今週読んだ雑誌論文や論考の概要など

(1)青木洋「第二次世界大戦中の科学動員と学術研究会議の研究班」『社会経済史学』第72巻第3号(2006年)、63-85頁。↓

https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/72/3/72_KJ00005697928/_pdf/-char/ja

 

 本稿では学術会議の研究班を取り上げ、その活動の経緯、背景、概要、特徴が明らかにされる。学術会議の研究班とは、1943年に文部省により施行された戦時中の共同研究制度で、技術院の戦時研究員制度と並ぶ共同研究の制度である。そもそも学術研究会議自体は1920年に創設された文部省所轄の学術団体で、国内外の情勢学術の交流を目的としていたが、国内の研究の交流や推進には十分な成果を上げていなかった。そこで、1938年文部省の諮問機関である科学振興調査会が発足したことを契機に、学術研究会議の拡充が議論されるようになった。しかし学術研究会議は当初からその独自性、科学者の自治権が強く、文部省の要請で容易に改革できるものではなかった。契機となったのは1941年科学技術新体制運動の中で「科学技術新体制確立要綱」が閣議決定されたことを受け、1942年に技術院が創設されたことだった。技術院では創設後すぐに科学技術審議会の設置に向けて動き出した。それは1942年に官制公布され、13部会からなる構成のうち、第一部会が文部省の所轄する教育機関を中心に動員の方針を検討するもので、学術研究会議はその下部組織として位置づけられた。そこでは主に基礎科学研究が対象になった。それに対して、技術院を中心に内閣による科学技術動員全般のあり方が検討されたのが研究体制特別部会だった。こちらは基礎研究に限らず広範囲の分野を対象にしていた。科学技術審議会の最初で最後の総会が1943年1月30日に開かれ、25の諮問が提出された。それに対し第一部会の会合が1943年3月23日に開かれ、一方の研究体制特別部会は3月23日に開かれ、ともに8月19日に答申を提出した。まず第一部会の答申は、戦力に直結する研究に集中するよう学術研究会議を中心とした科学動員の強化を図るという内容だった。研究体制特別部会の答申はのちの「戦時研究員制度」を提言していた。そして翌日8月20日に「科学研級ノ緊急整備方策要綱」が閣議決定され、学術研究会議の強化活用が決定した。一方の戦時研究員制度はやや遅れて10月の官制公布された。技術院と文部省の予算合計金額を比較すると、前者は1942年度700万円、1943年度1142万円、44年度2365万円で、後者は42年度715万円、43年度790万円、44年度2190万円だった。予算規模の拡大は両庁の勢力は拮抗ないし文部省の優位で推移していった。また政策内容を見ると技術院の外郭団体における活発な共同研究活動に比べて、学術会議を中心とした動員体制の遅れは明らかだった。そのため1942年末、学術研究会議は共同研究を重視する方針を打ち出した。先の科学技術審議会第一部会答申もその延長にあった。1943年11月25日、特に混乱もなく学術研究会議の改変が実現した。改正では、会員数を増やし、政府より任命された会長の権限を拡張された。また科学研究動員委員会が設置され、研究課題、担当者などを選定する任務を行った。科学研究動員委員会の第一回会合が12月6日に開催され、そこで104項目の重要研究課題と研究班の編成が決定された。44年度に結成された班の数は193班だった。一班あたりの班員数は10人、機関数は7.3だった。研究費の総額は11,743,300円だった。前年度の2倍を超える額が公布されたことになる。また個人研究費と比較するとそれは3倍近い額であった。また班員のうち教育機関、すなわち大学・高等学校等の研究者が90%近くを占めていた。しかし逆にみると、教育機関以外の研究者が10%ほどいたわけで、より広範な科学動員を目指していたこともうかがえる。採択された研究課題の特徴は、理工医農のそれぞれの部門の特性を生かした時局・戦局に対応した研究が多かったことである。
 また研究隣組との重複者は127名であり、そのうち112人が教育機関に所属するものだった。具体的な研究課題としても、不足資源、希少金属、エレクトロニクス、保健衛生などに関する研究で類似性が認められた。

 

 

(2)田中浩朗「日本の毒ガス戦の歴史」『化学史研究』第38号(2011年)、210-220頁

 

   本稿では第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての時期に、当時国際法で使用が禁止されていた毒ガスが日本軍によっていかに準備され、実戦で使用されたか、また戦後に残された極ガス兵器や傷害者がいかに扱われたかが概説される。
 陸軍は、第一次世界大戦を総合的に調査するため、1915年に臨時軍事調査委員を設置し、調査の一環としてヨーロッパの毒ガス戦について調査した。他方、陸軍技術審査部は陸軍軍医学校と協力して1916年末頃より文献調査などを行っていたが、1917年に正式の研究審査命令を受け、放射用ガスと防毒マスクの研究を始めた。1918年には陸軍省に臨時毒瓦斯調査委員が設置され、研究の結果、1918年にはガス弾填実用ガスとして臭素が採用された。臨時瓦斯調査委員による研究が一段落ついた1920年以降、毒ガスの研究の中心になったのは陸軍科学研究所(科研)だった。その第2課が毒ガス研究を担当していた。同課は1923年度予算で化学兵器研究室の増築と化学兵器研究費の増額を果たし、1925年には同課は科研第三部として独立した。この時期には陸軍内にはアメリカの化学戦部をモデルとする「化学戦部編成案」があり、化学戦部本部では5名の外国技術者を高給で雇うことになっており、その一部は第一次世界大戦中にフリッツ・ハーバーの元で毒ガス研究に従事したワルター・メッツナーの招聘により実現した。1925年から2年間陸海軍の毒ガス戦関係者はメッツナーから講義、教習を受けた。科研第三部は1942年に陸軍兵器行政本部第六陸軍技術研究所(六研)へと改変された。なお、陸軍の毒ガス研究には初期の頃から大学教授を中心に多くの部外研究者が参加していた。また、1943年からはじまった戦時研究員制度に基づき、1944年4月に「毒物ノ研究」を課題とする2つの研究班が組織された。担当庁は陸軍省(六研)であり、研究委員は陸軍大臣の指揮を受けた。またこれとは別に1944年の文部省化学研究費を受けて、「化学兵器及爆発物」を研究課題とする研究班が学術研究会議科学研究動員委員会によって組織された。陸軍同様に海軍でも1923年海軍造蔽研究部で、ついで新設の海軍技術研究所(技研)で毒ガス研究がはじまった。
 陸軍では1920年代末までには毒ガスの研究を終え、製造の段階に入った。1928年には陸軍造蔽火工蔽忠海兵器製造所が設置され、そこで製造が開始された。陸海軍の毒ガス工場に原材料を納入したのは民間の化学企業だった。毒ガスの生産量は陸軍が6616トン、海軍が760トンで、填実された毒ガス弾は多く見積もって陸軍約207万発、海軍約7万発だった。
 陸軍における毒ガス戦の研究と運用研究は1933年に設置された陸軍習志野学校を中心に行われた。731部隊生物兵器の人体実験を行ったのと同様に、毒ガス戦の研究においても人体実験が行われた。例えば1939年に陸軍習志野学校長を統督として、中国東北部において青酸とイペリット・ルイサイトの効力を調べる人体実験が行われた。また1940年には関東軍砲兵隊司令官を統督とし、731部隊も加わった大規模な糜爛性ガス弾射撃の効力を調べる人体実験が行われた。
 1930年以降日本軍は毒ガスを実戦で使用していった。まず1930年に台湾で発生した霧社事件で先住民に対して催涙ガスが使用された。また1937年に勃発した日中戦争では第10師団が催涙筒を使用した。1941年には大規模な糜爛性ガスが使用された。太平洋戦争でもマレー攻略戦やシンガポール攻略戦で英連邦軍に対して嘔吐性、青酸手投瓶が小規模に使用された。
 敗戦後陸軍は毒ガス使用に対する連動国の責任の追及を逃れるために、関係書類を焼却し証拠隠滅を図り、米軍の尋問に対し虚偽の答弁をするための思想統一を図った。しかし米陸軍化学戦部は毒ガス使用が国際法上違法化されるのを嫌い、この件で日本の訴追中止を求めた結果、米陸軍は国際検察局に訴追を申請し、東京裁判で日本の毒ガス戦が裁かれることはなかった。
 敗戦後国内に存在した毒ガス兵器は占領軍が到着する前に海洋投棄された。毒ガス戦の被害者は攻撃を受けた兵士、人体実験の被験者、廃棄の際に被毒した作業員だけでなく、兵器製造等に関わった作業員も戦後長い間毒ガス障害に苦しんだ。