西垣通『ビッグデータと人工知能-可能性と罠を見極める』を読みました。

 

 

本書は「AI狂騒」から離れて、慎重に AIの可能性と罠を見極めようとする視点が貫いている。深層学習のブレイクスルーを認めながらも、AIが概念を獲得することはあり得ない(p86)、人工知能で外国語学習が不要になる日など決してこない(p121)、人工知能に文学作品をつくらせるといった試みは明らかに邪道(p126)、AIは職を奪わない(p198)などとはっきりと言い切っていて、面白い。こうした結論は、個人的な直感に合致するのだが、その論拠が若干素朴だと感じられる部分もあった。

 まず、「特徴量設計」を可能にした深層学習の実現は、AIが概念獲得に成功したことを意味しないという主張の理由として、著者は、コンピュータが獲得する概念と人間が獲得する概念は一致するとは限らないということと、人間の扱う概念は絶対的なものではない(言語の恣意性)ということを挙げている。これはあまりしっくりこない。(理由はまだはっきりしないが。)

 また、AIが文学作品を書くことは邪道であることに理由は、「過去にない新たな作風の作品を創りだすのが近代芸術の大前提」で、過去のデータをもとにコンピュータがまがい物を効率良く大量生産して市場を制覇するなら、「芸術の死」を意味するからだという。近代芸術のことはよく知らないが、少なくとも自然言語処理AIがそれまでになかった奇想天外な作品を書くことはあり得る思うし、何より人間の作家や批評家がそれらを巻き込んで、新しい文学世界をつくっていくのもなかなか面白いと思う。この点は僕と考えが違ったように思う。

 さらに、オックスフォードの調査が示した、AIが約半分の職を奪うというシナリオは、深層学習の出現だけからはほとんど想像できないし、著者がいうように、IA(知能拡張)の方向に進み、人間とAIが協働する未来というほうが想像しやすい。一方で、自動改札機ができたことで駅員の職が奪われたわけではなかったという事例と、AIのケースを単純に比較できるかどうかは、若干怪しいと思う部分もある。

 

 

 最後に、AIに心に宿るか?という問いを考えたとき、本書のコミュニケーションに関する考察はその手がかりを与えてくれたように思う。コンピュータは人間が書いたプログラムにもとづく他律的存在で、作動も出力も予測できる開放系であるが、生物は自律系で、その作動や反応はよく分からない閉鎖系である。だから、人間は他人のこころを完全に理解することはあり得ず、意図や文化的価値観から推測するしかない。ゆえに、コニュミケーションとは「閉じた心をもつ存在同士が、互いに言葉をかわすことで共通了解をもとめていく出来事」だといえる。こう考えたとき、他律的に作動する開放系である機械とのコミュニケーションはあり得ず、あるのは「擬似」コミュニケーションだという。比喩によって言語記号の意味解釈を動的に広げていこうとする人間が、意味解釈の幅をせばめ、固定しようとするAIに柔軟に共感するというのが、コミュニケーションだという。著者の見解が正しいとすれば、AIに心が宿ることはなく、ただそこに心を認めようとする人間がいるだけだということになりそうだ。もちろんAIは他律的で、開放系だという前提ではあるが。

 そもそもAIに心や宿るのかどうかという問い自体が、人間中心の問いなのかもしれない。人間がどのようなAIを求めるかが一番大事ではないだろうか。

 

 文献:西垣通『ビックデータと人工知能-可能性と罠を見極める』(中公新書、2016年)