福永武彦『死の島』を読みました。

 

 国内で好きな作家を一人挙げろと言われたら、おそらく堀辰雄福永武彦かで迷い、結局福永と答えるだろうと思う。彼の工夫された小説の構築手法もそうだが、それ以上に、明快でありながら、音楽のように優しく流れていく文体がたまらなく好きだ。高校のとき、エロスとアガペーについて教えてくれたのは『愛の試み』だった。大学に入って『草の花』を読んだとき、今まで読みたかった作品にやっと出会えたという気がしたし、『忘却の河』は最も好きな小説の一つだ。その後、『風土』や『海市』といった長編小説も読んで、福永の美しい小説世界を冒険してきたが、『死の島』はまだ読んでいなかった。内容的にも分量的にも、読むのに覚悟がいる作品だった。

 今年は福永武彦の生誕100年で、いくつかの書店で福永武彦のコーナーが設けられているのを見つけた。また最近になって、それまで絶版になっていた小説も復刊されたりしている。小説を読んでいる時間はあまりないけれど、生誕100年という節目の年の夏になんとか読まなければいけないと思い、2週間以上かけてようやく読み終えることができた。

 

 まず、本作品は上下合わせて1000頁ほどの大長編で、原稿用紙換算でおそらく数千枚に達するこの量を、手書きで書き尽くしたという仕事に敬服せざるをえない。そして小説の手法としては、当時としても、そして現在でも前衛的なやり方が様々に使われていている。 

 これほどの長さの長編にも関わらず、物語の主軸は、ある1日の出来事だけを描いている。主要な登場人物も編集者で作家志望の相馬鼎、相見綾子、萌木素子という3人で、いたってシンプルである。そして「現在」の物語に、複数の他者らの「過去」の物語がモザイク状に折重なりながら長大な物語を展開している。さらに、相馬鼎がシベリウスの音楽にモチーフを得て書き進める小説「カロンの艀」、「トゥオネラの白鳥」も挿入され、実際の綾子、素子に彼が描き出す作中人物としてのA、Mが入りまじりながら進んでいく。

 テーマとしては、愛、生と死、芸術といった他の作品にも共通するものに加えて、福永作品には珍しい原爆という問題が扱われている。しかし本当に福永が生涯にわたって書きたかったのはこうした社会的な問題だったのかもしれない。そう思わせるほど、原爆と生の問題が深く探求される。広島に投下された原爆は、人類史上かつて一度もなかった悲劇を生んだ。本作品はまさにそうした原爆によって歪められた生の形式を探求しようとする文学であり、それが一番重要な主題であると思う。

 画家の萌木素子は、8月6日に家族を失い、被爆した自身も背中にケロイドの跡を残し、凄惨な光景を目にした。それは「内部」と題される断片で、一種奇妙なカタカナ語で淡々と語られ、その記憶はフラッシュバックのように突然蘇ってくる。

 8月6日素子は本来死んでいなければならなかったのに、たまたま生き残った。しかし、それはすでに死んでいることと同じだ。過去から未来へ流れる時間も失って、ただグルグルと何度も同じ円環的な時間に捉えられてしまう。「自分の存在の中心がばらばらに砕けて、精神の活動が止まってしまう。記憶喪失みたいになって、周囲にある物の名前さえ忘れる。そういう日常品の意味、例えば煙草なら煙草の意味、茶碗なら茶碗の意味というか価値というかが、分からない。何のためにそういうものが廻りにあるのか、自分とどう関係しているのか、その辺がぼんやりしてくるの」と素子は語る。彼女はそれ以来、「それ」という謎の存在に捉えられ、絵画や愛によって脱却を試みるが、結局叶わなかった。素子は芸術に造詣が深く、洞察に満ちた考えを語り、一見すると靭い女性にさえ見えるが、全場面に通じて巨大な虚無みたいなものを確かに感じる。彼女が心から満面の笑みを見せるシーンは一度もない。

 小説のラストに、「己の書くものは死者を探し求める行為としての文学なのだ、いなそれは死そのものを行為化することなのだ…。」とあるが、それはまさにこの小説自体にも言えることにちがいない。

 ひょっそしたら、福永の作品はすでに忘れられつつあるのかもしれない。確かに現在、綾子や素子といった女性を見出すのは難しいだろう。これほど熱心に芸術について若い男女が語り合うということもないかもしれない。しかし、原爆の記憶ととに、本作品も忘れてはならないだろう。一人でも多くの人に読んでいただきたい傑作である。

 

文献:福永武彦『死の島 上/下』(講談社文芸文庫、2013年)

 

 

死の島 上 (講談社文芸文庫)

死の島 上 (講談社文芸文庫)

 

 

 

死の島 下 (講談社文芸文庫)

死の島 下 (講談社文芸文庫)