yokoken001’s diary

読書メモ・レジュメ・レポートなど

Gary L. Frost(2010), Chapter 3

Chapter 3 RCA, Armstrong, and the Acceleration of FM Research, 1926-1933 (pp.61-76)

 

 第三章では、1926年から1933年にかけて、RCAやアームストロングが行ったFM研究が扱われる。分量的には多くないが、語彙のレベルが高く、比較表現や仮定法が散見され、文章は難しい。

 本章の内容を理解する上でのポイントは、RCAとアームストロングとに存在していた複雑な関係だろう。アームストロングはRCAにとって最大の株主であったと同時に、技術コンサルタントでもあった。両者の間には協力と呼べるほど対等な関係が築かれていたわけではなく、どちらかというとRCAの体制は、同社の研究成果がアームストロングに流れるような仕組みになっており、その逆ではなかった。そしてRCAは、他社に先を越されないように証拠となる論文を出そうとしていたが、結局その懸念はインサイダーであったアームストロングによって具現化されてしまう。両者が決裂する原因は、本章では明らかにされていないはずなので、そのあたりの事情は次章以降に期待したい。

 

以下は要約。

 

 従来の歴史記述は、アームストロングが広帯域FMを発明したことは、RCAを油断させたということを暗にほのめかしていた。例えば彼の伝記の著者であるレッシングは、「FMの武勇伝(saga)は、1933年のクリスマスの直前に始まった。そのとき、アームストロングはRCAのサーノフをコロンビア大学に招待し、そこで彼の直近の驚くべき発明を目撃させた」と記している。また、レッシングの著作では、アームストロングは、膨大なロイヤリティーを蓄積と多くの実験室を有しているRCAこそがラジオ産業の発展を拡張する理に適った企業であるとみなし、他社に先行してRCAにその特許権を販売したということも語られる。だがこの話は間違っている。実際には、アームストロングRCA1920年代中頃からFM研究に打ち込んでいたのであり、かつ、そのことは驚くに値しない。なぜなら、RCAはアームストロングを従業員とするような関係を享受していたのであり、彼のRCAに対する契約上の忠誠こそが同社を「理に適った会社」であると規定したからである。

 1934年以前に米国無線産業は、2つの方法がその前進率(rate)に影響を与えていた。一つ目は、1928年から1933年までにWHやGEといった大企業の発見がRCAに共有される仕組みがあったということである。そして二つ目は、RCAが商業的な長距離通信を運営するなかで、エンジニアらが(空電ではなく)フェージングの問題に直面していたということである。

 アームストロングとRCAの関係は、彼がアマチュア無線家だった頃から始まっていた。彼は1890年に学校の先生だった母と、オーックスフォード大学出版の代表だった父との間に生まれた。彼はコロンビア大学の学生であった1911-12年頃に米国ラジオクラブに入り、同時期に「フィードバック回路」を発明している。そして1913年に12月にアメリカン・マルコーニ社で彼の発明の演示を行なったとき、同社の代表を務めていたサーノフと親友になった。

 米国が第一次大戦に参戦すると、アームストロングは陸軍通信隊に入隊し、フランスに従軍した。そしてそこでフィードバック回路に並ぶもう一つの重要な発見である「スーパーヘテロダイン回路」を共同で発明した。彼は陸軍での経験に強い誇りを持っており、残りの人生において、彼はアームストロング「少佐(Major)」と呼ばれることを好んだ。

戦後、彼がフィドバック回路やスーパーヘテロダインを発明したという業績は、RCAを駆り立てた。1920年にWH(RCA傘下)は両者の技術に対して、335,000ドルのロイヤリティーを支払うことを申し出た。この金額は、彼が企業から独立できることを保証したが、RCAのマネージャーになっていたサーノフは更なるロイヤリティーを支払うことで、その発明を保護しようとした。1922年6月に、サーノフはスーパーヘテロダインに対して現金200,000ドルと、RCAの60,000株をアームストロングに差し出すことに同意し、彼をして同社の最大の持ち株主にせしめた。さらに、同年の夏にはRCAはアームストロングとその他のエンジニアらに家庭用ラジオであるRagiolaの開発を命じた。アームストロングのRCAの持ち株の価値は1922-23年頃には300万ドル超えとなり、1930年までには当初の三倍にまで膨れ上がっていた。

 またアームストロングは彼の新たな発明をRCAに優先的に提供する契約を結んでいたので、実質的に彼はRCAだけを顧客とする技術コンサルタントだった。このようにRCAがアームストロングと占有情報を共有することは、両者にとって有益なことだった。彼は1920年代にRCAがFMの研究に取り組んでいたことを知っていた。アームストロングと親しかったHarold Beverageは1922年に、1920年頃に「Murray Crosbyという人間が〔RCAにおいて〕あらゆる種類の変調について研究しており、アームストロングはそれに興味を持っていた」ということを回想している。加えて彼は「アームストロングはリバーヘッドに自由に出入することができ、実際に頻繁にそうしていた」とも記している。

 アームストロング本人は彼の仕事についての資料を残していないが、その他の資料からは、おそらくRCAがFM研究に取り組み始めた直後に同じくFM研究に従事したのではないかと推測される。1927年には彼がFMの無線電話についての初めての特許を出願している。そしてその二ヶ月後に、Beverageと共同で仕事をしていたHarold PetersonがRCAにおいて初めてFM技術を応用する特許を出願した。米国特許局で発行された狭帯域FMの全て特許は、これら2つの特許のみであることから、両者はお互いの仕事について認識していたことが示唆される。

 Aitkenは、RCA傘下の企業同士に、文書やその他の資料の行き来がなかったことを指摘しているが、これは1928年前後の動向に限定した場合に当てはまる分析であって、実際にRCAの体制は1927年頃から大きく変わりつつあった。1927年の10月には、WH、GE、RCAの代表が会議を開き、その6ヶ月後、新しい無線製造会社を発足させることが決まった(GEが48%、WHが32%、RCAが20%の株を保有する)。1929年12月26日、RCA Victor Companyが発足し、翌年にはRCAの社長にサーノフが就任した。

 歴史家はこの統合(unification)を、その後に続くfederal antitrust lawsuitによって再組織化の計画が頓挫させられることから、サーノフにとってもRCAにとっても重大な支障になったということを指摘する。だがこの統合は一時的に、GEやWHが行なったFM研究に関する知識をRCA、そして最終的にはアームストロングへと流通させるパイプラインを作り出していたのであり、FM研究の前進を加速させる側面があった。

 1929年7月に、その後のVictor Companyの議長になるHarbordは、C.H. Taylorに対して、EH、GE、RCAの研究を統合するような仕事を割り当てた。統合の計画がうまく収まった頃、RCAはFMについての2つの計画を始めた。一つ目は1928年、1929年頃に開始したマンハッタンの超高層ビル本社のネットワークにWHの受信機を設置することだった。だが、この計画はうまくいかず、まもなくRCAの文書から言及が消滅した。

 RCAの2つ目の仕事は、GEやWHからRCAへFM関係のデータが集められたことにとって達成された。皮肉なことに、RCAはFMについてほとんど何も教えてくれないGEの文書を読むことから、多くのことを学んだ。その(GEの)文書の著者であったJ.L.Labusは、FMに関する文献の簡単な要約と、RCAのロッキーポイントとリバーヘッドの実験室を訪問したことから得た情報をまとめただけだった。したがって、RCAにおける理論家だったMurray Crosbyが、Labusの誤りだらけのレポートに感心しなかったのは当然だった。そして、CrosbyはLabusの欠陥をRCAでの経験によって埋め、誤りを正そうとした。彼はLabusの数学的な間違いだけではなく、彼がロッキーポイントで観察したことの解釈の誤りをも指摘した。

 WHのエンジニアらは、ピッツバーグのエンジニアらがFMを記述するための数学的な理論を抽出し始めていたので、より肯定的な印象を抱いていた。1929年の9月に、HansellはKDKA局のリーダーだったLandonが書いたレポートを読んだ。RCAが統合する前、Landonは原稿をPIRE誌に投稿しようと思っていた。Hansellはそのことに同意するものの、グループの外側の企業がFM研究を行う刺激になってしまうのではないかということを警告した。したがって、RCAC(RCA Communication、RCA傘下の子会社か?)が長距離通信サービスの確かな足場を築くまで待つべきだと提案した。そして社長もHanselに対して、「RCAはライバル会社がこの技術に関心を持つ前に、強力な特許の状況(strong patent situation)を構築するべきだ」と推した。

 RCAがWHのデータをフルに吸収することにとって、リバーヘッド研究所のエンジニアにLandonの分析を理解できる人がほとんどいなかったという事情が、一つの障害になった。この問題を解決したのが、Crosbyによる、より理解しやすい言葉への翻訳である。1930年6月に、彼はRCAのマネージャーやエンジニアらにFMについてわかりやすい言葉で説明するメモを作成配布した。そしてRCAの社長は、レポートはFMを含んだ現象のクリアなイメージを与えてくれたと述べていた。それを受け立った人物の中には、アームストロングも含まれていた可能性が高い。

 より深い理論的知識と実践的な経験、WHとGEがどれだけのことを成し遂げることができたか(あるいはできなかったか)を知ることで、RCAはFMを製作することの決心を固めた。1930年10月にHansellはRCACの太平洋部門のマネージャーだったRalph Bealに長距離電話電信を改善することを目的に、長期間FM実験を行うことを支援してもらうように尋ねている。BealはFMに関心を寄せ、1931年にBolinas局で実験を行なっている。

 一連の実験は、若手エンジニアであったConklinがホームシックになったこともあり、下手な修繕をおこなったことでうまくいかなかった。またリバーヘッドの同僚たちに実験が共有されることもなかった。

 FMの技術的な段階で、RCAによる設計や試験の方法を形作ったのは、当時存在していた商業的な長距離通信システムであって、高感度の短距離放送ではなかったという点を理解することが重要である。10年以上、RCAは点対点の長距離電信電話の送受信のビジネスを展開していた。したがって、ロッキーポイントやリバーヘッドのエンジニアらが期待していたのは、いかにしてフェージングの問題を解消できるかということにあって、建設や運営のコストをいかに抑えるかということは二次的な問題だった。

 Bolinasでの長距離FM実験は、単純な失敗だったわけでも、また文句なしの成功だったわけでもなかった。Bolinasの送信機は、電離層とカリフォルニアからニューヨークへの地表面との間でぶつかり合う複数の波を放出していた。それぞれの波は独自の予測できない道を通り、同時に送信機を離れた二つの波は、片方だけが長い経路を通過するため位相がずれて到着する可能性があった。つまり、このときFM通信は、多重フェージング(multiple fading)という古くからある問題に直面した。

 HansellとCrosbyは、特に1931年6月にアームストロングがBolinasの試験の結果を聞くためにリバーヘッドを訪問したのちは、FMについて最終的な評価を公にしなかった。アームストロングは、Bolinasの試験結果を立ち聞きしている間に、「FMの可能性について好意的な印象を得た」と述べている。アームストロングは自分自身でも結果を聞き、将来について話し合うために、6日後、HansellとCrosbyとBeverageをリバーヘッドから70マイル離れたコロンビア大学まで招待した。

 CrosbyとHansellは、アームストロングのセットアップについて少しだけ知っていた。 ニューヨークに到着すると、Hansellは受信状況がリバーヘッドと大きく異なることを直ちに観察した。都会では、誘導的な空電(inductive disturbances)=人工的な空電がAMの受信を妨害していた。それに対して、FMの受信状況はAMに比べて概して良かった。

 しかし、商業的な現実化ということになると、Hansellの楽観主義は甘かった。確かに、FMはAMに比べて空電の影響を受けにくかった。しかし、RCACのスタッフは遠く離れた局どうしの点対点の通信を提供することが仕事だった。そして長距離通信にFMを使用する場合にはmultiple fadingの影響が懸念されたため、FMが即採用されることは難しかった。加えて、RCACの局は郊外に位置していたため、空電を防止することの優先順位が低かった。

 とはいえ、アームストロングの提案は、彼らを魅了した。アームストロングのセットアップは、FMが持つ直進性と低歪率を実現するものだった。CrosbyとHansellは、RCACの通信事業により適合する形に修正すること、すなわち、長距離FMが長年夢見ていた有利な点(=フェージングの影響を少なくし、その効率性を維持できる点)を損ねることなく回路構成を単純化することを提案した。Hansellは、アームストロングのオリジナルの設計よりも多くのノイズを許容することを認めたが、その結果は最適な条件で送信されるAMよりも悪くないと推定した。S/N比を多少犠牲にする以外は、FMの利点を得るべきであると彼は提案した。

 Hansellはアームストロングの反応について何も記録を残していないが、数日後に、HansellはConklinに対して、アームストロングの送受信機をBolinasに輸送してほしいと尋ねている。長距離通信にFMを採用するかどうかは保留であり、かつアームストロングのプロトタイプを何千マイルもの距離を輸送することにはリスクがあったにもかかわらず、Hanselはアームストロングの提案を受け入れたことがわかる。Hansellは、将来的に市街地で利用されるようになる超短波通信や、テレビにまつわる問題を解決する手段としてもFMを捉えていた。

 1931年にRACAがFMについて行ったことの評価はその基準によって異なる。今日から見れば、RCACのエンジニアらは、長距離でのFM通信を完全化しようとする不毛なゲームを推し進めていたと言える。さらに、広帯域FMは空電の影響を受けやすいという信念が、とくにFMの前進を阻害していた。1931年の時点で、彼らは25-30キロサイクル以下のスウィングを採用しており、これはアームストロングがのちに150キロサイクルを採用していたことを考えても低い値である。スウィングを広げることで、非可聴帯域の空電が抑制され、可聴帯域が3倍になることで音の忠実度が上がるということは、1931年の時点では誰も予測できなかった。RCACのエンジニアらは、技術的にも心理的にも、周波数のスウィングを最小化するという目標に囚われていた

 概して、広帯域・短距離に関する実験に反抗する組織の体質だけが、RCACを商業的なFM放送システムを展開することを妨げていた。だが、こうした偏見が永続していたわけではなく、また、RCACにFM放送を開発する能力を持たなかったというわけでもなかった。

 Hansell、Beverage、Crosbyがアームストロングと話し合った日の8日後、NBC重役が、BolinasのRalph Bealにボクシング戦の中継をしてほしいという趣旨の連絡が入った。そして、Conklinはこのイベントを利用してFM短波とAM短波とを比較することを提案した。もしFM信号が試合を中継できていなければ、中継先のフィリピンのマニラの局のAM受信機は何も信号を受信しないはずだった。しかし、15ラウンド目に入ると、現地から異常なほど良好な受信をしたという報告がもたらされた。

 RCAとアームストロングとの関係は複雑である。しかし、両者の目的は、RCA

アームストロングの専属顧客であると同時に、ほとんど従業員でもあるといえるほど、法的にも財政的にも絡み合っていた。その一方で、両者を通常の言葉でいうところの”collaborator”ということもできない。なぜなら、アームストロングがRCAに提供していた情報よりも、RCAのエンジニアらがアームストロングに提供していた情報のほうが多かったからである。それでも問題が起きなかったのは、アームストロングが発明した場合、その特許が優先的にRCAのものになるという契約があったからである。だが、明らかに、アームストロングはRCAの彼の友人(Hansell, Beverage, Crosby, Conklinら)に多くを負っている。アームストロングが彼らの取得した特許を知っていたという事実は、アームストロングの広帯域FMの特許が発行される1933年12月まで隠されていた。

 アームストロングはまたRCAに対して、FMについて秘匿するように説得した。そのため、同社は「X変調」という言い方をしていた。彼はまたRCACのFM技術の達成をアナウンスするかどうか、するとしたらどのような方法でアナウンスするかという問題を考えていた。Hansellは、同社がまだ販売することができる器具もなければ、優先権を実証するための証拠もないということを理解していた。そこで彼はBolinasの実験についての論文(「

短波通信に応用する位相周波数変調」)をIRE’sのProceedingsに投稿することを望んだ。Hansellは彼らのスタッフに対して、同社の最初のFM論文は、FM変調の展開に寄与した全ての人の努力、とりわけアームストロングの努力を認めるものであることを確信させた。

 しかし残念ながら、おそらくはHarry Tunickという法律家(RCA特許部門ニューヨーク事務局の長)は、ライバル企業がFM技術への関心を強めることを懸念し、論文の発表を差し止めた。今日からみれば、RCAはFM技術において他社が追いつけないほど先に進んでいたため、その懸念は根拠がないものだった。

 アームストロングがRCAと決裂したのち、1936年にCrosbyのみが執筆者となった論文がProceedings of the Institute of Radio Engineersから発表されたが、そこではアームストロングの業績は全く無視されていた。そしてそれはRCAにとって最初のFMに関する論文であったが、注目を集めることはなかった。結局、Crosbyはアームストロングに2年遅れて、より詳しいFMシステムについての論文を発表した。だが、それはアームストロングが発明したFMを祝福するProceedingsの記事が出版された後だった。今日、FMを研究するほとんどの歴史家はアームストロングの論文を引用するが、Crosbyの論文には言及しない。

 アームストロングがRCACの手柄を横取りしたということは、いろいろな意味で皮肉である。なぜなら、Hansellは1932年にライバル会社がFMについての主要な論文を最初に発表することでRCAを打ち負かすのではないかと恐れていたが、結果、そのような会社は存在しておらず、懸念はインサイダーであったアームストロングによって具現化してしまったからであるアームストロングは、Carson論文について同一の間違った解釈を犯している箇所などで、Hansellの論文から言い回しを拝借していた。

 もしもHansell論文が、アームストロングとRCAの関係が悪化する前である1934年以前に発表されていれば、RCAにとっても、アームストロングにとっても、そしてFMラジオの歴史にとっても、物事は大きく異なっていただろう。

 

 

 

Gary L. Frost(2010), Chapter 2

Chapter 2 Congestion and Frequency-Modulation Research, 1913-1933, pp.37-60.

 

 第二章の前半では、著者が「スペクトルパラダイム(spectrum paradigm)」と名付けるパラダイムが関係者らに定着していく様子が描かれる。スペクトルパラダイムとは、波長を表す一次元の地図によって電磁波スペクトルを認識しようとする枠組みである。それは、1920年代の米国において、拡大し続ける放送局同士の混信を解消するために、周波数の割り当てやワット数の制限などを取り決める議論の中で次第に形成されていったという。その結果、関係者らは特定の電磁波を言い表す際に、従来の「周波数」という言葉ではなく、「波長」という言葉を利用するようになった。

 前半の内容は興味深く読んだ。というのも、アメリカにおいて全国レベルで使用波長の取り決めの動きが起こるのは1920年代後半からだというが、日本でもおおよそ同じ時期に無線研究の連絡・統一の動きが起こっている。1922年に学術研究会議の中に電波研究委員会が設置され、受信管の企画や電波長の表記の統一などが行われた。日本で使用周波数の割り当てがいつごろ開始したのかは不明だが、1920年代後半に周波数標準の統一のため、陸海軍・逓信省の周波数標準器の周波数比較試験が行われている(青木、2006)。

 本章の後半では、1910年代後半からアームストロングのFM特許が取得される直前の1932年までの特許を分析することで、主に1920年代に、誰がどのようにしてFM研究を行なっていたのかを考察している。従来、ジョン・カーソンが1922年に発表した論文がきっかけとなって、FM研究は停滞したという見方が支配的だった。筆者は1922年以降もFM研究が各社において継続していたことを明らかにし、それが事実と反することを実証している。またこの頃までには、個人による発明より企業による発明の方が主流になっていたという論点も提示している。これはエイトケンが、ドフォレストの研究を、個人による発明の時期と、チームによる発明の時期の二つに分けて論じていたことを想起させる。

 なお、後半の内容はよくわからない箇所が多かった。特に、狭帯域FMの技術的な内容については、書かれていることを表面的に訳出する作業にとどまり、その意味を理解することはできなかった。

以下要約。

 歴史家は1920年代初頭を、しばしば放送の「混信(congestion)」や「混沌(chaos)」の時期と特徴づける。なぜなら、連邦政府はこの新しい産業を統率する権威を持っておらず、それゆえ、信号はますます混雑する傾向にあったからである。設置の許可が認められた放送局の数は1920年末には一握りだったものが、1922年の12月には570局に増大していた。このように局の数が増大し、利用するワット数が大きくなることで、突発的に起きるフェージング現象の問題が浮き彫りになった。また1920年代中頃まで、放送局は搬送波の波長を安定させることができなかった。なぜなら、当時の送信機では、LC回路によってコントロールされた共振周波数が、温度や湿度によって変化してしまったからである。さらに、アメリカ社会が電気化(electrification)したことで、ラジオは台所のミキサーや掃除機、オイルバーナーなど、火花を出す製品による電気的な影響を受けやすくなった。

当初、混信はより多くの周波数を割り当てることで解決される問題であると思われた。1920年に商務省航海局は、全ての局は30mの波長で送信しなければならないことを取り決めた。しかし、この処置は局の数が少なく、各局どうしが離れており、出力が小さい限り有効なものだった。しかし、1920年代中頃には局の数が増えると、周波数の割り当ては追いつかなくなり、米国の放送は混沌の様相を呈し始めた。1927年になって初めて連邦無線委員会(FRC)が発足すると、本委員会は放送局のもつれをほぐすだけではなく、ワット数、搬送波の波長、操作時刻などを取り決めた。これらの仕事を成し遂げるために、FRCは電磁波スペクトルの概念に基づいた新しいパラダイムを採用した。そしてそのことは関係者が用いる語彙に最も顕著に現れた。すなわち、彼らは同調を言い表す際に、「波長」ではなく「周波数」という語を使用するようになった。

1920年代に、FRCは、二次元の地図に陸地が描かれているように、一次元の地図に電磁波周波数帯を描いたスペクトルを利用することで、混信を解決しようとした。550,000cpsから1,500,000cpsまでの間がAMの「テリトリー」となり、そのさらに上には、まだ発見されていなかった短波や超短波のそれがあった。19世紀に米国への移民に土地を提供したように、周波数という新しい言語は、開拓されたばかりの電磁波帯を獲得するパイオニアを生み出した。

混信の問題は、このような「スペクトル・パラダイム(spectrum paradigm)」を否応なしに創造した。放送ブームが始まった時、連邦政府は未だ火花-コヒーラー式の減衰波時代である1912年に制定された法律を施行していた。しかし、数年以内に、真空管の大量生産をはじめとする無線技術の変化に遅れを取るようになり、無線に携わっていた者は何かしら対応の必要性を感じていた。1922年の初頭、商務長官であったHerbert Hooverは無線関係の13の組織のトップを集めて会合を開き、この問題について議論した。(なお、この会合に米国無線クラブから代表者として派遣されたのは、アームストロングだった。)

委員らは、送信局の数と出力を制限する必要があるということでおおよそ意見が一致した。そしてこの頃から、上記の「電磁波パラダイム」が人々の思考に定着し始めた。1922年以前、物理学の実験室の外側にいる人間がスペクトルに言及することはほとんどなかった。だが、この会合に参加した人間は、スペクトルが彼らの思考に統合されたことを表している言葉を用いていた。会合が開かれる2ヶ月前、Hooverは無線の利用を制御することは、「森の保全や、水力の権利(water power right)の保護と同じくらい差し迫った問題である」、「今や空気はおしゃべりで満ちている」などと述べていた。Hooverが無線を森や水といった天然資源との類比で捉えていることから、彼は無線をスペクトル・パラダイムが描き出したような実際のランドスケープになぞらえて理解していたということが窺われる。

1923年に航海局のDavid Carsonは、50の参加者に彼らの放送と波長の割り当てを厳密に制限することを尋ねるべく、2回目の会合を開いた。このとき参加者らは「与えられたサービスに応じた波長帯の中で、無線局には特定の周波数を割り当てるべきだ」などを述べていた。1920年代後半以来、FRC(のちにFCC)は、干渉や混信の問題を分析・緩和するための知的枠組みとして、スペクトル・パラダイムを採用するようになった。

しかし、統制は放送にとっても万能薬ではなかった。米国の批評家の中は、放送の許可制度は言論の自由と対立するものであり、事実上の検閲であると指摘する者もいた。

混信を解決する技術には、独立の発明家の作業場から生まれた雑多なものも含まれていた。アームストロングのスーパーヘテロダインや、ピアースの鉱石発信器、ジョン・カーソンのシングルサイド変調など、それらは全てスペクトルパラダイムがなければ思いつくことができない技術だった。

2,3年の間に、混信の問題を解決するために、「狭帯域FM」を提案した何人かの実践家がいた。通常のAMでは、オーディオ信号のスペクトル幅をFaとすれば、「AMチャネル幅≧2Fa」と表現された。そして音声の忠実度を上げるためにはチャンネルの幅を広げる必要があるが、そうするとノイズが増えることに加え、送信局の数が減ってしまうといったトレードオフの関係があった。それに対して狭帯域FMの場合、搬送波の最大周波数偏移をfm、音声信号の最大振幅をAaとしたとき、「狭帯域FMの幅=2fm=2hAa」と表現されるため、定数であるhを小さく取るように設計すれば、周波数帯域を小さくすることができ、それゆえ、上記の問題を解決することができるように思われた。

最初に出願された狭帯域FMの特許は、1923年に出されたもの(米国特許:第1847142号)であるが、一説によればフランク・コンラッド1921年にすでに狭帯域FMの実験を行なっていたとも言われる。ところが、1922年にAT &Tのジョン・カーソン(John Carson)が「変調理論の覚書」という歴史的な論文を発表したことで、コンラッドの主張は崩壊した。

カーソンの論文では次のようなことが示される。搬送波をω0、音声信号をsin(pt)としたとき、変調波ω=ω0+(hω0)sin(pt)と表現される。これは、送信される瞬間の周波数が、搬送波の周波数に瞬間的な周波数偏移を足した値になることを意味している。すると、hを小さな値にすることで、最大周波数偏移も小さくなり、それゆえ、チャンネルの幅も小さくなることが推測される。しかし、実際にはhを小さくとると、複数のサイドバンドが広がってしまい、場合によってはAMのチャンネル幅を超えてしまうことがあると彼は論じた。つまりカーソンは、狭帯域FMは不可能であると主張した。

従来、カーソンはこの論文によって、全てのFMを批判したのだと語られてきた。だが実際には、カーソンは全てのFMタイプの実現可能性を否定していたわけではなく、彼の主張のせいでその後のFM研究が滞ったということもなかった。1922年から1934年にかけて取得されたFM関係の特許は12件あるが、そのうちの4件は狭帯域FMに関する特許だった。カーソンが狭帯域FMの研究者を落胆されたということはありうるが(それも証明することは無理だが)、少なくない数の特許が取得されていたもの事実である。彼をFMを停滞させた人物であると避難することは、非本質的なことである。

1933年にアームストロングによってFMが発明されるまで、誰もがその方法を思いつかなかったという信念ほど頑なに維持されてきた思い込みはない。しかし、従来の歴史がカーソンの主張を曲解したように、従来の歴史が1920年代初頭から1930年代にかけて数多くの実用的なFM関連の特許が出願されていたことを見過ごしていたことも事実である。本書の付録には、1902年-1953年に取得されたFM関連の技術の全てがリスト化されている。ここでは、1913年から1930年代の中頃までに出願された特許について見ていくが、それらはおおよそ、(1)発明家、(2)AT&T、(3)WE、(4)RCAの4者によって取得されたものである。

1920年から1933年までの間に、AT &Tとその子会社であるWE(ウェスタン・エレクトリック社)は、10件のFM関連の特許を取得している。しかし、AT &TはRCAやWHほどFM研究にエネルギーを注いでいたわけではなかった。このことは、商業的・技術的の双方の要因によって説明される。まず1926年にAT&Tは最後のFM関係の特許を出願していたが、その年に同社は放送局を売却していた。また、有線電話通信においては、無線通信に比べて雑音やフェージングの影響が少なかった。さらに、同社が研究開発に取り組んでいた無線のファクシミリは無線電話よりも容易に設計できる技術だった。だが、AT&TやWEがFM研究に取り組んでいたという事実は、従来の歴史家の1920年代においてFMは重要な技術ではなかったという見解の見直しを迫る。

次に、ウェスチングハウスが取得した特許に目を転じよう。1920年代の初頭に、FMに関係する最初の重要な実験がKDKAのピッツバーグにある放送局で行われた。KDKAが1920年に行なった放送(broadcast)実験は有名だが、1923年から1925年にかけて行われた長距離-短波実験のことはあまり知られていない。FMはAMに比べてより安定した搬送波を必要とするため、KDKAは水晶制御式の発信器を送信機に採用し、送信局同士の干渉を避けようとしていた点も注目される。さらに、ウェスチングハウスが登録した特許を発明した人物(Nyman, Trouant, Little, Conrad)の居住地は地理的にも近接しており、彼らは独立して研究を行なっていたというよりは、互いに議論することによって発明を成し遂げていた。

1920年代より同社がFM研究に従事していたことを示す証拠は、特許以外にも存在する。例えば、Charles Hornは、KDKAはS/N比の優れたFM放送をおこなったが、受信機がそれに対応していなかったため、聴取者から受信不可能だというクレームを受け取っていたという回想を記している。1930年代に入るまで同社のFM放送が実用的な水準にまでは達していなかったが、エンジニアらは空電やフェージングの影響を減少させ、AMよりも送信効率の良いシステムとしてFMに注目していたということも事実である。

David Nobleは、『設計によるアメリカ』という著作の中で、「1920年代まで(by the 1920s)の米国ビジネスは、企業の成長、信託による支配の強化、持ち株会社、合併と統合、企業間での下部の共有によって創造された共同体の利益、理事会どうしの連絡によって特徴付けられる」と述べたが、このことはFMラジオについても当てはまる。20世紀におけるFM研究に重要な役割を演じたのは企業の研究活動だった。そして、その際たる例がRCAである。1919年に連邦政府の支援を受けて、GEは英国の手に米国の特許件が行き渡らないように、GEとその他の製造会社の特許権の収集・提供を行う機関(clearinghouse)として、RCAを設立した。その後、重要な無線技術の特許を有する数多くの会社が、RCAのラジオグループの特許プールに参与し、そこに登録されたメンバーとの競合から保護された。グループの内部においては特許権が交換され、外部に対しては利益を上げることを目的にライセンスを販売した。RCAにまつわる二つの要素がFM研究を形成した。一つ目は、RACが海を超えた商業通信(point-to-point)を運営しており、そこは他の利害関係者が参入できない領域であったということである。そして二つ目は、1930年代の初頭までRCA、WH、GEが無線ビジネスにおいてお互いに競争することを認めなかったということである。

1920年代初頭からWHが特許権をリードしていたが、1920年代後半になるとRCAがそれを支配するようになった。WHは商業放送のためにFM研究を行なっていたのに対して、RCAはpoint-to-pointの長距離通信を目的にしており、フェージングの影響を最小化する技術としてFMに注目していた。Clarence Hansellの残した企業な文書によって、1920年代にRCAが取り組んでいたFM関係の研究の内容について明らかにすることができる。まず、RCAでは1924年にHarold PetersonとHarold Beverageが単純なFMシステムをRiverhead 受信実験室に設立し、運営を開始した。また、1925年にはニューヨーク-アルゼンチン、ニューヨーク-ブラジル間において、実験的にFM変調に基づく通信試験を行なっていた。だが1927年にPetersonが狭帯域FMの特許を出願したとき(それは同年にRCAが出願した3つの特許のうちの一つである)、彼は袋小路に陥った。彼は、狭帯域FMは数多くのサイドバンドを生んでしまうことを指摘したカーソン論文とは異なって、サイドバンドの利用を避けることを手助けするような周波数の揺らぎを利用すること(?)(the employment of a “frequency wobble which helps … avoid the use of side band frequency, in the ordinary sense, with their attendant disadvantages”)を考えていた。

1929年までに、WHとRCAの大きな違いは、特許の数である(前者は9件、後者は25件)。だが、両者ともに、ラディカルな設計を考案していたわけではなく、従来のFMに漸進的な改良を加えたのだった。

1913年から1930年の間に出願された特許を調査してわかることは、FMラジオの展開は、RCA、WH、AT&Tの三者によって牽引されていたということである。この他に、個人の発明家による特許も存在したが、彼らは(一部の例外を除いて)、ニュージャージー、ニューヨーク、マサチューセッツペンシルバニアという隣接した地域に居住しており、それは受託した企業が存在する位置と関係していた。なぜなら、FM研究を行なった大きな企業はその州に住んでいる発明家を雇う傾向があったからである。

RCAが取得した特許は、1920年から1930年の間、FM特許の全体のうちの約半分を占めていた(83件のうち44件)。RCAのFM関係の特許取得の推移を見ると、1926年から数が増えていき、1928年にピークを迎えたのちは減少し、今後は1932年のピークに向かって再び増加し始める。他の二者の傾向を抽出することは難しいが、不可能ではない。WHは1934年以前に9つのFM特許を出願しているが、1920年から1928年にかけて、滞ることなく特許を出願し続けている(continual trickle of patent application)。またAT&Tも10件の特許を出願しているが、このことはカーソン論文(1922年)が発表されて以降も、FM研究が継続されたことを示している。

これらの事実は、2つの一般化を支持している。第一に、FM技術の進化を形成する仕方に大企業が大きな役割を演じていたということである。第二に、1933年にアームストロングが特許を出願する以前に、穏やかな水準でFMについての関心が存在していたということである。確かに、FM技術の展開を最優先に位置付けていた会社はなく、多くはアンテナや真空管やテレビといったその他の技術の特許を多く出願していた。しかし、Lessingが主張したように、1920年代においてFMは難解な技術でも、見捨てられた技術でもなかった。カーソンが狭帯域FMの実現不可能性を主張した論文が発表された後も、FM技術は電気効率の向上や、混信の問題を解決する手段として、その魅力が失われるということはなかった。

 

 

 関連書籍

America by Design: Science, Technology and the Rise of Corporate Capitalism

America by Design: Science, Technology and the Rise of Corporate Capitalism

  • 作者:Noble, David F.
  • 発売日: 1979/09/01
  • メディア: ペーパーバック
 

 

Gary L. Frost(2010), Chapter 1

Chapter 1: AM and FM Radio before 1920 (pp.12-36)

 

  第一章では、1920年代以前に存在していたFM技術について述べられる。一般的にFM技術は1933年にアームストロングが発見したと認識されているが、それは誤りである。Cornelius Ehretという人物は、1902年の時点でFMによる音声通信のアイデアを出していた。また、あまり言及されないが、ポールセン・アークはFM方式だった。だが、エレットが解決しようとしていた空電や雑音の問題は、間も無く発明された真空管指向性アンテナによって解消してしまったため、その時点でFMが普及することはなかった。また、ポールセンは電磁波の浪費を理由に、FM技術を好まなかった。

 実際、アームストロングが1933年に成し遂げたのは、従来主に無線電信の分野で普及していたFM方式を音声通信にも利用できるように工夫したということであり、そこに何か技術的に大きなブレイクスルーがあったというわけではない。むしろ重要なのは、1920年代までに形成されたアマチュア無線クラブの存在だった。クラブのメンバーや文化は、FM技術の実験・普及に大きな影響を及ぼした。

 

(以下、要約)

 1902年にどうしてFMラジオが登場したのかを理解するためには、当時の技術的な状況について知る必要がある。当時の無線通信機の基礎といえば、火花送信機とコヒーラが全てだった。そしてそれは、マルコーニが1890年代に発明した技術の可能性と限界を示していた。

  送信機はある閾値を超えると(ベルを強く叩いたときの音のように、あるいは石を池に落としたときにできる波紋のように)一瞬で消えてしまう減衰波(damped wave)を発生した。彼はモールス符号を送るために、大陸横断有線電信の変調方法を拝借した。電信員は電流が流れているとき(フルパワー)の「マーク」と、電流が流れていないとき(ゼロパワー)の「スペース」をともに電鍵の操作によって送信していた。事実上この方法は、(当時はそのような名称はなかったにせよ、)最大の振幅/最小の振幅(0)の二進法に基づく振幅変調(AM)であった。ただし、マルコーニが無線にこの方法を利用するに際して、改善されるべき点があった。すなわち、ドットを送信するために十分な減衰波を生成することができても、ダッシュを送信するために十分な波を生成するためには従来の火花放電を改良する必要があった。そこで彼は、火花ギャップに素早く自動的に再充電(recharge)することで、減衰波を連続的に発生できるに改良を加えた。

 マルコーニは、受信機としてコヒーラーを採用した。コヒーラーは閾値An以下の電流の電波を捉えた場合には絶縁状態にあるが、An以上の電流の電波を捉えたときには瞬時に導体となる装置である。そして、An以下になってもその状態が続くが、コヒーラーに物理的な刺激を与えると再び絶縁状態に戻る。なお、このとき閾値はAnよりも大きな値となる。したがって、コヒーラーはそれ自体では機能せず、コヒーラーに物理的な刺激を与えるバイブレーターや信号を記録するための印字機とセットで使用する必要があった。

 以上述べた火花送信機とコヒーラーがマルコーニのシステムの概要である。そして、これはHughesが言う”reverse salient (逆突起)”もしくはConstantが言う”presumptive anomalies(推定上の不変項)”に相当する技術である。すなわち、実践者らはこの二つの技術がいくら改良されても、これらに固有の限界を克服することはできず、前進し続けることはできないということを知っていた。コヒーラーは叩かれるたびごとに感度のレベルが変化するため、それまでは数メートルの位置にある送信信号のみに反応していたところ、今後はさらに遠く離れた音源からの電磁波が引き金となって導電状態になることがあった。電信員はこうしたコヒーラの気まぐれな反応に困惑させられた。加えて、デジタルな作用を示すコヒーラーでは、音の振幅に対応する変動を追跡できないため、無線電話の信号を受信することができなかった。火花送信機の方は、うまく行えば音声を送信することができたが、火花送信機もコヒーラも、ともに干渉をはじめとする電波放射に関する障害を免れることはできなかった。初期の無線家たちは電波放射の法則をあまり理解していなかったが、経験的に、二人以上が同じ波長で通信を行うと混信を招いてしまうことなどを知っていた。

 そこで、初期の無線技術において重要な役割を演じたのが「共振」であった。共振波長λと各変数との間には、λ=c/f=2πc√LCという関係が成り立つ。πとc(光速)は定数なので、この式は共振波長がコイルのインダクタンスLとコンデンサーのキャパシタンスCに比例するということを意味している。

 ただし、Hongが指摘したように、無線家(practitioners)にとって同調とは、数学的な原理というよりは入念な手作業(craft)だった。同調作用はおおよそLC回路のインダクタンスを変更可能なものとし、局の波長に共振するまでLを調整することによって達成された。同じことはキャパシタンスを変更することによっても達成することができる。

 さて、ほとんどの歴史家は、FMラジオは1933年にアームストロングによって発明された技術であると主張するが、実のところFMはそれよりも30年以上も前に、米国とデンマークの特許にすでに現れていた。その特許とはすなわち、1902年2月10日にフィラデルフィアのエレット(Cornelius Ehret)により出願されたFMシステムと、その7ヶ月後にデンマークのポールセンによって出願されたFMのアークシステムである。両者はお互いに、同時代人であるということの他には、ほとんど何も共有していなかった。そしてポールセンは磁気記録機などの発明で有名であったが、エレットは重要な発明をしたにもかかわらず無名であり続けた。

 しかし1959年のニューヨーク地方裁判所のパルミエリ(Edmund L. Palmieri)はアームストロングのエマーソンラジオに対する特許侵害を支持することを決めたときに、高帯域FMの新規性を否定するために、エレットの特許に言及していた。「エレットの特許は、電波の周波数を変えることによって送受信を行うことを意図した最初の特許の一つである」と。しかし、続けて彼は「エレットの特許はラジオ信号の空電・雑音を減らすといった問題に関する全てに何も教えてはくれない」と述べ、現代のFMラジオへの影響力を否定してもいた。エレットはチャンネルの幅を特定しておらず、また空電と雑音を減らすことを主張していなかったが故に、歴史の後景へと追いやられてしまったのである。

 この結論は、法律の範囲においては公平であろう。しかし、歴史家はこの評価を放置しておくべきではない。特許裁判では”winner-take-all”の決定を下すのであり、優先権が誰に帰属するのか、あるいは発明した技術が「作動」するのかどうかに関心が集まる。それに対して、歴史家の関心は、エレットは将来を見据えていたのか、彼の発明は当時の最新の無線技術の何を明らかにしているのか、彼のFMと後続のFMとの間に(もしあるとすれば)いかなる関係があるのかといった問題にある。

 エレットが残した資料はこの特許関係の書類が全てであるので、実際のところ、こうした問いに答えるのは難しい。しかし、Fergusonが述べたように、エレットの特許書を注意深く見ていくと、そこからは当時の人々が実用的でないと見なした事実以上の情報が明らかになってくる。

 彼がFM電信だけではなく、FM電話を発明していたことには議論の余地がない。エレットは発明の背後にある動機を明確に語っているわけではないが、明らかに彼は2つの困難を乗り越えようとしていた。一つ目はフェーディング現象であり、二つ目は無線電信電話による送受信であった。前者を乗り越えるために、彼はコヒーラーではなく、LC回路を伴った受信機を開発した。それはコヒーラのように電波の有無のみを検出する受信機ではなく、入ってくる電磁波をその波長に比例するように弱める装置だった。また、後者を実現するために、彼はマルコーニの技術を拝借した。しかしエレットの技術は、いくつかの点でマルコーニのそれとは異なっていた。まず、マルコーニのシステムでは、電鍵が押されている間のみ火花が生成される仕組みになっていた。エレットの送信機も同じく火花式であるが、それは(電鍵が押されていない間も?) 連続的に減衰波を生成するように工夫がなされていた。さらに、マルコーニのシステムは一つの波長しか備えていなかったが、エレットは2つの波長のどちらかによって送信する送信機だった。インダクタンスとキャパシタンスの大きさは不明であるが、おおよそ300mと320mの波長を使用していたと思われる。そして、300mは「スペース」に相当し、320mは「マーク」にそれぞれ相当していた。

 以上は電信符号の送信方法であるが、電話送信はやや異なる方法だった。エレットは、音声の急激な変化に対応して、その発信波長を瞬時に伸縮させるように工夫した。電話の回路がLC回路に結合されているため、音の瞬間的な振幅の変化によって、LもしくはCが変化するようになっていた。例えば、マイクが音を検出していない、つまり音の振幅がゼロの場合、送信機は310mの波長を送信する。しかし、最大振幅を検知する場合、インダクタンスは300m-320mに押されたり引かれたりした(?)。

  彼は数十年後のFMシステムを先取りしていた。マイクをコンデンサかインダクターに機械的に結合するという考えは、1920年代に出願されたほとんどのFMシステムに見られるものである。エレットはLもしくはCを変えることで周波数によって変調することに成功した最初の人物だった。(電信に関していえば、)マークとスペースが異なる波長に割り当てられていたため、受信者は送信者が単に一時的に通信を停止したのか、それとも電波を完全に閉ざしたのかを区別することができた。

 エレットのFMシステムは、それがいかに革新的な技術であっても、主に伝統的なアイデアから抽出されたものであるということを例示している。発明家は、革命(レボリューション)よりも進化(エボルーション)の方に傾いているのである。また、エレットのFMは、歴史的・文化的なコンテクストによって、技術的に解かれるべき問題の重要性がどのように変動するかということも示している。ある時点において喫緊の問題であると思われたものが、少し時間が立つと重要ではないと思われるようになり、革新家らはその解決法を放棄することがある。あるいは、他の技術がより効果的に同じ問題を易々と解いてしまうようになったということもありうる。エレットが進んでいた方向は間違っていたわけではない。今日でも、FMはAMよりも振幅の変動に対して鈍感なので、フェーディングの影響を免れ易い。ただ、数年後に、(真空管による?) 電気増幅や志向性アンテナの発明によってフィーディングの問題を十分に解決することが可能になったため、FMの重要性が低下したのである。

 さて、初期にFMを発明したもう一人の人物であるポールセンに目を転じよう。ポールセンが発明したアークは、前人未到のワット数で比較的歪みが少ない連続波を生成できる点で革新的な技術だった。アークそれ自体は1808年に英国の物理学者であるHumphry Davyによって電灯として発明されていた。そしてアークは聞き取れるシューという音(audible hiss)を出すという性質があった。William Duddellは1899年に回路内の間隙にコンデンサーを置くと、アークは大体均一なピッチで音を鳴らすということを発見した。実際には、アークは低い周波数の電流を安定化するためにチョークコイルを含んでいるので、コンデンサーは共振回路を完成していた。しかし、Duddellの装置は30,000cps以下の電気振動しか発振することができず、それは電磁波による通信に必要な周波数未満だった。

 1902年にポールセンとペダーセンは、水素ガスが充満している空間内に置かれた強力な磁界の中にアークを置くことによって、より高い周波数の発振が得られるということを発見した。そして1913年に真空管式の発信器が出現するまでの間、アークがもっとも優れた連続波発振を行うことができる装置だった。

 ポールセンにとってFMは、本当の解決方法というよりは、彼がAMを発明するまでの間に仕方がなく使用していた便宜に過ぎなかった。最大の問題は、アーク送信機の大電流だった。アークを動作・維持するには、アンテナ回路における電流を可能な限り維持する注意深い電信員を必要とした。振幅変調による変動(dips and surge)はアークを他の周波数にシフトさせてしまったり、同時に複数の周波数を持たせてしまったり、場合によっては動作を停止させてしまうこともあった。アンテナ回路の電流を変えようとすると、しばしば電鍵を横切るように高アンペア数の「二次アーク」が発生した。その結果、電流を突然開始/停止するようなモールス符号の送信は非常に小さなアークでさえも困難で、大きなアークであればなおさら難しかった。

 そこで、ポールセンはエレットの周波数偏移変調(FSK)を模倣した。彼は送信波の振幅を変えるのではなく、LC回路のインダクタンスか静電容量の値を変えることによって波長を変えた。エレットの発明と異なり、ポールセンのアークは見事に機能したが、ポールセンは周波数変調に対しては電波の浪費を理由に反対した。送信局は2つの波長帯を持つため、同じサービスに従事する送信局の数は半分にならざるを得なかった。彼がFMを批判したことは、この方法の発明が認知されなかった一つの理由であった。

 彼はFMを嫌っていたが、彼自身がAM変調に挑戦するまでの一時的な手段として、デンマークの送信局でこの技術を利用した。しかし、1909年にポールセンがエルウェルにアークの特許件を売却してからは、FSKへの忌避は意味のないものとなった。エルウェルらはFSKに対して実用的な視点から何の疑念をも持たなかった。

 第一次世界大戦までに無線家らはFSKを小さなシステムを除いたデファクトスタンダードであると認識していた。1921年に無線工学の教科書を書いたElmer Bucherは、アークにとってAMは非現実的であるとして、FSKに替わるものはないと見なしていた。

  1920年7月にWE(ウェスチング・ハウス)のナイマン(Alexander Nyman)はアーク式のFM無線電話システムの特許を出願した。変調の観点からすると、彼は何も新しい発明をしていない。彼がポールセンアークとエレットのマイクロフォン変調とを組み合わせた。ただし真空管が使用されていた点は新しかった。しかし、ナイマンは真空管を使うことで何を達成しようとしていたのか、そしてAMよりもFMの方が優れている点を説明していなかった。ナイマンも発明はエレットの無線電話よりもよく作動したが、WHの技術者らはAMに代わる技術を発展させることに急いでいなかった。よってエレットと同様に、ナイマンの発明も、その重要性にかかわらず、長らく無視された。

 1902年から1920年までの間に、FM無線電話はほとんど瀕死の状態にあった。しかしポールセンアークのおかげで、FMの無線電信は同時期に実用的な技術となって繁栄した。第一次世界大戦後に連続波の使用が一般的になると、FSKアークは事実上無制限のワット数で波長を変化させることができることを実証した。結局、ポールセンとエルウェルの無線電信は、エレットとナイマンの無線電話よりもはるかに広く直接にFM無線電話法(FM radio telephony)の道を開いた。実際、アームストロングは、最初のFM変調のユーザーの一人はエルウェルであると述べた。

 さて、1906年に発明された鉱石検波器ほどFMラジオの発展を加速させたものはない。鉱石検波器が発明されたことでラジオの価格は下がり、無線愛好家の数は増大した。そして、FM技術における重要な発明家は元アマチュア無線家である場合が多い。1906年の11月、12月にGreenleaf PickardとHenry Dunwoodyはそれぞれ独立に鉱石検波器の特許を取得した。彼らはその発明の背後にある物理学的な原理を理解していなかったが、両者はそれが整流作用を持っていたことを発見した。鉱石検波器はコヒーラーに比べて感度が良く安定性があり、価格も安く、外部電流を必要とせず、消耗することもなかった。

 鉱石検波器は技術的な効果を上回るほどの社会的な効果を生み出した。鉱石検波器は一ドルしかかからなかったので、無線受信機のコストと複雑性を減少させた。そして鉱石検波器の発明という技術的な変化は、当時起こっていた変化、つまりアマチュア無線家やそのコミュニティーの出現という文化的な変化と融合した。Susan Douglasは、無線という文化は、従来の自然と直接触れる原始的な男らしさから、都会的、機械的、組織的なアメリカ社会における男らしさへと橋渡しをするものであったと指摘した。

 当初からアマチュアラジオの文化を形成したのは組織ではなく、無線クラブだった。クラブやメンバーの正確な数は不明であるが、1913年頃には米国には350のクラブと300,000人のアマチュア無線家がいたと推測される。そして若いアマチュア無線家らの世界を広げたのは、無線雑誌と通信販売店であった。

 FMラジオの起源に最も関連のある米国ラジオクラブ(Manhattan-based Radio Club of America)のメンバーの多くは中産階級出身であったので、比較的恵まれており、新しい装置を購入することができた。1912年にクラブに加盟したアームストロングの父はオックスフォード大学出版の責任者であったし、ストークス(Weddy Stokes)の父親もホテル経営をする実業家だった。

 ラジオクラブはFM技術を形成し、それを促進した3つの特徴を作った。すなわち、(1)ラジオの社会的有用性を披露したこと、(2)政治的な活動を行なったこと、(3)商業的な利害を超えたアマチュア間での友情があったこと、である。ラジオクラブは1913年に最初の演示を行なったが、これは「米国における最初の放送電話( telephone broadcasting)の一つ」であるとも言われた。また、1921年には短波を使用した最初の大西洋横断通信に成功したが、そのとき米国側のオペレーターを務めていたのがアームストロング、スコットランド側のオペレーターを務めていたのは、1930年代にアームストロングのFM放送の忠実度の高さを公にしたゴドレイ(Paul Gadley)だった。またラジオクラブは、政治活動も行なった。ガンスバック(Gernsback)は1909年にアマチュア無線に関わる限りにおいて、不平等な法律に対して抗議をすることを目的に米国無線協会を発足させた。さらに、無線クラブの最も大きな強みは、アマとプロの両方を歓迎したことである。クラブは技術的な情報の共有を鼓舞し、独自の境界線を曖昧にし、知識の流通を促進させた。それが、一級の研究を行うことを目的とするプロの集団とは異なっていた。アマチュアラジオクラブは友情の雰囲気に満ちていた。専門的な技術、開放性、友情といったラジオクラブの伝統は、1920年代にどうしてFMラジオの実験が世界中の無線産業広まったのかを説明するだけではなく、1930年代にアームストロングの広帯域FMの発展・試験・促進にどうしてアマチュアとプロの両方が参加したのかを説明する。アームストロングの友人であったTom Styles, Jack Shaughnessy, Paul Gadley, Gerge Burghard, Carman Runyon Jr.は全てラジオクラブの長年のメンバーだった。そして彼らはアームストロングの試験をサポートし、場合によっては金銭的な支持もした。

 1933年にアームストロングが特許を出願したとき、実のところFMは新しい技術ではなかった。FMは無線電信においてすでに普及しており、それを音声変調の手段に適応するためには、少しの想像力しか必要としなかった。FMの前進にとって重要なのは、むしろ1920年以前に形成された無線技術を取り巻く文化であった。なぜなら、無線技術の最終的な形態は、アマチュアの伝統が深く影響した無線工学の同業者(profession)に負う部分が大きかったからである。

 

 

 

関連書籍

 

 

 

技術屋(エンジニア)の心眼 (平凡社ライブラリー)
 

 

 

電力の歴史

電力の歴史

 

  

 

 

 

Gary L. Frost(2010),Introduction

Gary L. Frost, Early FM Radio- Incremental Technology in Twentieth- Century America, Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 2010.

以下、序章の覚書です。

 

Introduction (pp.1-11)

 本書は、周波数変調(FM)ラジオの従来の歴史との決別を示すものである。従来、ドキュメンタリー映画(Empire of the Air)や、Lawrence Lessingによる「決定版」の評伝(Edwin Howard Armstrong)で語られてきた物語は次のようなものであった。1933年、米国特許局はアームストロングに「広帯域wideband」FMラジオのシステムの特許を発行した。それよりも数年前、他の誰もがFMの実用性に気が付くことがなかった。だが、FMラジオはAMラジオに比べて安定した明瞭な音の再生を実現したことで、世界を驚かせた。RCAはFMラジオを試すとそれがAMラジオの「帝国」を脅かすという結論を得たため、FMの発展を拒否しただけではなく、それを抑圧しようとした。しかし、アームストロングは自ら連邦通信委員会(FCC)を発足させ、1940年に最初の商業的なFM放送を開始した。その後、RCAがFMを無力化する戦略により、RCAはアームストロングに特許使用料を払わなかった。彼は1948年にRCAを訴えるものの、係争は長引いた。その結果、6年後の1954年に、失望し疲れ果てたアームストロングは自ら命をたった。

 この物語は人の心を魅了する力を備えているが、より重要な問いを発している。これまで歴史家は、1933年以前に行われた失敗に終わったFM研究についてほとんど取り扱ってこなかった。そして、1930年代にRCAの経営者がFM放送を恐れていたにもかかわらず、同じく革命的な技術であったテレビ放送には多額の投資をしたという明らかに矛盾した態度について説明してこなかった。さらに、我々は彼がFMを発明したことを説明するために、単に彼が「天才」であったという安易な理由に翻弄されているため、どういったステップを経て彼がそれを発明したのかを理解することができないでいる。従来の「聖典的な」物語を読むことは、歴史を探索するというよりは、むしろ、個人対集団、独立した発明家対悪意ある企業、善対悪といった闘争を描いた技術神話を読むことであった。

 しかし、1990年にアームストロングを代表する法律事務所からコロンビア大学へと多くの資料が提供されたことで、従来の聖典的な物語に挑戦することができるようになった。、RCAを訴えたときアームストロングはFMラジオに関するRCAの文書を手にしていため、新たに寄贈された資料からは1940年以前のRCA組織内における研究を知ることができる。これらの文書は、1933年以前にRCAその他の会社が決してFMラジオを諦めてはいなかったことや、1930年にRCAはFMを恐れていたわけではなくFMに対する無知に基づく無関心を大きくしていたなどといった、従来の歴史と矛盾する事実を明らかにする。

 本書は、FMはある一人のマインドによって生み出されたわけではなく、むしろ数十年にわたる複数の人間を巻き込んだ漸進的で進化的な過程の中で生み出されたことを主張する。社会的な技術システム(social- technological system)というのは、自然法則を単純に適応した結果生じるというものではない。技術−それが潜在的に革命的なものであっても−の展開は、しばしばそれが勢いを得る前に長い懐胎の時間があるため、文化的、政治的、商業的利害の数だけ、新技術を形成する自然法則がフレーム化される方法がありうる。拮抗するものの中から「最善な方法」となるような基準を決定することは不可能である。

 20世紀において、FM変調とAM変調という二種類の変調がラジオ放送を支配した。両者はともに搬送波(均一な振幅と周波数を持った波)で始まった。今日の米国では、FCCが各局に正確な搬送波周波数を割り当てている。例えば、AM放送局であれば、搬送波のfは700キロサイクルであったり、FM放送局であれば、やや高い88.2~107.8メガサイクルであったりする。また両者は情報の送り方が異なっている。AMの場合、送信する信号の振幅は搬送波の振幅をあげたり下げたりするのに対して、FMの場合、送信する信号の振幅は搬送波の瞬間的な周波数を増減させる。最後に、FMはAMよりもより広いチャンネル幅を持っている。チャンネルとは、変調された信号が情報を伝達するために必要とする電磁波スペクトルの幅である。

 アームストロングの評伝の著者であるLessingは、FMの発明を、冷戦の寓話として描き出した。すなわち、それは個人主義的で反企業的な「偉人」伝であり、英雄的な発明家の物語である。Lessingによれば、アームストロングは、アメリカの美徳と前進の礎石としての個人主義を心に抱いた初期の歴史を表象していた。彼の敵は、Daivid Sarnoff率いるRCAだった。Lessingのモラルの中で、RACはアームストロングほど大きな位置しめなかった。彼にとって企業とは調達人に過ぎず、技術的な創造者ではなかったからである。また、Lessingは1933年以前の行われたFM研究についてほとんど何も明らかにしていないので、「大きな研究チーム」や「巨大な実験室」は、FMラジオの展開とは関係がなかったとする見方を強化しているように見える。Lessingは、RCAやサーノフがFM研究を阻害するようになった1933年以降にしか目を向けていないのである。

  アームストロングの死後2年後に出版されたLessingの評伝の質や射程に問題があるというよりも、1956年以降の研究の不在の方が問題である。Lessingは説得力のある文脈主義的テーマを取り入れた議論を展開しているが、参照している資料が断片的で、偏りがある。こうした欠点があるにもかかわらず、その本が後続の歴史に与えた影響は無視できない。彼の評伝のある部分に対して意義を唱えた研究が一つだけあるものの、Lessingの解釈はThomas HugesやSusan Daoglasらの著作にまで広く浸透している。

 本書は過去三十年の間に蓄積された研究から拝借したアプローチを採用している。技術史家らは、技術の物的側面をどれほど強調するかによって、分類されてきた。一つは、問題となっている技術を最大の関心事にする「インターナリスト」と呼ばれる学者集団である。 「インターナリスト」は技術の細部に異常なほどの注意を払う。それに対して反対の立場にあるのは「エクスターナリスト」である。彼らは、技術を取り巻く文化的なコンテクストに関心があり、技術的な設計にはほとんど注意を払わない人である。筆者は、そのどちらのアプローチにも価値を認めるため、本研究はその中間である「コンテクチュアリスト contexualist」というアプローチをとる。(Staudenmaierによれば)「コンテクチュアリスト」とは、「歴史的な環境と技術の設計の特徴とを統合しようとする」アプローチである。

 また本書は、適度な社会構成主義(moderate social constructivist)もしくは社会形成的視点(socially shaped perspective)を取る。社会構成主義者は、単純な技術決定論に基づく歴史解釈を放棄するため、技術は歴史を説明するだけではなく、技術は歴史的な力によって説明されるとも考える。言い換えれば、「技術が歴史を駆動する」といった一次元的な見方を放棄し、ある技術の展開を導く選択をするアクターに影響を与える社会的要素を探し求める。本書は、文化的、組織的、経済的、そしてその他偶然の「社会」的要素が、各段階においてFMラジオの設計に強く影響していたことを主張する。すなわち、本研究は、Hughesの言葉を借りれば、「シームレスウェブ seamless web」アプローチを採用する。それはハードウェアとしての技術が歴史の原因でもありまた結果でもあるとする見方である。

 ただしこのことは、FMラジオが完全に社会構成され、自然世界に対して何ら「発言権を持っていない」と言うことを意味しない。ここで意味するのは、例えばウェリアム・ハーシェル天王星を「発見した」のと同じ意味で、誰かがFM放送を「発見した」とは言わないということである。(「構成」という言葉から読者は、あらゆる技術の解釈に自然世界が何ら役割を演じないという意味を推測してしまうため、本研究は技術の「構成」の歴史というよりは、技術の「形成」の歴史であると言いたい。) 新しい技術システムを製作することは、科学的な発見というよりは、芸術家の集団的な創造に似ている。それぞれのメンバーは、地下に埋まっている像を明るみにするために、大理石(marble)を彫っている。彼らは、人間の想像力という偶然的で柔軟的な制約と、大理石の自然の性質という厳格な制約との間で作業を進めることになる。発明家は自然の法則に従うが、それを彼らが完全に理解しているとは限らず、自然法則が新技術の展開過程を制約するということは滅多にない。FMラジオの発明・発展過程は、物質的な世界の自然限界と、計画された研究と、偶発事態によって制約された軌跡に従う。

 本書はラジオの技術の細部をも掘り下げる。しかし、本書は読者が1世紀前のアマチュア無線少年らと同じレヴェルの専門知を持っていることは想定しておらず、20世紀初頭の特許、技術文書、個人の書簡などに記されるテクストを(わかりやすく)翻訳するつもりである。

 なお、従来1933年にアームストロングが発明し、1940年に設立された現代的なFMのことを、「アームストロングFM」ないし「広帯域FM」という言い方がされていた。そしてこの言葉は失敗した旧式のFMは狭い帯域のシステムであり、AMの標準的な10.000cps以下の帯域しか持っていなかったという見方を強化する。本書でも「広帯域FM」という用語を用いるが、10.000cps以下の狭いチャンネルを目指していたFM研究は全体のうちのごくわずかな割合しかなかったということを強調する。また、「アームストロングFM」という言葉は、それが不動の安定した技術であるかのような印象を与えるが、実際には1933年にアームストロングが発明した時点でのFMと、1940年にFCCを設立したときのFMとは大きく異なっている。本書では、(1)low-tube hiss FM、(2)low-static FM、(3)high-fidelity FMというように1930年代の展開を三段階に分けて記述する。また、周波数の単位はヘルツではなく、1960年以前に用いられていた単位であるサイクル(cps,kps,mc)を用いることとする。

 

 

 

Aitken, C.W , Chapter4

Aitken Continuous wave,  Chapter 4  De Forest and the audion (pp.162-249)

 

 本章では、主にオーディオンの発明者であるド・フォレストに焦点が当てられる。

 著者によれば、ドフォレストの活動は2つの時期に区分できるという。一つは、彼がイエール大学に在学する頃からオーディオンを発明する1906年前後までの時期である。このときのドフォレストの姿を一言で形容すると、”loner”(一匹狼)である。彼は大学においても、ウェスタンエレクトリックにおいても異端的な存在で、発明は孤独な中で行われていた。二つ目は、1909年以降のことであり、この時期になると個人としてではなく、資金的にも恵まれた環境で、AT&Tのメンバーらと共同で作業をするようになった。発明が個人単位から集団単位で行われるようになるといった傾向は、ドフォレストの場合だけに当てはまるものではなく、同時期の他のケースについても言えることである。すなわち、この時期には、先駆的な発明の主体は、個人のレベルからイノベーションを管理するより大きな組織のレベルへと変わっていったとされる。

  また本章では、ドフォレストの日記や実験ノートなど多数の一次資料が参照されており、丹念な調査が行われていたことがわかる。オーディオンの発明に際しては、しばしばフレミングのバルヴとのプライオリティーをめぐる議論が生じるが、本章では著者はむしろ”intellectual history”の視点に立って、両者の電気的機能の差異ではなく、概念の差異に注目した議論が展開される。

  本文の内容とややずれるが、ドフォレストとAT&Tの共同による真空管増幅器、発振器(ウルトラ・オーディオン)は、日本海軍が真空管を導入しようとする際にも参考にされていた製品であり、我が国と無関係の話ではない。そもそもドフォレストと日本海軍は、木村駿吉の時代から接点があり(二人とも同時期にイエール大学に在学しており、書簡のやりとりもあった)、日本海軍でもドフォレストを雇おうとする動きが何度かあったようである。歴史に”if”は存在しないが、もし仮にドフォレストが大学卒業後に日本海軍で働いていたとしたら、その後の時代が大きく変わっていたかもしれない。(もしかするとaudionが発明されることはなかったかもしれない。)

 なお、特許論争や関連人物のやりとりが非常に複雑で、後半はあまり理解できていない。いつも通り読書メモを作成したが、2万字を超えており、まとまっているとは到底言えない。

 またまとまり次第ということで。

 

 

The Continuous Wave: Technology and American Radio, 1900-1932 (Princeton Legacy Library)
 

 

 

 

 

Constant Ⅱ, A model for Technological Change

Edward W. Constant Ⅱ, ”A model for Technological Change Applied to the Turbojet Revolution” Technology and Culture, Vol.14, No.4 (1973), pp.553-572.

 

 クーンのパラダイム論を技術史へ応用した初期の試みとして、しばしば言及される論文である。(本稿の議論は、より洗練された形で、後に単著にまとめられることになる。)

  本稿は3つの部分から構成されている。第一節では、まず技術変化についてのモデルが提示される。第二節では、そのモデルを、ピストンエンジンからターボジェットエンジンへの技術変化という具体例に当て嵌められる。そして最後の節で、本稿のまとめが行われる。以下では、本論文の理論的骨子が示された第一節の内容をまとめていきたい。

 

 技術的パラダイム(technological paradigm)は、「受け入れられた技術的操作、技術的仕事を達成するための通常の方法」と定義される。それは技術の実践者のコミュニティーに受け入れられ、明確にされた慣習的なシステムである。しかし、技術的パラダイムは単に装置やプロセスを意味するだけではない。それは、実践、手続き、方法、器具使用、そして一連の技術を知覚する特定の共有された認知方法をも意味する。

 通常技術(normal technology)とは、静的なものではなく、多くの場合「発展(development)」と記述されるもの、つまり、「慣習的なシステムを新しい条件に適用する」「パズル解き」の活動が含まれる。しかし、技術革命(technological revolution)が起きた場合、コミュニティのパラダイムが変更される。その革命は、関連するエンジニアのコミュニティの言葉によって定義される。

 しかし、科学と技術は根本的な点で異なっている。科学は、観察と理論の間の完全な一致が保持し得る。それに対して技術は、本質的に不完全な存在である。なぜなら、全ての技術的プロセスは、より良く、より早く、より安全に、より効率的になりうるからである。このように技術が常に欠陥のある状態(malaise)に置かれているということが、通常技術を通じた技術の前進を駆動している。と同時に、技術の不完全性は、従来のパラダイムを新しい条件に適用することは機能的に不適切であるという発見、つまり不変項(anomaly)の発見にもつながるため、技術パラダイムの変化をも導くものだとも言える。

 テクノロジーの不変項は、そうした機能的欠陥(あるいは、個人の直感)だけに由来するのではない。それは「推定上の不変項(presumptive anomaly)」によっても引き起こされる。推定上の不変項とは、新たな科学的知見が、将来のある段階で従来のシステムがうまくいかなくなることを予測したり、根本的に新しいパラダイムの方が良く動作し、新規な仕事をするだろうということを指し示すものである。機能不全的不変項と推定上の不変項との違いは、後者は、新パラダイムが形成される前に何らかの科学的知見に基づいている点にある。したがって、推定上の不変項には、機能的な欠陥は存在しない。推定上の不変項とは、機能的には上手く作動しているが、新しい科学的知見に基づけば、現在のパラダイムに欠陥が内在することが推定されるといったものである。この種の不変項が、推定上(presumptive)の不変項と命名される由縁である。

 科学的知見から推定上の不変項が導かれる際には、それが数量的な形式で表現されている必要がある。もし数量的な根拠が示されていなければ、新パラダイムが採用される可能性は低い。科学は、観察と理論が完全に一致しているため、代替パラダイムが存在するかしないかにかかわらず、不変項は論理的に危機へ直結する。それに対して技術の場合、機能不全や個人的な直感に基づく不変項が、直接に危機をもたらすとは限らない(不変項と危機が直結していない)。それゆえ、技術パラダイムのシフトにおいては、代替パラダイムが提示されていることが求められる。なぜなら、代替パラダイムが提示されていなければ、その不変項は、通常技術の限定的な条件でのみ存在するものであるか、個人の奇抜な推論に過ぎないということがあり得るからである。

 技術革命は、科学革命と同様に、関連するコミュニティの大部分が新パラダイムへ移行し、通常技術を開始したときに生じる。しかし、革命は新しいシステムが操作可能となり、普遍的に受け入れられ、最初に動作したときに起こるのではなく、そのやや手前の段階、つまり、関連するコミュニティの少数派によって通常技術の基盤として採用されたときに起きると考えられる。そしてある閾値を超えると、新パラダイムは自律的にコミュニティ大部分へと浸透し始めるようになる。

 技術的変化(technological change)には、このような革命だけではなく、通常技術における発展も含まれる。それは非革命的な、直線的・累積的な(straightforward)実践である。しかし、パラダイムの展開にとって最も重要な方法は、新しいサブシステム(サブパラダイム)を採用することである。パラダイム変化は、新しいサブシステムの創造と採用と同一のものではないにせよ、それと類似している。

 技術的変化においては、それに寄与した挑戦者(provocateurs)が特定できないという曖昧な一面もある。しかし本稿の議論は、彼らがいかにしてパラダイムを超えた結論に至るのかを示唆している。まず、挑戦者は関連する科学的進歩の最前線にいる必要がある。また、彼らは従来の技術にあまりコミットしていないという条件も求められる。もちろん、これらは必要条件であって十分条件ではない。挑戦者であるためには、これらの条件を満たすことが必要だが、この条件を満たしている人が全て挑戦者であるわけではない。

だが、技術革命を引き起こすのは力(forces)ではなく人間(men)である。それは必ずしも個人ではないが、他の人には代替パラダイムとして認知されない発展を押し通し、新パラダイムを形成する存在は人間である。

 技術的変化には、経済的な要因も絡んでいる。仮説的には、以下の4つの次元で関係していると考えられる。第一は、個人の動機につながっているという点、第二は、利用可能な資金に関わるという点、第三は転換者への固執(?)(the adherence of the first few critical convert)、四つ目はコミュニティレベルでの新パラダイムの採用に関わっているという点である。

 経済的要因が支配的に機能するのは、代替パラダイムが創造者個人の中ではっきりと形成され、創造者が関連するコミュニティを変えることに着手し始めた後である。開発のための資源を配分する決定は経済に依拠している。しかし、旧パラダイムにおけるコスト構造は、そのまま新パラダイムに適用することはできない。それゆえ、コストの見積もりはある程度信頼に基づく。そしてそれは美的アピールや説得力によって左右されるものである。つまり、パラダイムシフトが自律的に進行する前の段階では、見積もられたコストは主観的なものである。

 技術革命の最後の段階で、経済的要素はコミュニティ全体が新パラダイムを採用するべきかどうかを決める際に機能するだけではなく、関連するセクターの変化のタイミングまでをも決定する。そして、従来のパラダイムが反証されるか、新パラダイムが確証されるかを最終的に決定する基準も、経済的な要素である。しかし、技術の展開は、関連するコミュニティーが決定を下す前に進む。したがって、経済的要因に限定したパラダイムシフトの概念は、技術革命の複雑さを完全に把握することはできない。

 

 

議論

・非革命的な変化と革命的な変化の違いが、判然としないように思う。というのは、クーンの議論では、革命前と後では、共約不可能(通約不可能)、つまり、共通の語彙が存在せず、それゆえその優劣を図る共通の尺度が存在しないことを論じていたはずである。その場合の断絶的な「革命」と、本稿における「革命」の意味はやはり異なっている。技術革命の前後に、共約不可能性は生じ得るのか。

・サブパラダイムの採用について論じていた箇所があったが、正直、今回提示された論理に十分に取り込まれていないような印象を受けた。ここは、テクノロジーが複数のコンポーネントアセンブリから構成されているという性質に基づく興味深い議論であるので、のちの議論では洗練されていることを期待したい。

 

 

 

テクノロジーとイノベーション

 

 ブライアン・アーサー(日暮雅通訳)『テクノロジーイノベーション- 進化/生成の理論』(みすず書房、2011年)

 

 興味深い内容で、技術史研究に取り組む上でも非常に示唆的だったので、詳しくレビューしていきます。

  本書は、Brian Arthur, Nature of Technology: What It Is and How It Evolve, New York: Free Press, 2009. の邦訳である。著者は複雑系経済学の旗手の一人だが、経済学のみならず、科学史や技術史の成果も取り入れられている。

 原著のサブタイトルが示すように、本書は大きく分けて二つの部分から構成される。第一部(第二章から第四章)は、そもそも技術 (※以下、テクノロジーと同義で用いる。本書においてもテクノロジーはだいたい「技術」という日本語に対応していると思う)とは何なのかという問題について議論される。多くの先行研究は、個別の技術の歴史を探究し、それがどのようにして生まれたのかを明らかにしている。また、設計過程の検討や、経済的要素がいかにして技術設計に影響を与えるのかについても分析されている。しかし、そもそも「テクノロジー」が意味するところの合意はない。第一部では、そうしたテクノロジー全般の「学(オロジー)」について、根本から考え直される。続く第二部(第五章から第十章)では、テクノロジーはいかに進化するかという問題が検討される。進化の理論を提唱するのは、それがイノベーションの理解につながるからであるとされる。ここで著者が前提にするのは、新しいテクノロジーは既存のテクノロジーの組み合わせによって生まれるという考えである。しかし、新しいテクノロジーは既存のテクノロジーの単なる寄せ集めではないため、それがどのように組み合わさることで新規な技術が生まれるのかという「組み合わせ進化」の一般理論を模索する必要がある。第二部では、この進化の理論について、段階的に議論が積み重ねられていく。

 

 第二章では、まず、テクノロジーについて、(1)人間の目的を達成する手段、(2)実践方法とコンポーネントの組み立て、(3)文化に役立てることができる装置と工学の集合体という三つの定義がなされる。(これらについては、以下で各々定義(1)~(3)と表記する。)

 人間の目的を達成する手段としての技術(定義(1))には、装置や手法、処理などのカテゴリーが含まれる。しかし著者曰く、これらは技術をソフトウェアとして捉えるか(処理や手法)、ハードウェアとして捉えるか(装置)の違いであって、別のカテゴリーではない。

 ところで、個別のテクノロジーには2つの共通の構造があるという。一つ目は、それが「組み合わせ原理」から成っている(定義(2))ということである。つまり、テクノロジーは根本的に、その基本機能を担う主要アセンブリと、それを支援する一組の下位アセンブリから成り立っている。例えばジェットエンジンの場合、吸引口、コンプレッサ、燃焼装置、タービン、噴出口という5つの中核となるアセンブリと、それを支える多くの下位システムから構成されている。テクノロジーがこのようなモジュール性を備えていることには、いくつかの利点がある。まず、それらは特定の目的や変更のために、全体から取り外すことができる。また、テクノロジーを機能上のグループに分割でき、設計過程も単純化できる。ただし、テクノロジーを分割することが意味を持つのは、それが繰り返し用いられる場合に限られる。あるいは別の言い方をすれば、テクノロジーの分割は市場拡大にしたがって増加する

 二つ目は、テクノロジーは「再帰性」という原理を持っているということである。つまり、テクノロジーとは、テクノロジーの中にあるテクノロジーで構成されており、それは基本的パーツの段階まで連続している。テクノロジーには特徴的な規模はない。それは常に構成が変更され、目的の変化に対応して再編成され、改良されている。

 第三章では、テクノロジーが常にある目的達成のために物理現象を利用している側面(定義(3))に目を向け、科学とテクノロジーはどのように関係しているのかについて議論される。

 どのようなテクノロジーを調べても、中心には常にそれが利用している何らの効果がある。例えば、自家動力で動き回るトラックは、特定の化学物質(燃料)が燃えるときにエネルギーを発生させるという現象を利用している。また、転がる物体(タイヤ)は滑る物体に比べて摩擦力が小さいという現象も利用している。このように、技術はある信頼できる効果に依存しているといえる。

 テクノロジーが現象を利用して効果的に作動するためには、調整する支援手段との適切な組み合わせを見つける必要がある。技術は、多くの現象が集められて特定の目的にために「協力」して働く統合体である。また、そのような現象を活用する支援テクノロジーは、「チャンキング」によってモジュールで構成されなければならない。例えば、電子工学では誘導子をコンデンサのそばに配置すると望まぬ振動を起こしてしまうので、通常、それらは離れた場所に配置される。つまり、各々の現象が別のモジュールに割り当てられている。

 以上のことを確認した上で、著者は、テクノロジーの本質とは、目的にかなうように現象をプログラムすることにあると述べる。しかし、現象を利用することで目的を果たす手段の中には、通常テクノロジーとはみなされないもの、−企業組織や法制度、金融システム、契約など−も含まれる。ここでなぜそれらはテクノロジーと感じられないのだろうか、と問われる。例えば、金融システムが利用している現象は、人間が媒体の価値を信頼しそれが将来も続くことを信じているというものである。これは人間の行動にかんする現象である。つまり、通常テクノロジーと言われるものは自然の現象に基づいており、行動的・組織的効果に基づくものは、テクノロジーだとは感じられない。だが著者曰く、これらの広義のテクノロジーである。マーラー交響曲は一般的には美的体験であって技術ではないが、マーラーは私たちの脳内で現象を引き起こすように意図的に音をプログラムしたと考えれば、それは一種のテクノロジーになりうる。したがって物質的な効果に基礎を置いていないとしても、目的や手段を果たす「システム」全体をテクノロジーと呼ぶことは可能であると論じられる。

 後半では、科学はテクノロジーとどのように関係しているかという問題が議論される。まずは、科学は、技術が扱う効果について理解するものだと考えられる。こう考えると、科学=発見/技術=応用というありふれた見方に帰着する。だが、テクノロジーは単に科学の応用というわけではないという。動力飛行をはじめとする過去の多くの技術は、科学などほとんど存在しないときに生まれた。つまり、テクノロジーは科学だけではなく、同時に、自らの経験からも構成されている。

 同じく、テクノロジーも科学の中にしっかりと織り込まれている。自然現象を観察し推論するためには、手法と装置が必要である。それは目的を達成する手段であり、技術に他ならない。さらに科学それ自体も、観察された世界の特徴や仕組みを明確にするという目的のもとで、より単純な概念のパーツを組み合わせる行為である。例えば、ニュートンによる惑星軌道の説明は、質量と質量の間で働く引力についての初頭的なアイデアを組み合わせて作り上げた一種のテクノロジーである。すなわち、科学はテクノロジーを使うだけではなく、テクノロジーからできているということになる。テクノロジーは科学によって明らかにされた現象を利用すると同時に、科学はテクノロジーが発展させた器具・方法論・実験を用いることによって形作られる。その間には原因と結果の好循環がある。

 第四章では、共通の目的を持つテクノロジー構成要素がまとまった「ドメイン」という概念について論じられる。ドメインとは「実践法と知識の収集、組み合わせのルール、関連した指向様式とともに、装置や手法を形づくるために抽出されたもの(90頁)」と説明される。

 まず、ドメインは一種のツールボックスとして存在し、そこから役に立つ要素が引き出され、一組の実践方法が用いられる。設計者はまず装置を作り上げるために適切なドメインを選択する。例えば、レーダーの設計者は電子工学というコンポーネント・グループの中から発振器をドメイン化する。多くの場合、この選択は自動的に行われるが、考慮の末行われることもある(最近では、コンピュータのソフトをまとめるとき、リナックスとウィンドウズのどちらの集合体の中でドメイン化するかを熟慮しなければならない)。

 また、ドメインの選択は時代とともに変化する。それだけでなく、重要なイノベーションは新しいドメイン化によって引き起こされる。ドメインの変更は新しい可能性を提供するからだ。航空機の探知が音響ミラーからレーダーへの変更は、強力なドメインである電子工学を利用したことに由来する。ドメインは、時代やその時代が影響を及ぼす範囲をも規定する。

 著者は、ドメインとは一つの言語体系であるともいう。言語には適切な選択もあれば不適切な選択もあるように、設計にもドメインで許容される組み合わせというルール(文法)が存在する。ドメインの文法は、要素がどのように組み合わせられるか、どんな条件で組み合わされるかを規定する。設計者はその文法に知悉することで、そのドメインの思考法に慣れ、多くの可能性の中から正しいものを選び、それぞれの部分を組み立てる。完璧な設計は、それゆえ、美しい詩のようである。

 さらに、著者はドメインとは、その中で何かができる世界=領域であるともいう。ドメインは、ある特定の操作が可能になる世界である。ドメインはある特定の作業に特化している。例えば、運河は貨物を船で運ぶことに特化している。あるいは、光学データ通信は、光量子によりメッセージを伝送することに特化している。ここで重要なことは、あるドメインから別のドメインに入る時にコストが積み上がるということである。荷物を鉄道輸送のドメインから船でのコンテナ輸送のドメインに移し替えるとき、貨物駅やドック、コンテナを扱うクレーン、積み下ろしを行う人員など、面倒な「つなぎ」のテクノロジーが必要になる。また、ドメイン内で達成できることには、微妙な偏りも存在する。例えば、デジタルの世界が有効に機能するのは、現実世界が定量化できる場合に限る(「素朴さ」を定量化することはできない)。

 以上のように、ドメインはある時代に可能になることを規定し、固有の産業を生み出す。そして、ドメインは、エンジニアが目的を果たせるように導く世界を提供していると論じられる。

 

 

 続く第五章からは、テクノロジーの進化のメカニズムについて議論される第二部に入る。本章ではまず、著者が「標準的エンジニアリング」と呼ぶ活動について説明される。「標準的エンジニアリング」は、トマス・クーンの議論における「通常科学」や、エドワード・コンスタントの議論における「通常エンジニアリング(工学)」に相当する言葉である。クーンは、パズルを解いていくような知識が累積的に増えていく日常業務としての科学を「通常科学」と呼び、エドワード・コンスタントはそれになって「通常エンジニアリング(工学)」について語った。しかし筆者は「通常」ではなく「標準的」という言葉を用いる。この理由は、注釈で「科学的活動にはノーマルな範囲にはない独立した閉口した活動があることを意味するからだ」と与えられている。評者にはその意味がよく理解できないが、おそらく、通常科学は異常科学に対応するが、技術において「異常技術」のような概念は存在しないということだと想像される。

 さて、標準的エンジニアリングの中核部分には、既知であり認められた原理のもとで手法と装置を統合するという活動がある。たいていの設計活動は、いわゆる通常科学と同じく、所定の問題に既知の概念と手法を適用するものである。しかし、このことは標準的エンジニアリングが単純だということを意味しない。目的を達成できる構造概念を現実化できるアセンブリの組み合わせを作るためには、それぞれの階層で設計過程が繰り返される必要がある。あるアセンブリで予想外の欠陥が生じた場合、他の部分を調整して相殺しなければならない。場合によっては計画そのものを最初からやり直さなければならないかもしれない。また、プロジェクトの規模が大きい場合、異なるアセンブリは別々のグループで設計されるため、これらの間のバランスを取るべく議論を重ねる必要がある。

 また、標準的エンジニアリングは、設計で既に知られている何かについての新しい型=実例を作ることだということもできる。テクノロジーの新しい型が要求されるのは、(1)ある異なる物質的環境を設計すべきとき、(2)よりよい性能の部品や素材が利用できるようになったとき、(3)市場が変化したときであるという。新しいプロジェクトは新しい問題を提起している。すなわち、完成した設計は一組の問題に対する一組の解決法だといえる。ただし、先に「意図」があり、コンポーネントの適正な組み合わせという「手段」はそれに後続することに注意すべきだともいう。

 さらに、標準的エンジニアリングは、テクノロジーの進化にも貢献している。特定の解決法は独立のオブジェクトとして扱われるようになることがあり、次の構成に使われる新しい要素になることがある。例えば、電子工学におけるよく知られた発振回路(アームストロング発振回路、ハートレー発振回路、コルピッツ発振回路など)は、標準的な解決法であり、既存コンポーネントの賢明な組み合わせとして生まれたものである。それが役立つ場合はミームのようにコミュニティに浸透し始め、一般的に使われるようになる。それは、新しい用語が語彙の中に含まれていくことに似ているという。だが、解決法が構成要素を生み出していくというこの過程は、厳密にはダーウィンの進化論とは異なるとも述べられる。新しい解決法は瞬時に統合することができる組み合わせであり、生物学的変化のようにゆっくりと蓄積されるものではない。

 第六章では、テクノロジーの「発明」がどのようにして起きるのかについて議論される。

発明とは一言でいえば、目標達成にとって従来とは異なった原理に変更されることである。ここで、必要性と効果とを新たに結びつける方法には2種類あると指摘される。一つ目は、必要性から始まってそれを達成する原理を見出すパターン、二つ目は逆に現象・効果から始まって、その中に有用性を見出すパターンである。前者の場合は、他の分野から借りたり、過去の概念の組み合わせの中からヒントを得る場合があることが議論される。

 第七章では、構造の深化のメカニズムについて、科学理論の展開(※原語はdevelopだろう。翻訳者はこれを「発展」と訳しているが、ここでは「展開」が適切だと思われる)について議論したトマス・クーンのパラダイム論と類比させながら述べられる。

 クーンの議論では、新しい理論モデルが新しい原理に作用し、パラダイムが切り替わった時点でサイクルがスタートする。パラダイムは多くの範型に適用され、通常科学の中で精緻化する。やがて基底にあるパラダイムと矛盾する事例(アノマリー)が堆積し、パラダイムを引き伸ばすことによっても対処できなくなると、次第に緊張する。そして、ついに満足できる論拠(新パラダイム)が一式出揃ったところで、通常科学は崩壊する。

 テクノロジーの場合、新しい原理が生まれ、開発が始まると、内部構造の交換と交換の深化という2つのメカニズムが作用する。テクノロジーが商業的・軍事的な課題になると、その出来栄えに「圧力」がかかり、増産が強いられる(=開発が押し進められる)。そして機能向上のために克服する必要がある課題が生じ、あるコンポーネントが交換される。そして、一つのコンポーネントが変わることで、他の部分との調整が求められる。あるいは新しいパーツやシステムを追加することでも障害を回避することができるが、この場合も性能は全段階で改善され、いっそう複雑化する。

 だが、次第にコンポーネントの交換や構造の深化では性能が大幅に向上しない成熟期が訪れる。既存の原理が安定した地位を獲得する理由の一つは、経済的なメリットがあるからだという。つまり、仮に新原理が今発明されても採用にあたって多額の費用が必要になるため、採用されにくい。また、現場の人間が新しい原理に不安を覚え、今ある原理に依存しようとする心理的な要因もある。

 このように周辺構造と専門的技術があまねく普及し、テクノロジーが成熟期に入ると「ロックイン」が生じる。そして新しい用途や環境の変化が生じても、ロックインされたテクノロジーを引き伸ばして対応するようになる。(本書ではパラダイム論との対応関係が明確に述べられていないが、このプロセスは「通常科学」に似ているということだろう。) そして、ある程度のアノマリーに直面すると、その動作は緩慢になり、新しい原理やパラダイムを得ようとする。

 第八章では、第四章で議論した「ドメイン」はいかに進化し、経済にどう影響を与えるのかについて検討される。

まず著者は、新ドメインは、親となるドメインから構築されなければならないという。初期の段階ではまだ元のドメインとあまり変わりがないが、核となるテクノロジーが急激な進歩を見せると、ドメインは変形する。例えば、トランジスタ真空管にとって替わったとき、電子工学業界の様相は変わった。または核となる応用分野が変わる場合(民生利用から軍事利用に転じるなど)にも、ドメインは大きく変形することがある。そして、情報的テクノロジーはコンピュータと電気通信の間に生まれたドメインであるように、ドメインの変更は新たな下位ドメインを形成していくという。

 ドメインの変更は経済にも影響を及ぼすが、ここで著者が強調していることは、経済の要素は新しいテクノロジーを「採用」するのではなく「遭遇」するということである。つまり、方法・装置・理解・慣習からなるテクノロジー体系と、組織・商習慣・製造法・稼働する機器からなる産業というテクノロジーの集合という、2つの「テクノロジー」が集結するという言い方が正確である。進行しているのは単なるテクノロジーが採用されるプロセスではなく、ドメインと経済の双方が適応するという大規模なプロセスであるから、新しい処理方法を発見し、環境が改善されるだろうと判断するまでに時間がかかる。テクノロジーに関わる事業や商習慣を整理し、テクノロジーそのものが利用者に適応するまで、本当の変革が訪れたとはいえない。

 第九章では、自己創出(オートポエーシス)としてのテクノロジーの進化のメカニズムがより詳しく述べられる。まず、テクノロジーが進化を駆動する諸力として、著者は2つの力を挙げる。第一は組み合わせであり、第二は新しいテクノロジーの必要性である。テクノロジーの組み合わせは、新たなテクノロジーの創出のポテンシャルとして、威力を持っている。一般に、基底要素Nとすると、テクノロジーの組み合わせは、2N-N-1通りである(例えば基底要素がA~Eの5つであるとすれば、それぞれについては、あるかないかのどちらかであり(25=32通り)、そこから単一の要素の場合の5通りと、空の場合1通りを引けばよいので、26通りとなる)。もちろん、構成要素についてすべての組み合わせに工学的意味があるわけではない。しかし、仮に1/100の確率で役に立つ組み合わせがあるとしても、2N-20で近似できる。いずれの場合も、要素数がある閾値を超えると、組み合わせの数は急激に増加をし始める。このような数で供給できても、何らかの需要がなければ新テクノロジーは成立しない。この需要に関わるのが、テクノロジーが有益とみなされるニッチである。この機会ニッチは人間のニーズに起因することもあれば、テクノロジーそのもののニーズから生じることもある。例えば、低コスト、高効率という目標をみたす機会、支援テクノロジーが必要とされる機会、ある問題への解決策への機会などがある。

 では、需要と供給の各々における条件が揃った場合、どのようなメカニズムでテクノロジーは進化するのだろうか。ここで著者は、テクノロジーの集合体をネットワークとして考え、その結節点(ノード)にテクノロジーが置かれているとするモデルを提示する。ノードは「活性集合体」として、経済内で現在使用されている。そこで、新テクノロジーの可能性と経常的な機会のニッチが遭遇することで、新しいノードを形成し、やがて古いノードが不活性になっていく。

 著者は、進化の厳密な順序は予め決まっていないこと、時間の経過とともに一様な変化を引き起こすことはないという点に注意を促す(テクノロジーの集合体から将来を予測することは困難であり、そこには不決定性がある)。また、テクノロジーの進化は、自らをありあげて増殖する有機的な網の様であり、環境とエネルギーのやりとりながら自己再生産を行う。そして、それは(サンゴ礁を生物と考える意味において)生命的であると論じられる。

 第十章では、テクノロジーの進化に伴う経済の進化に目が向けられる。そのためにまず、経済を「生産・分配・消費する体系」とみなす従来の表現から、「社会が自身のニーズを満たすための調整と活動の集合」とする見方への変更を提示する。社会のニーズを満たすために調整を行うものには、例えば、金融システム、銀行、管理システム、法体系などがある。これらは第三章で検討したように、目的達成のために手段であるテクノロジーである。その意味で、経済はテクノロジーの受け皿ではなく、テクノロジーをもとに組み上げた意義のある存在、つまり、経済とはテクノロジーの表現であると述べられる。もちろん経済と技術は同じものではない。ここで示されていることは、テクノロジーが経済の骨格を形成しているということである。新しいテクノロジーが経済に参入する、新たな調整が必要となる。例えば1760年代のイギリスで繊維機械が出現するようになると、家内制手工業が工場にとって替わった。すると機械は向上を構成する要素の一つとなり、工場制度は労働者のニーズを生み出し、ヴィクトリア朝の産業経済の構造を変化させる。この構造の変化は長期にわたって起きる。

最終章では、これまでの議論を整理した上で、将来、我々がどのようにテクノロジーに向き合っていけばよいのかについての提言がなされる。

 着実に成長を続けているテクノロジーに対して、我々は心理的な葛藤を抱くことがある。それは人間のテクノロジーの関係というよりは、人間と自然現象との関係に起因していると分析する。ハイデガーはかつて、技術とは「自然にあるすべてのものを人類が利用できるような潜在的資源として自己顕現させる方法のこと」であると言った。いまや、テクノロジーが世界に適合するのではなく、テクノロジーは世界を適合させようとしている。ハイデガーは、我々がテクノロジーを通じて、単に利用対象としてのみ存在するかのように自然を貶めていると述べた。だが一方でこれまで議論してきたように、テクノロジーの根底にあるのは深淵な自然である。にもかかわらず、テクノロジーが自然だとは感じられない。私たちは無意識のうちに、テクノロジーによる自然への想像を絶する介入に対して深刻な不安を感じている。

 著者は、我々がテクノロジーを持つかどうかが要点ではなく、テクノロジーを顔のない意志を削ぐ存在として受け入れるべきか、それとも、有機的で生活を豊かにするものとして所有するかというところにあるのだと主張する。そして、テクノロジーが人生の挑戦や意義、目的、自然との共存を高めるのであれば、人生や我々が人間であることを肯定していることが述べられ、本書は締め括られる。

 

 第一部で展開されたテクノロジーとは何かに関する著者の議論を特徴付けるとすれば、それは「汎テクノロジー論」と言えそうである。著者は、テクノロジーを、ある目的を達成する手段であり、構成要素の組み合わせからなり(それは再帰性をもつ)、かつ現象をプログラミングするものだと定義した。また、処理や手段といったソフトウェアも、装置などのハードウェアもテクノロジーであるとする。さらに、自然現象だけではなく人間の行動に関する原理を利用するものまで広義のテクノロジーとみなす。そうすると、貨幣や金融制度、音楽など、我々が通常テクノロジーと考えるもの以外の人工物までをもテクノロジーとみなすことは一応可能であるように思う。そうなると、身の回りのおよそ全ての事物がテクノロジーに見えてくる。それはある種の「汎テクノロジー論」ではないだろうか。評者は、この議論は間違っているとは思わない。ただし、上記の定義に当てはまるテクノロジーが真の意味でのテクノロジーになりうるのは、設計者ないしエンジニアが、ある程度現象の利用を意図して創作するという条件がつくと考える。例えば、マーラー交響曲は、作曲家自身が、聴衆の脳内作用を予め計算して、音を紡いでいったとは思えない。もし本当にそれを意図しているのであればテクノロジーと呼んで良いのかもしれないが、そうでなければ芸術作品といった方が自然な気がする。同じく貨幣への信頼も、意図して形成されたわけではないだろう。

 第二部では、標準的エンジニアリング、ドメインなどの概念を用いながら、テクノロジーの「組み合わせ進化」のメカニズムについて考察された。その概要を改めて整理すると、以下のようになるだろう。まず、組み合わせ進化の核には、新たに成立したテクノロジーが次のテクノロジーを創出する構成要素となり、次に生成されたテクノロジーは新たな構成要素となり、といった自己創出のメカニズムが存在する(第五章)。そして、新しいテクノロジーは、ある目的とそれを満たすことができる効果とを新たに結びつけ直すことで発明される。それはまた、「ドメイン」の変更といっても良いかもしれない(第七章)。その目的とは、人間にとってのニーズに由来するときもあれば、テクノロジー自体から要請されたニーズに由来することもある(第六、九章)。その過程において新たに問題が発生し、その問題への解決策がさらに別の問題を引き起こすということもある(第七章)。この過程は一様ではなく、不決定な要素が含まれるため、将来のテクノロジーを予測することは困難である(第九章)。

 以上のような進化のメカニズムは、テクノロジーのインターナルな機構だけでなく、エクスターナルな影響にまで注目した議論であり、共感できる。

 一方で、まずダーウィンの進化論とどこが似ていて、どこが異なるのか。これについては所々で言及があるものの、全体的に判然としない。ダーウィンの進化論とは、評者の理解では、突然変異によって生じた個体の差異が、ある特定の環境において生存に有利に働いた場合は残り、有利に働かない個体は自然淘汰されていくというメカニズムである。しかし、そもそも自然淘汰に相当するメカニズムについての言及はほとんどない。ダーウィンの進化論を持ち出すのであれば、より詳しく整理し、議論をしてほしい。

 次に、組み合わせ進化をクーンのパラダイム論に擬えて説明する箇所があったが、どこが違ってどこが似ているのか、この点についても説明が不足しているように思う。ドメインの変更とパラダイムシフトはどう違うのか。あるいは、パラダイム論の主要な論点である「共役不可能性」は、技術の発展/展開において適応できる議論なのかどうか。こうした点について問いを投げかけたい。    

 さらに、本書では技術者の役割についてほとんど言及がない。本書で描かれるのは、テクノロジーによる自律的な進化であり、そこでは人が不在である。果たして、技術者の役割は軽視できるのだろうか。 

 

 

 

www.youtube.com