井上充雄『帝国をつなぐ<声> – 日本帝国植民地時代の台湾ラジオ』(ミネルヴァ書、2022年)
1906年12月にフェッセンデンが無線による音声送信に成功して以来、1920年KDKAが、1922年にはBBCがそれぞれ開局し、ラジオの時代が幕を明けた。各国におけるラジオの発展の方向性には違いがあり、アメリカが歩んだ道を自由主義モデル、イギリスのそれを公共放送モデル、ソ連やドイツのそれを権威主義的(プロパガンダ)モデルと言うことがある。しかし、こうした差異があっても、ラジオは離れた所にいる人々に同時に受信されるがゆえに、空間的距離や階級・階層的距離を超越することができ、国民統合のメディアとして機能しやすいといった共通点がある。日本では1925年7月に本放送が開始されたが、後藤新平の演説が示すとおり、ラジオ放送の目的は「国民の文化的統合」だった。
だが、ラジオの役割は国内にとどまらない。ラジオが実用化される時期は帝国主義の時代と重なっており、列強は海外植民地と本国とを結ぶ短波を用いた国際放送を展開した(1929年のオランダ国営放送、1931年のフランスラジオ・コロニアル、1932年のイギリスの帝国放送など)。さらに、その後は自国の植民地だけではなく、帝国へプロパガンダを目的とした電波戦が展開された。そして日本でも国内での放送網の拡大に加えて、外地へと同心円上の階層構造が形成されていった。
本書は、ラジオがいかにして国民統合のメディアへと成長していったかを、「外地」のラジオ局、とくに台湾放送協会から検討したものである。台湾放送協会は、台湾の同化政策の一翼を担うものとして、台湾人に日本の国民としての意識を涵養することが期待されていた。本書では、(1)台湾ラジオはいかにして文化的同化を進めたのか、(2)東亜放送網と台湾放送協会はどのような関係にあったか、(3)台湾ラジオは南方の拠点としていかに戦時プロパガンダに従事するようになったか、という3点に着目される。特に3点目は、先行研究ではほぼ見落とされてきた側面であるという。
第一章では、台湾においてラジオが登場するまでの経緯が述べられる。台湾でのラジオ放送は、1925年に「台湾始政三十年記念展覧会」での実験放送に遡ると言われるが、実際には(日本国内と同様、)それ以前から「ラジオ・アマチュア」によるラジオへの関心が高まっており、近隣の香港や上海、フィリピンから飛んでくる電波を手当たり次第捉えるといった聴取がすでに行われていた。つまり、台湾では早い段階から「多文化な」ラジオ聴取が行われており、そのことがラジオの需要につながったと一つの要因であった。1925年3月22日に東京放送局(JOAK)が試験放送を開始するが、台湾でも、同年9月に総督府が無線電話放送局の設置を許可するといった記事が出された。しかし、総督府は放送局設置には消極的で、台湾で独立した番組作りをするのではなく、あくまで内地の情報をいち早く中継するために施設を整備するという姿勢がとられた。こうした状況に変化をもたらしたのが、1928年11月に予定された「御大典の儀式」であった。日本では1926年に日本放送協会が設置されたが、それは全国に放送網を張り、「御大典の儀式」の様子を放送することを一つの目的としていた。そして台湾でも内地と同様に「玉音」を聴くことで、「陛下の赤子」として内地と対等の立場に立つ、言い換えれば、台湾と本土との文化的一体化を推進するという世論に後押しされ、放送局の設置が現実化していった。そして、逓信部庁舎事務室内に突貫工事で放送局が作られ、「御大典の儀式」に間に合わせることができた。だが、結局空電の影響でラジオ中継は失敗に終わった。その後、1928年に台北放送局(1kW)が、1930年に板橋放送所が、1931年に台湾放送協会が、1932年には台南放送局が、1935年には台中放送局が、1940年には民雄放送所が次々と設置されていった。
第二章では、朝鮮や満州を含めた「東亜放送網」が拡充される過程が検討される。日本-台湾間の中継が技術的に向上したのは、1934年6月に、国際電話株式会社が名崎送信所と小室送信所を設置し、両者を経由させて日本放送協会からのラジオを台北放送協会まで短波により送受信することができるようになったことがきっかけだった。ところで1930年代の日本は「国際放送(=同意のある中継送受)」、「海外放送(=合意なき一方的放送)」に加えて、「外地連絡放送」を整備しつつあった。これは、「大東亜共栄圏」の確立を目指し、放送網の一体化を図り、思想戦・宣伝戦争に打ち勝とうとするものだった。1931年には日満交換放送が始まっていたが、1934年以降が、国際電話株式会社の短波通信を用いて、日本、台湾、朝鮮、満州国を結ぶネットワーク=「東亜放送網」が形成されていった。背景には、帝国主義の列強が相次いで植民地と本国とを結びつける国際放送を整備していったことがある。ただし、「東亜放送網」では、内地から外地に一方的に情報が流れていたわけではなく、逆に外地からの中継も盛んに行われていた。これは「東亜の支配者」としての意識を持たせるものであったと同時に、日本が他民族国家へと生まれ変わろうとしていることを認識されたと著者は分析している。1939年には、日本、朝鮮、台湾の放送協会と満州電電により東亜放送協議会が結成され、新東亜建設の意義とラジオによる宣伝戦の必要性が訴えられた。
第三章では、台湾における「西部標準時」の廃止=「中央標準時」への移行の経緯がラジオとの関連で検討される。1895年に、日清戦争に勝利した日本は下関条約に基づいて台湾を清朝から割譲された。そして、同年12月に台湾(及び宮古島、八重山)は、内地と1時間の時差がある(1時間遅れる)「西部標準時」に属する勅令が公布されたが、1937年に台湾は日本の「中央標準時」を用いることに変更された。活字媒体では、賛(通信・経済・交通上便益がある、「内地延長主義」)、否(統制主義、画一主義に反対)をめぐって議論が紛糾していたが、ラジオ界では時差撤廃への反対意見はほとんど見られなかった。結局、1937年に台湾の時刻は「中央標準時」へ移行したが、それによって冬期の日の出時刻が遅くなるという問題が引き起こされた。(仮に元来の日の出時刻が5時だったとした場合、「中央標準時」へ移行したことで6時になる。) そこで、総督府は冬期には執務時間(≒生活時間)を1時間繰り下げる措置をとったことで、ラジオの放送時間も一時間繰り下げられた。
第四章では、前章に続いて「ラジオの作る時間」の様相を明らかにすべく、台湾におけるラジオ体操が検討される。ラジオ体操に関してはすでに多くの先行研究がファシズムと親和性が高いこと、「ラジオ体操の集団化=「身体の国民化」であったことなどを論じているが、外地のラジオ体操に言及したものはほとんど見当たらない。台湾におけるラジオ放送の嚆矢は、1926年に京城放送局が設立されたことだが、ラジオ体操は1930年に台北放送局によって、空電により内地からの中継に依存できなくなったので始められたのが最初である。ただし、ラジオ体操自体は、少なくとも前年において、国民体操研究所所長の松元稲穂が「国民体操」のために用いていた。国民体操とは、大正デモクラシー以後の日本社会を、精神・身体を鍛錬して倫理を立て直すことを目指し、次第に皇国民育成の色彩を強めていくものである。台湾でのラジオ体操は、個人の健康を目的としてスタートしたが、総動員の結果、「健康報国」イデオロギーに取り込まれていくといった内地と同じ経路を辿った。しかし、ラジオ体操に先行して、精神修養と結びついた集団的な体操実践がすでに存在しており、それが「ラジオの集団化」の素地になったと主張している。
第五章では、台湾島内でのラジオ放送の聴取の実態を、量的・質的な観点から検討される。『台湾総督府逓信統計要覧』によれば、台北放送局が開局した1928年時点では7864のラジオが設置されており、(1931年に台湾放送協会が設置されたことを受け受信が有料化したため増減割合が減少に転じたのを除けば、)その後ラジオは順調に普及していった[1]。特に、放送網などのインフラの新設に加えて日中戦争や太平洋戦争直後に聴取者が増加する傾向にあり、戦争に突入していったことによる情報へのニーズの高まりが背景にあることが読み取れる。しかし、ラジオ聴取者は圧倒的に日本人が多く、台湾人口に日本人が占める割合は4-5%であったにもかかわらず、ラジオ聴取者のうち80-55%を占めていた。(日本人は10軒に1軒、本島人は500軒に1軒がラジオを設置していたことになる。) なお、1942年以降は台湾語を含めた二重放送が実施されたが、設置者は20軒に1軒の割合だった(1942年末)。職業別に見るとホワイトカラーに加え、工業、交通関連の聴取者も多く、戦況に対するニーズが高いことが要因だった。後半は、台湾人である林と呉という2人の日記に依拠し、ラジオ聴取の質的分析を試みている。民族運動の指導者であった林は、上海や南京といった島外のラジオ放送を聴くことを目的としていたが、南京放送聴取が禁じる措置が取られ、次第に島外ラジオが聴けなくなっていったことが窺い知れる。一方の呉の日記は、ラジオが娯楽として家庭生活に定着していたことを詳らかにしている。
第六章では、台湾におけるラジオ塔を手がかりに、ラジオの共同聴取の実態が論じられる。ラジオ塔とは、ラジオ受信機とスピーカーを内蔵した建造物であり、戦後の「街頭テレビ」の先駆的存在として、近年注目が集まっている。日本(ないし台湾)放送協会は、収入のほとんどを聴取料に依存していたので、ラジオ塔を設置して「無料の聴取者」を作り出すのは、経営上矛盾しているように見える。それでもラジオ塔を設置したのは、聴取者を増やそうとする「広告塔」としての役割が期待されたからである。しかし、ラジオ塔は国内のみに設置されていたわけでなく、占領地にも設置された。それは、日本側の宣伝のために行われたラジオ放送を現地住民に聞かせる宣伝工作を目的としていた。ところで台湾には少なくとも3台のラジオ塔があったと推測される。このうち台北新公園のラジオ塔はラジオ体操の拠点として用いられていた。ほかにも屏東公園にもラジオ塔があったが、当初は国内同様、聴取者の増加を目的としていたと推測している。しかし、日中戦争以降「第二次建設ブーム」の時期に、即時性を持った上意下達のメディアとして、思想動員を図る目的でラジオ塔が用いられるようにもなった(ex 赤星義夫)。しかし、実際には思想動員に際してはラジオ塔ではなく、地域の集会所などの行政の下請け組織にラジオを置き、住民に集団でラジオを聴かせるという方法が採用されるようになったと考えられる。この場合、放送局の採算は度外しされ、「無料の聴取」が優先された。
第七章では、台湾放送協会のアジア・南方への拠点としての位置付けや、戦争の進展に伴うその変化が検討される。台湾ラジオは、1931年時点ですでに中国大陸やアジア各地に居住する聴取者へ届いていたが、これはあくまで意図せざる結果であった。しかし「国際放送」(=送受相互合意があるもの)から「海外放送」(=合意なき一方放送)へと軸足が推移する中で、台湾のラジオはより積極的に後者の拠点としての意味を帯びていった。その背景には、1932年に中国国民党が75kWの放送局を新設し排日宣伝放送を始めるなど、アジアにおける「電波戦」が始まっていたことがある。しかし、受信側から見ると、台湾ラジオ放送は中国で受信されていたが、東アジアの各地域ではほとんど受信されていなかった。1937年7月7日の盧溝橋事件の勃発以降、台湾放送協会は、(1)外国語ニュースを始め、(2)国際電話株式会社の短波用放送機を用いた遠隔地への放送をスタートさせ、「海外放送」を大きく転換した。さらに1940年9月には100kW放送局を設備した民雄放送所が完成し、二重放送が実施されるようになった。民雄放送所は、「帝国南方国策遂行の枢要拠点」として期待が持たれたのである。しかし、(「南支」を除いて)インドネシアやベトナムではあくまで気象条件が良ければ聴こえるといった程度であって、継続的に対外宣伝の効果をあげたとは考えにくいと分析している。また番組内容も基本的には東京依存で、台湾の独自性は薄く、日本の戦時対外宣伝の中継地点の一つであったに過ぎないと推測している。
第八章では、「副見喬雄関係文書」を参照しながら、太平洋戦争下での台湾総督府の放送政策の変遷と台湾放送協会の動向が明らかにされる。台湾での「二重放送」は、日米開戦後、1942年になってようやく始まった。それ以前において、1933年に満州電電が、同年に朝鮮放送協会が京城放送局で二重放送を開始していたが、それらは植民地統治の一手段として、現地語でラジオ放送を行う試みであった。台湾でも1932年時点で聴取料を引き下げ、加入者を増やすべく二重放送の要望が高まっていたが、台湾では「国語運動」が進められていることに加え予算の確保も容易ではなかったので、二重放送の開始は遅れることになった。それを後押ししたのが、前章でも触れた1940年の民雄放送所の新設であった。それは、二重放送と海外放送を抱き合わせて実施することを目指していた(昼間は第二放送、夜は海外放送)。1942年10月より正式に二重放送が開始され、「皇民錬成」を図る手段として期待されたが、第二放送のプログラムは第一放送の内容を本島人向けに編集したもので、独立したものとはいえなかったと分析している。またその後、台湾ではラジオの電波が敵機を誘導してしまう危険があることから有線の導入も試みられたが、経費などの理由から頓挫した。代わりに、経費のかからない小放送所の設置によって島内をくまなくカバーし、多くの島民にラジオを聴かせる方針を採用した。結局のところ、台湾における二重放送、海外放送、小放送所建設などは、日本国内で実施された政策を後追いしたものだったと結論づけている。
第九章では、台湾における玉音放送と台湾放送協会の終焉のプロセスが検討される。1945年8月15日、日本ではラジオを用いて天皇が直接国民に語りかけるという形式を取ることで、天皇の御聖断による終焉が演出されたが、玉音放送は国内だけではく外地(中国、満州、朝鮮、南洋地域、台湾)にも中継されていた。このうち台湾は、1895年以来長らく日本に割譲された地域でもあったため、台湾人にとって終戦は解放であると同時に敗北でもあるという両義的なものとして受け止められた。終戦後は、台湾総督府は内地人の居住を進める方針をとり、台湾総督府の機構を用いた間接統治が行われた。その際、「留用」された日本人が多かったが、台湾放送協会では台湾の技術者が多く雇用されていたと考えられ、他の部門ほど放送関連の留用者が多くなかったという。そして、1945年10月25日より、日本が設置した放送施設や機器を使って台湾広播(こうはん)電台での放送が開始した。当初は日本語の番組も放送していたが、1947年11月時点ではほとんどなくなっていた。なぜなら、台湾の中華民国への編入政策が急速に進み、大半の日本人が引き揚げていたからである。その後、台湾では「台湾を中国人化」する新たな「植民地化」がスタートし、日本語の代わりに中国語を教える「国語講座」が放送された。その意味で、支配のメカニズムは本質的に連続していた。1947年2月28日に二・二八事件が勃発し、民衆側は台湾広播電台を占拠したが、文化的統合の拠点であった放送局が反乱の拠点となったことには象徴的な意味があると述べ、本論が締め括られる。
終章では、各章での議論を俯瞰的な視座から検討され、本書の成果が簡潔に整理される。序章でも触れられたように、ラジオは活字メディアと異なり、市民社会の階級・階層を解体・流動化させる特徴があり、それゆえにプロパガンダのメディアとして「帝国」によって用いられた。台湾でのラジオの発展は、天皇の<声>を台湾居住者に伝える(=台湾人を「国民化」する)という方向で発展してきたが、内地からの一方的な放送だけではなく、外地から内地への中継も行われていた点は注目に値するという。
また、日本の植民地統治では同化政策が推進され、そのもとでの「国語教育」が台湾での二重放送の開始の足枷になっていた。だが、結局のところ、台湾ラジオの聴取者はほとんどが「内地人」であり、本島人に対して本国からの<声>を結ぶ機能は十分に発揮できなかった。その一方、ラジオが(ラジオ体操に代表されるような)新たな時間観念を台湾社会にもたらしていたことは看過すべきではないと付け加えられる。
また、本書の最大の成果は、海外放送において台湾が南方の拠点になったということを明らかにしてことであると述べられる。台湾は日本が初めて獲得した外地であり、植民地支配の優等生であろうとする台湾の統治者らが、率先した働きを行なったのである。だが、日本国内では台湾の役割がそれほど重視されていなかった。その意味で、本国との連携は不十分であり、一貫性のない、場当たり的な日本の戦時政策の一端が窺えると分析している。
以上の通り、本書は台湾放送協会とそのもとでのラジオ放送を取り上げ、ラジオが国民統合のメディアとしていかに展開していったかを論じた研究書である。植民地におけるラジオの役割に関しては類書が存在するが、台湾ラジオを正面から扱った本としてはおそらく最初のものであると思われる。(また、論旨が明快で、日本語の運用面でも学ぶべき点が多い。) 本書が論じていることは、全体として台湾でのラジオの役割も独自性も希薄であったということだろう。南方に向けた海外放送の拠点として大きな期待が持たれていたことは事実であるが、それでも日本との連携はうまくいかず、実質的な効果は少なかった。
本書ではラジオという観点から本国と台湾の関係が分析されているが、無線通信というテーマに広げると、台湾との関係はラジオ放送の開始よりもさらに先の時代に遡ることができる。すなわち、1902年に火花式無線電信を用いた長距離無線通信試験を行うために、長崎と台湾間(630マイル)が選ばれている[2]。これは、植民地獲得による実験室の拡大として捉えることができるかもしれない。その後の時代においても、ラジオだけではなく、台湾と日本を結ぶ無線電信電話の役割も、帝国主義と無線に関わる重要なテーマだと思われる。
[1] 正式な統計にあがってこないアマチュアの存在も考慮する必要があるように思われる。
[2] 『日本無線史』第一巻、6頁。