Paul White(Chapter 11) ”The Man of Science” A Companion to the History of Science,Bernard Lightman ed.,John Wiley&Sons, 2016.
”A Companion to the History of Science”という最近(2016年)出た教科書からの一章。
周知の通り、1834年にヒューエルは"scinetist"という言葉を作ったが、当時の英国で科学者集団を表す語として定着していたのは、むしろ”The Man of Science” という語であった。なぜ当時の科学の専門家らは"scinetist"ではなく、”The Man of Science” という語に、彼らのアイデンティティを見出していったのか。本章では、”The Man of Science” という語が生じた19世紀イギリスの特有の時代背景を分析することを通じて、その意味が考察される。
←「第二次科学革命」(=学会、ジャーナル、専門分野、官産学の新しい制度の形成の時期であり、多くの関心を集めてきた)と結び付けられる専門的な知識の形成、社会構造の顕著な変革の時期に普及。
→このことが新しい科学のアイデンティティを生み、そしてそれがこれらの変化を手助けした。しかし、アイデンティティやペルソナ(外的性格)について問われるようになったのは、科学史の記述において比較的最近。
←新しく生じた専門家は、実験室で白衣を纏ったイメージを連想する「科学者」だと一般的には思われている。また、W・ヒューエルが1834年に「科学者」という語をつくったという事実も知られている。
⇄様々な理由で、約100年後まで、その語は取り上げられてこなかった。
→なぜそれに代わって「知の人」という語が使われていたのか。19世紀の専門家にとって、その語の重要性は何だったのか。その目的は何か。また、他の言語文化においてどのように科学的アンデンティティと比較できるか?
- 19世紀の初頭、重要な科学的仕事に携わっていた多くの人々は、博物学者、自然哲学者(naturalist,natural philosophers)と呼ばれていた。
→医学や生物学において実験的なアプローチが権威を帯びてくると、博物学者は専門知識の欠如を含意するようになった。また、伝統的な哲学と乖離するにつれ、自然哲学者の語は、矛盾を含むようになった。
→1830年代にはこのことが問題になっており、ヒューエルが「科学者」という語をつくったことは、細分化に関する関心を示唆している。
⇄「芸術家(atheist)」、「無神論者(sciolist)」「タバコ屋(tobacconist)」などと同類の言葉として、軽蔑的に「科学者」という語を導入することで、冗談混じりにこの問題を扱った。
→別の書物の中で、彼の憂慮は、科学の細分化というよりは、科学の傲慢さにあることも示唆している。
→ヒューエルにとって、科学者という語は、特定の領域の外側での権威を欠いた、熱心に得た事実を理論家に受け渡す狭隘な専門家としての意味を表していた。
「科学の専門家>科学的な観察や事実の収集家」というヒエラルキー(←BAASの発足)
→19世紀の前半に科学の専門家集団が不均一になっていく。
→”man of science”という表現は、幅広い関心を持ちつつ、技術的な専門知識も持った人という、両者が複合した集団を指せるという理由で流布し始めた。
Babbage の見解↓
(哲学) |
指揮官 |
Elite |
都市部 |
(科学) |
兵士 |
Scientist |
植民地 |
→両者が混交する、異質な集団としての”man of science”
- 当時“man of science”は俸給のない職業だった。
→仏国・独国ではごく限られた人。英国や米国では19世紀の最後の四半世紀まで、体系的な訓練のコースやキャリアの道は存在しなかった。
⇄有給の職業は、機器の製造や標本の販売、整理(curation)、絵描き、翻訳、文章の執筆などの低い地位の仕事だった。
→科学は不動産といった他の収入や独立した手段を持った人によって引き受けられた。
→科学は一種の天職であり、あらゆる物質的・財政的な収入から隔たって、科学それ自体に固有な目的のために追求された。
→科学の専門的な知識が政府や産業、軍に果たす役割は19世紀を通じて拡大する。
工学がどのように科学と関係するかも曖昧だった。
Ex イギリスでは産業の技術の養成のために、王立鉱山学校を設立するが、卒業生は少なく、企業側は採用することをためらった。
“man of science”のもう一つの重要な特徴=政治の外側に立ち、私的な利益を超越した人であるから、全ての社会に役立つ知識を与えることができる。
→王立研究所(Royal Institution):無私性と公共サービスのイメージを維持
- “man of science”の美徳は、伝記の中の英雄的な姿を仮定し得た。
Ex チンダルの描いたファラデー:真理への犠牲、純潔さ、特別な精神力を讃える
19世紀において天才は勤勉さの美徳と結びつけられ、真理のために戦う、たたき上げ人物という性格を帯びるようになった。
Ex ダーウィンの科学的活動を、彼の本を書くために費やした時間と結びつけられた。
- 科学の制度における知識の再組織化と、19世紀前半の政治改革(貴族政治と王権のパトロンや伝統的な権力への異議)との間に並行関係がある。
:“man of science”らは、前進の旗振り役としてお互いに連携しあった。
→評論家、教育者、改革の担い手として自らを位置付け、政府のエリートだけでなく、新しく解放された階級の自信を得ることを探し求めた。
→“men of science”は、もはや聖職者のパトロンに遊説しなくなり、公の場での講義、公開講座、普及活動などを通じて、多くの聴衆の支持を得た。
←新しい科学の職業vs英国教会の聖職者(≒中流階級vs 土地を持ったエリート)という闘争の図式として解釈されてきた。
⇄“men of science”の社会的な地位や宗教的な確信を細かく見ると、この図式を維持することは難しくなる。
Ex フッカー( Joseph Dalton Hooker):拡大する科学のネットワークの中心にいた。
→①キュー王立植物園での農業改革、②ロンドン大学での調査員、③植民地行政に携わる。
→改革者でありつつもキューガーデンで仕事をし、王立協会に忠誠を維持し続けた。
- (聖職者vs “man of science”に典型的な)科学vs 宗教の対立モデルへの疑問
→19世紀半ば以降は、「自然神学」の図式は衰えたが、聖職者のコメンテーターとしての役割は衰えていなかった。英国学術協会(British Association Meeting)は地元の教会における説教を依然として伴っていた。
→公私ともに、キリスト教文化は残り、宗教への敬意は社会・政治生活への参画にとって重要だった。
⇄“man of science”と聖職者の間で最も長く続いた論争=教育制度とカリキュラム
:科学的な科目は、自由教育、精神・道徳の規律、伝統的な古典、宗教の学びを補うものとしての訴えを通じて学校や大学に導入された。=どちらかの勝利ではなく、分業
→科学的な科目が教育において支配的になるにつれ、“man of science”はエリートの地位を獲得していった。
- “man of science”は、19世紀の半ばまでに現れるようになった専門家集団(博物館のキュレーター、測量士、職人、植物学者、家で顕微鏡を使ったり解剖したりする人、講演者、定期刊行物の著者)を全て含めた表現だった。
→科学とその他の仕事や文化の形態との区別が宣言されることが求められ、より広い集団の利益が保護されつつあった状況において、集団的なペルソナとして機能した。
- 科学の大衆性とエリート性
:専門書と同様に一般向けの書物は、全ての人に開かれた知識の総体としての科学の見方を促進した。
⇄ゴルトン(Galton)は英国には300 人の“man of science”しかいないと主張。彼が用いた基準は自己確認的なもので、エリート議会の選挙を必要とし、私的な紳士の集まりとしての性格を与えた。
- “man of science”のジェンダー性
:19世紀に男性による知識の独占があったわけではないが、“man of science”は、ジェンダー化された性格や美徳を構成する文化的な型だった。
女性→柔らかくか弱い、繊細で上品≠鋭敏で厳しい
→女性が科学の仕事に専念すると、女性の性質を失い、「適切」な社交範囲(sphere)を放棄していると批判された。
女性は、実験や観察、アシスタントなど様々なレベルで科学に参加していたが、大学には入れず、主導的な学会には所属できなかった。また英国教会には聴衆としてのみ参加できた。→“scientist”によって“man of science”が使われなくなり、開かれたキャリアが認められるように。
- “man of science”は英米の構成物であり、他の言語文化の中にこれに対応する概念はない。19世紀における科学の専門分野の拡大は一般的な傾向である一方、各国で同様の科学のアイデンティティに関する問題が生じたわけではなかった。
フランス:”savant”:20世紀の初頭まで、科学の実践家を示す言葉として用いられていた。フランス革命後の科学の確固たる地位を反している。
ドイツ:Wissenschaftの語で、全ての知の形態が包括される。
研究教授(research professor)のキャリアや官立の研究機関はドイツの発明品
ドイツ文化では、新しい科学のアイデンティティがだいたい“man of science”と同じ時期に”Naturforscher”という語で生じた。
←大学の外の私的な社会において科学の協会を拡張しようとする動き
(Exドイツ科学者・医学者協会)
- 植民地という文脈における科学のアイデンティティ
博物学者が遠征に随伴することは長い伝統がある。
→外来の自然=地図が作成され、カタログ化され、科学的な正確さで測定される必要があった。
“man of science”、”savant”、“Naturforscher”がそのまま植民地に輸出されたか?
←西欧の知や人々が一方的に伝播するという考えは19世紀の帝国主義やそのイデオロギーの一部。
帝国に科学が果たした役割は明白
Ex 人種の優勢の理論、オリエンタリズム:西欧の言葉で現地の人や伝統を異国なものとし、再分類する。物質的な移転→プランテーション
⇄科学は、単に帝国の道具であるわけではない。
一方向の「改良」の過程ではなく、現地のローカル・ノレッジや現地の人々の労働を伴う異文化交差的(trans cultural)な過程。=植民地科学のハイブリットな性格
- 1920年以降に、異なる国家的世界的変動あるにも関わらず、scientistという語が同時に用いられるようになる。
Man of scienceとの連続性=偉大な発見者・理論家の英雄的な記述、純潔性、私的職業意識→19世紀の後半にこれらのエートスは個人の「人格」から乖離し、形式化された没個性的な訓練の体系とみなされるように。
現代の科学者はより狭量な集団になった。(閉鎖的な会合、ピアレビュー、高度な専門用語、市民的な感覚や公的な使命感の欠如、キリスト教や伝統的な文化との分断、、、)
→ヒューエルの含意が妥当。
コメント
・ヒューエルが"scientist"の語を作った意図の解釈には、曖昧さ残る。1834年にサマーヴィルの書評の中で初出したこの語は、本稿の記述によれば、一種のジョークを伴って軽蔑的な意味合いを込めて導入したとされる。だが1840年の『帰納的諸科学の哲学』の中における言及の文脈は、より真面目な態度であったとされる。(さらに遡って、1831年の"Modern Science"の中で、ヒューエルは科学/哲学の鋭い対立の図式を提示している。)
つまり、哲学/科学の図式を念頭に置いた場合の、ある特定の領域の外では権威を欠いた狭量な専門家という意味と、babbageの図式を念頭に置いた場合の、高尚な理論家に従属する事実収集者としての意味の二つが"scientist"には込められている。が、ヒューエル自身の導入の意図は、1834年か1840年のどちらを参照するかによって、(皮肉交じりに言ったのか、細分化された狭量化していく「科学」に対する憂慮を切実に抱いていたのか)若干異なったイメージがもたれる。
参考
この、scientistは「自然科学ばかりに夢中になっている人」という意味で皮肉まじりに提案された、というのは誰の解釈なのか(隠岐さん自身?)。ヒューウェルの1834年の書評を読んでも1840年の本を読んでも、むしろ蛸壺化しがちな諸分野をまとめるための言葉としてscientistを提案したと読めるのだが。 https://t.co/bkyKoEIQwk
— 伊勢田哲治 (@tiseda) 2018年9月17日