yokoken001’s diary

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平野啓一郎『かたちだけの愛』を読みました。

 これまで、『ある男』、『マチネの終わりに』、『空白を満たしなさい』と著者の長編小説を時代を遡っていくように読んできた。そして、今回読んだ『かたちだけの愛』という小説は、僕にとって、4作品中一番読み応えがあり、もっとも好きな作品になった。

多少恋愛沙汰がごちゃごちゃしている感はあるものの、人を愛すること、プロダクトデザイナーが取り組む「義足」とそれに関わるある種の<身体論>、片足を失った女優と彼女の「分人」(この言葉は、小説内で登場するわけではない)などといったテーマ自体が興味深かったということもある。が、なんといってもストーリーがドラマティックで、まるで映画を見ているような映像的な描写も合わさって、圧倒的な読後感に思わずため息が漏れてしまった。

鷲田清一氏による解説も、この小説の一つのキーワードである「幻痛」のもつ意味の広がりに気づかせてくれ、この作品にますます魅了された。また、この作品を読解するときの一つの鍵となる概念は、(谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の引用が何度か登場することからもわかるように、)おそらく「陰翳」だろう。まあ、だがそれについては、鷲田氏の秀逸な解説で十分であり、僕が気づいた関連箇所をいくつか引用することもできるが、ここで改めて書く必要はないと思うので、個人的な感想を少しだけ記しておきたい。

 

やはり、一番考えさせられたのは、恋と愛の違いだった。

恋というのは、一瞬のうちに燃え上がる花火のようなもの。

それに対して愛は、それよりもずっと長く、場合によっては死ぬまで継続するもの。

愛というのは恋よりもずっと成熟していて、それゆえ、恋とは全く別の作用をもった営みだ。

 人に優しくするということは、愛の一つの表現かもしれない。しかし、「優しさ」とは?

 

 本書で考えさせられたのは、「相手が夢中で自分自身に没頭できるように寄り添うこと」、これが一つの成熟した優しさのかたちであるということだった。別の言い方をすれば、「自分といるときの相手が、相手自身を好きになれるように寄り添うこと」、ということになるだろうか。

 翻って自分の立場になって考えると、好きな人といるときに、夢中になって自分の願望や欲求を追求できるだろうか。これは一見すると、自分勝手な振る舞いのように思えるが、持続的な愛にとっては、このことは重要なことだと思う。

 自分が翳になって相手に光を与える(あるいは相手が光るが故に、自分が翳になる)とき。そして逆に、相手が翳になって自分に光を当ててくれる(あるいは自分が光るが故に、相手が翳になる)とき。

こうした複雑な陰翳の交代こそが愛なのであって、そこには本質的な”かたち”などないのではないか。その意味では、このタイトルは一つの逆説を表しているようにも思える。

 

 

 

かたちだけの愛 (中公文庫)

かたちだけの愛 (中公文庫)