ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』を読みました。

 

 

『Extension du Domaine de la Lutte』 (1994)の邦訳。ウェルベックの処女作で、長らく手に入りづらい状態が続いていたが、最近文庫化された。平野啓一郎がどこかで推薦していて、ずっと興味があったので、この機会に読んでみた。

 

 主人公の「僕」はソフトウェア会社に勤務する30歳。期せずして地方出張を命じれ、同僚のティスランが、恋愛に対して「痛々しい闘争」を繰り広げる様子を、「観察者」の立場から眺める。そこにはなんらのドラマも、ロマンもない。ティスランの醜悪な奮闘ぶりや、乱れきった性の秩序が、淡々と、ときにアイロニカルに述べられる。「僕」はその社会の仕組みを分析するたびに厭世的になり、不幸を生み出す社会に絶望し、鬱になり、最終的には会社を辞めてしまう。「僕」が導いた結論の一つを引用しよう。

「完全に自由な経済システムになると、何割かの人間は大きな富を蓄積し、何割かの人間は失業と貧困から抜け出せない。完全に自由なセックスシステムになると、何割かの人間は変化に富んだ刺激的な性生活を送り、何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの毎日を送る。経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会へと拡大していく。同様に、セックスの自由化とは、すなわちその闘争領域が拡大することである。(p126-127)」

 ティスランは完全な敗者だ。物語の終盤、「僕」はダンスパーティーで、彼にある企てを暴露する。それは、性の闘争領域で「勝利」した素晴らしいカップルをステーキナイフで殺害するという計画だった。彼らは、二人のカップルの後を追い、浜辺に行き着く。そして、ティスランに性行為中の2人に襲いかかるように催促する。しかし、彼は計画を実行することはできなかった。それどころか、美しい体に魅了され「マスをかき」、主人公と最後の会話をする。彼はその夜パリへ向かう途中自動車事故で死亡するのである。

 文学作品として、現実社会の一面を切り取り、哲学的な分析を物語にのせて語るスタイルは面白いし、なかなか日本の作家にはみられない小説だと思う。そして、激しい酩酊の中で「性の闘争」に奮闘する輩を観察することに疲弊する一種の倦怠感や、終盤のうつ病が悪化していく心情の描写などは秀逸で、作家の才能を感じることができる。

 しかし、僕はこの小説を好きにはなれないし、作家の「闘争」という視点にも全く賛同できない。そして、全体的に暗い。暗い小説は好きになれない。文学作品としての価値はともかく、一人の読者として、正直に言うと途中で読むのをやめようかとも思ったし、今このタイミングで読みたい小説では全くなかった。だけど、ウェルベック文学は何か重要な問題を提起し続けているだろうし、他の作品も(時間があれば)読んでみようとは思う。

 

 

追記( 9/18)

 恋愛は確かに戦いだ。但し他人との戦いではなく、自分との戦いだろう。

 

文献:ミシェル・ウェルベック『闘争領域の拡大』(河出文庫、2018年)