史料としての図像-「画像に潜む知られざる医学史」(於:慶応大学 6/28)

 

 ハーバード大学の医学史研究者の栗山茂久先生の発表を拝聴いたしました。とても刺激的で、興味深く、含蓄のあるプレゼンテーションでした。プレゼンテーションの魅了は、図像を並列(juxtaposition)し互いを比較すること、抽象的な概念をアニメーションを伴った具体的なイメージで表現すること(美しいアニメーションへのこだわりは半端なかったです)、スライドを読ませないこと、ときには音楽もつけること、会場を巻き込んだ参加型のシナリオを含んでいたこと、そして何よりも話者がワクワクして豊富なジャスチャーを用いて楽しそうに話すこと、といったことがミソだったように感じました。全部を理解しきれなかったことは残念ですが、わかった範囲内で、以下にメモをしておきます。


 医学史研究においては文献の他に、画像も重要な史料になる。画像とは、直接的には、「モノを見せる」機能を持つ。しかし、もう一つ重要な働きとして、「モノの見方(=認識のスタイル) 」を教えるということがある。ここでは、 画像に見えるものではなく、見えないものに注意をむけることが重要になる。

  人間は二つ以上のものを同時に見ることはできない。実際に見たものは現実の一部でありながら、見た者にはそれが全てであると思ってしまう。この意味で、見方とは「見落とし方」である。一方で、人間は見ていないものの中に何かを見たと錯覚することがある。これは「補完」であり、認識のスタイルとしては、見落とすことと併せて「見方の過不足」が、その特徴を表す言葉になる。

 例えば、中国の「気」の身体感を表した図像には、風になびかれた体が描かれている。ここでは身体は周りの空気とセットである。空気の中にある体は透明であり、透明である体に対しては、そもそも解剖という動機は生まれなかった。
 また、古典解剖学のヴェサリウス『人体の構造について』(1543年)の表紙の図像には、中央にヴェサリウス本人と思われる人物の指先の方向には、骸骨が吊るされている。しかし、取り囲む人物は誰一人として骸骨に目をむける者はいない。中には本を読んでいる人もいる。ヴェサリウスにとって、解剖学とは、単に人体を切り開いて構造を明らかにするといったことではなく、「死にゆく者としての人間」を明らかにすること、それを創造した神の威光を讃えることだった。
 さらに、「飲食養生鑑」(1850年)に描かれた身体観は、「社会的身体」というべきものである。身体の機能を絶え間ない労働として表現している。また、その労働とは排泄物の処理を中心としている。こうした穢れた身体観に西洋医学の影響の表れを見ることができる。せっせと働く人々の周りに書き込めれた文字は全て口語体、すなわち「会話」であって、会話のやりとりを通じて社会を描くというのも、非常にユニークなものの見方である。

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https://waraie.com/jp/inside-the-body/より


 このように見てくると、画像の歴史とは、見方を刷新し、新しい見方を提示してきた歴史だと言える。

 

 

関連文献:ガブリエル・ダルド『模倣の法則』、Scott McCloud『Understanding Comics』

 

模倣の法則

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Understanding Comics

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