yokoken001’s diary

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Jutta Schickore “More Thoughts on HPS: Another 20 Years Later”

Jutta Schickore “More Thoughts on HPS: Another 20 Years Later”Perspective on Science (2011),vol.19,no.4,pp.453-482

 

私の乏しい英語で読んだ限り、以下のことが書かれていると思われます。

(解釈学に関する背景知識を持ち合わせていなかったこともあり、あまり理解することができなかった。残念だ。)

 

 本論文は、 科学史・科学哲学(HPS)の間の議論の歴史を振りかえり、知的探求の上でのその利点や見込みについて議論する。

 

Introduction

・近年HPSの議論が活性化している二つの背景

:(1)1990年代に始まる好ましくない経済状況のため、大学の人文学系の研究予算がカットされ、その存在意義を正当化する必要に迫られるなか、科学史と科学哲学が同盟を組んだという背景

(2)文化史の強調傾向

・1960s-1970sにおけるHPSの状況:規範的な哲学の分析に際して、歴史的な情報が持つ地位について議論

→哲学的分析≒解釈学≠科学理論の構築

・Thoughts on HPS:20 Years Later (1989)

:共通の一貫したアイデア=Confrontation model;HPSを進めるということは、歴史的なデータを哲学的な枠組みと対決させることである。

 

Marriage Counselling (結婚相談)

・20C初頭の論理実証主義は、HPSの統合よりかは、むしろ別離を生み出した。

→1970sに再びHPSが統合したと(普通)理解される。

→しかし事態はより複雑である。

→この時期の議論の的は、科学哲学における「科学の公理的な概念は何か」、というもので、HPSが議論の場の一つになっていた。(CF.科学の線引き問題に近いものか?)

しかし、HPSを具体的にどのようにからみ合わせるべきかということについては、意見がバラバラだった。

・1969年のイリノイ大学におけるシンポジウム

:I.B.Cohen:「歴史の原則(Cannon of History)」を忘却した哲学者を嘆く

⇄Peter Achinsteinの応答

:HPSの統合には、Cohenが主張していること以上のものが含まれている。

→哲学的な分析を遂行するには、哲学者は歴史的調査に訴えなければならない。

∵哲学の概念分析の価値は、その科学の概念が実際に用いられている場所で実証されなければならない。

=過去の概念の理解は、単に歴史の記録を読みとることではない。

→哲学の分析は、解釈学的な探求である。

・同年のミネソタ大学におけるシンポジウム

:Ronald Giereは、多くの論文は、単純化された歴史/素朴な哲学といった調子だと見て、HPSの統合に悲観的であった。

→哲学的思考における歴史の情報の重要性:

(1)理論構築

(2)研究戦略

(3)知識の妥当性

→歴史はこの3つの役割があるが、役割を果たすべきというわけではない。

=”is –ought question”→規範は事実に帰することができない。

→HPSの統合は、便宜的な関係(=政略結婚)にならざるをえない。

⇄Mcmulin:理論の査定に際して、哲学者は歴史的な調査に訴えざるを得ない。

∵論理主義者や非歴史的な哲学者は、哲学的に誤った意識からのみ生じるのであり、よって哲学分析を実践的な文脈で、(歴史的に)反省することは、哲学の自己理解を改善するから

→哲学の役割≠理論構築→解釈学:一時的な(仮の)歴史資料の読み取りと、仮の哲学的概念を徐々に和解させていく。

・Richard Burian :

科学哲学には、すでに歴史的な状況が埋め込まれている。

→科学理論の哲学的な説明は、実際の理論や、哲学の調査の目的のために設計されたものに由来する。

=解釈学的側面の強調

・Dudley Shapere

:科学哲学者の役割は、十分な科学的問いや良き解法のための基準をどのように発展させるべきかを調べること。

・Lorenz Kruger

:(1)哲学は司法権を持たない、哲学はむしろ、現在の科学の批判的な同僚である。

(2)現在の合理性の基準は、歴史的に時間をかけて生成させたものであるから、科学哲学はそういった基準がどういった形で過去に根ざしているかを把握すべく、歴史分析に関与しなければならない。

→これまでの議論で重要な点

1970s年代には、いくつかの問いが危機に瀕した。

:哲学分析の性質=本性、歴史の最善の方法、is-ouhgt problem

→1970sの科学の公理的な基準の未来についての議論の文脈で、際立ったことは、科学哲学はしばしば解釈学の立場を計画したということ。

ラカトシュ:HPSの関係は、科学研究のリサーチ・プログラムという言葉に明確に表れているように、解釈学とは非常に異なっていた。

→1970sの議論では、(HPSの統合というよりは)哲学分析の本性に焦点が当たっていた。

つまり、哲学者は、過去と現在の実際の科学の調査を通じて進められざるを得ないという主張である。

→(1)解釈学、(2)歴史主義版に分類可能

(1)Achinstein、 McMullin 、Burianら

:科学哲学は、他の人文学と似ていて、科学の科学ではない、つまり、科学的な営みではない。

(2)Shaper, Kruger,(再び)Burianら

:何かを理解するということは、それがどのように存在するようになったかを理解するということである。知識を完全に理解するためには、それを歴史化しなければならない。

→HPSの間の関係という言葉で言い表される枠組みを与えられた科学における哲学的反省ん概念は、ミスリードである。

→Confrontation modelへ

 

Laudan’s 1989 Article

・ Thoughts on HPS: 20 Years Later(1989)

VPIの”scientific change”計画の一環

:科学哲学のゴールは、科学進歩の理論の基礎を作ること

⇄解釈学

→検証可能な形で科学の変革をモデル化する

→中立的な語彙、-すべき/—するを区別

LandanにとってのHPS

:科学理論の変革の胴体についての一般的な主張を検証すべく、それらを歴史的データに対決(confront)させる。=照らし合わせる。

科学史の役割は、科学哲学にデータを提供すること。→よくテストさせた理論をつくる

≒科学における理論/実験とよく似た分業

→HPSの分裂

 

The trouble with the Confrontation Model oh HPS

・Laudan論文以降、いくつかの場面で議論の設定がなされるも、単一の議論の継続はなされていない。

→本節では、「データを生産する歴史と、理論を生産する哲学」という「対決モデル」の考えから生じる様々な問題を扱う。

(1)科学史は哲学理論を精査するための正しい種類のデータを提供するものではないのではないか?

:科学史研究は1970s-80s以降、認識的問題よりも、社会史的問題に焦点を当てるようになってきている。=観念の歴史から遠ざかっている。

→こうした傾向は、哲学者にとって有意義なテスト事例を提供するのかは怪しい。

(2)方法論的にも、1980s以降の科学史研究は、個別具体的な事例を深掘りするような作業に没頭するようになってきている。

→哲学と科学史を接合することは難しい。

→「正しい」種類のデータを求めるためには、哲学者自身も、必要なケーススタディーを生み出すべく歴史的な探求に従事すべき。

(3)歴史的データの「理論負荷性

:歴史的なデータは歴史家により再考されるものであるゆえ、知識の純粋な記述は不可能であり、したがって哲学的な主張は歴史的な記録によってテストされ得ない。

∵歴史の記録は、(哲学)理論から独立して存在しないから。

・その後、理論負荷の問題は決着しなかったが、科学の哲学的省察における歴史の事例研究の機能についての議論が交わされた。

:対決モデルでは、歴史は「事例の倉庫」とみなされる

→しかし、事例研究から何を学ぶことができるのか?歴史的事例は、哲学的洞察を示唆はするが、哲学的研究そのものをなすことはできない。

←is-ought problemにも関わる。

:事実から規範を導き出すことはできない。

・Burianは、歴史と哲学の結合は、「トップダウン」か「ボトムアップ」として解釈されると主張。=経験的なデータからの一般化/経験的なデータに対する一般的な主張のテスト

⇄Pitの反論:科学の実践と同様にして、一つの事例から(一つではなく、科学全体についての二、三のエピソードであっても)一般化することは正当化されないのでは?

⇄(1)個別研究は、「特別な科学」の多様性を強調するものである。

(2)ケーススタディーの群は、科学的実践のための探求的な実験法について重要な本性を明らかにすることに役立つ。

HPAからメタサイエンス的分析へ

・科学哲学者は、科学哲学を科学に関する理論であると考えている。

⇄しかしそのモデル自体が間違っている。

∵理論負荷、歴史的データの特権性(認知科学、心理学のデータのほうがよほど役立つのでは)

メタサイエンスが実際の科学を扱うのであれば、解釈学にならざるを得ない。

→事例判断と、分析概念は各々初めは暫定的なものであり、それらをダイナミックに行ったり来たりすることで、両者は調和され、平衡に達する。

トップダウン/ボトムアップモデルも適切ではない

→解釈学は、最初の観念・観点・事例判断がともに扱われ修正されていく手続きである。

 

歴史的視角におけるメタサイエンス的分析

・歴史主義的反省は、二つのレベルで入ることになる

(1)方法論的、認知論的、科学概念・実践の歴史において

(2)メタサイエンス的分析に使用する概念の歴史への反省において

:科学概念、実践、ルールは、それらが歴史的にどのように現在の形に至ったのかに注意を払うことによって初めて包括的に理解することができる。

ex 多重独立検証

:なぜ、いつ、どのような文脈で成功的な実験の必要条件とみなされるようになってきたのかを調査することは、この概念の意味や重要性を理解することを前進させるだろう。

→さらに、科学哲学それ自体に歴史主義的反省を行えば、そこでなぜ歴史が特権的な地位を占めてきたのかもわかる。

 

 

 

コメント

・対決モデルと解釈学を対置して論じているが、そのように綺麗に二分できるものなのか。

対決モデルでは、解釈の余地は全くないのだろうか。

・哲学者が歴史的データを扱う場合の理論負荷性の問題が議論されていたが、歴史にはそうした理論負荷の問題の他に、歴史資料の取捨選択といったバイアスの問題が存在する。それは、(科学哲学者ではない)歴史プロパーにも内在する「理論負荷的」問題なのではないだろうか?

 

https://www.mitpressjournals.org/doi/10.1162/POSC_a_00049