yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

夏目漱石『門』

 

 『門』は漱石が1910年に新聞に連載した小説で、前期三部作の第三作に当たる作品である。伊藤博文暗殺のニュースが登場していることから考えて、物語の時間もおおよそ1909年-10年くらいである。本作は前作の『それから』と連続しているが、前期三部作の中では一番ストーリー性が薄く、「地味な」物語だという感じがあった。とはいえ、主人公の宗助と御米の日常生活が静かに温かく描かれているのがとても印象的で、(最後の結末を除けば) 三部作の中で一番好きな作品かもしれないと思う瞬間もあった。特に13章は素晴らしい。

 その意味で、この作品は「二人で生きる」ということを描いているのだと思う。宗助は『それから』で描かれていた通り、無意識の偽善者(unconscious hypocrite)であるがゆえに、愛する女性と友人との結婚式の仲介を行ってしまい、その後女性を奪い返してしまった男である。彼は、罪の意識を背負い、金もなく、子どもにも恵まれず、社会から背を向けてひっそりと崖下の家で妻と暮らしている。そして崖の上に暮らす坂井家とは全てが対照的である。

 宗助自身は事件のあと大学を中退したが、彼と約10歳離れた弟の小六だけは大学へ通わせるべく、崖下の家の六畳間を小六のために空ける。しかし、小六はもちろん御米に対して良い感情を抱くことができず(なにせ彼女も夫と別れたのだから)、家の隅の六畳間ではろくに読書も思索もできず、だんだん酒を飲んで帰ってくるようになる。

 客観的に見れば、三人の生活はとても幸福とはいえない。それでも宗助と御米の生活は、どこか胸を打たれるものがある。お互いがお互いに細やかな気遣いをしている。特に、宗助は他人の妻を奪っただけのこともあり、御米のことを深く愛している様子が行間から伝わってくる。御米が病気になった日の夜の彼の混乱ぶりはとても味わい深い。自分にここまでの配慮ができるかと言われると、自身がない。

 最後は、御米の元夫であった安井と再開せざるを得ない展開になり、門を通るのでもなく通らないで済むのでもなく、「彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人(p.281)」になる。そこで彼はお寺へと10日間出家をするという展開になる。この最後の結末にはかなり違和感があるものの、総じて味わい深い夫婦の生活を描いた名作であると思う。

 

 

 

井上充雄『帝国をつなぐ<声> 』 (2022年) 書評・感想

井上充雄『帝国をつなぐ<声> – 日本帝国植民地時代の台湾ラジオ』(ミネルヴァ書、2022年)

 

 1906年12月にフェッセンデンが無線による音声送信に成功して以来、1920年KDKAが、1922年にはBBCがそれぞれ開局し、ラジオの時代が幕を明けた。各国におけるラジオの発展の方向性には違いがあり、アメリカが歩んだ道を自由主義モデル、イギリスのそれを公共放送モデル、ソ連やドイツのそれを権威主義的(プロパガンダ)モデルと言うことがある。しかし、こうした差異があっても、ラジオは離れた所にいる人々に同時に受信されるがゆえに、空間的距離や階級・階層的距離を超越することができ、国民統合のメディアとして機能しやすいといった共通点がある。日本では1925年7月に本放送が開始されたが、後藤新平の演説が示すとおり、ラジオ放送の目的は「国民の文化的統合」だった。

だが、ラジオの役割は国内にとどまらない。ラジオが実用化される時期は帝国主義の時代と重なっており、列強は海外植民地と本国とを結ぶ短波を用いた国際放送を展開した(1929年のオランダ国営放送、1931年のフランスラジオ・コロニアル、1932年のイギリスの帝国放送など)。さらに、その後は自国の植民地だけではなく、帝国へプロパガンダを目的とした電波戦が展開された。そして日本でも国内での放送網の拡大に加えて、外地へと同心円上の階層構造が形成されていった。

本書は、ラジオがいかにして国民統合のメディアへと成長していったかを、「外地」のラジオ局、とくに台湾放送協会から検討したものである。台湾放送協会は、台湾の同化政策の一翼を担うものとして、台湾人に日本の国民としての意識を涵養することが期待されていた。本書では、(1)台湾ラジオはいかにして文化的同化を進めたのか、(2)東亜放送網と台湾放送協会はどのような関係にあったか、(3)台湾ラジオは南方の拠点としていかに戦時プロパガンダに従事するようになったか、という3点に着目される。特に3点目は、先行研究ではほぼ見落とされてきた側面であるという。

 第一章では、台湾においてラジオが登場するまでの経緯が述べられる。台湾でのラジオ放送は、1925年に「台湾始政三十年記念展覧会」での実験放送に遡ると言われるが、実際には(日本国内と同様、)それ以前から「ラジオ・アマチュア」によるラジオへの関心が高まっており、近隣の香港や上海、フィリピンから飛んでくる電波を手当たり次第捉えるといった聴取がすでに行われていた。つまり、台湾では早い段階から「多文化な」ラジオ聴取が行われており、そのことがラジオの需要につながったと一つの要因であった。1925年3月22日に東京放送局(JOAK)が試験放送を開始するが、台湾でも、同年9月に総督府が無線電話放送局の設置を許可するといった記事が出された。しかし、総督府は放送局設置には消極的で、台湾で独立した番組作りをするのではなく、あくまで内地の情報をいち早く中継するために施設を整備するという姿勢がとられた。こうした状況に変化をもたらしたのが、1928年11月に予定された「御大典の儀式」であった。日本では1926年に日本放送協会が設置されたが、それは全国に放送網を張り、「御大典の儀式」の様子を放送することを一つの目的としていた。そして台湾でも内地と同様に「玉音」を聴くことで、「陛下の赤子」として内地と対等の立場に立つ、言い換えれば、台湾と本土との文化的一体化を推進するという世論に後押しされ、放送局の設置が現実化していった。そして、逓信部庁舎事務室内に突貫工事で放送局が作られ、「御大典の儀式」に間に合わせることができた。だが、結局空電の影響でラジオ中継は失敗に終わった。その後、1928年に台北放送局(1kW)が、1930年に板橋放送所が、1931年に台湾放送協会が、1932年には台南放送局が、1935年には台中放送局が、1940年には民雄放送所が次々と設置されていった。

 第二章では、朝鮮や満州を含めた「東亜放送網」が拡充される過程が検討される。日本-台湾間の中継が技術的に向上したのは、1934年6月に、国際電話株式会社が名崎送信所と小室送信所を設置し、両者を経由させて日本放送協会からのラジオを台北放送協会まで短波により送受信することができるようになったことがきっかけだった。ところで1930年代の日本は「国際放送(=同意のある中継送受)」、「海外放送(=合意なき一方的放送)」に加えて、「外地連絡放送」を整備しつつあった。これは、「大東亜共栄圏」の確立を目指し、放送網の一体化を図り、思想戦・宣伝戦争に打ち勝とうとするものだった。1931年には日満交換放送が始まっていたが、1934年以降が、国際電話株式会社の短波通信を用いて、日本、台湾、朝鮮、満州国を結ぶネットワーク=「東亜放送網」が形成されていった。背景には、帝国主義の列強が相次いで植民地と本国とを結びつける国際放送を整備していったことがある。ただし、「東亜放送網」では、内地から外地に一方的に情報が流れていたわけではなく、逆に外地からの中継も盛んに行われていた。これは「東亜の支配者」としての意識を持たせるものであったと同時に、日本が他民族国家へと生まれ変わろうとしていることを認識されたと著者は分析している。1939年には、日本、朝鮮、台湾の放送協会と満州電電により東亜放送協議会が結成され、新東亜建設の意義とラジオによる宣伝戦の必要性が訴えられた。

 第三章では、台湾における「西部標準時」の廃止=「中央標準時」への移行の経緯がラジオとの関連で検討される。1895年に、日清戦争に勝利した日本は下関条約に基づいて台湾を清朝から割譲された。そして、同年12月に台湾(及び宮古島八重山)は、内地と1時間の時差がある(1時間遅れる)「西部標準時」に属する勅令が公布されたが、1937年に台湾は日本の「中央標準時」を用いることに変更された。活字媒体では、賛(通信・経済・交通上便益がある、「内地延長主義」)、否(統制主義、画一主義に反対)をめぐって議論が紛糾していたが、ラジオ界では時差撤廃への反対意見はほとんど見られなかった。結局、1937年に台湾の時刻は「中央標準時」へ移行したが、それによって冬期の日の出時刻が遅くなるという問題が引き起こされた。(仮に元来の日の出時刻が5時だったとした場合、「中央標準時」へ移行したことで6時になる。) そこで、総督府は冬期には執務時間(≒生活時間)を1時間繰り下げる措置をとったことで、ラジオの放送時間も一時間繰り下げられた。

 第四章では、前章に続いて「ラジオの作る時間」の様相を明らかにすべく、台湾におけるラジオ体操が検討される。ラジオ体操に関してはすでに多くの先行研究がファシズムと親和性が高いこと、「ラジオ体操の集団化=「身体の国民化」であったことなどを論じているが、外地のラジオ体操に言及したものはほとんど見当たらない。台湾におけるラジオ放送の嚆矢は、1926年に京城放送局が設立されたことだが、ラジオ体操は1930年に台北放送局によって、空電により内地からの中継に依存できなくなったので始められたのが最初である。ただし、ラジオ体操自体は、少なくとも前年において、国民体操研究所所長の松元稲穂が「国民体操」のために用いていた。国民体操とは、大正デモクラシー以後の日本社会を、精神・身体を鍛錬して倫理を立て直すことを目指し、次第に皇国民育成の色彩を強めていくものである。台湾でのラジオ体操は、個人の健康を目的としてスタートしたが、総動員の結果、「健康報国」イデオロギーに取り込まれていくといった内地と同じ経路を辿った。しかし、ラジオ体操に先行して、精神修養と結びついた集団的な体操実践がすでに存在しており、それが「ラジオの集団化」の素地になったと主張している。

   第五章では、台湾島内でのラジオ放送の聴取の実態を、量的・質的な観点から検討される。『台湾総督府逓信統計要覧』によれば、台北放送局が開局した1928年時点では7864のラジオが設置されており、(1931年に台湾放送協会が設置されたことを受け受信が有料化したため増減割合が減少に転じたのを除けば、)その後ラジオは順調に普及していった[1]。特に、放送網などのインフラの新設に加えて日中戦争や太平洋戦争直後に聴取者が増加する傾向にあり、戦争に突入していったことによる情報へのニーズの高まりが背景にあることが読み取れる。しかし、ラジオ聴取者は圧倒的に日本人が多く、台湾人口に日本人が占める割合は4-5%であったにもかかわらず、ラジオ聴取者のうち80-55%を占めていた。(日本人は10軒に1軒、本島人は500軒に1軒がラジオを設置していたことになる。) なお、1942年以降は台湾語を含めた二重放送が実施されたが、設置者は20軒に1軒の割合だった(1942年末)。職業別に見るとホワイトカラーに加え、工業、交通関連の聴取者も多く、戦況に対するニーズが高いことが要因だった。後半は、台湾人である林と呉という2人の日記に依拠し、ラジオ聴取の質的分析を試みている。民族運動の指導者であった林は、上海や南京といった島外のラジオ放送を聴くことを目的としていたが、南京放送聴取が禁じる措置が取られ、次第に島外ラジオが聴けなくなっていったことが窺い知れる。一方の呉の日記は、ラジオが娯楽として家庭生活に定着していたことを詳らかにしている。

 第六章では、台湾におけるラジオ塔を手がかりに、ラジオの共同聴取の実態が論じられる。ラジオ塔とは、ラジオ受信機とスピーカーを内蔵した建造物であり、戦後の「街頭テレビ」の先駆的存在として、近年注目が集まっている。日本(ないし台湾)放送協会は、収入のほとんどを聴取料に依存していたので、ラジオ塔を設置して「無料の聴取者」を作り出すのは、経営上矛盾しているように見える。それでもラジオ塔を設置したのは、聴取者を増やそうとする「広告塔」としての役割が期待されたからである。しかし、ラジオ塔は国内のみに設置されていたわけでなく、占領地にも設置された。それは、日本側の宣伝のために行われたラジオ放送を現地住民に聞かせる宣伝工作を目的としていた。ところで台湾には少なくとも3台のラジオ塔があったと推測される。このうち台北新公園のラジオ塔はラジオ体操の拠点として用いられていた。ほかにも屏東公園にもラジオ塔があったが、当初は国内同様、聴取者の増加を目的としていたと推測している。しかし、日中戦争以降「第二次建設ブーム」の時期に、即時性を持った上意下達のメディアとして、思想動員を図る目的でラジオ塔が用いられるようにもなった(ex 赤星義夫)。しかし、実際には思想動員に際してはラジオ塔ではなく、地域の集会所などの行政の下請け組織にラジオを置き、住民に集団でラジオを聴かせるという方法が採用されるようになったと考えられる。この場合、放送局の採算は度外しされ、「無料の聴取」が優先された。

 第七章では、台湾放送協会のアジア・南方への拠点としての位置付けや、戦争の進展に伴うその変化が検討される。台湾ラジオは、1931年時点ですでに中国大陸やアジア各地に居住する聴取者へ届いていたが、これはあくまで意図せざる結果であった。しかし「国際放送」(=送受相互合意があるもの)から「海外放送」(=合意なき一方放送)へと軸足が推移する中で、台湾のラジオはより積極的に後者の拠点としての意味を帯びていった。その背景には、1932年に中国国民党が75kWの放送局を新設し排日宣伝放送を始めるなど、アジアにおける「電波戦」が始まっていたことがある。しかし、受信側から見ると、台湾ラジオ放送は中国で受信されていたが、東アジアの各地域ではほとんど受信されていなかった。1937年7月7日の盧溝橋事件の勃発以降、台湾放送協会は、(1)外国語ニュースを始め、(2)国際電話株式会社の短波用放送機を用いた遠隔地への放送をスタートさせ、「海外放送」を大きく転換した。さらに1940年9月には100kW放送局を設備した民雄放送所が完成し、二重放送が実施されるようになった。民雄放送所は、「帝国南方国策遂行の枢要拠点」として期待が持たれたのである。しかし、(「南支」を除いて)インドネシアベトナムではあくまで気象条件が良ければ聴こえるといった程度であって、継続的に対外宣伝の効果をあげたとは考えにくいと分析している。また番組内容も基本的には東京依存で、台湾の独自性は薄く、日本の戦時対外宣伝の中継地点の一つであったに過ぎないと推測している。

 第八章では、「副見喬雄関係文書」を参照しながら、太平洋戦争下での台湾総督府の放送政策の変遷と台湾放送協会の動向が明らかにされる。台湾での「二重放送」は、日米開戦後、1942年になってようやく始まった。それ以前において、1933年に満州電電が、同年に朝鮮放送協会が京城放送局で二重放送を開始していたが、それらは植民地統治の一手段として、現地語でラジオ放送を行う試みであった。台湾でも1932年時点で聴取料を引き下げ、加入者を増やすべく二重放送の要望が高まっていたが、台湾では「国語運動」が進められていることに加え予算の確保も容易ではなかったので、二重放送の開始は遅れることになった。それを後押ししたのが、前章でも触れた1940年の民雄放送所の新設であった。それは、二重放送と海外放送を抱き合わせて実施することを目指していた(昼間は第二放送、夜は海外放送)。1942年10月より正式に二重放送が開始され、「皇民錬成」を図る手段として期待されたが、第二放送のプログラムは第一放送の内容を本島人向けに編集したもので、独立したものとはいえなかったと分析している。またその後、台湾ではラジオの電波が敵機を誘導してしまう危険があることから有線の導入も試みられたが、経費などの理由から頓挫した。代わりに、経費のかからない小放送所の設置によって島内をくまなくカバーし、多くの島民にラジオを聴かせる方針を採用した。結局のところ、台湾における二重放送、海外放送、小放送所建設などは、日本国内で実施された政策を後追いしたものだったと結論づけている。

 第九章では、台湾における玉音放送と台湾放送協会の終焉のプロセスが検討される。1945年8月15日、日本ではラジオを用いて天皇が直接国民に語りかけるという形式を取ることで、天皇の御聖断による終焉が演出されたが、玉音放送は国内だけではく外地(中国、満州、朝鮮、南洋地域、台湾)にも中継されていた。このうち台湾は、1895年以来長らく日本に割譲された地域でもあったため、台湾人にとって終戦は解放であると同時に敗北でもあるという両義的なものとして受け止められた。終戦後は、台湾総督府は内地人の居住を進める方針をとり、台湾総督府の機構を用いた間接統治が行われた。その際、「留用」された日本人が多かったが、台湾放送協会では台湾の技術者が多く雇用されていたと考えられ、他の部門ほど放送関連の留用者が多くなかったという。そして、1945年10月25日より、日本が設置した放送施設や機器を使って台湾広播(こうはん)電台での放送が開始した。当初は日本語の番組も放送していたが、1947年11月時点ではほとんどなくなっていた。なぜなら、台湾の中華民国への編入政策が急速に進み、大半の日本人が引き揚げていたからである。その後、台湾では「台湾を中国人化」する新たな「植民地化」がスタートし、日本語の代わりに中国語を教える「国語講座」が放送された。その意味で、支配のメカニズムは本質的に連続していた。1947年2月28日に二・二八事件が勃発し、民衆側は台湾広播電台を占拠したが、文化的統合の拠点であった放送局が反乱の拠点となったことには象徴的な意味があると述べ、本論が締め括られる。

 終章では、各章での議論を俯瞰的な視座から検討され、本書の成果が簡潔に整理される。序章でも触れられたように、ラジオは活字メディアと異なり、市民社会の階級・階層を解体・流動化させる特徴があり、それゆえにプロパガンダのメディアとして「帝国」によって用いられた。台湾でのラジオの発展は、天皇の<声>を台湾居住者に伝える(=台湾人を「国民化」する)という方向で発展してきたが、内地からの一方的な放送だけではなく、外地から内地への中継も行われていた点は注目に値するという。

また、日本の植民地統治では同化政策が推進され、そのもとでの「国語教育」が台湾での二重放送の開始の足枷になっていた。だが、結局のところ、台湾ラジオの聴取者はほとんどが「内地人」であり、本島人に対して本国からの<声>を結ぶ機能は十分に発揮できなかった。その一方、ラジオが(ラジオ体操に代表されるような)新たな時間観念を台湾社会にもたらしていたことは看過すべきではないと付け加えられる。

また、本書の最大の成果は、海外放送において台湾が南方の拠点になったということを明らかにしてことであると述べられる。台湾は日本が初めて獲得した外地であり、植民地支配の優等生であろうとする台湾の統治者らが、率先した働きを行なったのである。だが、日本国内では台湾の役割がそれほど重視されていなかった。その意味で、本国との連携は不十分であり、一貫性のない、場当たり的な日本の戦時政策の一端が窺えると分析している。

 

 以上の通り、本書は台湾放送協会とそのもとでのラジオ放送を取り上げ、ラジオが国民統合のメディアとしていかに展開していったかを論じた研究書である。植民地におけるラジオの役割に関しては類書が存在するが、台湾ラジオを正面から扱った本としてはおそらく最初のものであると思われる。(また、論旨が明快で、日本語の運用面でも学ぶべき点が多い。) 本書が論じていることは、全体として台湾でのラジオの役割も独自性も希薄であったということだろう。南方に向けた海外放送の拠点として大きな期待が持たれていたことは事実であるが、それでも日本との連携はうまくいかず、実質的な効果は少なかった。

本書ではラジオという観点から本国と台湾の関係が分析されているが、無線通信というテーマに広げると、台湾との関係はラジオ放送の開始よりもさらに先の時代に遡ることができる。すなわち、1902年に火花式無線電信を用いた長距離無線通信試験を行うために、長崎と台湾間(630マイル)が選ばれている[2]。これは、植民地獲得による実験室の拡大として捉えることができるかもしれない。その後の時代においても、ラジオだけではなく、台湾と日本を結ぶ無線電信電話の役割も、帝国主義と無線に関わる重要なテーマだと思われる。

 

[1] 正式な統計にあがってこないアマチュアの存在も考慮する必要があるように思われる。

[2]日本無線史』第一巻、6頁。

 

 

 

『津田梅子 – 科学への道、大学の夢』(2022年) 書評・感想

古川安『津田梅子 – 科学への道、大学の夢』(東京大学出版会、2022年)

 

 津田梅子といえば、日本の女子教育の発展を牽引した人物、あるいは現在の津田塾大学創始者といったイメージが定着しているように思うが、本書は科学史家の手によって生物学者という津田梅子のもう一つの側面を描き出す試みである。津田梅子という女性を主人公としているため、当然、「科学とジェンダー」という視点から取り扱うことが不可欠になる。本書はジェンダー研究における理論を適用することは意図しないとしつつも、「科学教育・研究に関わるジェンダー的問題を剔出し」、「明治時代を駆け抜けた一女性がアメリカで自然科学と出会い、それがその女性のその後の人生にどのような意味をもったか、どのような葛藤や確執があり、そのような創造へと繋がったのかに焦点を当て」るとされる。

 第一章では、梅子の生い立ちと父との関わりを検討した上で、彼女が最初のアメリカ留学から二度目の留学へ向かうまでの過程が辿られる。梅子の父である津田仙は、農学者にして教育学者で、当時の日本でも最も西洋科学や思想に精通している人物の一人であった。例えば、津田縄による媒助法を提唱する際には、チャールズダーウィンの最新の理論を下敷きにしていた。ところで明治政府は明治四年、岩倉具視使節団に便乗する女子留学生の募集が行われた。その留学プログラムは、10年に渡って「アメリカ家庭生活の体得」を目指すもの、言い換えれば、19Cの白人中産階級の女性規範であった「家庭性」のイデオロギーを植え付け、彼女らを通じて日本に模範的な「賢母」を導入することを目的としていた。無論、その背景には、富国強兵という明治政府のスローガンがあった。梅子は父の激励によってこの女子留学生に推され、山川捨松らとともに5人のメンバーに選出される。ここで興味深いのは、梅子は上記のような留学目的を必ずしも額面通りに受け取らなかったという点である。すなわち、梅子は「良妻賢母」といった日本婦女の模範になることよりも、自らが教師になって日本女子の教育に尽力することを使命と考えていた。従って、帰国3年後に、華族女学校に英語教師として就職した。しかし、彼女は大学を出ていないという後ろめたさもあり、次第にアメリカに再度留学する希望を抱くようになる。さらに重要なことは、梅子が単なる英語教師として満足することはできず、「何か専門の研究をして見たい」、「持って生まれた天分を伸ばして見たい」、そうすれば「魂をうちこむ仕事も見つかるであろう」と考えるようになっていたことである。

 第二章では、このようにしてブリンマー大学に二度目のアメリカ留学へ向かった梅子が、現地で何を経験したのかが述べられる。当時は「第一波フェミニズム」の先頭に立っていたケアリー・トーマスのもとで、ブリンマー大学には従来の「良妻賢母」的女性を育成しようとする女子大学のポリシーとは一線を画する風潮があった。そして女性にも男性と同じような研究ができるという確信のもと、研究者養成教育が重視された。さらに、重要な点は、当時のブリンマー大学生物学科が、勃興したばかり実験発生学の一つの牙城になっていたということである。梅子はそもそも留学の表向きの目的が「英語教授法」の習得であったように、専攻を「英語と歴史学」と暫定的に登録したものの、梅子の自然科学への関心・資質、ブリンマー大学での生物学教育の充実ぶり、トマスの推薦などを背景に、実質的には量・質ともの生物学を専門とするようなカリキュラムを消化するようになっていた。

 第三章では留学生活の後半、帰国後の梅子と生物学のかかわりなどが検討される。ブリンマー大学での後半は、後にノーベル賞を受賞するトマス・モーガンの指導下で、アマガエルの卵を材料にする実験発生学的研究を行った。その成果は、1894年にモーガンと共著で論文として発表されたが、それは日本人女性が外国の学術誌に投稿した自然科学系論文としては初めてのものだった。梅子には、このまま正規学部生として卒業し、大学院進学を果たし、生物学者として活躍できる道が開かれていた。にもかかわらず、梅子は日本へ帰国する決断をした。国の税金で計14年間も留学されてもらった(しかも1年間の延長も認めてもらっていた)上で、米国に残り好きな学問を続けることは、個人主義的な行為を許さないという彼女モラルが認めなかったのである。そして、帰国後に梅子は東大の箕作佳吉やモーガンと個人的な研究交流をおこなうものの、日本で生物学者になることはほぼ不可能だった。当時の日本は、制度的にも内容的にも生物学の導入にようやく動き出していた時期であり、欧米の学問的状況とは隔世の感があったことに加え、当時の帝国大学は事実上男子校であり、女性が科学者として生きる選択肢はなかったからである(東北帝大が初めて女子学生の入学を認めたのは1913年である)。

 第四章では、梅子が設立した女子英学塾に目が転じられる。明治以来の日本の教育制度の根底には、女性には高等な(高尚な)学問は不必要であるという、「女子高等教育不要論」が存在していた。女子が高等教育を受けることで、晩婚化が進展し、人口減少を引き起こし、国益を損ねるといった「有害論」さえ展開されていた。さらに、女子教育を推進する人々の間でも、「母性」をより発揮させるために人間形成・婦徳形成を目指すといったものが多く、女性の人格を認めるものはほとんどなかった。それに対し、トマスのもとで学んだ梅子には、科学(学問)は男性のものといった通念を打破すべきといった認識があった。1903年に新設した女子英学塾では、カリキュラムこそ英語が主体であったが、英語以外の幅広い教養を身につけることの重要性が説かれた。ただし、梅子は女性の社会的地位向上をめざしつつも、近代化政策の一員として育てられてきた人=天皇国家や階級社会に疑念をもつことはないエリートであり、社会運動家の山川菊江らの世代とは価値観の違いも見られた。とはいえ、最晩年は山川と親しく近所付き合いをする仲だった。1929年、梅子は満64歳でこの世を去った。

 第五章では、梅子の後継者ともいうべき、星野あいらの活動に焦点を当て、梅子の夢であった大学への昇格が実現する過程が(戦時下などの時代状況との関係も含めて)論じられる。星野あいも、梅子と同様ブリンマー大学へ留学し、生物学と化学を専攻した。そして、このときの経験が、のちの理科創設につながる原点となった。女子専門学校の大学昇格は何度も反対に遭い実現することはなかったが、思わぬ形で状況が一変した。それが太平洋戦争の勃発であった。1943年には男性が出兵したことによる科学者不足を背景に「教育ニ関スル戦時非常事態措置方策」が閣議決定され、女子専門学校における科学教育が一気に推進された。津田英学塾の場合は、さらにもう一つの要因があった。それは、敵性語である英語教育が傍流に追いやられ、在籍学生の減少に歯止めがきかなくなっていたという事情である。こうして数学科と物理化学科からなる理科増設が1943年に認可され、同年4月より授業が開始した。ここでは、科学史家としての著名な桑木或雄が主任を務めるなど、科学史に関わる人脈も関係していた。戦後になると星野らの主導で大学昇格運動が推進され、1948年ついに英学塾は津田塾大学へと昇格した。ここに、津田梅子の「大学への夢」が実現されることになった。

 エピローグでは、梅子がもし生物学者への道を選んでいたとしたらといった想像や、「科学とジェンダー」全般について俯瞰的な議論が展開される。もし梅子が日本に帰国した後、生物学者としてのキャリアを築いていたら、何らかの研究成果を出していたかもしれない。しかし、そうならなかったのは、初期の女子高等教育機関はあくまで教育の場であり、研究の場でなかく、研究を行うためには、外部機関に依存しなければならなかったからである。研究者になるためには、メンターが存在し、母校への教員ポストへ着任し、新たなロールモデルが出現するといった循環が生じる必要がある。こうした構造ができるのは、20Cに入って以降であった。それに対して、梅子よりやや年下の丹下ウメには、3人のメンター(長井長義、真島利行、鈴木梅太郎)がいて、かつ、日本女子学校、東北帝大、理研という活動の場所があった。このことは1890sと1920sではインフラ環境が大きく異なっており、科学者という地位は個人の能力・才能だけではなく、「社会的に構築される」ことを示す例である。無論、彼女らは当時のジェンダー観に反して、積極的な努力の積み重ねによって地道に制度を変革してきた。筆者は、津田梅子は英語を通じて欧米の思想や科学にも目を開かせる、そして日本におけるジェンダー格差の大きさ、障壁の大きさにも目覚めさせることにもつながるといった信念を持って英語教師の道を選んだのではないかと推察する。そして、星野らが梅子の残した遺産を引き継ぎ、戦後に「真」の女子大学設立を果たした。梅子の評価はこうした後世に与えた影響を含めた上でなされるべきだとして本書は締め括られる。

 本書を読んで感じたことは、津田梅子という一人の女性は、本来「科学者」になるはずの存在だったにもかかわらず、当時の明治以来の社会制度や通念によって、そうはならなかったという事実である。筆者がエピローグで述べているように、科学者は「社会的に構築される」のであり、我々が津田梅子=科学者として認知してこなかった根底には、ジェンダーの歴史があったということを再認識される。本書はジェンダー理論を意識的に適用することなないとしつつも、淡々とした筆致で「科学とジェンダー」の問題へと思索を誘う。

 最も意味深だったのは、モーガンが「彼女〔梅子〕があのような業績をあげ名声を勝ち得たのは、生物学と完全に縁を切ったからだ」と断言したエピソードである。これは一種の皮肉であるが、皮肉として通用するには、ジェンダーバイヤスが存在している現実がなければ無理であるのはいうまでもない。モーガン自身は、梅子の才能を認め、共著論文まで書いたノーベル賞を受賞する科学者であった。彼が、まるで100年先から達観したようにこう断言をしているところには、色々と考えさせられるものがあった。

 

 

 

夏目漱石『それから』

 小説に浮気してしまったが、今このタイミングで、『それから』を読めてよかったとも思った。

 主人公の代助と僕自身の境遇はかなり似ている。30歳に近づき、同僚はほぼ全員フルタイムのサラリーマンとして毎日忙しなく働いているのに、中には結婚をして子どももいる人もいるのに、自分はいつまで経っても研究だとか何だかよくわからないことをしている。(実際、「よくわからない」というわけでもないのだが、なかなか相手には伝えづらいし、伝わらない。)

 ただ、代助は僕と違って相当頭がよく、かつ自分の仕事に対する認識は何倍も上手だった。もちろん、恋愛に関して言えば、代助は単純に馬鹿だ。彼がやってしまったことは、阿保のやることだった。しかしそれを除けば、彼の考えに学ぶことは多くあった。

 時代は(多分)1909年。日露戦争に勝ち、日本がようやく先進国の仲間入りを果たしたという意識が広まりつつあったときだといっていいかもしれない。「日論戦争後の商業膨張の反動を受け(p.298)」るような時期である。

 代助と彼の学生時代の同僚の平岡は、ある意味真逆の人生を送っている。代助は研究をし、平岡は実業界で働いている。平岡に「世の中へでなくちゃなるまい」と言われた代助は、「世の中へは昔から出ているさ。殊に君と分かれてから、大変世の中が広くなった様な気がする。ただ君の出ている世の中とは種類が違うだけだ(p.25)」と言い放つ。こんなセリフを僕も同級生に言ってみたい。

 代助の同時代の「日本」への批評性は一流である。「なぜ働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟に云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本ほど借金を拵えて、貧乏震いをしている国はありゃしない。(…) 日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。(…) こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。(pp.102-103)」

 西洋から借金ばかりを背負って、表層的に一等国を装っても、肝心な中身が伴っていなければ、(やや強引に言い換えれば、模倣ではなく独自の創造がなければ、)いつまでたっても碌な仕事はできない。代助曰く、「神聖な労力は、みんな麵麭を離れている(p.106)」、「食うための職業は、誠実にゃ出来悪い(同上)」。

 この言葉の持つ意味は底知れない。「金のため」の仕事とそうではない仕事との距離は、無限にある気がする。

 もちろん、代助も父からの仕送りで生活しており、お金があるわけではない。「それ程偉い貴方でも、御金がないと、私みた様なものに頭を下げなけりゃならなくなる(P.120)」。これは嫂である梅子と代助の対話である。

 

 金は大事だ。食べていかなくてはならない。定職に就いていないと世間体も悪いし、不条理な世界でせっせと働くサラリーマンは偉い(と僕は感じる)。しかし、金のためではない場所でこそ真の仕事ができるというもの真理な気がする。幸いにして、来年までは、僕自身、「麵麭を離れている」仕事ができる状況にある。そのことの意味や可能性を、よく考えさせられた。

 

 

 

ダーウィンルーム読書会を終えて (2022年、4月13日)

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫、2016年)の読書会をダーウィンルームでオンライン開催し、縁があってこの読書会のキュレーターを務めさせていただいた。ホストや親切なスタッフの方々の支援もあり、無事終了することができた。ここ最近は研究書ばかり読んでいたので、本書を読み、読書会に参加したのは非常に新鮮な心地がした。記憶の新しいうちに会を終えての感想を書いておきたい。

https://darwinroom-dokushokai20220413.peatix.com/view

 

  本書は独ソ戦に動員された500名の女性の証言をまとめた「オーラルヒストリー」であり、衛生係、砲兵、外科医、看護師、通信兵、洗濯係など、数多くの役職にいながら戦争を体験した人々の声を書き留めている。この「多声性」とはいったい何なのか?まずはこの点について新しい理解を得られたと思う。

  日本にとってのアジア・太平洋戦争の主な主戦場は本土ではなく、外地だった。それゆえ、日本人市民(あるいは女性)にとっての戦争体験といえば空襲や原爆投下などの印象が強く、ある意味「被害者」としての記憶がよく残されているような気がする。

  それに対して、本書では被害者だけではなくむしろ戦地で戦った加害者としての証言も含めた多くの目線からの記憶が記されている。戦場においては、これだけ多くの役職があったのかと圧倒される。言い換えれば、「被害者」としての銃後の視線という戦争のごく一側面だけを切り取ったものではなく、さまざまな立場で戦争に関わった人々の証言を拾うことで、戦争の全体的な「構造」を浮き彫りにしている。それこそが、「多声性」という言葉の真の意味なのかもしれない。

 もちろん、それが可能であったのは、著者があくまで生活者の視線に寄り添って、戦争を体験した女性から声を引き出したからに他ならない。この証言をevokeする力の背後には、話し手と聞き手の間の真の信頼関係があったに違いない。重要な証言は、ごく一瞬に訪れるものである。その一瞬を掴むというのは並大抵のことではない。

 

 そしてもう一つ重要なのは、実は本書に拾われなかった声があるかもしれないという点である。それは、(1)著者によって捨象されたもの、(2)話し手が言葉にできなかったものがある。特に(2)の意味は大きい。

 人が過去を語るとはどういうことなのか?そこには何かしらの「知識」によって脚色されたストーリーが介入しているのかもしれない。逆になんら脚色されていない生の記憶というのを我々は滔々と理路整然と証言することなどできるのだろうか?

 本書は読みにくいという感想が複数回出た。それは、もしかするとこの「語れなさ」に由来する部分もあるのかもしれない。

 

 最後には、日本が戦争をするとなったら、もしかすると多くの人々が進んで戦争に参加してしまうような、日本独特の危うさがあるのではないかという話になった。世界中、電車に乗っているほとんど全ての国民がマスクをしているのは珍しいらしい。「自粛警察」といった現象も含めて、この「個人」という「調和」をみたいな民族性は、戦争となれば一挙に団結することの裏返しなのではないかといった話だ。

 

 元来、この読書会の狙いは、「戦争はよくない」といったこの本を読む前からわかりきっている事実を確認するだけの会にならない、戦争に対するそれ以上の理解を得るという点にあった。そしてその目標はおおよそ達成できたように思う。リアルな証言にちゃんと向き合うことで、人間や戦争の複雑さに思いをはせることができたように思う。

 

最後になりましたが、参加していただいた方々、ダーウィンルームのスタッフの方々、本当にお世話になりました。

 

明日から本腰を入れて、論文完成に向けてとぼとぼとがんばります。

 

 

 

 

 

 

 

Takashi Nishiyama, 2014, Chapter 1 .

第一章では、まず日本の高等工業教育史が外観される。著者はその発展を4つの戦争(日清、日露、WW1、アジア・太平洋戦争)と関連づけながら振り返る。なぜなら、戦争は中央ないし地方の政府に、工学教育機関を新設・拡大するための理由や財源確保を正当化したからである。戦争こそが、エンジニア教育の財政的・政治的障壁を低減する契機だった。まず、日清戦争の時期に該当する第一期は、京都帝大の新設が重要である。日露戦争に該当する第二期では、九州帝大の新設が重要である。さらに、WW1の時期と重なる第三期では、既存の帝大における工業教育の拡大が見て取れる。そして、その後1920年代半ばにおいて、日本のエンジニア教育拡大は完了したというのが筆者の主張である。いわゆる戦間期においては、工学教育を急いで拡大しなければならない理由が少なかった。1937年以降、日中戦争が始まってからも、工学教育の拡大は延々に進まなかった。そして太平洋戦争期になってからようやく政策を打つも、すでに時は遅く、(航空技術者が心身ともに疲弊していたことに見られるように)明らかに戦争に準備できてい現状が露呈した。

 

Chapter 1 Designing Engineering Education for War, 1868-1942 (pp.7-24)

  • 近代的エンジニアの研究(とくに航空力学)の発展は、以下の4つの段階を示していた。

(1)1895-1897、(2)1905-1911、(3)1918-1924、(4)1938-1942

:それぞれ、日清、日露、WW1、アジア太平洋戦争の時期に対応。

→戦争は、中央(地方)政府に、教育機関を作るための理由・財源を確保させる触媒として機能した。

エンジニア教育を拡大させたのは戦争だけが主たる理由ではないが、4つの戦争がエンジニア教育の財政的・政治的制約を減らし、戦争のための近代国家を強化しようとさせた。

 

  • Building the Infrastructure for Engineering Education, 1868-1890s
  • 明治新政府は、国税から得た資金を各地のプロジェクトに投入したが、その一つが高等教育の拡充、とくに帝国大学の設置だった。政府による直接的な方向づけがなかったら、日本の教育インフラの整備はもっと遅く、粗いものになっていただろう。
  • 日本の初期の産業成長において、唯一かつ最も重要な政府の部門は、工部省(Ministry of Public Works)だった。1870年に設置された同省は、広範囲にわたる工学計画を管轄した。外国から輸入された知識や経験が、全く新しい領域や、日本の職人によって支配されていた領域へ現地化させ、浸透させられた。この目的のために、明治政府は3000人の御雇外国人を招聘した。それは、とりわけ交通や通信といった分野で遅れていた産業国家にとって必要だった。彼らには、日本人教師の3-10倍という高い給料が与えられていた。
  • 日本政府の計画は、外国人教師のみならず、時刻のエンジニアや教育の設立をも必要としていた。工部省は1871年に、外国の工科大学を模範として、工部大学校を設置した。そこでは26歳のダイアーらが招聘され、英語の授業が行われた(食事も洋食だった)。生徒は6つの分野から専門を選択し、当時必要とされた理論的理解を身につけ、6年間学んだ後は工部省で7年間働いた。
  • 1877年に東京大学が設置されたことで、中央政府と工業教育との間の繋がりはさらに強化された。東大の最初の目的は、既にある異なった工学の伝統を統合することだった。つまり、徳川制度における理論志向のプログラムと、工部省主導で進められた実践重視の教育とを統合し、1866年に帝国大学工科大学が文部省の管轄下に設置された。当初から日本においては工学が大学の主たる部分を構成していたが、これは、工学は大学の目的である人格の陶冶と相容れないとして(大学から)排除されていたドイツなどと対照的だった。その後、1866年に帝国大学令が出され、工科大学が日本の帝国大学システムに組み込まれた。帝国大学令は、文部省が大学の学問の自治に干渉する経路を準備した。
  • 東大工学部の社会的権威は高いこともあり、工学プログラムは浸透していった。工学部は、政府や技術的に進歩していた西欧諸国との繋がりを持っていたので、尊敬されていた。こうして大学内での工学の地位は、西欧よりも日本においての方が高かった。さらに、OBのネットワークが政府と産業界との繋がりを強化した。例えば電気工学科の卒業生は、電灯企業、逓信省に就職した。東大工学部は、エンジニア教育の頂点を形成した。
  • 大学と産業界、政府との繋がりは、研究・教育にとっての重要な財政源を与えていた。OBの中には文部省からの資金を工学部に繋げる役目を果たしていた者もいた。また別のOBは民間企業において重要な地位にいた。彼らの寄付によって、工学部は各学部の中でも最も潤沢な学部だった(31%)。
  • さらに、OBは軍との多くの制度的繋がりも強化した。

(Ex 造船工学科は、海軍や船舶企業にとっての有能な技術者集団を輩出した。104人の卒業生(1883-1903)のうち、就職先で最も多かったのは海軍(34人)だった。)

加えて、陸海軍の要望に応じて、1887年には造兵学科、火薬学科(arms technology and explosives)が設置された。これは造兵廠における技術者を確保するためであった。

←このように、工学部出身の卒業生は、人的繋がりの主たる部分を形成し、政府主導の産業化によって社会を変えるための手段となった

 

  • Expanding the Infrastructure for Engineering Education, 1890s-1930s
  • 1890s-1920sにかけて生じた3つの戦争(日清、日露、WW1):
  • 国家のためのエンジニア教育の重要性を正当化し、
  • 国家と教育の関係を強化した。

後続する帝国大学の設置に際しては、東大工学部がモデルとされた。戦争は、支出に関する政治的・法的・財政的制約を減らし、国が大きくエンジニア教育を拡大することを可能にした

  • その最初の段階が日清戦争の時期に該当し、それは京都帝大の設置に例示される。日清戦争の賠償金と戦後の好景気は、新しい資本をもたらした。好ましい機会と技術者ニーズの拡大を見て、京都帝大の設置計画が進行した。1895年には委員会が、(1)大学を京都に設置する、(2)東大の2/3のサイズ、(3)四学部制であるという計画を策定した。フランスのモデルに倣って、日本は講座制を導入した。それは教授が一つの学問ユニットを主導するモデルだった。そして1897年に京都帝大が設置された(7学部21講座で、東大の半分だった)。
  • 同時に、技術知識の制度化が大阪と東京で可能になっていた。それは、従来の徒弟制にとってかわるものだった。大阪高等工業学校(Osaka technical school)(1896)、東京高等工業学校(1881)は、地元の趣向、伝統、軽工業の需要を反映した正式なプログラムを示した。
  • 第二段階は日露戦争の時期に該当し、三番目の帝大である九大の設置に例示される。日清戦争の賠償金は八幡製鉄所建設の基礎となり、1901年から操業を開始した。これは、日露戦争勃発までずっと鉄鋼を海外に依存していた体制からの脱却を目指すものだった。戦争は九州の重要性を高めた。そしてまた、戦争は造船、製鉄、電気などの重工業化を刺激した。
  • 1911年に古川の財政的支援を得て、九州帝大工学部が設置された。それは東大をモデルとしていた。またそのとき戦後の経済ブームが、エンジニア教育の国家的に拡大させた(名古屋、熊本、仙台、米沢)。
  • 第三期はWW1の時期に重なる。WW1は、前線での武器(航空機、潜水艦、毒ガス)のみならず、銃後の生産力が勝敗を分ける総力戦であり、国家は大量生産のために計画、組織化、動員を行った。この新しい戦争=消耗戦では、産業力が重要だった。特に鉄鋼生産の需要が増加し、日本においてさえ、学士のエンジニアの需要が増えた。
  • WW1は、既存の3つの帝大のエンジニア教育を強化した。1919-23年にかけて東大工学部の講座は54に増加した。さらに、1921年には単位時間制(credit-hour system)が採用され、エンジニア教育がより柔軟になった。京都帝大も理学部と工学部をわけ、講座が二倍に増加した。九州帝大には造船学科が設置された。
  • しかし、工業教育の拡大は1920s半ばまでしか続かなかった。歴史的には、国家レヴェルの工業教育にはコストがかかり、対外戦争、動員、経済ブームなどの政治的経済的に理のかなった正当化が求められる。1926-36年の間には、こうした要素がなかった。東大工学部も1924年から33年まで講座が増えず、1934-38年にかけて3つの講座が増えただけだった。これは東京だけではなく、1925-37年にかけて、全ての帝大において工学部が新設されなかった。
  • これは日本が工学を推進しようとする強い動機がなかったことを意味しない。1929年に東京で開催された世界工業会議(The World Engineering Congress)では世界中から1200人が集まり、日本の海外での産業の名声を高める機会を得た。
  • また1920s半ばからのエンジニア教育拡大の停滞には、世界恐慌の影響もある程度はあった。しかし、東大工学部は、この不況の最中でも快活だった。1920-34年にかけて卒業生の需要は高く、就職率は約90%を維持していた。33-37年にかけて、68%が民間企業に、24%が軍を含んだ官セクターに就職した。
  • 現在から見れば、工学の教育インフラの大部分は世界恐慌前の1920s半ばに完了した。明治政府は工学に医学に比肩し、科学を凌駕するほどの地位を与えた。医学部と工学部が全ての帝大に設置されたが、これは工学が医学や科学よりも下に見られていた(less esteem)西欧諸国では見られない現象だった。1870sから多くの日本人の政治的リーダーは、法学者以上に応用科学者を輩出することに関心を持っていたように思われる。当初(1896)から工学部の講座が最も多く、その傾向は1920sまで継続した。

日清、日露、WW1という連続する戦争の経験を通じて、工業教育が広まり、民主化し、制度化された

 

  • Mobilizing Engineers for War, 1937-1942
  • 1937年7月からの日清戦争は、社会における技術者輩出の需要を急増させ、技術者教育の相対的停滞に終止符を打った。労働市場は科学と技術の専門知識のある人材を歓迎した。1939年春には、企業や工場は理工分野の12000人に対し90000人の募集をかけていた。(つまり、一つの卒業生に対し5の仕事が待ち受けていたことになる。)
  • 第一次近衛内閣:国防のためのエンジニア動員の構造を準備。

→陸軍の意向で木戸幸一が厚生省を主導することに。

→「学校卒業者使用制限令」(1938):法的に、民間企業はどの工場に何人求人するのかを事前に文部省に提示し、厚生省が人数調整を行う。

―文部省、厚生省による、戦争のためのエンジニア動員の構造的基礎となる。

  • 一方、主要な航空企業はこうしたクオータ制の恩恵を受けなかった。

∵名声があるにもかかわらず、決まった人数のエンジニアしか雇用できない。

学生にしても、志望とは異なった会社に就職しなければならなかった。

→人材不足を解消する効果的な方法ではなかった。非軍事志向の産業は、大卒を採用できなくなった。

  • こうした人材の不足は、その制度的なインフラにも原因があった。そもそも1937年まで、航空学科を伴っていたのは東大工学部だけだった。
  • 航空学者の人数不足を当時のメディアも報じていた。

←「遅すぎる」という報道は正しかった。

1939年になってようやく東工大が航空技術者不足を解消するプログラムを開始した。同様に、九大(37)、阪大(38)、東北大(39)、名大(40)、京大(42)も航空学分野のプログラムを開始した。

  • 航空分野の急速な拡大は、4番目の波の前兆だった。1938年に文部大臣に就任した荒木貞夫の要求に、高等教育機関は応答した。彼は全ての帝国大学の教授と学長を指名する権利を得ようとした。彼は任期中に、科学・技術の教育、研究、開発を促進することに成功した。それは1938年8月に設置された科学振興調査会での議論に示されている。そこではいかにして研究開発施設を拡大するか、科学や工学の教育をいかに強化するか、科学・工学のプログラムを卒業した人数をいかにして増やすかなどが議論された。そして1939年には科学研究費交付金を創設し、科学と戦争への国家的コミットメントを示した。
  • その間、東大は戦争のための将来的なエンジニアを生産する巨大な中心地になっていた。荒木の元で入学者の数が330人から460人に増加した。さらに、1942年4月には第二工学部が新設された。その他の帝国大学でもエンジニア教育が急速に拡大していった。
  • 現在から見ると、エンジニア教育の急速な拡大は(特に1939年以降は、)アドホックで、急いでおり、戦争への対応としては遅れたものだった。日本は1938年までエンジニア教育の拡大に失敗した。39-42年までの制度的拡大は、タイムラグに固有の問題から目を背けた。というのも、1939年4月に入学した一年生は3年後の1942年に卒業する。第二工学部の場合は、1942年に新設されたのだから、一期生さえ卒業するのは1944年9月である。さらに、大学を卒業して有能な経験のある技術者になるまでに少なくとも数年かかることを考えれば、この対応は遅いものだった。このようなエンジニア教育の失敗は、3年以上続く海外との戦争の経験がなかったことに由来していた。
  • 問題の悲惨な帰結は、戦時産業における経験あるエンジニア、技術者不足だった。それは、1941年12月真珠湾以前に目に見えた。最もこの点を明らかにする例は、有能で年配のエンジニアが責任を負っていた航空機の開発だった。堀越二郎率いる海軍機開発の30人ほどのチームは、当初楽観と若き強さで満ちていた。1938年時点で平均年齢は24歳だった。しかし、若さの活力は、消えることのない仕事の重荷の前では無防備だった。堀越の右腕であった曽根義敏は、過労で一ヶ月の休養が必要であると診断された。他にも体調不良で死に至った技術者もいた。中島飛行機、三菱飛行機のチームは、連合国との戦争に十分準備できていなかった。

 

  • エンジニア教育のための近代的なインフラは1924年にほぼ完成していた。1920年代までに、戦争は(これまで指摘されてきたような)「産業と軍との関係」以上に、「エンジニア教育と社会」との関係をより大きく変化させたと思われる。1919-37年までの拡大の低迷は、高等教育を受けたエンジニアの生産を困った立場に追い込んだ。そして、この不足は、航空産業をはじめとする軍需産業において顕著であり、問題は日中戦争開始時点ですでに目に見えていた。1938年以降の動員政策やエンジニアプログラムの急速な拡大も、日本がアメリカに宣戦布告をする1941年12月までほとんど問題にならなかった。1930sにおける有能な技術者の供給不足は、1940sに意図せざる帰結をもたらした。優秀な少数の技術者は海軍に不均衡に流れていった。そしてこの遺産は、戦後へと引き継がれた。

 

 

 

関連文献:

 

 

 

 

 

 

Takashi Nishiyama, 2014, Intro.

Takashi Nishiyama, Engineering War and Peace in Modern Japan, 1868-1964. (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2014).

 

 

本書は、戦前・戦後を貫く時間軸(1868-1964)を採用することで、総力戦とその敗戦の経験が、どのような技術や文化を形成したのかを問題にしている。具体的には、軍の技術者が経験した敗戦が、戦後の新幹線に象徴される柔軟で順応性のある革新的な民生技術にどのように反映されたのかを論じるようである。近代日本において、軍事/非軍事の両面で技術者コミュニティーに最も大きな影響を与えたのは、国家による技術計画だった。そのため、本書では、主に国家的な技術計画に注目し、その下で(元)軍事技術者がいかなる努力をしていたのかが描かれる。

 

 

 

Introduction :Technology and Culture, War and Peace (pp.1-6)

  • 2000年5月に放送されたNHKプロジェクトX 挑戦者たち 執念が生んだ新幹線 -老友90歳・飛行機が姿を変えた」=WW2に発展したエンジニアのスキル・価値観が戦後の新幹線計画に適合しているとする物語。
  • プロジェクトX(の人気)は、
  • 国が敗戦後、エンジニアをいかにして「勝利者」として描き出しうるかを示している。(=敗戦したにもかかわらず、それが戦後の成功を導いたかを説明する手段としてのエンジニア)
  • 20Cにおける日本の技術変容における、戦争と平和についての相対的な信用(名声、信頼、その功績を認めること)(relative credit)〔:戦争や平和が、技術の変化においてどのような正/負の役割を演じるのかみたいな感じ?〕という厄介な問題を提起している。
  • 2つの世界大戦と冷戦は、世界中の技術的展開に広範な含意をもたらした。1868-1945年にかけて、日本の技術的前進はひっきりなしの戦争にかなり依拠していた。日清、日露、WW1、アジア太平洋戦争は、日本の軍事的科学・技術の重要性を高め、技術力を強化することを後押しした。
  • その過程において、「富国強兵」という国家スローガンは、筋が通っており、説得力があった。技術の変容、軍事主義、産業主義は国家安全保障という急務のもとでお互い強化しあった。1930sまで、(1)高等教育における技術者訓練、(2)民生・軍事研究開発能力、(3)軍需産業における民間企業という3つの鍵となる要素は、協力的な関係にあった。

(←技術は戦争のためにあり、戦争は技術的熟達を好む。)

→1941年に日本が太平洋戦争に突入したとき、すでに日本は高度に教育されたエンジニアを多数輩出できる、アジアの中で最も産業化された豊かな国になっていた。

  • 無条件降伏は、日本にとって初めての敗戦直面だった。

→戦後2年の時点で、文部省は「新しい憲法の話」を発行した。18ページのその本は、平和志向の理想的な社会を表象していた。中央には「戦争放棄」と書かれ、魔法の黒い釜の中に軍需品が入れられている。下方からは平和を志向する現代的な技術のシンボル(商船、鉄道、トラック、タワーなど)が流れている。1952年までの敗戦国日本は復活を成し遂げ、その後1960s末まで21Cの日本の生活を形成し続けることになる目覚ましい再建の旅を歩んだ。

  • 戦争や戦争の手段と技術的発展は密接に関係している。

外国との戦争が、航空機、歩兵武器、潜水艦、対潜兵器といった科学・技術の発展を促した時期である20Cアメリカの例が、この点を鮮やかに説明している。そしてマンハッタン計画はその逆、つまり、いかにして科学的・技術的飛躍が直ちに軍事的決定に影響しうるかということを明らかにしている。

⇄戦争の技術への影響(=戦争が技術の発展にどう影響するか)は、技術の戦争への影響(技術の発展が軍事的意思決定にどう影響するか)以上に、より捉え所がなく、説明することが難しいように思われる。

:長く続く戦争が物質的で形のある技術へどう影響するのかと言う問題は、技術の外在的な要素=価値観、アイデアといった無定形の(amorphous)概念への影響よりも観察しやすい。戦争の影響は遠大である。

戦争の終結、あるいは戦争の不在(直接の軍事的参与がない状態)についてはどうだろうか。技術史においては戦勝国である西側に焦点を当て続けていたがゆえに(ex WW2における米、仏)、体制(regime)の技術的成功における重要な要素が曖昧にされたのかもしれない。

それに対し本書では、日本という戦前・戦中に科学・技術の偉大な成功を達成したが、総力戦と無条件降伏の後により顕著な成功を経験した国の事例を見ていくことになる。

  • 国際比較史的な枠組みに落しこむことには注意が必要である。この場合、各国のシステム、実践、価値観などの相違点の方が類似点よりも重要視される。そして文化的な解釈は、日本の方法をその国独自の歴史的遺産に帰する。

⇄平時/有事において、国家的な科学・技術が駆動される際に、日本に典型的な何かがあるのだろうか?

日本の科学者・技術者がある選択をしたのは、彼らが日本人であったからなのだろうか?

←こうした問いにはほとんど意味がない。

∵彼らは国の文化を、一枚岩的で、静的で、非歴史的なものとみなし、場合によってはステレオタイプ的な見解を固定化させるから。

→むしろ、次のようなことを問うことに意味がある。

:国籍ではなく、総力戦やそれへの敗北の経験によって生じる技術と文化について、明確な何かがないのだろうか?

戦争や敗戦に関するいかなる文化が、国家や技術を(再)建築する際に有効なのか?

戦争や敗戦を経験したにもかかわらず(あるいはだからこそ)戦前・戦後を貫く技術史(trans-war history of technology)において、どういった連続的/断絶的な要素を観察することができるのか?

  • 以下の研究では、(西欧諸国と)非西欧諸国の事例を取り上げ、戦時/平時における技術移転や普及の国家的戦略に焦点を当てる。その〔日本の〕戦略は、アジアの群島国家の地政学的・地理学的に明確に適合した戦略であった。

→戦前・戦後を貫く社会の技術分析により、敗戦が戦前における日本の勝戦以上に技術的景観(landscape)を変えたことを示す。

1868-1945にかけて、日本は近代的な研究開発を築き、戦争をし、敗戦し、その技術と文化を軍事化し、非軍事化した。そしてその過程は、意図せざる結果を体現していた。日本の技術は、価値を伴い、内的に緊張し、偶発的なプロセスを生み出した。

→敗戦の経験を反映した、柔軟で順応性のある革新的な非兵器(民生)技術 – 新幹線に象徴される - は、敗戦の技術(technology of defeat)として捉えることができる。

  • 本研究は、それを通じて日本の科学者・技術者を、戦争・平和・技術・社会を調べるレンズとして捉える。以下では、政治・経済的世界だけではなく、技術者が実験室、研究所、ローカル/周縁的( local/regional)との繋がりを変化させることについての、詳細な文化的研究(close cultural study)である。国家がスポンサーとなるエンジニア計画に焦点を当て、そのような計画における(元)軍の技術者の研究開発努力を明らかにする

∵1868-1964における軍事化/非軍事化の国家政策が、日本の技術者らのコミュニティーに最も大きな直接的な影響を与えたからである。

敗戦後、軍の技術者らはそれ以外の職を求めて、各分野で仕事をした。彼らにとって戦時中の技術や敗戦の経験は、平和にために、積極的・建設的に日本を形成するための源だった。

  • そうした技術者らは、ある社会的な世代を形成した。以下で語られるのは、個人の物語であると同時に、集団的・社会的歴史でもある。

総力戦や敗戦は、技術者のコミュニティーや、彼らの技術や国家に対する見解をいかにして形成したのだろうか

  • エンジニアは制度やコミュニティの目標を支える指導的な一連の価値観を持っている。政治的・経済的・社会的手段によって、エンジニアは、産業社会における重要な労働力を提供した。彼らは義務的な技術問題を解決する。彼らは意図的/意図的でない帰結を非難することもある。そうした緊張(tensions)は、エンジニア文化に深く根ざしている。それは、実験室や施設に特有で、道具や知識やコミュニティーに結晶化されている。技術的変容は、平時/有事における、エンジニア、研究所、制度の間の文化的緊張を体現している。こうした緊張に注目することで、ある技術者文化が浸透し、それが国家的/国際的状況にいかなる影響をもたらすのかを見ることができる。

→技術者共同体の文化的分析によって、一連の緊張が、戦争/平和に対する日本の創造的適応能力の根底にある統一的な価値観と両立していたことを明らかにできる。

  • 科学史・技術史家、軍事史家は、しばしば社会史の網目に軍事史を強固に組み入れることに失敗してきた。工学の高等教育の重要性を無視した社会で、技術や軍が発展することはめったにない。

→まずは、高等工業教育の歴史を概観する。

∵工業教育、研究活動、文化を調査することで、なぜ、いかにして日本人が1941年までに技術的優勢を獲得し、1941-45年にかけてそれらを失い、戦後それを取り戻していくのかを明らかにできるから。