古川安「化学者たちの京都学派-喜多源逸と日本の化学」(科学史学校 於:日本大学)

 

 

 日本大学で行われた科学史学校での古川先生の講演を拝聴いたしましたので、私が理解した範囲で、第1章の部分を中心に、以下に内容をまとめてみます。

 

概要

 『化学者たちの京都学派-喜多源逸と日本の化学』は、化学史研究の第一人者である著者が、「喜多源逸の人と学に関する総合的かつ科学史的論述」を目指して、喜多源逸の生涯と業績、また化学の京都学派の展開を描いた本である。講演は、本書の重要なポイントをピックアップして説明するというスタイルで行われた。

 本書の特徴は、オーラルヒストリーという手段を有効に活用している点である。現代科学史研究にとっては、この手段は重要で、それは限られた文書資料を補完する働きを持つ。本書では計48人への聞き取り調査を行っている。そのうち13人はすでに故人となられており、時期が遅ければ、この本は生まれなかったかもしれない。オーラルヒストリーの他に、情報手段の方法としては、手紙・写真等の遺品を探すこと、関連機関が所蔵する文書を調査すること、当時の新聞記事を利用することがある。喜多源逸に関する資料は非常に少ないが、こうして得られた断片的な情報をつなぎ合わせて全体像を構築することで、本書が書かれた。

 喜多源逸は、1883年奈良県の現在の大和郡山市に生まれた。1900年に郡山中学校を、1903年第三高等学校を卒業したのち、1906年に東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業し、1908年には東大の助教授となった。そこで喜多は河喜多能達(みちただ)との教育観の齟齬で鬱屈とした日々をおくることになる。喜多の教育観は、模倣だけでは日本の工業は自立できないこと、応用をやるにかしっかりとした基礎が必須だといったものだった。現在ではこうした発想は普通だが、当時としては珍しかったようである。河喜多との確執の中、京都帝大では澤柳事件という、製造化学科の不適格教授がパージされるという事件が起こり、1916年、喜多の中学からの親友である中澤良夫が喜多を京大に招へいし、助教授として着任させた。その後、文部省から命じられ、最初の一年間はMITへ留学した。そこではオストヴァルトに学んだアーサー・ノイズに師事した。後半はパリのパスツール研究所で、ガブリエル・ベルトランのもとで研究に従事した。この留学で喜多は、研究そのものよりも、教育や研究の姿勢にかかわる部分を多く学んだ。

 1921年に帰国した喜多は、教授に昇格し、京都に「理研精神」と共通する学風をもたらした。理研は1917年に設立され、22年より大河内正敏は主任研究員制度を設け、喜多もそのうちの一人に任命された。喜多は、理研の科学主義工業、コンツェルン、異分野の科学者との交流といった「理研精神」を、京大化学研究所に導入した。喜多の学風は、工業化学における基礎研究(基礎のための基礎ではなく、応用のための基礎)の重視、基礎研究の成果を工業化につなげ、産業界からの要求を把握し、連携するといったものだった。喜多の新聞のインタビュー記事によると、飾らない性格で、指導者としてのカリスマ性を備えた人物で、産業界からの絶大な信頼を得ていたという。喜多はのち、当時の我が国の状況を鑑みて、自給自足経済のための研究を行うことが工業化学者としての使命と考えるようになった。繊維、人造石油、合成ゴム、人造石油といった研究プロジェクトは、戦前・戦中を通じて、国防上重要な物資であり、戦時体制化の「国策科学」の路線に沿っていた。しかし、それらは本格的な工業生産に入る前に終戦を迎えた。しかし、基礎から応用への研究体験は戦後にも継承された。

 

参考文献:古川安『化学者たちの京都学派-喜多源逸と日本の化学』(京都大学学術出版会、2017年)

 

化学者たちの京都学派: 喜多源逸と日本の化学

化学者たちの京都学派: 喜多源逸と日本の化学