)、第一部(庶務、共通、火砲、銃器、車輌、射表、弾薬、測機)、第二部(統調班、審査班、設計班)、第三部(庶務班、第一班、第二班)という構成だった。人員・予算は、1923年時点で約350名、経常費は年額約35万円だった。なお、1922年に陸海軍の関係高官を加えて、軍事技術の知識向上、研究進展を図る目的で科学協議会が発足し、これがのちの国防科学協議会の起源となった。本会議は、技術本部、大学の博士、工業試験所の間での研究連携の場でもあったが、1930年代に入ると、実質的には食事会のような会合になり、軍産学研究連携が新たに動き始めるのは、1932年以降である。陸軍科学研究所の動向で重要なのは、1932年から34年にかけて、多田礼吉が第一部長を務めたことである。多田の着任早々、第一部では電子関係の研究に重点が置かれるようになり、研究が大いに活性化したようである。また多田の着任後、外部研究者の活用に乗り出し、特に満州事変後の1933年以降は嘱託数が急増している。

 

  • 第4章

   第4章では戦間期の海軍技術研究所の実態を明らかにすることを通じて、戦間期の研究開発体制の特徴が考察される。1923年に海軍技研の設立当初は4課と10班構成の研究部からなっていた。しかし同年関東大震災後の火災の影響により、30年に目黒に移転される。その間、1925年に大幅な組織改正が行われ、研究部が廃止され、科学研究部、電気研究部、航空研究部、造船研究部の4つの研究部から成る構成に変わった。そして戦時機に入ると1939年に材料研究部、40年に音響研究部、42年に実験心理研究部、43年に電波研究部が新設されていった。技研の人員は、文官・武官の高等官、文官の判任官、工員グループから構成されており、1937年の時点で、高等官55名、判任官78名、工員・職夫が1063名であり、研究の推進力は、優秀な工員グループに負う部分も大きかったという。また、研究項目は訓令・照会によるもの(予算が別途配布されるものと、されないもの)、自発的に実施するものがあった。部外嘱託についてはあまり触れられていないが、東北帝大通信研究所所長の抜山平一は技研嘱託であったし、伊藤庸二は外部の研究機関の連携強化に努めた一人だった。戦間期、特に1930年代以降、陸海軍試験研究機関の活動の中から、軍産学との密接な連携の関係の原点が形成されつつあった。(以上、第一部)

 

  •  第5章

 第5章「戦時期日本帝国における技術者供給」では、日中戦争勃発以降、「産業構造の機械工業化」、「機械工業の兵器工業化」によって特徴付けられる日本経済の変化に対応しながら、技術者供給の構造がどのように変容していったのかを明らかにされる。まず、大学工学部や工業大学の新設が相次いだことが特筆される。1940年度に名古屋帝国大学理学部が、1942年度には東京帝国大学第二工学部が新設された。私立大学では、藤原工業大学が新設され1942年度に第一回生が進学した。(なお、本校は44年8月から慶應義塾大学工学部となった。)そのほかには1942年に興亜工業大学が1943年には大阪理工科大学が新設された。また各大学で学科の増設も目立ったが、その中でも注目すべきは戦前には東大にしか存在しなかった航空(工)学科が、北大を除く5帝大および東工大に設置されたことである。また、阪大、東北大、九州大、早稲田大に設置された通信工学、電気通信等のエレクトロニクス関連の増設も注目される。その結果、7帝国大学の卒業者数は1936年度の890人から44年度の1829人へと倍増した(私立や東工大を含めた全体では2.1倍)。また1939年卒業生から学校卒業生使用制限令という就職統制が始まり、各企業は必要な新卒者の数を工場・事業所単位で厚生省に申請し、同省による調整を経た上で配当を決定し、各学校は企業との間で新卒者の就職を決定した。なお、東大工学部では、陸海軍の委託学生が卒業期を迎えることもあり、軍関係への就職者が42年9月卒業で132名に上り、これは全体の1/3を占める規模だった。次に、工業専門学校について見ると、1939年度の官立高等工業学校7校の新設が特筆される。具体的な動向としては、(1)機械関連学科の拡充、(2)航空学科やエレクトロニクスなどの新分野の増設、(3)エネルギー関連の学科の拡充が特徴としてあげられる。私立の工業専門学校についても各種学校からの昇格や、工学系を持たない私大が新設するケースなどがあり、拡充が図られた。最後に「外地」の技術者供給の動向について見ると、1931年に台湾に開校した台南高等工業学校は39年に電気化学科、44年に土木科と建築科が増設された。なお、37-45年までの卒業生1098人のうち台湾人は144人しかいなかった。また朝鮮においても複数の高等教育機関の拡充がみられた。しかし就職機会は日朝間で分断されていたようである。朝鮮にある日本人会社で朝鮮技術者が就職するケースは極めて稀有だった。関東州では、旅順工科大学に36年に応用化学科が、39年に航空学科が新設された。

 

  • 第6章

 第6章「戦時期の産業技術政策」では、戦時期に日本の戦争遂行能力に対する深い危惧が様々なレベルで表明されるなか、それらを事態を打開するために展開された科学技術政策、産業技術政策を扱う。具体的には、技術院の設立に至る経緯および活動内容、商工省の産業技術政策の一端が検討される。1938年に内閣に科学審議会が設置されるが、これが戦時下における科学技術政策の最初の具体化である。ここでは不足資源の科学的補填や機械類の国内供給力の充足の方策などに関する諮問が出されたものの、それらを実現する資金的基礎は脆弱だった。一方、文部省は1938年に科学振興調査会を設置し、戦時科学ブームを背景に「生活の科学化」を提唱する。また同年教育審議会が内閣に設置され、答申には大学工学部・理学部の拡充や日本文化・東洋文化に関する学科・講座の拡充が記された。科学動員をめぐっては、研究の方向性を国家が示す必要性が訴えられる一方で、研究の自由を主張するものもあり、意見が紛糾していた。科学動員の中枢であった企画院では1939年になってようやく科学動員委員会が設置され、翌年に「昭和十五年度科学動員実施計画綱領」が閣議決定されるが、施策としては総動員試験研究令の発動と研究資材の物質動員計画の策定がなされただけだった。その後、新体制運動が追い風となり、日本技術協会の国防技術委員会が活発に活動を展開し、1940年に134の科学・技術団体を糾合した全日本科学技術団体連合会および財政法人科学動員協会が設立される。同年7月、基本国策要綱閣議決定されて以来、企画院は科学技術政策の立案作業を進めるが、財界や、省庁では主に商工省と文部省からの反発にあった。科学を担当する文部省、技術を担当する商工省の間にあって、新設の技術院は「科学技術」を担当することになる。1941年5月27日に漸く科学技術新体制確立要綱閣議決定され、(1)科学技術行政機関の創設、(2)科学技術研究機関の総合整備、(3)科学技術審議会の設置の三つの柱が掲げられた。しかし、(1)が技術院の開庁として実現するのは42年2月、科学技術審議会の官制公布は同年12月、(2)に関して調査研究連盟と調査研究協議会が設置されるのも、各々同年9月、12月と遅れが目立った。技術院は各省庁からの反発にあい、陸軍に意向に沿う形で「航空技術院」の性格を強め、商工省や特許局の業務の一部を担う機関という当初の構想からは大きく離れたものになった。科学技術審議会の設置の準備に向けて、「科学技術審議会の設置に関する懇談会」(p.153に招待者の名簿が記載されているが、陸海軍、アカデミア、理化学研究所、民間企業などから集まった錚々たるメンバーである)が1942年3月から開催された。この会では、同審議会と技術院以外の他省庁と各種既存官制委員会との関係が最大の問題となっていた。特に文部省の学術研究会議との重複が懸念されていた。そして、1943年に科学技術審議会総会が開催されたが、これは最初で最後の会合であった。同会では合計30の諮問について、61の答申を行なった。特に、材料部会が担当した諮問が多かった。また第一部会の「決戦体制下に於ける科学研究の動員方策」および科学体制特別部会の答申「研究体制整備に関する応急対策」を受けて、「科学研究の緊急整備方策要綱」(8月20日)が閣議決定されたことで、学術研究会議の研究動員体制が動き出したことは注目すべきことである。また「科学技術動員総合方策確立に関する件」(10月1日)が閣議決定されたことで、研究動員会議・戦時研究員制度が動き出した。

 

  • 第7章

 第7章「戦時期における研究開発体制の変容」では、戦時期の科学技術動員のプロセスを跡づけることで、研究開発体制がいかなる変容を遂げたを考察することが課題とされる。前半は、官公私立研究研究機関の動向が検討される。民間の試験研究機関は、1939年に383、1942年に711と拡大し、研究人員は23955人を数えた。その専門分野別分布は、戦時期になると機械器具、金属関連の機関が急増していることがわかる。民間企業が有する試験研究機関も拡大したが、官立との違いは全体に占める大学程度の研究人員が18%と官立に占める割合(28%)と懸隔があったことである。なお1943年の時点で民間試験研究機関506の機関に21142人の研究員が所属していた。官立についてみると、戦時期には工業関係の試験研究所の拡大が顕著だが、依然として農林水産関係のウェイトが大きく、重化学工業関連の人員は全体の15%に止まった。戦時期において、陸海軍の研究開発機関が膨張したことはもちろん、これらの試験研究機関との陸海軍との関わりは、(1)陸海軍からの研究委託の増加、(2)研究員が陸海軍嘱託として、または海軍技師として登用され陸海軍研究機関の活動に直接参画する機会の増加、(3)一部の官公私立研究研究機関そのものが陸海軍研究機関の研究分所・研究分室になるという3つのパターンによって深化していった。ここで注目すべきは、1944年度時点で海軍技研の電波・電気研究部の研究分所・分室に指定された31の民間企業や大学に、多摩陸軍技術研究所の15の研究室が所属する大学・民間企業の全てが含まれており、陸海軍が優秀な研究機関を囲い込んでいたことが窺い知れるということである。後半は、戦時下の研究開発機関の最大の変容形態である共同研究制度の実態を、この時期に代表的な5つの場を取り上げて、内実を明らかにしていく。その5つの場とはすなわち、(1)大日本航空技術協会、(2)研究隣組、(3)戦時研究員制度、(4)学術研究会議の研究班、(5)日本学術研究振興会の総合研究である。(1)は、1942年5月に設立された財団法人大日本航空技術協会によって1943年に開始された活動であり、同年度は14の部会で、88の分科会、305の研究班によって、航空関連の共同研究が行われた。(残念ながら、各班がどれくらい異種混合的な集団だったのかは明らかにされていない。) (2)は、1940年に設立された全科技連によって担当された共同研究活動である。1943年までの30組の研究隣組が結成され、43年度は40、44年度は82組の研究隣組が組織された。(3)は1943年に科学技術審議会研究体制特別部会によって出された答申に基づき実施された制度で、1943年10月より開始された。その内容は、研究動員会議が重要研究課題を選定し、戦時研究員を任命し、資材の確保を図るというものである。計約250の課題が実施され、約100件の研究が完了した。(4)は文部省所管の学術研究会議が、43年の閣議決定「科学研究の緊急整備方策要綱」をもとに編成された共同研究制度で、44年からは陸海軍技術運用委員会が新兵器の研究・生産を一元的に統括する任務を担った。1943年は104件の課題を100の班が取り組み、44年度は195班に拡大した。(5)の様子は、それほど詳しく明らかにされていないが、1943-45年で12の委員会により、計708人が総合研究の推進を担った。これらの共同研究プロジェクトにおいては、重複調整を巡って様々な問題が生じていた。複数の共同研究に同時に取り組む必要に駆られた研究者もおり、優先権などについて混乱が生じていた。また、技術院と文部省との溝が深まり、陸軍技術運用委員会の多くが学術研究会議のメンバーで占められていたことに対して、当時の技術院総裁の井上匡四郎は不満を表明していた。

 

  •  第8章

 第8章「太平洋戦争後期における「共同研究」の諸相」では、海軍科学技術審議会および、東芝、海軍、商工省、技術院での真空管増産研究の事例を取り上げ、戦争後期における研究開発体制について検討される。学術振興会、科学動員協会、国防科学協議会、大日本航空技術協会、科学技術審議会など、科学動員のための専門家集団は他にもすでに存在していたが、これらは「普遍的」であり、海軍的性格に特化してこれらを運用することは難しかった。従って海軍における科学および技術の諮問機関として、1943年に海軍科学技術審議会が発足することになった。メンバーは、理研長岡半太郎東工大学長の八木秀次日本放送協会技術研究所所長(元技研所長)の箕原勉、逓信省電気試験所所長の堀岡正家ら計22名だった。長岡半太郎は、第一回総会の当時の日記に、陸軍の諮問と似ており、双方で合議すればよいのにやらない、腹の内でいがみあいがある、と記している。海軍科学技術審議会は、4つの小委員会に分かれ、各々専門分野についての諮問を受けて、専門的な助言を下した。後半は、1943年に東京芝浦電気の川崎支社で開催された「真空管生産隘路打開」に関する懇談会に始める、真空管増産のための共同研究の実態が検討される。懇談会では、真空管増産のための具体的方策について、大学関係者(東大:野口尚一、星合正治東工大:海老原敬吉、佐々木重雄)から様々な提案が出されているが、設計に関しては(1)性能設計(=質にかかわるもの)と(2)量産設計(量にかかわるもの)とに分け、プレス作業を海中時計製作者に任せることなど、既存資源の有効活用について提言されていたことが目を惹く。一方、商工省機械局でも真空管の増産が重要課題となり、1943年10月に「真空管増産計画」が作成された。具体的には労務者の補充や電球工場の転用などの項目を含んだ8つの点が指摘されているが、東芝の技術公開という項目については、川崎支所と通信工業支所に講習会、実地指導を行わせるといった内容だった。(実際に行われたのかどうかは、ここでは明らかにされていない。) 技術院では、1944年2月に「電波兵器決戦生産体制整備要綱(案)」が作成され、続いて3月に「電波兵器指導本部設置運営要綱(案)」が作成された。この電波兵器の指導本部をおく案は実現しなかった。また技術院で展開された戦時研究員制度では、「真空管量産の躍進的向上を期するの見地よりする技術上の具体的方策の研究」が1944年の3月に提出され、5月末には終了した。研究会のメンバーの一人であった小林正次は、当時の日記に、「相当の根本手術」がないと解決しないと思われるといった趣旨の記述を残している。最後に、海軍に主導の共同研究の場としては、海軍工業会電気工業会通信部会真空管分科会技術委員会五社真空管技術委員会などがあった。1944年には海軍独自の増産対策も行われており、同年5月には「真空管生産促進調査会」が設置された。同会は、試験規格を決定する第一分科会と、使用材料と処理加工に関する第二分科会から構成されていた。ここでは、レーダーの磁電管に関する議論が行われていたようである。また、海軍では、航空機搭載無線電話機用受信真空管の性能改善を目的に、1944年10月に「海軍航空本部真空管生産技術指導委員会」が設置され、航空機用受信管「FM-2A05A」や新型の「ソラ」の歩留・性能向上、量産促進などが議論された。

 

  • 第9章

 第9章「陸軍航空品部技術部・陸軍航空技術研究所の活動」では、約四半世紀に及ぶ陸軍における航空関連研究機関の実態が取り上げられる。陸軍の航空関係の研究開発機関は、(1)陸軍航空学校研究部(1919年設立)および陸軍航空本部技術部(1925年設置)の時代と、(2)陸軍航空技術研究所設置(1935年)以降の「拡大」の時代とに二分できる。1920年代後半の陸軍技術本部は、外国人技術者から設計技術を直接学ぶことに努め、瑞西(スイス)人のエーリヒ・ユースト、リチャード・フォークト、ハンス・プーヘルらから数ヶ月にわたって、飛行機設計などに関して技術移転を行なっていた。また1930年代に入ると陸軍科学研究所や帝国大学、民間研究所といった内外の研究機関に対して共同連携を行なっており、広範な研究ネットワークを張っていた。技術部の任務は次第に設計業務や実用研究を外部に依存するようになったことから、審査研究へと主たる任務が変わっていった。この点、設計も行なっていた海軍航空廠とは大きく異なる。1935年、陸軍航空本部技術部の現業部門を継承する形で陸軍航空技術研究所が設立される。定員は106名だったが、1937年に研究所令により改正されたときの定員は203名だった。予算は、日中戦争を境に倍増し、39年度には3253万円を数えた。1940年には審査に力点が置かれていた体制を研究面から強化すべく、従来の三部制から8部制へと改変したが、例えば発動機を例にとると、設計それ自体、製造試作、関連部品その他の基礎実験の大半が民間企業によって行われていたことは特徴的である。一方で様々な機会を捉えて必要な研究情報の収集に努めていたことが窺える。1941年には陸軍航空技術研究所において理研の矢崎為一がアメリカの近年の研究動向について談話を行なっている。だが、軍事研究のうちで何を内部で実施し、何を外部に委ねるのかの判断にかんしては、試行錯誤を余儀なくされていたという。

 

  • 第10章

 第10章「海軍航空廠・海軍航空技術廠の活動」では、戦時期の日本において最重要技術の一つであった航空技術の中心的な開発・実験組織である海軍航空廠(のちの海軍航空技術廠)の活動に焦点が当てられる。1932年に設立された海軍航空廠は、計8部から構成され、基礎的な理論研究から実用機に対する飛行実験、審査、試作機の設計、さらには製造能力も持つ研究実験期間だった。1935年時点での高等官は104名、総員は約3000名だった。また、大学・高等工業卒の技術者の養成には相当の時間をかけていたようで、入廠後1年間は実習期間となっており、その後次第に実務に就ていった。1938年4月には材料部が、39年4月には発着部が新設された。外国技術の吸収にも努め、1936年には海軍航空廠造兵少佐と工手が欧米に派遣され、37年にはドイツのユンカース社から「ユモ」発動機の装備期待が到着することになっていた。1939年に海軍航空技術廠と改名され、41年には電気部、さらに従来の兵器部と新設の爆弾部からなる支廠が設置された。41年時点で、高等官は518名、判任官281名を擁し、研究嘱託も25名に依頼していた。なお、戦時末期の45年2月に海軍航空技術廠は第一海軍技術廠と改称され、電波・音響・音波関係の実験研究機関として第二海軍技術廠が設置された。終戦時の第一海軍技術廠の高等官は656名、工員その他含めて合計1万4031名を擁する巨大な機関になっていた。海軍航空廠でも、様々な共同研究が行われていた。例えば研究嘱託の一人である東大の谷一郎(1940年に任命され、「境界層に関する研究」を行なった)によると、科学部が中心となって定期的に風洞水槽研究会が開催されておた。ここでは62本の研究報告が行われており、民間企業の研究者や陸軍関係者らも網羅されていた。

 

  • 第11章

 第11章「太平洋戦争期における陸軍の研究家初体制構想」では、陸軍技術本部および陸軍兵器行政本部技術部の活動を中心にして、戦時機における研究開発体制の方向づけが探られる。第三章で検討されたように、1919年に設置された陸軍技術本部と陸軍科学研究所が陸軍の兵器開発の司令塔および実施機関だった。その後1938年の改正により、通信や電波兵器を所掌する技術本部第4部が置かれた。技術本部では、部長が主任担当官を決め、民間試作工場を選定し、これに対して設計の大網、仕様を示し、主任担当官のもとで試作工場にて設計・製作が行われ、部内審査・実践試験を経て、制定されるという流れだった。1941年の改正で、技術本部と科学研究所が統合し、技術本部は総務部と1-3部、研究所1-8と登戸研究所(9)から構成されるようになった。続いて1942年には、陸軍兵本部(陸軍兵器廠に含まれる)と技術本部との統合が企図され、陸軍兵器行政本部が設立された。ここでは様々な科学技術体制構想が模索されていたが、画期的兵器の開発を目的とした技術研究所と部外研究機関との連携が強調されていた。研究動員は、まず、陸軍技術本部の調査班が、仙台・北海道の試験研究機関の動員可能性を模索していた。これは、東京付近の勤務者は多数の研究項目を抱え、多忙な者が多いため、むしろ北大等の教授の方が研究に専念できるとの着意によるものだった。実際、東北大では附属の電気通信研究所宇田新太郎らに「超短波、極超短波ノ発振特ニ真空管ノ研究」などの課題を委嘱していた。陸軍兵器行政本部設立当初における嘱託数は192名だった。1943年に入ると「個人の動員」から「組織の動員」へと深化が図られ、その結結果44年上期に142名、下期に139名が新たに動員された。また逓信省電気試験所の堀岡正家とも協議し、堀岡自らが第八技術研究所を見学し、協力可能事項について連絡を取っていた。(以上、第二部)

 

  •  書評

 以上が第二部までの内容である。次に、ネット上で閲覧できる複数の書評を取り上げ、各評者の本書に対する評価をまとめておきたい。

 まずは、経営史家の平本厚氏の書評(https://www.jstage.jst.go.jp/article/rekishitokeizai/56/1/56_KJ00008919054/_pdf/-char/ja)。平本は、本書の成果を、膨大な資料に基いた「様々な個々の事実の発見」にあると述べる。特に、戦時期の陸海軍の研究開発体制の分析は、これまでブラックボックスとなっていた内実を明らかにしているという点で特筆すべき成果であるという。一方の問題点としては、第一に、研究開発体制の定義の問題をあげている。本書では、それをナショナルイノベーションシステム(=イノベーションを生む国民的システム)とみなしているため、技術者教育、研究機関の動向、その間のネットワーク、各種研究体制政策の推移などされる議論が展開されている。だが、イノベーションとはより広い概念であり、例えば企業間関係の機能など、もう少し広い視野から分析されるべきだと指摘する。第二に、戦前の民間企業の位置である。沢井によれば、近代後期はまで、戦前・戦後にわたって政府主導の産官学連携体制が継続し、技術のキャッチアップが達成されたのちの現代において、初めて企業がそれを主導すると主張される。しかし、戦前の企業の位置は、卒業生の就職先としては最大であったし、学術論文執筆においても、大学に劣らない地位を保っていた。よって、企業の研究開発の独自の意味を汲み取る余地はまだ残っていると指摘する。 

 

 次は、『アカデミック・キャピタリズム』の著者である上山隆大氏のレビューを見てみる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/79/4/79_KJ00009263477/_pdf/-char/ja

 上山は本書を、これまで概念的に論じられてきた日本の近代化に果たした科学技術の役割を、本格的な実証研究によって示した「経営史および科学技術史の分野における新たなベンチマークを画する」「金字塔」であると高く評価した上で、次の3つの問題点を指摘する。第一に、平本と同様に、ナショナルイノベーションシステム(NIS)への味方に関する指摘である。NISとは、クリストファー・フリードマンやリチャード・ネルソンらによって1980年代後半から使われ始めた用語で、グローバリゼーションの論理に対抗するように国内の政策的制度の役割を論じるための概念装置である。本書では、研究開発体制にこのNIS概念を単純に重ねているが、それはNIS概念が生まれた背景を十分に認識していないのではないかという疑問を示している。第二に、各国との比較の視座の欠如を指摘している。例えば、基礎研究とミリタリー技術をつなぐところに国家戦略があると考えられるが、それは日本と米国では大きく違うだろうと述べる。第三に、戦間期・戦時期の研究開発の戦後への遺産としての「共同研究」体制と、「産学連携」とを同一視しても良いのかという問題である。両者では、「研究大学」のシステムに大きな違いがあるという。

 

 さらに、教育史の大淀昇一氏の書評も見てみよう。https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/123/6/123_KJ00010090862/_pdf/-char/ja

 大淀氏のレビューでは、評者の日本工業教育史に関する知見と照らし合わせながら内容が紹介されていて興味深い。例えば第二章で指摘されている研究部門と生産部門との連絡に悪さは、軍需工業動員法の公布(1918年)後の帝国大学工科大学において、設計技術者の養成に重点を置くあまり、生産技術者の養成が遅れていたという問題を孕んでいたことが紹介される。また本多静雄氏へのインタビューのエピソードにも触れられており、沢井が示す科学=文部省、商工省=技術、そしてその真ん中にある科学技術=技術院という所掌分担関係が、当事者にとっても事実であったことを紹介している。

 大淀氏が指摘する問題点は、産官学連携を主導してきた政府部門の役割が、「現代」に入ると大きく減退したという沢井の見取り図である。実際には、1995年に公布された科学技術基本法において政府部門の科学技術行政の新たな枠組みが示されたと見ることもできるのではないかというのである。また、共同研究については、研究者自身が自発的に研究テーマを追求できない研究統制の下での研究体制であった点を確認する点が必要だったと指摘する。その統制という性格が、共同研究の興隆と関わってくる可能性があるからである。

 

 最後の科学技術史の橋本毅彦氏のレビューを確認しておく。(こちらは残念ながらweb上で閲覧できない。)

橋本氏は本書を、科学史の分野で近代日本の科学技術の制度史の標準的な書物であった広重徹『科学の社会史』にとって代わる、「この時代の歴史研究で必ず参照されるスタンダードな参考文献」になると、高く評価している。また本書の叙述のスタイルを、「各時期における研究開発の人的資源の統計的なデータの算出、全国における研究開発組織の網羅的な調査、そしていくつかの代表的な事例における研究活動の実情の紹介を順次提供する」方法であるとまとめた上で、読者の関心を引く図表が随所に掲載されている点も特徴的であると述べる。本書の限界点としては、研究開発体制の組織づくりに大きな影響を与えたことが予想される「海外情報の流通事情」について押さえておく必要がある点を指摘している。加えて、共同研究の人的ネットワークの形成が、技術の論理によって形成されたものなのかどうか、もしそうだとしたらそれはどこまで日本独自のものであるとみなせるかを、海外比較を通じて試みると、さらに議論が深まると指摘している。特に後者の指摘は、技術史サイドから見た重要な指摘だろう。

 

 まだ他に、青木洋氏の書評など気になるものはいくつかあるが、図書館が閉館しており閲覧できないため、これくらいにしておこう。そして、最後に僕自身のコメントを(あくまで第二部までを読んでの感想であるが、) 付け加えておく。

 まず個人的に、本書の大きな成果は、戦前の陸海軍の活動について従来の歴史記述を更新した点にあると考える。これは、本書の序文にも記されていることであるが、広重は「第一次対戦の経験に教えられて着手され、不況のなかで中断していた科学動員への努力は、1930年代にはいって息を吹き返し、太平洋戦争に向かって強化されていく」と書いていた。しかし本書はおびただしい数の一次資料に基づいて、「科学動員への努力」は「不況のなかで中断されていた」わけでなく、厳しい予算制約のもとでも着実にその基盤を固め、新兵器開発を目指していたことを明らかにした。この歴史記述の変更は、従来の陸海軍の役割を見直す大きなきっかけになるだろう。

第二に、本書の特徴は、何よりも膨大な資料を検証可能な形にオープンにしてみせた一種の資料目録のような性格も持ち合わせている点にある。その意味で分野横断的に、多くの研究者によって重要な資料情報を提供してくれる点も素晴らしい。

 本書の最大の限界点は、戦前期・戦時期の研究開発のもとで取り組まれた活動が、具体的にどのような身を結んだのかが考察されていない点にあると考える。いや、正確に言えば、その成果とは「共同研究」=異分野間のネートワークの形成という一種の「経験」であったというのが本書の基本的な主張である。しかし、研究開発そのものは、そうした共同研究の生成を意図して形成されたわけではない。その経験が生まれ、戦後に引き継がれたというのはあくまで結果論である。例えば、真空管の増産活動などが紹介されているが、結局のところ、その活動は真空管の増産をどの程度なし得たのだろうか。こうした各活動の肝心な成果が記されていない。

 加えて、本書は科学史・技術史の文脈にそって、その研究開発活動がどのような意義をもっていたのかが明らかにされていない。異なる組織間の共同研究というのは、当時の日本で、研究テーマの関連分野で権威であった複数の研究者らが手をとりあって研究に取り組むということだろう。それは具体的な研究プログラムにとっても、革新的であったことが予想される。

 

 ちなみに、著者の第一次大戦後を「近代後期」とみなす見取り図は、なるほどと思わされる。確かに、第一次対戦のインパクト、つまり、科学に基づく新兵器開発だけではなく、総力戦に対応する形で国民的生産力を肝要する研究開発体制の整備、輸入の遅延・途絶に対処するための、国内における工業化の重要性の高まりなど、1914年前後で一つの時代に区切りがつくというのは納得される。科学史分野では、しばしば、理化学研究所の設立(1917年)を、第一次大戦インパクトというよりはむしろ、試験機関から研究機関への移行を象徴する出来事だと説明される(※)が、この認識も、本書の見取り図と矛盾しない。

 

近代日本の研究開発体制

近代日本の研究開発体制

  • 作者:沢井 実
  • 発売日: 2012/11/15
  • メディア: 単行本
 

 

 

※ 杉山滋郎『日本の近代科学史』、29頁。