中川靖造『海軍技術研究所-エレクトロニクス王国の先駆者たち』を読みました。

 旧海軍の技術開発に携わった海軍技術官は、戦後の技術復興に大きな役割を果たしたと言われている。中でも目立つのが、当時最先端技術であった電波、通信、磁気、音響といった電子関連兵器の開発に従事した技術官らである。日本のエレクトロニクス開発の源流は、海軍の電波兵器開発と深く関わっていると以前から言われていたものの、その全貌は未だ分からないことが多く、電波研究開発の中心であった海軍技術研究所についても、これまでほとんど触れられてこなかったという。本書は、技術研究所の伊藤庸二技術大佐に注目しながら、技術封鎖という環境下で取り組んだ海軍の研究開発方式が、今後の日本企業の研究開発を考える上で何か示唆を与えてくれるのではないかというモチーフのもと、エレクトロニクス分野に絞って、当時の技術開発の実態を描こうとしたノンフィクションだ。

     

 大正11年8月に成立したワシントン軍縮条約では、日本の艦船保有率が対米英比6割に制限されるなど、大幅な軍縮を余儀なくされた。そこで、海軍は「量から質へ」の転換を迫られ、兵器の質的向上を図るべく、大正12年春に、築地の海軍艦形試験所、航空機実験所、造兵廠を統合し、海軍技術研究所を発足させた。ところがその直後、関東大震災の被害を受け、同研究所は目黒に移転することになる。復興工事は昭和2年から始まり、昭和5年に漸く完了する。そんな中、昭和4年ドレスデン工科大学のバルクハウゼンのもとに留学した伊藤庸二が帰国し、技研電気研究部の技術官になる。彼は当時の電気研究部長の蓑原勉少将の斡旋で、各研究部門のいずれにも属さない、「電気研究部長研究室」に配属された。伊藤は、海軍委託生制度(明治30年に導入)により、東大工学部電気学科を卒業すると、大正13年4月に海軍中尉に任官していた。技研が再出発した昭和5年は、日米英の軍縮をより徹底させるための補助艦艇保有量を制限する「ロンドン軍縮条約」が成立した年だ。それゆえ、艦船用兵器や、装備品の開発競争は激化することとなり、その顕著な例が通信分野だった。技研に出仕するようになった伊藤が取り組んだテーマは、振極菅と電離層の研究であった。とりわけ後者は、短波が実用化されるに際して生じるフェイディング現象という欠陥を補うために取り組まれ、一連の観測研究は、軍事用短波通信の波長選択の図表を作成することに役立ったという。

 しかし、呉海軍工廠の歪な軍備拡大にひきかえ、無線機器に代表される電波兵器は、最後まで部内に理解者が少なく、陽のあたる場所に出られなかったらしい。一方欧米では、電波を索敵に利用する研究が始まり、昭和12年に伊藤自身がヨーロッパの出張についた際、ドイツが電波兵器の開発に成功したとの情報を手にいれた。帰国後、艦船本部や工廠の関係者に取り合うも、誰も相手にされなかったという。前年に谷恵吉郎造兵大佐が電波を用いた索敵機の開発を提案した際も、巨砲大鑑主義を重んじる海軍首脳部には、その重要性が理解されなかった。

 昭和12年に6ヶ月の出張を終え帰国した伊藤には、その公務以外に、バルクハウゼン博士の日本招聘が決まったという手土産もあった。早速、学術会議の長岡半太郎を訪ね、彼を委員長とする招聘委員会を作ってもらうことに成功し、昭和13年9月14日、博士は横浜に到着する。日本の弱電メーカーの視察を終えた博士は、国際競争力のない日本メーカーを鋭く批判する一方、理研仁科芳雄サイクロトロン研究に大きな関心を寄せたという。一方の伊藤は昭和12年の末頃、マグネトロンの最初の試作品の開発に取り組んでいた。研究陣は橘型と、菊型と呼ばれるマグネトロンの開発に成功した。そして、昭和14年初頭、橘型マグネトロンを利用した「暗中測距離装置」の開発に際して、それまで秘匿していたマグネトロン研究の一部を日本無線に公開し、その出力増加と、量産化を委ねることが決まる。

 昭和15年の春に、陸軍は技術系将校を中心とする視察団をドイツに派遣する計画を立てるが、それに刺激された海軍も同じように伊藤を含めた軍事視察団を派遣することになる。そして、昭和16年ドイツに視察へ行く。特筆すべきことは、「ウルツブルグレーダー」という世界初の対空射撃用測距離装置の見学を許されたことである。それは、衝撃波を発射し、跳ね返ってくる電波を捉えて、それが空間を通るのに要した時間を測定し、物体の所在を知ろうとする装置だった。同時期、米海軍も独自でこの種の兵器開発に力をいれていること、さらに1941年5月にドイツの「ビスマルク」がレーダーを駆使した激しい砲戦を展開したという外電報道があったことを受け、国内でもレーダー開発の開始の機運が高まる。伊藤がベルリンから送った「X装置」の報告や、ロンドン駐在の浜崎中佐の一連の情報を検討していた軍令部と艦政本部は、ついに英国見張り用レーダーと同じものを試作して、作動させるという命令を下し、昭和16年に電探の研究実験に着手する大臣訓令を通達した。

 難航したのは、センチ波電探の実用化のための改良であった。昭和16年12月8日、真珠湾攻撃をもって戦闘状態に入ると、電気研究部は緊迫の度合いを高めていった。軍令部がミッドウェイ攻略作戦を認めると、戦艦「伊勢」「日向」に装備する見張り用電探の開発に着手する。試作を終えた103号電探(通称マグロ)と、2号1型電探は装備実験に移され、結果、103号は撤去すべきとの結論が出るものの、伊藤は反対した。

 17年8月から始まったソロモン海戦では、英米の共同開発で完成したマグネトロンを用いた射撃レーダーが威力を発揮し、夜戦を得意とする海軍が惨敗した。これを受け、射撃用レーダーの重要性がだんだん認識され始め、17年の秋には再びセンチ波レーダーの開発が認められた。そして日本無線と「二号二型」を作り上げるものの、資材の割り当てがなく、日本無線が闇ルートから供給するといった始末だった。一応かなりの数が作られたが、真空管の不良が原因で、故障が多く、信頼性に乏しかった。一方、二号二型は、キスカ撤退で一定の役割を果たし、艦政本部は技研に電探の改良と増産を指令する。そして、18年7月に技研電気研究部は改組され、電波研究部が発足し、名和少将が完成本部第3部長から「格下げ人事」により、同研究部部長に就任した。名和は東大工学部電気出身で、潜水艦用の蓄電池開発の権威であった。これと並行して、東北大の渡辺寧、放送技研の高柳健次郎理研の菊池正士を海軍技師として迎え、研究陣を発足させる。ここでは電探の開発・改良に加え、協力マグネトロンを使った「殺人光線」の研究も行われた。これは伊藤が、前代未聞の兵器を実用化する以外に道はないと悩んでおり、異常な関心を寄せていたことに起因していた。

 艦船用とともに、航空機用レーダーの開発も遅れていた。レーダーの研究水準では技研が上回っていたが、航空機用に関しては、空技廠でその開発が行われていた。これも海軍のセクショナリズムの表れだった。空技廠が開発した航空機用レーダーは「空6号」(H6)と言われるタイプだった。しかし高度を高くとると、2000mくらいまでは海面の反射が現れ、他の目標物と区別できず、それ以上高い目標でないと探知できないという不便な機器であったという。この電探は終戦まで2000台ほど生産された。一方の米国は、4種類の航空機用レーダーを2万数千台生産しており、またB29のパノラマレーダーのために2キロワットの電力を割いていた(空六号は500ワット程度)。これは、圧倒的な技術力の差や、用兵者の電探への認識の違いを如実に示していた。原材料の入手難から、関連部品の質の低下を招いていたことも、新兵器の開発を遅らせていた。

 レーダーの優劣が命運を分けた戦いが、いわゆるマリアナ海戦だった。攻撃隊は、レーダーと無線電話を活用し待ち構えていた米戦闘機軍に襲われ苦戦した。(さらに機動部隊にたどり着いたと思ったら、電波を発しながら至近距離で自動爆破するVT信管を浴び、次々と撃ち落とされるという悲惨な戦いを演じた。)

 開発陣の重苦しい状況に一筋の光をもたらしたのは、鉱石検波器の活用だった。黄鉄鉱とシリコンがマイクロ波に適した特性を持っていたことを利用したものだった。二号二型の性能不安定で調整の難しいM60に局部発振器と第一検波器の両方の役割を持たせていたことを変え、M60には発振器の役割だけにし、鉱石検波器に受信検波を任せるという原則し、改良を施した。しかしこうしたレーダーも活躍することなく、レイテ海戦で惨敗する。

 1943年7月に技研電波研究部が新設されたのに続き、44年には、電波、磁気、音響兵器の開発を促進するために、電波研究部を発展解消し、大臣直属の電波本部を発足させる。これで、艦政本部、航空本部と同格の組織に格上げされた。しかし、ここでは開発と改修がメインで、装備や量産は艦政、航空本部の管轄下にあったため、運営上不便だった。そこで、電波本部を解消し、45年2月には三種の兵器の研究、試作、修理を担当する部署を統合し、第二海軍技術廠を発足させた。一方、1944年6月に開設した技研島田研究所では、強力なマグネトロンを使った新兵器の開発が行われていた。初期研究では、5メートル距離にあるウサギを殺すところまで進んだという。しかし、本来の殺人光線、飛行機迎撃用の強力電波の開発は進展しなかった。

 敗戦後、連合軍はぞくぞく軍事施設の接収を始めた。MIT総長のK.T.コンプトン博士を団長とする科学情使節団は、技研の研究組織、電波技術の現状、研究成果の報告といった資料の提出を求め、さらに多くの技師らが事情聴衆に応じた。しかし、療養中の伊藤はそれに応じることはできなかった。戦後、伊藤が勢力的に取り組んだのは、海軍関係の資料の収集と保存だった。伊藤が協力した、海軍関連資料の保存を目的とした史実調査部は、1946年年に文部省認可の財政法人「史料調査会」に生まれ変わり、本格的な活動をはじめた。その資金づくりのために「光電製作所」を立ち上げ、漁船用の方向探知機を生産、販売もしたという。1955年、防衛庁が技研を発足することになり、その初代所長に伊藤が推薦されるも、同年5月9日、光電製作所の会議室で、突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

 興味深いのは、伊藤が構想していた技術復興のプランだ。資源に乏しい日本が生き残るためには、米軍の委託研究を受け、同盟国として国防に寄与し、同時にその成果を日本の技術復興に役立たせるというものだった。

 

 

文献:中川靖造『海軍技術研究所-エレクトロニクス王国の先駆者たち』(光人社NF文庫、2010年)

 

 

海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち (光人社NF文庫)

海軍技術研究所―エレクトロニクス王国の先駆者たち (光人社NF文庫)