論文review

1 河村豊「旧日本海軍における戦時技術対策の特徴-第二次大戦期の実用レーダーを事例に」『科学史研究』第40巻通号218(2001年)、75-86頁。

 

 本稿では、旧日本海軍のメートル波レーダーの設計、製造、配備の実態を明かにし、日本のレーダーに対するこれまでの評価を再評価することが目的とされる。また実戦配備を可能にした要因として、人材動員や製造対策、量産化向きのレーダー設計について分析される。 

 『昭和産業史』「旧陸海軍需工業」によると、海軍のレーダー製造費は、艦政本部の場合でみると、電気兵器は約6億5千万(12%)で、砲熕の40億(74%)に次いで2位である。また42年に対する44年の電気兵器額の伸び率は5.4倍で、著しく増加している。また『旧陸海軍関係生産額実績調』によると、電波探知機の1944年の生産額は42年度比で約26倍に達しており、レーダーが急テンポで増産されていたことがわかる。終戦後の連合国調査によると、合計36種類あり、実用段階に達したものは改良型を除き11種類であった。海軍のレーダーは1941年から設置が始まり、42年には艦船仮設置に進んだ。陸上設置タイプは、日本4島で167、沖縄に14、朝鮮・中国に7、台湾に24、南方に20の計252箇所に設置されていたという。運用者は、メンテナンス、電測士官、オペレータの三種類に分類できる。メンテナンス要員は、当初は海軍工廠所属の技術士官に割り当てられていたが、設置拡大に伴い逓信省などの従軍文官から増員し、その数は90名だった。電測士官も、兵科士官から兵科予備学生も利用されるようになった。オペレータ要員は、海軍下士官や飛行予科学生などに電測術講習を短期受講させるなどの対策がとられ、終戦までに12713人が要請されたと推定される。

 レーダーの配備拡大の動きは1943年以降である。とられた対策として(1)外部科学者の動員、(2)メートル波レーダーを実戦向け兵器として艦政させるべく、大学工学部・高等工業学校の卒業生を技術士官として採用する、(3)製造用の向上を新設する、(4)人材確保の観点から電測員、電測士官を短期要請する教育組織を設置する、(5)実勢配備に適した特殊レーダーの設計がある。(2)については、開戦時に比べ開戦後の採用数が8倍に増加している。彼らの業務は、基礎研究、設計、試作・設置、修理、教育などがあった。設計・試作は海軍技術研究所で行われ、電波研究部第3科が陸上及び艦船設置レーダーを、第6科が航空機設置レーダーの設計を担った。(3)の製造対策では、海軍工廠の新設と、政府機関による民間電気企業への行政査察実施が大きな役割を果たしたという。レーダー製造用の工廠は沼津海軍工廠であった。また1944年以降は政府係官による民間企業等による創造的な査察活動が始まり、計13回行われた。(4)に関して、電測士官の養成は、横須賀海軍通信学校で行われた。電測士官養成としての電測教育が本格化したのは、第4期兵科予備学生が電測学校に入学した1944年7月以降だという。最後に(5)に関して、設計の面では2つの対策がとられた。一つは対空見張に加え、射撃用・味方識別などの

新機能を拡充し、マグネトロンを利用したセンチ波レーダーの研究も拡大することで、二つ目は開発済みのマイクロ波レーダーを改良して完成度を高め、簡易化・小型化・軽量化を行うことだった。そして戦時中にレーダーの増産を可能にしたのは後者だった。『電波探信儀名称付与標準』によると、11種類のレーダーで改良が行われていたという。1943年以前は性能拡大や用途拡大という方針だったが、43年春以降、簡略化が行われるようになった。そして、仮称三式一号電波探信儀三型という機種が開発された。真空管の数の軽減は、整備上の負担を減らし、故障の発生を防いだ一方で、探知性能を犠牲にし、戦術的効果は著しく低下した。簡易設計の採用は、この時期の日本に見られる固有の特徴だった。資源が不足し、電子部品の性能も低下する中では、高性能レーダーの量産は困難で、簡易設計を行って量産を可能にしたのは当然の対策だったと著者は指摘する。しかし、性能を滴下する方向は、相手側の著しく進歩するレーダーに対抗するのは不十分であり、そこに日本のレーダーの弱点があった。

 

 

 

 

2 山崎正勝「わが国における第二次世界大戦期科学技術動員-井上匡四郎文書に基づく技術員の展開過程の分析」『東京工業大学人文論叢』第20巻(1996年)、171-182頁。

 

 本稿では、井上匡四郎文書の技術院関係の文書を手掛かりに、日本の第二次世界大戦時科学技術動員の特徴を、特に制度的な側面に注目して論じることが目的とされる。

 技術院の成立の起源は、1941年の「科学技術新体制確立要綱」にさかのぼる。科学技術を「高度国防国家完成の根幹」と位置づけ、「科学の画期的振興と技術の飛躍的発展」を提示した。その実現のための中枢機関として技術院の創設を、科学技術審議会の設置とともに掲げた。「科学技術新体制確立要綱」には、科学技術行政の本格的開始という側面と、太平洋戦争準備のための科学技術動員政策の始まりという側面が同時に存在していた。結果、一般的・総合的な科学振興と個別・特殊的な戦時動員とを同時に進行させるという特徴をもつこととなった。こうした政策提起は、科学審議会第二回総会の答申にすでに見られ、遅れていた日本の科学・技術を効果的に戦時動員するためには、底辺のレベルアップを同時に追求する必要があり、そのため振興と動員とが政策的に二重に方向づけられてたと述べられる。

 技術院は41年に発足の予定であったが、既存の館長との調整に手間取り、遅れて43年に成立した。議論の過程で、行政中枢機関として構想された技術院は、計画・連絡機関から調整機関へと格下げされる形となり、また陸軍の強い要求で技術目標としては、航空機中心になった。

 42年の「昭和17、18年度実施予定重要案件」で、実施すべき事項として(1)科学技術に関する騒動計画に関する事項、(2)航空機に関する事項、(3)各種材料、機械並びに電気機械等に関する事項、(4)科学技術並びに之が躍進に関連せる諸般の調査に関する事項が挙げられた。総合計画については、分散していた行政の総合化を図り、そのための措置を講じること、自由競争に放置されてきた重要技術を国家管理のもとにおくといった方針がとられた。前者に関連して「研究隣組」の結成がある。

 超高速飛行艇の完成といった航空技術の実現のため、既存の研究機関の拡充と研究機関の新設が計画実施された。東京帝国大学航空研究所は第1種、中央航空研究所、航空局航空試験所は第2種とされ、民間の工場附属研究所が第3種とされた。さらに45年までに名古屋航空研究所など10の財団法人の研究所が設立された。

 42年度の試験研究資金と研究補助金の配分は、技術院固有の判断で決定されたという。命令研究による試験研究については、理研のほかはすべて民間の企業であった点が特徴的であると述べられる。技術院の初期に研究助成においては、研究テーマから航空機計画に関連する研究を中心に、それらに従属・並列される形で基礎研究を含む一般の科学研究が対象だった。

 43年に入ると、科学技術審議会の管制が交付され、10月には「研究動員会議管制」が公布され、実行された。ここでは航空技術といった分野的な特徴はなくなった。研究動員会議を通じ、技術院における科学技術動員が、企業と傘下の研究所を中心とする従来の枠を超えて、大学を含むより広い領域へと、その対象を拡大した。研究動員会議では、上からの組織化ではなく、下から成長してくる研究を計画的に組織化しようとする動員思想が見られ、これは科学技術の研究振興と動員とを同時に振興せざるを得なかった日本の動員の特徴に絡んでいると分析される。実際、戦時研究の申請件数では、基礎研究が過半数を占めた。また主任研究員の大半が大学の研究者で占められている状況が注目されるという。

 技術院における科学技術動員の特徴は、(1)振興と動員の二重性、(2)陸軍の要求によって技術開発の中心は航空技術に置かれたこと、(3)研究動員が基礎研究を大きく含むものだったこと、(4)真空管の量産問題を契機に、電波技術への重点の移行が起こったと整理される。英米の動員を振り返ると、最初に航空機関係の動員が進められ(第一段階)、その実現目標を原爆などの個別の技術に限定した大規模なプロジャクト研究が進められ(第二段階)、その段階の出現がWW2の動員の特徴を端的に表しているという。それに対して日本では0段階ともいうべき科学技術振興の過程を常に底流としていた。そしてその上に航空機を中心とする動員が展開され、それに従属する形で核研究、レーダー等の電子装置などの開発がなされた。