山本義隆『近代日本150年-科学技術総力戦体制の破綻』を読みました。

 

きっかけ:軍事と科学という卒論の研究テーマと密接に関わる。

良い点:日本近代化の150年の歩みを、科学技術総力戦体制の拡大と破綻というストーリーで描いた力作。

悪い点:「体制化」図式の限界など。

評価:A

その他メモ:池内了氏による書評あり(有料)。

http://mikke.g-search.jp/QENM/2018/20180424/QENM20180424se1056057002011000c.html

↓こちらも丁寧にレビューされています。

http://rmaruy.hatenablog.com/entry/2018/02/01/125246

 

                                                           

 

【Review】

 『近代日本150年-科学技術総力戦体制の破綻』は、日本の近代の始まり(1868年)から、今年(2018年)までの150年にかけての歩みを、「大国ナショナリズムと結合した科学技術の進歩に基づく生産力の増強と経済成長の追求(p290)」として描き、福島原発事故に至って、「科学技術総力戦体制」は破綻したと結論づけている。さらに、近年進みつつある軍需産業への傾斜と、大学への軍事研究の要請についても触れられ、研究者はふたたび「科学動員」に直面しているのだと述べられる。この150年の歴史が一冊の新書にまとめられた本書はまさに圧巻の内容だ。

 この本の中でもしばしば引用される広重徹の20世紀前半の科学技術政策の通史である『科学の社会史』では、科学・産業・軍事の一体化である「科学の体制化」というテーゼが主張された。戦後民主主義の科学観では、旧い支配勢力は科学の進歩を阻害するものであって、それを民主革命によって打倒することが、科学の発展のための前提条件であるとされていた。しかし、現代資本制国家は、その維持・発展のための不可欠の装置として科学技術活動を自らの内に取り込んでいるのであり、広重は、科学は革新側にあるのではなく、保守の側にあるということを明らかにしたのだった(※1)。私は、サブタイトルに「科学技術総力戦体制」とあるように、本書ではこの科学の体制化の図式を前提としていると捉えた。そして、元東大全共闘の委員長でもあった山本にしか書けないのではないかとも思う。しかし一方で本書は、単に広重の『科学の社会史』の現代版というのではなく、著者独自の視点も多くあると思った。以下では、池内了氏による書評にも触れつつ、私が感じた両者の違い(学説史からのアプローチ、近代化の「被害者」への着目、軍事との関わり)を述べてみたい。

 

 池内氏は、明治政府が西欧科学を輸入した時期が絶妙なタイミングだったという主張に注目している。普通、社会史では、日本が輸入した19世紀には科学は「制度化」されていたことが指摘される。19世紀に入ると、教育制度や学会が整備され、科学者は自ら生計を立てることができるようになり、内容的にも細かい領域に細分化されていった。どのような身分の人間であっても、教育を受ければ科学の素養を身につけることができ、また科学者として生計を立てることもできるようになった。日本は制度化された科学をパッケージとして輸入したと言われることもある(※2)。そして本書では、そのような社会史の指摘に加え、物理学の学説史の面からも、輸入のタイミングの良さを指摘している。18世紀末にボルタが電池を発明し、1820年に電流の磁気作用が発見され、電磁気学が生まれる。1830年代に有線電信の技術が開発されたが、それは物理理論から導かれた技術の最初の例だという。さらに、1840年代に熱力学の原理が発見されたことで、エネルギー概念が確立した。つまり、19世紀の半ばは、蒸気機関の発明による動力革命を経て、熱と動力にメタレベルの能力としてのエネルギー概念の発見を導くエネルギー革命が起こっていた時期だった。日本が受容したのは、そうした技術に資する科学であり、そのことが短期間で鉄道や電信網などの西洋技術を移入できた理由だった。実際、イギリスでパディントンとウェストドレイン間での電信回線が開通したのは1839年で、アメリカでワシントンボルチモア間の回線が敷かれたのは1844年だったが、日本で横浜と築地間に電信が敷設されたのは1869年であり、イギリスに30年、アメリカに25年わずかに遅れただけだった。鉄道もイギリスに47年遅れて、1825年に新橋横浜間に開通している。そして電信網と鉄道の敷設は、「国民の統合と国内市場の統一を推進」したのだった。

 本書の二つ目の特徴は、日本の近代化の歩みの陰で虐げられてきた「被害者」といった、負の側面に着目している点だ。蒸気機関は製糸業にも導入され、明治中期には紡績業が急成長した。そして、その機械を操作する主力は女工だった。富岡製糸場では、当初は8時間労働だったが、労働時間はエスカレートしていき、多いときは17、18時間にも達していたという。産業革命を代表する紡績業は「ウルトラ・ブラック企業」だった(p81)。いま一つは、日本の公害問題の原点である足尾銅山の被害が挙げられる。銅は電気伝導率が高く、加工もしやすいことから導線に最適の金属であり、電力使用の拡大と並行して需要が増した。しかし精錬過程で排出される亜硫酸ガス、採鉱過程での硫酸銅などは、深刻な公害を生み、農村共同体を破壊していった。そして、何より近代化の過程で抱いた欧米に対する劣等感が、近代化に立ち遅れたほかのアジア諸国への優越感に転化するのか容易な道であり、アジア侵略のもとで多くの犠牲者を出したのだった。

 三つ目の特徴は、科学技術総力戦体制が軍事と密接に関わりながら肥大化していったという事実に注目している点である。もちろん広重も第二次世界大戦が体制化の形成に与えた影響を強調しているが、山本はそれ以上に、西洋科学技術を移入した当初から軍事と歩調を合わせてきたことに目をつけている。1853年にペリーが来航し、西欧科学技術に危機感を感じた日本は、1855年に洋学所を、長崎に海軍伝習所を創設するが、前者は国防教育と情報取集を、後者は航海技術と造船技術の伝授を目的としており、科学技術の習得は軍事の側面から開始されたと述べられる。また電信も1877年の西南戦争において重要性は印象付けられた。というのも、戦場で電信を活用した政府軍は有利に戦いをすすめることができ、この時期には電信の軍事的有用性が認識されていたのだった。さらに日清戦争時に国内の軍隊の移動に鉄道が大きな役割を果たしたことから、朝鮮半島の鉄道建設も軍事的重要性から推し進められたと分析している。このように、電信・鉄道は、「中央集権化された新生日本国家の建設に大きな力を発揮しただけでなく、同時に日本帝国主義の朝鮮・中国進出のための人と物と情報のハイウェーとなった(p98)」と述べられる。第4章、5章には、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて、総力戦体制がまさに軍事と関わりながら形成されていった経緯が明らかにされる。(それは以下に概要をまとめた。)

 戦中と戦後の連続性に関しては、戦時下の科学動員で蓄積された技術と技術者が、高度経済成長を支えた主力になったと述べている点が興味深い。例えば、戦時下のレーダー開発は、戦後のトランジスタダイオードを基礎とした電信通信の発展に繋がった。また「電器産業では、東芝、日立、松下は、いずれも戦時下の軍需生産によって大きく成長した企業である(p217)」という。また、戦時中に多数の科学者が軍事研究に協力したにも変わらず、「科学戦の敗北」と総括したことで、科学者の責任が曖昧になり、さらに「科学技術の振興」というスローガンに結びつくことになったという指摘は重要だ。そして、科学振興を科学者のエゴでなく、普遍的な意義を持たせるための論理が、科学と民主主義の同等視だったのである。

 最後に本書の限界点を指摘したい。それはまず、やはり本書が前提としている「体制化」図式が、現代の社会と科学の間で生じる問題に取り組むのに、どれだけ妥当性を持つかという疑問だ。地球温暖化問題を例に挙げると、そこには体制/反体制よりも複雑な構造がある。利害関係者は多様化し、市民という存在も、地球温暖化の被害者であると同時に加害者でもある。これは大きな問題なので、もう少しじっくり考えたいテーマでもある。二つ目に、戦時期の記述に多くの紙面を割いているにもかかわらず、陸海軍の研究開発の内容に関する分析があまりなされていないことがある。確かに研究機関や法律、研究費などの制度面の重要な出来事は満遍なく辿られているのかもしれないが、やはりその中でどう体制化が進行していったのか、具体的な推進構造の叙述には欠けると感じた。池内氏は書評の末尾で、「第二の敗戦」が必至だと述べているが、先の科学技術総力戦体制が歩んできた同じ道を辿らないようにどうすべきかを考えることが、戦時科学史研究の重要な使命であると信じたい。

 

文献:山本義隆『近代日本150年-科学技術総力戦体制の破綻』(岩波新書、2018年)

 

 

 

※1 吉岡斉『科学者は変わるか』(社会思想社1984年) p186

※2 野家啓一『科学哲学への招待』(ちくま学芸文庫、2015年) p109

 

【概要】

第4章 総力戦体制にむけて

 第一次世界大戦は最初の科学戦だと言われる。その意味は、(1)最先端の科学技術が戦争に活用されたこと、また(2)科学者が戦争に重要な役割を演じたということである。国家は科学技術が「有用」であると認め、科学技術研究への国家による科学者の動員が行われた。日本は、(1)に関して、第一次世界大戦で、軍用自動車、航空機、機関銃、毒ガスが初めて用いられた近代的な科学戦であることを認識し、大戦中から大戦後にかけて各研究機関の設立が相次いだ。例えば、1915年海軍技術本部、1918年海軍航空研究所、1919年陸軍技術本部、陸軍科学研究所、1929年海洋気象台、燃料研究所、1923年海軍技術研究所などである。また1917年には、国家のステータスの維持と交易の増進、産業・国防上の資源の自給自足、物理、科学の同窓的な研究と応用を求めて、半民半官の理化学研究所が設立されている。さらに1920年に、学術研究会議が設立されている。この時期には1917年に本多光太郎のKS鋼、八木秀次八木アンテナが開発されるなど、一定の研究成果が見られるという。こうした背景には、第一次世界大戦で物資不足に苦しむ好戦国への輸出増加で、経済的な余裕が生まれていたことがあると分析する。

 また、第一次世界大戦は航空、海水を戦場として含めたことから「三次元の戦い」と言われる。そのため、第一次世界大戦後、気象学と海洋学が発展したという。1921年には東大の航空研が航空研究所に昇格した。この機関は、日本初の軍学共同の研究施設であるとされる。さらに31年には航空気象調査会が発足し、航空戦力増強が図られた。

 一方、第一次世界大戦中の輸入の途絶で、日本は資源不足を痛感した。そして資源問題の打開の鍵は化学工業にあるとされた。ドイツのハーバー・ボッシュ法による空中窒素固定が、日本には強く訴えられた。明治期に民間に生まれた化学工業は中小、零細企業で、化学肥料の製造に主軸があり、多くの化学工業製品は輸入に頼っていたのである。しかし、この時期、日本の化学工業は、軍による火薬・爆薬の自給政策によって梶を切ることになった。1915年には「染色医療製造推奨法」が発足し、アニリン染料等の合成染料や、火薬原料を工業生産する会社に対して、配当が与えられた。その翌年には、日本染料製造株式会社が発足する。

 さらに、第一次世界大戦は前線と銃後の区別が誘拐した「総力戦」であったことから、国力の全て、民間の生産能力や大学や研究機関の研究開発能力、物的・人的資源の全てをかけた物量戦が展開され、科学研究の意義はそこに置かれることになった。1918年には軍用自動車補助法が制定され、規格に合わせた自動車を作れば、補助金が支給され、その代わり戦時には軍が徴発するという仕組みを作った。さらに1917年には軍需工場動員法ができ、産業構造を軍事的に再編成しようとした。しかし、1937年までこの法律は適用されなかった。

 また植民地は総力戦体制の実験場となっていた。1908年に創業した日本窒素肥料は、日本工業の最先端をいき、1920年代から朝鮮総督府の産米増殖計画を始めとする「工業化政策」の推進役を演じた。そして、朝鮮に「火薬類のデパート」である巨大コンビナートを建設した。この時期、「革新的」技術者による進行コンテェルンが植民地政策を支えたいた。またコンビナートの電源として、ダムが建設され、特に水豊ダム建設に際しては、数万人の現地の朝鮮人、中国人を強制移住させられたという。

 戦争へ向かうこの時代に、国家経営の合理化を推進したのは、軍と官僚機構だった。この時期に組織的な専門技術官僚(テクノクラート)が登場することになる。1917年にはエリート技術者の集まりである社団法人工政会ができるが、背景には技術官僚の地位向上運動があった。また1920年には宮本武之輔により日本工人倶楽部が結成された。技術官僚はその後、1940年に全日本科学技術団体連合会を発足する。 

 総力戦体制への道は、1927年資源局の設置に始まり、1931年には重要産業統制法、34-36年には事業法が、そして、1937年に軍需工場動員法の発動といったように、その道を着実に歩んでいった。そして、37年には資源局と企画庁が統合し、国家総動員の中枢機関として企画院が設立された。企画院の中心は技術官僚、経済官僚、そして軍中堅将校だった。企画院は1938年に国家総動員を出し、総動員体制が整った。

 

 第5章 戦時下の科学技術

 昭和の始めから、満州事変、日中戦争にかけての時期は、科学技術振興が科学者サイドから強く主張されたという。それは、この時期の研究機関の発展を反映したものであると同時に、列強の競争の激化からの不安があったと述べる。例えば1932年に桜井錠二らの呼びかけで、日本学術振興会が発足し、総合研究の援助や、有能な研究者の養成の援助などの事業が行われた。日本学術会議は、科学技術研究を産業と軍事の要請に合わせて編成することに、大きな役割を果たすことになった。実際、総合研究の主要分野は工学であり、1933年は全体の40%、42年には67%を占めていた。また分野別の上位は、航空燃料、無線通信、原子核宇宙線の研究などだった。一方、1938年には企画院により科学審議会が設置され、不足資源の科学的補填を目標とした科学動員が進められた。さらに、1938年に荒木貞夫が文部大臣に就任したことで、文部省も科学行政に積極的になり、8月には科学振興調査会という諮問機関を発足させた。そして、翌年には科学研究費交付金が創設される。荒木の政策では、大学の研究体制の拡充と近代化が、大学の自治の侵犯と抱き合わせで推進されていた。というのも、軍の要求は研究体制を充実させ、結果として合理化・能率化するように働くからである。他方でこの時期、権力が敵視していたマルクス主義唯物論普及の責任の一端が自然科学にあるとして、反知性主義が横行していた。1937年に文部省は『国体の本義』を配布し、国民精神総動員実施要綱を閣議決定するなど、思想・文化統制が進められた。

そうした中、田辺元小倉金之助、谷川健三らは、科学精神の重要性を語り、反知性主義を訴えた。しかし、近代戦が科学戦である限り、軍部も科学振興、生産力増強に力を入れていた。1939年企画院は科学動員を担う科学部を設置し、軍と技術官僚は研究の方向付けと、能率化・合理化を図っていた。ここでは、封建制や前近代性に合理主義と科学精神を対置させただけの批判は無力だった。

 1940年に近衛文麿内閣の「新体制運動」が推し進められるなかで、41年科学技術新体制確立要綱が閣議決定され、技術院、科学技術審議会の設置、および研究機関の総合整備が図られた。1942年には技術院が開庁し、井上匡四郎が初代総裁となった。これには、長岡半太郎仁科芳雄らの科学者も賛同した。また研究体制の能率化は、有能な若手研究者が望んでいたことでもあり、彼らは積極的に研究動員への協力を訴えた。1951年の日本学術会議が行ったアンケートで、過去数10年間で、学問の自由が最も実現していたのはいつかを問うたさいに、戦時中という回答が一番大きかったのは示唆的である。