水沢光『軍用機の誕生-日本軍の航空戦略と技術開発』を読みました。

 

きっかけ:戦前・戦時期の日本の軍用機の研究開発について知りたい。

良い点:明快な論理展開でわかりやすい。図表も豊富で、イメージを膨らませながら読むことができる。軍事史的背景も詳しい。

悪い点:あくまでも一般向けの書籍で、注釈等は省略されている。

評価:A

その他メモ: レビューリスト→https://mizusawa.blog.so-net.ne.jp/2017-09-17

 

 [Review]

 本書は、著者の博士論文およびその他の論文に基づき、かつ博論執筆後に目に入った最近のエピソードにも触れながら書き下ろされた本。全体は、第1章「技術の国産化と用兵思想の進化」、第2章「研究機関の整備と応用研究の進展」、第3章「技術封鎖下の研究開発」の三分構成となっている。

 

 第1章の前半では、1930年代までに、国内で機体および発動機の設計・製造ができるようになるまでの、すなわち、航空機技術が国産化するまでのプロセスが描かれる。ライト兄弟による世界初の有人飛行の成功は1903年だが、1909年に臨時軍用気球研究会が発足する。その後間もなく1910年代から陸海軍は、航空機の製造を民間企業に委託するようになり、1920年代には、軍部は国産化方針を打ち出した。ここでは、製造会社にたいして、海外の企業との連携を指導し、各会社は外国人技術者を招聘して、技術の輸入を図った。そしてそのことは、日本人の技術者の育成にもつながった。招聘された外国人技術者の助手を務めた人物が、その後の国内での軍用機の開発に大きな貢献をしたのである。1920年代後半からは、「競争試作」制度が開始され、28年には川崎航空機の88式偵察機が制式採用された。それは日中戦争までの陸軍の主力戦力になった。さらに1930年代前半までには、中島飛行機「寿」を始めとする発動機も製造することができるようになった。この過程で重要なことは、陸海軍が独自で研究開発体制を整備していたという点である。海軍側としては、艦上の離発着など軍事的要求が陸軍のそれとは異なっていたというのが、独自体制作りの言い分だったという。1930年代までに航空機技術が国産化したことは、日本の国防方針や用兵思想に沿った独自の航空機開発が可能になったことを意味した。そこで後半は、陸海軍それぞれの用兵思想が分析される。陸軍の用兵思想の要点は、まずロシアの仮想敵国とし、攻撃主義で、白兵突撃の重視であった。つまり陸軍にとって航空機の役割は、歩兵の戦闘を補助し、地上作戦を円滑に進めることだったという。一方の海軍は、アメリカを仮想敵国とし、バルチック艦隊の撃滅という戦例から、艦隊決戦で勝敗を決しようとしていた。したがって、1930年代まで、海軍は、航空戦力を艦隊決戦時に主力艦を支援する補助戦力と捉えていた。一方で航空主兵論もあったが、航空部隊の実績の低さから、航空機の評価は低かった。しかし、1922年のワシントン海軍軍縮条約、1930年ロンドン海軍軍縮条約を契機に、航空兵力の軍備拡張が進められると、陸上基地から発進する攻撃機を重視するようになり、そのアイデア本庄季郎が開発した96式陸上攻撃機で実現される。それは、補助的な兵力であった基地航空隊の軍事上の価値を飛躍的に高めた。さらに、攻撃機を掩護する戦闘機の必要性から、堀越二郎が航続力の高い零式艦上戦闘機を設計し、航空部隊が艦隊から独立した戦力となることを促進した。こうした優れた軍用機の開発が、逆に用兵思想に影響を与えたのだった。

 

 第二章の前半では、陸軍よりも航空機の軍事的価値を重視していた海軍の研究開発体制と、外部に委託する傾向にあった陸軍の体制について解説される。海軍の体制の要は、32年に設置された海軍航空技術廠であった。ここでは大規模生産を行う設備はなかったため、生産は外部に委託されたが、基礎研究や、実用機の開発にも一定の役割を果たしたという。一方航空機の軍事上の評価が低かった陸軍では、外部の航空研究機関に対する要求が高かった。それは、民間航空振興という形で結実する。陸軍は内閣に執拗に航空省の設立を要求し、逓信省の民間航空振興策にも影響した。逓信省側からも、民生部門の予算が逼迫する中で、民間航空振興を拡大できるチャンスでもあった。そして1938年に大日本航空が設立された。しかし逓信省、海軍からの反発があり、航空省の設置は叶わず、38年航空局が逓信省の外局になるにとどまった。一方で海軍と航空局の連携で、39年に中央航空研究所が設置された。後半は、東京帝国大学航空研究所における応用研究について解説される。これは、近年進行している軍学連携の事例を考える際に、重要な示唆を与えてくれる非常に興味深い事例であると感じたので、少し丁寧に追っていこう。

 1919年に設立した本研究所は1930年代までは、学術研究を主体とする機関だったが、30年代後半から陸軍航空技術研究所からの委託研究が取り上げられるようになると、軍事研究に巻き込まれていったという。ここでは三つの委託研究がなされた。一つ目は高度飛行に関する研究である。二つ目は高速機に関する研究で、層流翼・高過給メタノール噴射などの研究がなされた。三つ目は長距離A-26の試作である。これは、1940年2月に朝日新聞紀元2600年記念事業を、陸軍航空技術研究所、陸軍航空本部、東京帝国大学航空研究所が援助するという形式で始まり、表向きには朝日新聞の事業だが、実質的には陸軍の試作機だった。実際、それは陸軍の長距離爆撃機キ-74の試作に生かされたのだった。背景には、経常予算の枯渇があったと筆者は分析する。41年の予算は、人件費を含めて79万円程度、実験費は年間2-5万円で、発動機一台すら購入できないほどだったという。つまり陸軍からの委託によってなんとか設備の購入費用を賄うことができたのだった。いつからどのくらいのペースで経常予算が逼迫していったのか、他の研究機関も同じようにそうだったのか、あるいは研究者側に、軍の委託研究につながることに訴えることで、予算獲得を積極的に行おうとする行動様式などが見られるのかどうかといったあたりも、本書では分析されていないが、興味深い点である。

 

 第3章では、技術封鎖下での研究開発について分析される。1930年代後半に日本に対する技術封鎖、情報封鎖が本格化すると、日本における航空機の研究開発は重大な影響を受けることになった。研究開発体制を分析する際、そこへ何がインプットされたかをおさえることは重要になると思う。そのインプットの中でも、金、人員と並んで重要な要素である「情報」に着目して、研究開発体制との関係を読みとろうとしている点は、非常に興味深い。情報封鎖は、翻刻活動や、文部省のドイツのジャーナルの題目速報事業などにつながったが、41年の陸軍視察団が、自給自足の研究体制を整え、官民の研究機関を拡充強化することの必要性を主張したという点が重要だろう。新技術の研究課題を国内でも追求しようとしたのだった。それは企画院の動員計画と結びついて、技術院をはじめとし、各研究機関の設置に影響を与えた。そして、視察団が求めた研究は技術院の研究課題として取り上げられた。太平洋戦争がはじまると、基地航空隊の役割が重視されるようになり、戦争末期になると戦闘機を重視するようになった。戦後末期の「特攻」を目的とした「桜花」の研究開発は、航空技術廠内で完全な機密のもと行われた。筆者は、ここに軍事研究の狂気の一端を見ることができると述べる。

 

 最後に、日本の研究開発体制の特徴として、戦時中にもかかわらず、特定の新機種の開発と切り離されたところで、新技術の開発や基礎的研究が推奨されたことにあると分析する。

 

 一読した後の疑問点としては、1930年代までには航空技術の国産化は実現していたとの一方、技術封鎖との関係で、この時期はまだ「広い意味での研究開発力は十分ではなく、様々な形で海外の技術や情報に依存したままだった」ともいう。この「広い意味での研究開発能力」とは具体的にどういうことなのか、もう少し詳しく知りたいと思った。

 しかしトータルとして、とてもわかりやすい本です。

 

文献:水沢光『軍用機の誕生-日本軍の航空戦略と技術開発』(吉川弘文館、2017年)