古川安『科学の社会史−ルネサンスから20世紀まで』(後半)

  1760年代から1860年代にイギリスで起きた産業革命の担い手は伝統的職人層だった。化学を除けば、そこではここの新技術の誕生に大きな役割は果たさなかった。むしろ伝統技術の改良、応用、創意工夫で成果をあげた。しかし逆に、産業革命は科学に以下の影響を与えた。(1)企業間の競争から科学者へのニーズがたかまること、(2)科学の制度化の性格を産業志向的なものにしたこと、(3)ヨーロッパ文明全体が世界制覇をする契機を与えたことである。イギリスではドイツのような大学レベルの科学・技術教育は十分に確立しておらず、産業界を支える科学技術者の数も劣勢だった。王立化学カレッジでも、民間の篤志家の志向に依存していた。オックスブリッジでは良きクリスチャン・ジェントルマンを養成することを旨とした古典教育を貫き、19世紀の前半は科学の専門教育は行なっていなかった。そんな中イギリスでは、実用主義を強調した中産階級による「草の根科学」が普及した。1820年代から作られた技能講習所という会員制の学校では、全国の労働者層へ実用的な科学知識の普及を進めた制度だったし、1828年ベンサムを主導に開校したユニバーシティ・カレッジも、有用な知識を普及させる非国教学校だった。(以上9章)
  20世紀に入るとアメリカで産業科学が台頭するが、その背景には(1)19世紀末の高等教育の拡充と、(2)産業の再編があった。(1)に関しては、南北戦争を契機に工業化への脱皮を図るべく、高等教育が拡充されたことが特筆される。1862年には農業や産業に関わる階層のために、農学や機械技術を教える大学を作ろうとする州に、政府所有土地を無償で与えるモリル法が制定され、ここで開校したland-grant collegeが、州立大学の起源になった。例としてMITやコーネル大学がある。あるいは、1876年に開校したジョンズ・ホプキンス大学では、ドイツ流のヴィッセンシャフトと、オックスブリッジ的なピューリタン教育とを融合させた基礎科学教育と大学院教育で、新しい流れを作っていった。1880ー90年代にアメリカ人のドイツ留学がピークになり、帰国した科学者はアメリカの教育機関にポストを得て、ドイツ学問を導入した。またすでに1848年までにアメリカ科学振興協会がつくられ、19世紀末までには専門学会も設立されていた。(2)は、世紀転換期に一連の巨大企業が相次いで誕生したことである。1890年代の不況で、1200者が統合、合併したことがその背景にある。そうしてできた大企業は自前の実験研究設備を備えることで、学卒者を採用するようになり、産業研究者が増加した。特に化学と電気工学は科学の成果と技術開発との連関が認識されていた分野だった。そうした中、ごく一部の企業は応用科学から切り離された純粋科学(pure science)の探求を主眼に置いた基礎研究の試行に踏み切った。例を挙げると、ジャネラル・エレクトリック社=GE社の初期の中心メンバーはドイツ留学の経験がある物理化学者で、中でもラングミュアは1913年にガス封入電球の発明で1932年にノーベル化学賞を受賞した。20世紀中葉に向けて産業界と大学の結びつきは加速度的に緊密になっていき、科学は企業にどれだけ利潤をもたらしたかという基準から評価されるようになる。(以上10章)
 19世紀後半から20世紀にかけて、科学研究が国家の経済力や軍事力に果たす役割を強調する議論が沸き起こった。1851年のロンドンの大博覧会から60年代に至る顛末がこうした議論を煽った。ロンドン博は英国政府や国民の間で、科学が国家の繁栄につながるという意識が芽生え始めた時期に行われた行事だった。(また、19世紀中葉以降、オックスブリッジにも大学付属の研究施設ができたり、アメリカでもイェールやハーヴァードに物理関係の研究所が作られるのなどの「制度革命」が起きたことも見逃せない。背景としては、学生の急増や産業上の要請などが考えられる。)19世紀後半から、国際会議の開催数が増加していることも、科学活動が国家単位に分裂したことの表れである。1881年にパリで開かれた国際電気会議で、ドイツ代表団はフランスが度量衡において世界の主導権を握ることを危惧し、1887年国を挙げて実験物理学に奉仕してほしいという内部からの要請で、大学とは独立した科学・産業・政府をつなぐ独立研究所である帝国物理学・技術研究所=PTRを創設した。またアメリカでは20世紀の前半、私的な慈善団体が大学の科学研究に大掛かりな資金援助を行うようになっていた。スミソニアン研究所やロックフェラー医学研究所、ワシントン・カーネギー研究所はまず既存の大学から独立し研究のみに専念できる研究所を作った。そして財団と大学を結びつける役割を果たしたのが、国家研究評議会(NRC)だった。各国の研究所創設ブームは1911年ドイツのカイザー・ヴィルヘルム協会の設立で頂点を迎える。これはベルリン大学創立100年の祝賀会で、ヴィルヘルム2世が設立を宣言した。大学やその付属研究所では教授たちは教育のために時間が費やされており、研究が停滞しているとの認識のもと、純粋研究を行う独立研究機関として構想された。そしてここからは、物理科学・電気化学研究所の所長であったハーバーが空中窒素固定によるアンモニアの合成法の発見をきっかけに毒ガス兵器の製造を、また化学研究所のハーンとシュトラスマンがウランの核分裂反応を発見したことをきっかけに原子爆弾の製造につながったという意味で、同研究所は2つの大戦で「有効」に活用されたといえる。

 

文献:古川安『科学の社会史−ルネサンスから20世紀まで(増訂版)』(南窓社、2000年)

 

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで

科学の社会史―ルネサンスから20世紀まで