yokoken001’s diary

書評を中心に記しています。

ヘリガ・カーオ『20世紀物理学史(下)』19、20章

以下、勉強会で担当になった章のレジュメです。

核物理学は門外漢なので、あくまで大まかな議論の流れを抑えたものになります。

 

 

第19章 核にまつわる問題

1 原子核の物理学

・戦前は、陽子と中性子原子核内に保持している力についてはほぼ何も知られておらず、核子(陽子と中性子)の間で中間子が交換されるという湯川の理論が、核力の理論として最良の試みとみなされていた。

・戦中も、強い力(核力?) について満足いく説明ができなかった。

∵(1)湯川中間子(パイオン)やそれの核子と相互作用についてあまり知られていなかった。

(2)中間子は一種類しか想定されていなかった。

・1950年ごろまでには、核についての2つの主たる理論が唱えられていた。

(1)液滴モデル:原子核は高密度で圧縮不可能な小滴であり、核子は水滴中の分子にも似て、ほかの核子と強力にかつ集団的に結びついている。

←1930年代後半に好まれ、ボーアとホイーラによって展開された理論。

=核を集団的な系とみなす。

(2)殻モデル:1933年に、ヴァルター・エルザッサーによって提案。1948年になると、殻の配置についての実在性がはっきりしてくる。

←マーリア・ゲッパート=マイアーは、2個、8個、20個、20個、82個、126個の陽子、中性子をもつ核は安定しており、これらの「魔法数」は核内の閉殻を表していることを論じた。

←殻モデルでは、それぞれの核子が他の核子と独立に、核の場の中でほとんど乱れることのない軌道を運動していると考える。

=核を独立の粒子とみなす。

→1950年に、コロンビア大学のジェイムズ・レインウォーターは、核の形状が球型ではなく、回転楕円型に歪んでいるという示唆を得る。

同じ時期、オーア・ボーア(ニールスの息子)とベル・モッテルソンは、ニールスボーア研究所(コペンハーゲン)で、回転楕円体系の回転する原子核に基づくモデルを開発。

→表面振動(液滴の特徴)と、単一粒子の励起(殻モデルの特徴)とが結びつけられていた。

→三人は1957年に「原子核の内部構造に関する彼らの研究」に対してノーベル賞を受賞。

・ロバート・ホフスタッター:巨大な特別仕様の分光計で散乱された電子を検討し、そのデータから、核の電荷密度が中心からの距離に伴ってどのように変化するかを推論した。

→陽子と中性子が同じ粒子の異なる側面であること、この核子は有限の大きさであること、核子電荷密度は中心からの距離とともに滑らかに減少することなどが分かった。

 

2 現代の錬金術

・1941年、ネプツニウム[93番]とプルトニウム[94番]の発見とともに、超ウラン元素(=ウラン[92番]より重い元素)の製造という新たな領域が開かれた。

←グレン・シーボーグ(1961年に原子力委員会の委員長に任命)がこの領域の巨匠に。

・1944年にはアメリシウム[95番]とキュリウム[96番]が発見。

→戦後にはさらに97から101までの元素が発見・命名される。(表19.1)

バークリウムカリホルニウムメンデレビウムは、サイクロトロンで加速されたα粒子を用いて製造された。アインスタイニウムフェルミニウムは、1952年のエニウェトク環礁での熱核爆発実験後に集められた残留物から同定された。

・101番元素までの同定は、アメリカが独占していたが、完全にというわけではなかった。スウェーデンフーゴ・アッテリングらは、1954年に100番元素の生成を報告した。

→また、1957年にはアメリカ・スウェーデン・イギリスの物理学者グループがストックホルムサイクロトロンを用いて102番元素を同定し、ノーベリウム命名

・現代の「錬金術」実験の後半期における主要プレーヤーは、ローレンス・バークリー研究所、ドゥブナ合同原子核研究所、ダルムシュタットの重イオン研究所。

 

3 核エネルギーの希望と不安

・1942年シカゴのパイル=最初期の原子炉

アメリカ:核爆弾>原子力

企業は核テクノロジーが大きな市場になることは予想していなかった。

→世界初の商業用原子力発電所は、1956年に運用を開始したイギリスのコルダーホール。

→1966年時点では、イギリスが核エネルギー産出では世界最大だった。(表19.3)

アメリカの原子力→軍事的応用=海軍の原子力潜水艦

1953年原子炉マークⅠが稼働、1955年世界初の原子力潜水艦「ノーチラス」が進水。

→海軍が好んだ炉の対タイプは通常型か軽水型

→非軍事分野でも軽水炉型が支配的に。

・平時における各研究の組織、新しい組織における軍の役割、国際的責任を国家防衛という目的とどのように両立させるべきかについての議論に、科学者が積極的に関わり、「科学者運動」を形成した。→『原子力科学者会報』が重要な雑誌

→物理学者の中でコンセンサスは得られず、軍事力に対する統一戦線もできなかった。

→コンプトンやオッペンハイマーといった物理学者らは、AECの設立を支持した。

→AECは非軍事的な組織に見えたが実際には初期の研究の大部分は軍に委ねられていた。物理学者らにとって軍事的支援と非軍事的支援が混交していたということに関心は寄せられなかった。

・1949年にソ連の核実験を受けて、熱核「超爆弾」というテラーのアイデアが真剣に取り上げられるようになった。

←1949年にはAECの科学に関する一般諮問委員会は、水爆の開発を進めないように勧告。

コンプトン「この開発を手がけるべきではありません。その理由は主として、そのしようを断行してもたらされるであろう人間への甚大な厄災と引き換えに勝利するようにも、戦争に破れる方を選ぶべきだからです。」

→1950年にトルーマン大統領は、開発を承認。

基本的なアイデアは、「核分裂反応によって生み出されるすざまじい熱によって多量の重水素三重水素を融合させる」ということ。

→1951年にテラーとスタニスワフ・ウラムは、放射カップリング方式という解決策を発見。

核分裂爆弾からの放射圧で核融合燃料が圧縮・加熱されるようにして、放射圧集中させる方法。

→1952年11月に「マイク」のエニウェトク環礁で爆破実験が成功

→1954年に飛行機投下用の「ブラボー」の爆破実験に成功

ソ連も、1953年に熱核反応の試験装置を開発、1955年には飛行機投下用の水爆を手にした。

→世界政治にとって、アメリカが勝利したわけではなかった。

 

4 制御核融合エネルギー

・1951年「シャーウッド計画」→8回の会議

(ロスアラモス、プリンストン大学、カリフォルニア大学放射計研究所、オークリッジ国立研究所が中心)=ビッグ・サイエンス

ルイス・ストロース(AECの委員長)は、制御核融合の擁護者

→1954年-58年にかけて、資金援助を180万ドルから、2920万ドルまで増やした。

・ライマン・スピッツァー=プラズマ物理学のパイオニア

初期の問題:

(1)プラズマを熱すること

(2)核融合安納を維持すること

(3)プラズマを安定な状態に閉じ込めておく

スピッツァーは、重水素三重水素反応の利用を提案。

・ステラレーター←1951年にプリンストン大学で着手

モデルD →モデルC

→1960年代後半まで続けられるも、計画は頓挫

→1970年以降は、ロシアの研究らによって研究されていたトカマク計画への変更

核融合研究におけるパラダイム・シフト

核融合反応に関心が寄せられた理由は、安価なエネルギー(海洋中の重水素)を実際に無尽蔵に供給することが約束されていたこと。

→当初は、中性子源が軍事的に重要だったことから研究は機密にされていたが、1957年以降秘匿する政治的軍事的理由はないと判断され、1958年の第二回のジュネーブ会議までにアメリカはその大部分を秘密解除にし、ステラータその他のコンセプトの情報を公開した。

・ZETA装置

:イギリスで1949年から研究が始まり、1957年に初めて稼働

→1958年に中性子の大部分は核融合反応によるものではないことが明らかになり、計画は頓挫。

・1958年以降は、機密解除と米英ソ感の自由な情報交換が、プラズマ物理学のコミュニティーの条件を整えた。

→研究者は、普通の物理学の雑誌に成果を公表できるようになり、大学にも学部や大学院にプログラムができた。また、アメリ物理学会にプラズマ物理学部門ができた。

→課題探求型の秘密計画から通常科学分野への変化は、工学的なアプローチから、より体系的で厳格な方法論へと変化した。

 

第20章 軍事化と巨大潮流

1 物理学-軍事の一部門?

・戦後のアメリカでは、連邦政府からの資金の増大を背景に、科学研究の規模と構造が変化した。

:民間財団による支援→連邦政府による支援が中心に

(連邦政府からの資金は、戦前は約100万ドルだったのが、1953年には4200万ドルのうち2100万ドルが基礎物理学へ振り向けられた。=20倍の増加。)

図20.1

・1950s-1960sまでは、連邦資金=国防総省(DOD)+原子力委員会(AEC)と考えて良い。

→注意すべきは、軍事研究の規模と政府資金に占める割合の大きさ

→1950年ごろには大学の物理学者全体のうち70%ほどが、DODかAECからの支援を受けた研究に費やされていた。また、連邦政府が学術的な物理学の研究に拠出した資金2200万ドルのうち、98%はDODかAECからだった。

(ex:固体物理学 

1953年:310万ドル(うち1万ドルがNSF)

1955年:450万ドル(うち380万ドルが軍(DODか?)、60万ドルがAEC、10万ドルがNSF)

→物理学者の中には、(例えばフィリップ・モリソンのように)物理学が軍事の一部門になりかけていることについての危惧を示し、非軍事部門であるNSFが主たる支援者に成り代わるべきだと主張する者もいた。

NSF(全米科学財団)←ブッシュの報告書『科学−終わりなきフロンティア』

→1972年にマンスフィールド改正が議会を通過

→軍は、軍事関係のプロジェクトのみに参画し、基礎研究の関与から手を引かなければならないことが定められた。

Ex 空軍の航空研究所:1956年に一般相対論の大規模な研究支援プロジェクトを開始。マンスフィールド改正までの16年間、「物理学における重力の役割」に関するチェペル・ヒル会議を支援(参加者を軍用輸送機で移動するといった仕事も含まれていた)したり、多くの会議を企画し、大学と多くの契約を結んだ。ここから生まれた成果は科学上重要なものだったが、軍事上の関わりはほとんどなかった。(ex 共変動理論の量子化、一般相対論の現実的問題への寄与)

・1957年スプートニク・ショック後、軍事と防衛産業と物理学者との繋がりは密接になった。

→1957年に大統領科学指諮問委員会が、1958年にNASAが設立。

→物理学者らは、軍事(DOD)、非軍事(NSFNASA)、準軍事(AEC)の中から資金援助を選択できた。

・1960年代には物理学者は経済的・社会的・科学的に世界のトップになった。

(ex 1958年:物理学者 12702人(うち核物理学2622人、固体物理学1926人)/一人当たりの研究費11000ドル

化学者 35805人/一人当たりの研究費1900ドル

生物学者 18015人/一人当たりの研究費 4900ドル)

・初期の軍事的科学資金援助機関のうち、最も重要だったのは海軍研究局(ONR)だった。

1949年には「海軍省の大規模な大学研究プログラムは、学術界と政府との、平時における史上最大の協力事業」と誇ることができた。

←初期の防衛計画にとって重要だったのは、著名な物理学者を巻き込むことで、防衛計画には科学的に大きな価値があり、学術的寄与として重要だということを、物理学のコミュニティーに広く伝えることだった。

(1950年以降、合衆国の30人以上のノーベル賞受賞者DODから直接の支援を受けていた。)

ソ連の学術誌の翻訳プロジェクト

アメリカの大規模な軍事的パトロネージの影響は?

:(1)基礎科学の真の成長をもたらした。

(2)研究される物理学の種類、科学者の態度に変化をもたらした。

→工学的、応用物理学的分野への偏りや実用主義的・道具主義的な態度

・ヨーロッパの物理学がアメリカに対して相対的に遅れをとった理由

(1)お金がなかった

(2)メンタリティ、文化的伝統、教育制度の違い

→非専門家嗜好(インフォーマルで暖かみのある雰囲気)


2 巨大機械

・ビッグ・サイエンスの原型となる装置や研究所が科学のたどる道筋に影響し始めたのは20世紀前半になってから。

1930sローレンスのサイクロトロン=戦後のビッグサイエンスの先駆け

サイクロトロンは研究者の新しい組織と、新しい研究精神を必要とした。

・戦後初期に極めて重要だった加速器

(1)ブルックヘイヴン国立研究所(BNL):最も強力なものがコスモトロン

(2)ローレンス放射権研究所(LRL):ヘヴァトロン

コスモトロンとヘヴァと論は、1953年ストレンジ粒子の対生成や1955年の反陽子の対生成といった重要な成果を生んだ。

・従来型のシンクロトロンの新しい型のものが作られる。

1960年ブルックヘイヴンのAGS(交番勾配シンクロトロン)

1959年陽子シンクロトロン(PS)→ロシアのセルポホフ・センターでも建造された。

・1957年にはスタンフォードの物理学者らがAECとDODNSFに対して新しい線型電子加速器建設を提案した。=すでにスタンフォードで稼働していた線型加速器(ライナック)の改良版

スプートニクショック

アイゼンハワー「科学—自由の小間使い」1959年:アメリカの科学力の証明

スタンフォード線型加速器センター(SLAC)は、この建設は市民の生活水準をあげることにはならないと回答したにも関わらず、議会は1961年に予算を組み、翌年にはスタンフォードとAECの間で契約が結ばれる。

・1967年ジョンソン大統領はフェルミ研究所の法案に署名

・衝突型加速器が、1972年にSLACに、1989年にはCERNに建造された。

・1959年ごろからは「世界平和のための世界加速器」というアイデアが、アメリカ、ソ連、ヨーロッパの物理学者の間で議論された。

→このロマンティックなアイデアが議論の段階を通過することはなく、非現実的だった。

・1983年 超電導大型加速器(SSC)の建造案←ヨーロッパに主導権を奪われることへの危機

その費用は1990年には100億ドルと見積もられ、かつてない高価な設備になる予定

↔科学の他の領域にもっと多くの資金を配分すれば、大きな見返りが得られるであろうという主張が科学者から出された。

→1992年、財政難と冷戦崩壊とを契機に、プロジェクトは打ち切りに。

・ビッグ・サイエンスがもたらした影響

(1)個々の独立した研究者から共同研究に協力する小さな歯車へ

↔パーシー・ブリッジマン:新しいスタイルの物理学は創造的なアイデアと知的な自由にとって有害だと主張。

「個人の主導権をいかなる程度においてもまったく行使したことがなく、その喜びやその可能性を経験する機会も持たず、大きなチームでの研究協力を普通のことだと考えるような物理学者の世代が成長してきているのだ」

(2)高価な機器に従属する科学者

「皆さんがあれほど大きな情熱をもって調べている粒子やイベントを創り出しているのは、結局のところ、皆さんではなく機械である」サミュエル・ハウトスミット

 

3 ヨーロッパのビッグ・サイエンスへの冒険

・1952年 CERN(欧州合同原子核研究機構)が暫定的に設立→1954年に永続的組織体制が確立

←イギリスは消極的だったが、54年に参画。西ドイツは、ドイツ物理学を戦後に再生させ、ナチスの過去を忘れるべく参画。(単なる科学的なプロジェクトではなく、政治的なプロジェクト)

→1956年までの加盟国は、ベルギー、デンマーク、西ドイツ、フランス、ギリシア、イタリア、アランダ、ノルウェースウェーデン、スイス、意義知る、ユーゴスラビア

拠出金の多い国は、フランス、イギリス(共に約24%)、ドイツ、イタリア(共に約18%)。

CERNの目標=「純粋に科学的かつ基礎的な性格を持った核研究と、それに本質的に関係した研究において、ヨーロッパ諸国間でのコラボレーションを提供すること」

非軍事的な性格←ヨーロッパ軍というものが存在しない。

→非軍事的な、政治とは無関係なイメージを強調するため、ジュネーヴ近郊に置くことに決める。

CERNの最初の中心的なプロジェクトである陽子サイクロトロンの建造は、1954年に約39GeVのエネルギーを持つように計画され、コストは約1600万ドルと概算。

→1960年代を通じて新型のさらに大きな加速器を得て、研究所は拡大

:1955年 予算6400万スイスフラン、スタッフ144人、客員科学者21人

  1965年 予算2億7500万スイスフラン、スタッフ2251人、客員科学者315人

  1975年 予算81億4400万スイスフラン、スタッフ3788人、客員科学者1289人

アメリカのリーダーシップを脅かすことはできなかった。多くの場合、アメリカで重要な発見を最初に行い、その後ヨーロッパで確証されるというのが典型だった。

∵ヨーロッパはアメリカ式ビッグ・サイエンス的な実験を行うことに不慣れだった。

アメリカは1930年代から、実験家・理論家・管理者と産業の間の密接な関係があり、戦時中の軍事プロジェクトでおおきに強化された。

・1970年代後半にはパワーバランスが変化し、ヨーロッパが主導権を握りしめる。

・1997年(SSC計画の頓挫から4年後)、アメリカは5億3100万ドルを拠出することでCERNとの合意に達し、大型ハドロン衝突加速器(LHC)とそれに付随した粒子検出器の使用に参加することになった。

LHCは2008年に完成し、2010年より本格的な実験が開始、2012年にはヒッグス粒子を発見。

→高エネルギー物理学の中心がヨーロッパへ移行したこと、また強大な国際的な素粒子物理学がSSC計画とともに死んでしまわなかったことを示している。

CERN=「世界加速器」の実現

 

 

20世紀物理学史【下巻】―理論・実験・社会―

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