横山輝雄『生物学の歴史-進化論の形成と展開』を読みました。

 

きっかけ:生物学史が知りたい。

良い点:コンパクトで読み易い。また科学と宗教(キリスト教)が、単純な対立関係にあるのではなく、両者が絡み合ってきたという点について、理解できる。

悪い点:生物学史のテキストだが、進化論を中心とした歴史で、解剖学、生理学、分類の問題、生気論、博物学的伝統といったほかのトピックについてはあまり扱われていない。また初版が97年とやや古い。

評価:B

その他メモ:「聖俗革命」論のスタンスから、本当の科学は「科学革命」期ではなく、19世紀に成立したとすることで、見通しの良い生物学史ができていると感じた。

 

本書の読解は、進化思想と、その背景にある宗教観、自然観との関係を正確に抑えることが大事になると思うので、その点を意識しながら、(部分的に省略しつつ)以下にまとめたい。

 

【概要】

 

古代-中世

 古代、中世には後の進化論との関係で問題とされる重要な概念が提出されている。アナクシマンドロスは、水中動物が陸に上がり、しだいに形態が変化し、最後に人間が誕生したと思弁し、エンペドクレスは宇宙の初めに動物の様々な器官が組み合わさり、その中から生存に炊きしたものが生き残ったと思弁した。また『荘子』には、循環論的な進化観が見て取れる。しかし最も重要な人物は、アリストテレスである。彼の生物学のポイントは霊魂論階層論である。すなわち、生物界は植物、動物、人間という三つの階層上の秩序をもち、それぞれが霊魂=アニマを持っているとされた。植物は栄養を蓄えるアニマが、動物はそれに加えて運動するアニマが、人間はさらに加えて思考するアニマを持っている。そして植物-動物-人間は低次から高次への秩序を作っている。これは中世では「存在の階段」と言われるようになった。存在の階段では順序的秩序がさらに細かく区分され、それらは隙間なく徐々に変化する、つまり「自然は飛躍しない」と考えられ、それは「存在の連鎖」ともいった。

 

近代(16-18世紀)

 バターフィールドは16-17世紀の「科学革命The Scientific Revolution」によって近代科学(modern science)が成立し、それは宗教革命やルネサンス以上の意義をもつ歴史的事件だと位置付けた。確かに、動物機械論や血液循環論の発見は高く評価される。しかし、機械論は哲学理論ではあっても具体的な生物研究に役立つものではなかったし、ハーヴィはアリストテレスの信奉者であった。またこの時代の知的探求は神学と結びついており、職業的な科学者もいなかった。

 近代には実証研究が進んだ故に、生物は変化せず、同一性を保つことが確信され、進化の考えを否定する静的固定的な自然観が誕生した。まず「」概念の成立がある。種は17-18世紀にかけてジョン・レイらによって先駆的に考えられていたが、リンネによる二名法よる分類法は現在まで続いている。種概念の成立は、神が創造したのと同じ数だけ種が存在するという創造説が背景にあり、進化を否定する根拠となった。またレディは、ウジが湧いて見えるのは自然発生ではなく、親バエが卵を産みつけた結果であることを、対照実験の方法によって示すことで、自然発生説を否定した。それは静的固定的自然観の根拠とされた。さらに、個体発生をめぐる前成説(成体の各器官は、前もってできあがっており、それが発生の過程で拡大する)と後世説(発生の各段階において、器官は新たに形成される)の論争では、始めは前成説の方が有利であり、これは種の固定不変説や、静的固定的自然観を支持する証拠とみなされた。こうした自然観は、当時のキリスト教的な神学の考えとあうものとして統合された。それは人間のもつ理性によって神の存在論証を行う「自然神学」であった。

 

18世紀後半

 17-18世紀は、種は固定不変で、神の創造によるもの(静的自然観)という考えが広まって、進化につながる考えは否定されるようになった。しかし、18世紀後半に入ると、自然発生の可能性をめぐる論争が再発した。その背景にはレーウェンフックによる顕微鏡による微生物の観察があり、以降微生物の領域において自然発生はありそうに思われた。ビュフォンとニーダムは羊の肉汁をフラスコにいれ、煮沸し、密閉したまま数日間放置すると、顕微鏡下で微生物が確認されたことから、自然発生を実証したと考えた。一方スパランツァーニは加熱時間が弱く、コルク栓から空気が通過していることを指摘し、長時間煮沸し、ガラスを溶かして密閉し、再実験を行い、自然発生が認められないことを示した。それに対して、ビュフォンとニーダムは、加熱時間が長いと自然発生の必要な栄養が破壊され、かつ大気の状態も空気中とは異なることから、生命の材料が、空気が十分に存在している通常の状態でも自然発生が起こらないことの証明にはなっていないと反論した。この論争は19世紀のパスツールの実験まで持ち越された。また、トレンブレーがヒドラ再生現象を発見したことで、自然それ自体の中に秩序を形成する力が存在していることの証拠だとし、全成説へ反論をした。つまり、発生が胚珠としての成体のミニチュアの量的拡大だとすると、どうしていったん消えた器官が再生するのかが疑問に思われた。このような自然の中に秩序を形成する力があるとする動的自然観は、キリスト教を否定する無神論唯物論的な考えと結びつきやすく、その考えの延長に進化論が現れることになる。

 

19世紀

 ダーウィンの『種の起源』(1859年)に先立って、ラマルクは進化論を提出している。しかしキュビエの反進化論の前に、彼の考えは受け入れられなかった。ラマルク進化論の核は、「前進的発達」、すなわち物質を含めた宇宙全体に秩序を形成する力が内在し、それ自体において高度化・複雑化する傾向があるという考えであった。無機物から自然発生によって単純な生命が誕生し、高次の形態は徐々に進化してきたと考えた。また「用不用説」、「獲得形質の遺伝」などもラマルク進化論の特徴だが、それは副次的なものにすぎない。ラマルク進化論とダーウィン進化論との違いは、ラマルクは、生物種は一つの共通する祖先に由来するものではないと考えていた点にある。それに対してダーウィン進化論の研究面の特徴は、まず生物進化の事実を、膨大な量のデータに基づいて実証しようとしたこと(19世紀の帰納主義を背景とする)である。そして理論面での特徴は、(1)自然選択説、(2)共通の祖先から分岐してきたという図式の提唱、(3)偶然性の重視、(4)連続主義である。(1)は前もって特定の方向が定まっているのではなく、ランダムな変異の中から環境に適したものが結果として残っていくという考えである。また(2)によっては、一直線上に下等なものから高等なものが序列化される「存在の連鎖」を否定された。(3)はのちの集団遺伝学に発展し、(4)はごくわずかな変化が長い時間累積することで、最終的に種が変化するというもので、突然変異と対立した。ダーウィンを支持した人は、内部には意見の対立があったが、ゆるい意味での「ダーウィニズム」で一致していた。

 

19世紀後半-20世紀

 スペンサーは進化論を当時の自由競争を正当化するイデオロギーとともに「社会進化論」として展開した。彼は「適者生存」という語も作った。ダーウィン進化論自体は非目的論だが、社会進化論「進化」=「進歩」の過程が、道徳的に良いものとされた。そこでは競争によって人々の能力が開発され、社会が進歩していくと考えられた。またF・ゴルトンは「優生学」を提唱し、遺伝決定論的立場から、人間の「品種改良」を考えた。20世紀に入るとナチスのように、それを実現する「優生学運動」が起こった。日本でも進化論のうち、社会進化論の本が多く刊行され。加藤弘之は国権論を社会進化論で基礎付けようとした。しかし、社会進化論第二次世界大戦以後、ナチス政策と関係していたことから、否定的に評価されるようになった。しかし筆者はここで、「科学的進化論ダーウィンVS通俗的進化論スペンサー」という図式は単純すぎると指摘する。19世紀の時点では社会進化論と自然科学的進化論とを区別することは困難で、またダーウィン自身も「白人優位」の考えをもっていた。

 さて、「科学と宗教の闘争史」という図式は、19世紀に初めて誕生した。進化論をはっきりと無神論唯物論と結びつける「科学的唯物論」が成立した時点で、科学と宗教が闘争してきたという歴史観が提示された。コペルニクスガリレオなどの例は、広い意味でのキリスト教内部の争い、キリスト教の再解釈で、彼らは本当にキリスト教を支持していた。19世紀後半になって科学的世界像が宗教から離れて自立しうる状況になってきたのである。

 ダーウィン自身は、遺伝については「パンジェネシス」という仮説を唱えていた。これは、生物の体の各々の部分にそれぞれの特徴を決定する遺伝に関わる粒子が存在し、それは生殖細胞を通じて次の世代に伝わる(生殖質の連続)とされた。また、ワイズマンは、体細胞と生殖細胞を区別し、遺伝に関わるのは生殖細胞だけであり、獲得形質の遺伝を否定していた。彼は自然選択説のみによる進化論を唱えた。しかし、1900年にド・フリースと、コレンスがメンデルの法則を再発見した。また20世紀初頭にかけて、特に古生物学の領域で定向進化説(化石が示す証拠は自然選択によっては説明できない方向性を示す)などの議論が支持を得るようになり、自然選択説は低迷していた。ウォーレス、フッカーらは同じ種の生物が互いに交渉できないように隔てられ、それにより新種が成立する「地理的隔離」の問題に取り組んだ。そして地理的隔離のない場合には新しい種の形成は飛躍を通じて、同所的種分化が起こるのだと考え、進化において自然選択は消極的な役割しか果たしていないと考えられた。メンデリズムは1910年ごろからヨハンセンらによって遺伝子、表現型、突然変異といった概念が定式化され、、1920年代にメンデルの法則が確立する。不連続説を中心とするメンデリズムと連続説を中心とするダーウィニズムは対立するように思われた。しかし、1930年にfフィッシャー、ホールデン、ライトによって集団遺伝学が成立し、40年代には両者が矛盾するものではないことが証明され、「進化総合説」が成立した。これは1970年代まで進化論を支配することになる。それ以降はエルドリッジ、グールドらの「断続平衡説」や木村資生の「中立説」などが唱えられた。

 

現代の諸問題

 現代の理論的諸問題として、社会生物学(sociobiology)論争と、創造説(creationism)があげられる。まず、社会生物学は1975年ウィルソンが唱え、人間以外の研究成果が人間の理解についても示唆するところがあると述べられた。これはかつての社会進化論や社会ダーウィニズムを連想させる名前であり、その今日的復活ではないかと危惧する人々がいた。彼らは「人民のための科学-社会生物学研究集団」というグループを結成し(グールドも所属)、社会生物学は人種差別や男女差別を正当化するものであると批判した。社会生物学論争は、科学の小息を越えた思想上、イデオロギー上の含意を持っていたがゆえに生じたといえる。1983年ウィルソンらは、反対論を認めた上で、逆の行き過ぎがあってもならないと述べた。つまり、科学上の議論を、その政治的帰結によって判定する誤りをおかしてはならず、それは場合によっては「学問の自由」を侵害すると指摘した。さらに、遺伝的要素の存在という事実を無視する形で正義・平等の議論をしていると、遺伝子がなんらかの役割を果たしていることが科学的に示された場合に、科学の議論とは無関係に差別を主張している人に対する批判ができなくなりという点も指摘した。これはグールド側に、今度新たに科学研究が進展した結果、道徳的倫理的観点からみて好ましくない理論が科学的に立証される可能性を一般的には排除できないという「道徳的ジレンマ」という新たな問題を投げかけた。一方創造説論争のきっかけは、1920年代にテネシー州の高校理科教員が進化論を学校で教えたことが当時の学校で進化論を教えることを禁じる州法に違反するとして裁判にかけられ、有罪判決が下されたことにある。後この州法はなくなったが、これを契機に「授業時間均等(equal-time)、つまり進化論と創造説を同じ時間教えるべきであるという要求がなされるようになった。Equal-timeを認めた法律はアーカンソー州ルイジアナ州で可決された。これに対しては公教育に対する宗教の介入で、政教分離を定めた憲法に違反し無効であるとする訴訟が起こされ、1987年連邦最高裁は、equal-timeを定めた法律を無効とする判決を下した。ここから(1)創造説は科学なのか、宗教なのか、現在の時点でどこまで宗教が正当化の根拠をもっているのか、(2)進化論は仮説にすぎず、絶対的真理ではないのか、(3)equal-timeは「寛容」や「多元主義」に合致しているのか、科学と民主主義の関係はどうあるべきかといった重要な問題が導かれる。

 

文献:横山輝雄『生物学の歴史-進化論の形成と展開』(放送大学教材、1997年)

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生物学の歴史―進化論の形成と展開 (放送大学教材)

生物学の歴史―進化論の形成と展開 (放送大学教材)