[Review]森脇江介「戦時期日本の科学振興政策-科学研究費交付金の創設と運用」

 

 ご本人から頂いた修士論文を拝読致しましたので、以下に概要をまとめさせていただきます。科学振興調査会と帝国議会の議事録をもとに科研費創設の過程と運用を分析した、戦時科学史研究にとっては重要な論文だと思います。なお本論文は、駒場キャンパス16号館2階の自然科学図書館でも閲覧できるとのことです。

 

 【概要】

 本論文で戦前・戦中期における文部省を中心とした科学振興政策を、科学振興調査会と帝国議会を主たる対象として分析し、当時科学が「なぜ」「どのように」「何を目指して」振興されんとしていたかを詳らかにすることで、戦時期における科学と国家の関係という問題枠組みに関して一定の示唆をもたらすことを目的としている。一次史料としては主に科学振興調査会と帝国議会の議事録が使われている。両者を使用することで、科学者や文部省と、それ以外の省庁や政治家といった両方のアクターによる議論に基づき、両者が共鳴しつつ科学振興政策を実現していったプロセスを描こうとしている。

 論点は、(1)資金配分のあり方、(2)基礎研究の振興とその目的、(3)研究の連絡・統制」、(4)日本の科学、東亜の科学という4つが設定されている。

 

 第1章 戦前・戦中期の科学振興政策概観では、主に先行研究が整理され、そこから本論文の視角の新規性が明確にされる。科学研究費交付金の創設に関しては科学史の分野では広重徹、河村豊、水沢光、政治史では畑野勇、産業史では沢井実や青木洋、行政史では大淀昇一らの先行研究があるが、一連の研究に欠落しているのは、文部省の科学振興政策についての帝国議会を対象にした分析であると述べられる。政策としての科研の創設と運用を見るとき、帝国議会というアクターの科学観の諸相に対する検討を欠いていることは問題をはらんでいるとした上で、「政策実現といった視点で見た場合の科学振興調査会と帝国議会との関係を分析する」といった本稿の目的が改めて明示される。

 

 第2章 科学研究費交付金の創設では荒木貞夫が文部大臣の在任中であった第一回から第三回までの科学振興調査会及び帝国議会貴族院衆議院の議事録を対象に、答弁の一つ一つを詳細に追いながら、科研費の創設過程が分析される。科学振興調査会は昭和13年に設立された文部大臣の諮問機関であるが、調査会の構成で重要なのは様々なバックグラウウンドを持つ人々から成っていたということである。例えば第一回開催時の所属委員43名の内訳は学界関係者18人、官立研究所関係者6人、政界関係者3人、軍関係者8人、官僚6人、その他2人であり、こうした比率は第三回までほとんど変化しなかった。

 第3回までの科学振興調査会と帝国議会の議論から4つの論点についての分析をまとめると、以下のようになる。「資金の配分方法」という視点に関しては、科学者側からの継続的な金銭的資金の拡充の要求があったが、資金配分までの具体的な方法までは指摘することがなかった。「基礎研究振興とその目的」については、科学振興調査会では「応用研究を目的としない純粋研究としての基礎研究」、「応用につながる基礎研究」、「基礎研究と銘打った応用研究」といった概念が入り乱れており、どういう基礎研究を振興するかという点に関して統一的見解はなかった。むしろ基礎研究という言葉の持つ曖昧さは、「文部省が所轄しているのが基礎研究」というロジックを議会に提示し、文部省に有利に機能した。また「東亜の科学・日本の科学」という点については、帝国議会において各議員や荒木が基礎研究振興の果たすべき目的として東亜に威容を示す日本の科学の樹立を宣言した。そこには対西洋の国威発揚の手段としての科学振興=上向きのナショナリズムと、東亜新秩序建設のための東亜を指導し威容するための科学振興=下向きのナショナリズムの二つが含まれていた。最後に「研究の連絡・統制」については、帝国議会では議員や大蔵省から強固な統制を望む声があったが、科学振興調査会の内部においては緩やかな統制を志向していたというのが大筋だった。すなわち、科学動員を行うにあたって研究現場にまで介入して指導するという過度に統制的な見方はとっていなかった。またこれら4つの論点に加え、荒木貞夫が文相として「科学振興とそれを担う研究機関としての大学の守護者」であるという意外な像が浮かび上がってきたという点が付与される。

 

 第3章 科学研究費交付金の運用では、科研が創設された後に開催された科学振興調査会における議論及び帝国議会の議論、そして「文部省科学研究費ニヨル報告」を対象に、同制度の運用という諸相が明らかにされる。

 まず第4回科学振興調査会の冒頭で調査会幹事の関口が政策の総括を行うが、そこから科研費の運用段階における3つの問題、すなわち(1)資金の配分方法について、(2)科学振興に資する連絡・統制機関の設置、(3)研究資材の不足が提起されるそして第四回では資金の配分が問題になったこの点については、波多野貞夫、佐野利器長岡半太郎が批判的に検討している。研究肌の軍人であった波多野は大学に対する恒久的な研究費用の充実を主張した。佐野も大学に対して直接的に予算を増やせないのかと問いただす。長岡は研究費が支給されたとしても、効果的に使えなければ意味がないと主張した。それに対し、関口と松浦の応答からは、単に基礎研究を標榜しても、それを行う大学になんの審査もなくお金をばらまくのでは大蔵省が納得しないという思考が読み取れるという。科学者側は必ずしも新たな資金制度を求めていたわけではなく、研究費を増額せよという要求にとどまっていた。一方文部省はその要求を受け入れつつ議会や大蔵省が納得する形での予算獲得を目指し、外向けに「目的をもった新しい制度をつくる」という論理を提示した。それゆえ、科学研究費交付金は科学者の要求と政治的な現実との妥協の産物であったとも見ることができると指摘される。第6回は人材育成が主たる議論であったため割愛される。第5回と7回では再び科学とは何かという議論に立ち戻った。そして第7回になってそもそも基礎研究、応用研究、実用研究という区別にいみがないのではないかという問題提起がなされることになる。7回ではもうひとつ、研究の総合・連絡・統制に関する議論があった。しかし方向性はまとまることはなかった。科学課、科学局が設置されたものの、文部省は企画院に対抗する範囲において自らの所掌の下にある科学者を緩やかに統制する組織を作ろうとしたに過ぎず、その方向へのモチベーションは低かったのではないかと分析される。

 一方、第76回、79回、82回帝国議会における特徴は、第一に科学振興の目的として「高度国防国家」の確立が掲げられるようになったことである。第二にそれまで科学振興政策に関する議論がほとんど行われていなかった衆議院において、応用研究を充実されるべきだとの議論が出現していることが挙げられると述べられる。

 第2節 科学研究費の運用では、青木洋の先行研究を参考に、いよいよ金額ベースの配分状況や審査過程が分析される。まず審査については学術研究会議が担うことになっていたが、実際には昭和16年度の配分から審査を担うことになったため、当初2年間では基礎研究を振興するという最低限の指針以外に明確な方向性がなかった。そのため、学術研究会議内部から「総花的である」との批判を受けた。金額ベースの配分は昭和14年から17年まで分野別(=理学・工学・医学・農学)配分額の推移、分野別件数の推移、分野別件あたりの金額の推移がまとめられている。学術研究会議との関係で重要なのは昭和15年から16年にかけての変化であるが、まず科研費の予算が300万円から500万円に増加している。また分野別の増加率では理学を除いた分野で約160-180%の増加傾向にあり、比較的応用的な分野により多くの資金が配分されたと述べられる。しかしこの「応用シフト」以外にとくに目立った特徴はない。

 第3節では「文部省科學研究費ニヨル研究報告」という科学課によって作成された資料をもとに、具体的な研究状況がどのようなものであったかを概観する。なお同報告書は機密扱いだった。まず昭和16,17年における分野別細目という資料から、工学・農学については「応用」という言葉を含む分野が多く見られることが特徴である。一方理学は純粋科学、基礎研究に分類されるものだった。続いて配分対象機関別の傾向からは、昭和14年から17年にかけて、帝国大学に対する配分題目数は増加の一途を辿っているものの、全体に占める件数の割合は、むしろ私立大学、官立大学(主に医科大)、旧制専門学校の方が多いことがわかる。昭和16年度以降の応用シフトの中にあっても、学術研究会議は既存の理学研究、とくに帝国大学理学部以外に対する支援を削除してでも応用研究を行うことに消極的であったと考えられる。科研費を利用した研究では「特徴がないことが特徴」であったと言わざるを得ない中、昭和17年から南方研究に関して重点的に新しい項目が採択されるようになったことは大きな変化であった。

 

 終章では、以上の議論を踏まえた上で、設定した4つの論点についてまとめられる。まず「資金配分のあり方」については、科研費創設前の科学振興調査会では科学者らが一貫して経費の増額を求めたが、資金配分の詳細な議論には至らなかった。4回以降題目にかかわらず自動的に配分される資金を求めたが、それに対し文部省は大蔵省その他を説得必要があり、既存の予算の増額という形では賛意を得難いという反応を示した。「基礎研究の振興とその目的」については、科学振興調査会では「応用につながることを意図しない純粋科学」、「応用につながる基礎研究」、「基礎とはいいながらも実際には応用研究」といった様々な概念が入り混じっていたが、そのことは文部省における科学振興政策立案において重要な問題ではなかった。むしろ「文部省が管轄しているものが基礎研究である」というのが共有された定義だった。「研究の連絡と統制」に関しては、科学振興調調査会内部では、科学行政機関の新設を謳いつつも、一貫して緩やかな統制を志向していた。最後に「東亜の科学・日本の科学」については、文部省の基礎研究の振興は実質的な国力の増進だけを目的としておらず、「二つのナショナリズム」を含んでいた。すなわち、科学という普遍的な土俵において世界的な業績をあげること、和洋折衷型の「日本の科学」を打ち立てるという「上むきのナショナリズム」と、東亜を植民地支配していく中、科学のレベルの高さを示す意味における「下向きのナショナリズム」だった。また本論文では、こうした目的に対して、実際に研究成果として何を達成したのかも考察される。「二つのナショナリズム」を達成する上での科学が科研費によって実現したかどうかという点について、少なくとも運用開始後の議論からは、西洋を上回る科学を樹立したという言明はない。また一例をあげるなら、湯川秀樹は「各種素粒子に関する総合研究」という題目で、科研費の支援によって研究していたにもかかわらず、新理論の樹立には至らなかった。また各題目における研究成果のうち、国際学会誌に発表されたものは皆無だった。

 また、広重徹の「科学の体制化」論の関係では、本稿は体制化の過程を広重が着目しなかったレベルで描き出したものであるとした上で、体制化の過程はあらゆる面での癒着では必ずしもなかったと述べる。文部省や研究者が目指したのはあくまでも緩やかな「連絡」であり、あらゆる研究活動を外部から統制するという類のものではなかった。また、広重は体制化をして科学・産業・国家が三位一体になることとしたが、本論文からは、その体制化を完結するに際してミクロなレベルで役割を果たした人物の存在であると述べる。すなわち、天文学者であり、文部省局長としての立場をもつ関口鯉吉や、長岡半太郎、田中館愛嬌といた科学者でありながら衆議院の立場にもあった。つまり各アクターの立場を一つに限定した議論は短絡的であり、現実には「科学行政家群」ともいうべき人々が、科学・産業・国家という集団の真ん中に立って、各分野の利害を反映させつつ、政策・体制化を進めていったと見るべきであると主張する。以上のように、本論文は広重の体制化論をミクロなレベルで補完する分析によって補ったものとして位置付けられる。

 最後に残された課題について述べられる。一つは、対象とした時期に政府によって行われた他の科学振興政策との接続である。科学振興政策は軍、商工省、企画院といったほかのセクターにおいても行われており、こういった政策立案過程における議論や、政策実行の段階における具体的な内実などを含めた総合的な比較研究がなされる必要があると述べられる。二つ目は「文部省科学研究費ニヨル研究報告」に基づく個別研究の成果に関する検討である。同時期の個別具体的な科学の中に、科学研究費交付金によって行われた個別研究を位置付け、その結果を分野ごとに集積することをもって、再び科研費という視座に戻る必要があると述べる。

 

 また評者として感じた限界点は、科研費の運用について、昭和17年度までのみを対象としていることが挙げられる。戦後末期においては、例えば学術研究会議の研究班といった新しい戦時政策が行われ、それにともなって科研費の運用にも変化が生じるはずだか、その時期は本論文の対象からは外れている。科研費の運用という観点からは、戦後末期までの過程を辿り、かつ戦後にどのように引き継がれたのかという点も検討される必要がある。

 

 

文献:森脇江介「戦時期日本の科学振興政策-科学研究費交付金の創設と運用」(修士論文東京大学、2014年)