yokoken001’s diary

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論文レビュー (菊池論文 その1)

 

 

 真空ポンプを利用する電球、真空管X線などは類似した技術であり、似通った発展の過程をたどると考えられる。本稿では、日本における電球産業の形成について詳述される。

 

菊池慶彦「日本における電球産業の形成」『経営史学』第42巻第1号(2007年)、27-57頁。↓ (以下よりDL可)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/bhsj1966/42/1/42_1_27/_pdf/-char/ja

 

  •    市場の形成

 日本で中央発電所からの電気供給が開始したのは、1887年。東京電灯(1883年設立)による事業の開始であった。電灯と競合するのは石油ランプであり、当初、コストにおいて石油ランプの方が有利にあることは明らかだった。だが、電灯は、安全性や利便性(特に白熱電球)などの点で石油ランプより優れており、1918年に両者の価格が逆転するまでの電灯価格の下落とともに、その普及が進んでいった。

 電球メーカや輸入業社にとって重要な販売先は、電灯会社だった。当時、電灯会社の料金制度は電球、器具などを全て売り渡す「売渡方式」、装飾品を除く電球、器具を貸与し、月極めで料金を徴収する「損料方式」、および両者を併用した方式があった。電灯需要家に電球を供給し管理していたのは、この電灯会社だった。

 

  • 電球メーカの出現と競争の展開

 電球の国産化への一歩は、東京電灯の試みの中から現れた。1881年に工部大学校電信科を卒業した藤岡市助は、1886年に同社の技師長に就任し、翌年からイギリスへ視察に向かった。イギリスではガラス細工を学んだことに加え、均質なフィラメント製造を可能にする製造機械を購入できたことが大きな成果だった。1890年には、同社の電球試作所を継承して、白熱舎が資本金2000円で設立された。だが、当初の製品はまだ低品質高価格だった。白熱舎にとっての大口需要家は、いうまでもなく東京電灯であった。

 1896年に白熱舎の事業が移管され、東京白熱電灯製造株式会社が設立された。1899年には藤岡が社長に就き、東京電気株式会社に社名変更された。また、1907年までには他にも30舎程度の電球メーカーが創業・参入し、関連産業も形成され始めた。それにより技術者の移動が活発化し、技術的知識が普及した。さらに『電気之友」などの雑誌類も、重要な情報源になっていた。

 だが、1900年代初頭では、欧米の電球メーカーの競合も激しくなり、価格は下落し、日本市場ではこの低価格の輸入製品との競争が存在した。

 

  • 東京電気の成長と限界

  東京電気にとってとりわけ重要だったのは、均質な電球の量産技術の開発だった。特に均質なフィラメントの量産は困難だった。ガラス球の量産についても、1902年に品川硝子製造所の一部を借りて試作を開始し、1905年には深川ガラス工場でガラス製造に本格的に乗り出した。また1899年からは排気方の改善にも注力され、独自の薬品調合によって化学作用を生み出し、高い真空度を実現できるようになった。また1900年にはイギリス製の真空ポンプも輸入された。

 こうした生産能力の拡大は、販路開拓の要請をも強化した。1900年に東京電気は電球販売部を設置した。ここでは製品カタログも作られ、小規模だが輸出も行われていた。販売に際して問題だったのは、電球の能率と寿命のトレードオフ関係だった。電灯会社は、需要家に損料方式で電球を供給することが多かった。電灯会社にとって、電球調達価格より損料が上回ることが利益を生み出す条件である。したがって、長寿命の電球の需要が高まることは、自然な成り行きだった。よって、電球メーカーは能率を抑えても超寿命の電球を製造するように方向付けられた。さらに、電灯会社の操業電圧は多種多様であり、個々の会社に適した仕様の電球を供給しなければならなかった。それには、窓口となる人物との直接の交流を通じての情報収集が重要になり、東京電気はこうした努力によって、電灯会社の志向を把握することに成功した。

 しかし、当時の事業報告書の分析から、この時期の東京電気は生産能力に見合う販路開拓に成功していなかったことも指摘される。低価格の輸入製品が流通する当時の市場条件では、品質改善やコスト削減が達成されても、直ちに経営改善には繋がらなかったのである。

 

  • 市場構造と産業の構成

 電球メーカーにとっての需要家が大口の電灯会社であったことは、均質な製品の量産を強いた。というのも、大口取引では、知識がない一般消費者とのそれに比べて、粗悪品が排除されやすいからである。だが、1900年代では、小規模メーカーが参入する余地もあった。例えば粗悪品を供給する業者が結託して、独自の検査規格をもった海軍との取引において、同品を種々の名義で持ち込むようなこともあった。当時の電球産業は、東京電気などの有力メーカーが成長していた一方で、小規模メーカーも増加し始めるという、重層的な構造をなして形成され始めていた。