yokoken001’s diary

書評を中心に記しています。

大淀昇一『技術官僚の政治参画-日本科学技術行政の幕開き』

 情報量が膨大で、非常に難解な書物だった。

   最低3回は読まないと、理解できないと思った。

 ここでは、どんな本だったかということだけを、大まかにスケッチしておく。

 

 本書で、著者は、政府の中の技術者=技術官僚が、明治以来の歴史の中で、いかに自らの地位を高め、科学技術の立場を政策決定・行政過程の中に反映させようとしたか、その苦悩の歴史を描く。戦後の技術官僚は、戦前とは比較にならないほどの高い地位を保持し、場合によっては、自らの専門的判断や欲求を暴走させてしまう契機の増大ということにもつながったなどとも言われる。にも関わらず、今の国家社会は高度に発達した科学技術に支えられており、行政における科学技術的判断の重要性は、いささかも揺らぐことはない。しかし、意外なことに、元来、技術官僚はポスト御雇外国人的立場に置かれ、法科系の官僚に比べれば低い地位にとどまっていたのである。

 

 明治以来、日本が近代化をとげるために形成しなければならなったのは、社会資本(=「国民経済や社会全体の基礎としてその円滑な運営のために必要とされる施設」)であった。とりわけ重要だったのは、鉄道と電信というが、もちろん当時の日本にはこれらを建設する技術者は皆無だった。そこでイギリスのcivil engineerであるE・モレルをはじめとする御雇外国人を来日させることで、社会資本の形成の指導に当たらせた。その後、1871年に工部省が設置され、イギリス人技術者と代替できる日本人技術者の要請を目指して、工学寮という教育機関も発足された。工学寮は明治10年に工部大学校となり、工部省の直轄となる。(内務省農商務省の話は十分にフォローできていない。)技術官僚になりうる人材が出るのは、明治12年あたりからであるが、日本人技術官僚はお雇い外国人のあくまで「代替者」という位置付けであり、助言者、脇役という地位に留め置かれた。そのことを制度的に保証していたのが、文官任用令であり、文官任用令だった。技術官僚らは、こうした制度と戦っていかなければならなかった。

 青年期の宮本武之輔は、「行政官に対する戦争」、「一部に対するengineer、全部に対するmanager」、「技術の対外的独立および対内的独立」といったスローガンで特徴付けられる決意を固めた。第一次大戦以降、彼らは様々な運動を展開する。その中に、興亜院技術部の設置や、企画院科学部の設置といた成果が位置付けられる。ちなみに、「科学技術」という日本語も、商工行政や文部行政と抵触しない行政領域をくくり出すべく、発明された。それは、科学技術新体制確立要綱になどに結実することになる。

 

 

技術官僚の政治参画―日本の科学技術行政の幕開き (中公新書)

技術官僚の政治参画―日本の科学技術行政の幕開き (中公新書)