yokoken001’s diary

書評を中心に記しています。

沢井実『八木秀次』

 

 経営史家の沢井実によって、夥しい量の一次資料を用いて記された、八木秀次浩瀚な伝記である。八木は「八木(・宇田)アンテナ」の発明で知られている電気技術者だが、その肩書きは阪大教授、東工大総長といったアカデミアの範疇を超え、戦時期には陸軍科学研究所理学部長、また技術院総裁も務めた。さらに戦後には政治運動にもコミットし、民主社会主義連盟の会長に就任、参議院全国区に出馬し当選も果たしており、その功績は多岐にわたる。本書は、膨大な一次資料を駆使して、戦前から戦後にかけて日本の近代化の只中を生きた科学技術者八木秀次の生涯を緻密に描いた労作だ。(繰り返すが、沢井氏のリサーチには驚嘆させられる。これだけの資料を集めることを想像しただけで目眩がし、具合が悪くなってきそうだ。)

 

 明治19(1886)年に大阪市に生まれた八木は、第三高等学校より明治39(1906)年に東京帝国大学工科大学電気工学科に進学。在学中は逓信省電気試験所の初代所長の浅野応輔の講義を聴講し、電気試験所にも出入りした。卒業後は仙台高等工業学校の講師に就いた。

 大正2(1913)年より、弱電工学で有名だったドレスデン工科大学のバルクハウゼンの元へ留学。第一次大戦が勃発すると、たまたま旅行でスイスにいた八木はドイツに戻れなくなり、ロンドン大学のフレミングの研究室に移った。総力戦を目撃した八木は、平時からの総動員体制の準備、企業内研究所、産官学連携の重要性を悟り、その意義を強調した。

 帰国後は東北帝大理科大学で講義を担当するようになり、大正8(1919)年に工学部電気工学科が開設されると同時に、工学部教授に就任した。東北帝大では、斎藤報恩会の多額の補助金が八木らの共同研究に充てられ、大正14(1925)年には、八木・宇田アンテナを発明する。この発明のきっかけは、八木が指導した海軍委託学生の西村雄二の卒業研究だった。西村の実験結果をさらに検討する形で八木と、西村の同期生だった宇田が研究を継続し、1925年の第3回汎太平洋学術会議で提出された英語論文によって、世界の研究者がその成果が知られるようになった。だが、八木が単独名で内外の特許を申請・取得したため、「八木アンテナ」として認知されるようになった。宇田は、「原理は間違えなく、すべて八木先生、しかし、実験などはほとんど僕がやった」と語っていた。

 

 昭和7(1932)年には大阪帝大教授兼任となり、11年に専任となった。東北帝大時代の資金が斎藤報恩会であったのに対し、阪大では谷口工業奨励会からの助成金がそれに取って代わった。また阪大時代には、陸軍からの嘱託研究にも取り組んだ。1919年に発足した陸軍科学研究所の初代所長を務めた多田礼吉の方針は、所内研究は試作試験を第一とし、将来に期待する研究は部外の研究者に依存する体制を構築するというものであったから、多数の外部研究者を嘱託に任命したのだった。昭和10(1935)年に指定された「く号」(怪力線研究)のうち電波と放射線に関する研究に八木が任命された。早い段階から軍事研究にコミットしていた八木は、応用研究に傾斜していたからこそ、逆に基礎研究の意義を十分に理解しており、同じ阪大内では菊池正士の方針と対立していた。

 太平洋戦争が始まると、昭和17(1942)年に陸軍はシンガポールでイギリス軍のレーダーを鹵獲し、ニューマン伍長のノートを発見すると、そのいたるところに”YAGI ARRAY”と記されていることに気がついた。しかし、日本側はそれを「やじ」と読むのか「やぎ」と読むのかさえ知らなかった。そこで品川捕虜収容所のレーダー手に尋問したところ、これは貴国に名前だと告げられ、皮肉なことにここで初めて八木アンテナが敵国の兵器に応用されているという事実を知った。これを契機に八木アンテナは日本でも一躍有名になり、八木の名声は高まった。

 昭和17(1942)年には東工大の学長に就任した。また昭和19(1944)年には、陸海軍技術運用委員会の部外委員に任命され、決戦兵器の開発状況を知るようになった。同年技術院総裁に就くも、軍部の許可なく決戦兵器について国会で答弁したことが原因となって、翌年5月には辞任することになる。

 

 敗戦後、八木は米国の科学技術への尊敬の念はますます強くなった。戦争責任については、戦時中の国家への天皇への献身は当然のことであり、戦時中の傍観者が戦後の主人公になることへの大きな違和感があった。昭和24(1949)年に行われた座談会で、朝日新聞の学芸部記者の奥田教久に「戦時中の科学者が戦争協力したことへの懺悔についてどう考えるか」という質問されたところ、「国が戦争状態にはいった場合、愛国者としてこれに協力しないことはいけない。これは当たり前の話である」といった趣旨の返答をしていることなどはとても興味深い。

 昭和21(1946)年に科学技術政策同士会が結成され、「科学技術振興に関する決議案」が衆議院本会議に提出され決議された。これにより科学振興のための委員会を設置することが認められたものの、GHQが内閣レベルでも委員会設置は時期尚早だとして退けたことが原因となり終息、同志会自体も解散することになった。

 八木の技術導入の基本的なスタンスは、日本の技術は戦争のために10年遅れており、一日も早く海外の新技術を取り入れなければならないというものだった。それゆえ、原子力発電の早期導入にも積極的で、1950年に発足した電波監理委員会によるテレビ放送に関する標準方式案である、6メガサイクル案(アメリカ式)にも賛成していた。

 社会党分裂後の昭和26(1951)年には八木も含めた30名により民主社会主義連盟の設立が準備され、八木はマルクス・レーニン主義の実践に疑義を呈し、社会民主主義とは異なる民主社会主義の立場を表明した。そして昭和28(1953)年には右派社会党から参議院選挙全国区に出馬し、補欠当選を果たした。昭和30(1955)年には社会党を離党し、翌年の選挙では落選するものの、政治的関心は持続しており、昭和37(1962)年の憲法調査会第一部会の第七会議では憲法改正を主張した。具体的には、第9条を削除し、自衛軍の設置を主張した。「無防備無抵抗主義の絶対平和主義」は「神がかり的理想主義」であり、9条を置くことによって世界が追随すると考えるのは「自己満足」、日本が無抵抗であれば侵略されないとするのも「無責任」であると考え、最も現実的な平和保障機構は集団的自衛権の他にないと意見を表明した。さらに、国民主権のもとにおける天皇制という原則は変更すべきではないとも語った。

 昭和30(1955)年には、武蔵工業大学の学長に就任し、五年後には同大学付属原子炉研究所を開所させた。

 昭和51(1976)年1月19日、90歳の誕生日を目前にして八木は静かな眠りについた。そのとき日本は、高度経済成長を果たし、近代から現代へと時代が変わりつつあった。

 

 本書の特徴は、多種多様な豊富な資料を用いて、それらの文面を引用するなどして読者にも当時の様を想像させつつ、可能な限り歴史主体の視点に寄り添って描くアプローチが取られている点である。もちろん、あとがきでも書かれているとおり、軍事研究に傾斜していくときの迷い、終戦時の葛藤など、これだけの資料を以てしても筆が及ばなかった点も多く残されている。しかし、八木秀次という一電気技術者のリアルな記述を通して、近代日本の「科学」の歴史の諸相がおぼろげながらも感じ取れるような気がした。とりわけ終戦直後の、八木の戦争責任に関する発言は非常にリアリティがあると感じた。一方、本書の最大の限界点は著者が科学技術史の専門ではないことから、八木の研究の中身について、あるいは電気工学の技術的な内容について十分に触れられていないことであろう。せいぜい個々の研究題目や論文名を記す程度であり、その研究内容が科学技術史全体の中でもつ意義や位置付けなどは、本書からは知ることができない。その点は、科学史サイドからの研究が必要になるだろう。

 

 

八木秀次 (人物叢書)

八木秀次 (人物叢書)