yokoken001’s diary

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平野啓一郎『空白を満たしなさい』を読みました。

 

 一度死んだはずの人間が生き返ってくる。

 この非現実的な設定を通じて、あるいは一つの思考実験を通じて、人間が生きるということまた死ぬということは何なのか、そして人はなぜ自殺をするのかという問題を考えた長編小説である。

 主人公の徹生は、ビールの缶を開発に携わる36歳のサラリーマン。彼は、あるときふと会議室で意識を取り戻すのだが、実は自分自身は三年前に死んでおり、「全国各地で起きている死者が生き返ってくる」という出来事の当事者の一人であることを知る。だが、彼が死んでしまっことで空いた穴は、すでに多くの人によって埋め合わされつつあった。彼の周囲にいる人々は、突如彼が生き返ってきたことに喜びつつも、同時にある種の戸惑いも見せる。そして、彼の妻の千佳は、喜びと戸惑いの板挟みの中で煩悶しつつも、最後にはある一つの事実を彼に言い渡す。それは、徹生は実は三年前に自殺をしたということだった。

 だが、彼自身は、どう考えても自殺をした記憶はなく、自分を自殺をする人間だともついぞ考えたことはなかった。そして、実は自分は自殺したのではなく、他殺されたのではないかという考えに至る。そして、彼の会社の警備をしていた佐伯という人物に付きまとわれており、些細な出来事をきっかけに、面倒な関係になっていたことも思いだす。そして、おそらく自分は佐伯によって殺されたのではないかとの推測を元に、犯人探しを始めるというところからこの物語は始まる。徹の死の30分前の、記憶の「空白を満たす」ために、彼は動き出す。

 人間社会は、もちろん人間の生は一度しかないことを前提にして成り立ってる。もしも仮に死んだ人間が生き返ってきたとしたら、様々な問題が生じる。生命保険は全額返金すべきなのか?労災保険は? またキリスト教国では「最後の審判」のときが近づいているなどの騒動が起きつつあった。様々な混乱が生じる中、復生者らの権利を保護しようとする運動が起こり、そのメンバーとの交流を通じて、新たな事実が一つ一つ浮かび上がってくる。

 

 この小説のキーワードの一つは「分人dividual」という概念だ。これは著者が以前から提唱してきた考え方である。それは、「個人individual」と対になる概念で、人間をそれ以上分けることのできない存在として捉えるのではなく、複数の分割可能な人格の総体として捉えようとする概念である。家族といるときの自分、学校で友達とともにいるときの自分、先生と話しているときの自分、恋人といるときの自分、家で一人で読書をしているときの自分、職場にいる自分、、、これら全ては異なる「自分」である。そして、どれが本物の自分なのかと発想することをやめ、全部が分割可能な自分=分人なんだということを認め、その分人の比率がそのときどきで違っているのだと考えようと思考の転換をすることが、この概念が導入された意図である。従来、よく「キャラを変える」とか「仮面を付け替える」といったイメージで捉えられてきたこの複数の人格性を、積極的に「本物の」キャラや仮面を認め、選択することで、「偽物を」空虚にしてしまうのではなく、むしろ対人関係の中で自然と受動的にある分人の比率になってしまうものであると見なし、それゆえ、全部が自分なのであり、好きな比率の分人を基盤にして生きていこうというのが、この著者の主張であると理解している。

 この概念を手立てとして、本書では、自殺の問題が考えられる。単刀直入に言えば、自殺とは、本当は、ある特定の相手といるときの分人が嫌いなだけなのに、他の分人たちが、あたかもその分人が個人全体であるかのように錯覚して、その存在を消そうとしてしまい自分を殺してしまうことなのだという。そして、もう一つ重要なのは、自殺者は本当は死にたかったのではなく、存在を消したかった分人をなくすことで、まともに生きようとしたかったのでないかと考える点だ。

 

 残念ではあるが、僕はこの分人という概念にも、またこの概念に依拠した上記のような自殺の説明も、腑に落ちなかったということを告白しなければならない。

 本書の下巻にも登場する比喩なのだが、分人というのは、丸いケーキをある比率に切っていくようなイメージで考えられる。あるときは、家族といるときの分人Aが1/3、友達といるときの分人が1/3、家で一人でいるときの分人が1/3といった具合で、別のときには、その比率が異なるといった具合である。そして、分母の数はいくつでも構わない。

 だが、僕は、分人という概念を認めたとしても、それはケーキのようではなく、ベン図のように重なり合っているものだと思う。そしてその重なりかたは、対人関係の中で変化する。(分母の数がいくつでも構わないのと同じく、集合の数もいくつでも構わない。) そして、おそらく平野氏によれば、このベン図の輪郭全体がその人全体なのだというだろうが、僕はむしろこの重なっている部分に注目したいのだ。そして、やはり人格が様々にかわりつつも、その中でも不変の部分というのを、本当の自分という風に見なしたい。好き嫌いの問題かもしれないが、僕はやはり個人的な何かを認めたいと思う。

 

 そして、自殺について思うのは、本来、自殺者はなぜ自殺するのかを明確に述べることはできない状態に置かれていることが多いと想像する。それは芥川龍之介が言った「ただぼんやりとした不安」のようなものであると思う。ただ、疲れたというそれ以上のことを考えることはできないのだと思う。分人という考え方を採用すれば自殺者がなくなるとは、正直あまり思えない。

 (ちなみに、僕自身は、自分のことを後回しにして、一旦、自分が脇役になることに努めることが、自殺を防ぐ一つの方法としてあると思う。)

 

 僕は、おそらく小学生(もしかしたら幼稚園のころだったかもしれないが)のとき、父親に「自殺しちゃだめなの?」と聞いたことがある。そのとき、水の中でずっと息を止めていると死ぬということを知っていたので、同じように自分で息を止めれば死ぬことができるのだと考えていた。父親は、「周りの人が悲しむからだめ」なのだと教えてくれた。

 その答えをついこの前まで、つまらない答えだと思っていた。もし自分が父親だったら、自殺してもいいと思う場面と、自殺してはいけない場面とに場合分けをしていって、答えを導くように促すだろうと考えたりもした。でも、あのときの父親の答えは、それで十分すぎる解答だったということを、僕は本書を読みながらつくづく感じた。

 その悲しみかたというのは、様々なものがある。だが、自殺をすることは、必ず周りの人を傷つけるということは忘れてはいけないだろうと思った。

 

 長編小説の完成度としては、時期的に当然かもしれないが、『マチネの終わりに』や『ある男』の方が高いと感じたことも、最後に記しておきたい。

 

 

空白を満たしなさい(上) (講談社文庫)

空白を満たしなさい(上) (講談社文庫)

 

 

 

空白を満たしなさい(下) (講談社文庫)

空白を満たしなさい(下) (講談社文庫)