2015年度「社会科学の理論」期末レポート

 3年前受講した「社会科学の理論」という講義の期末レポートをアップさせて頂きます。1年生のときに書いたので、今読み返しておかしいとか、でしゃばってるなどと感じるところもありますが、そのままにしておきました。

 お題は、「指定文献から本を選んで書評を書く」でした。(今はもう別の課題になっているかもしれないです。)「構成は基本的に、1内容の要約→2自分の感想、考えたこと、とする」と指定がありました。また書き方として、

「(1)取り上げる文献の内容に立ち入って議論する。

(2)文献の内容を、それ以外の事柄(他の授業の内容、現代の社会問題、文学作品など)と

結び付けて議論する。

(3)2~3 冊の文献を選び、それらの内容を比較する。」

の3つのスタイルから選べとのことで、僕は(3)で書きました。字数は忘れましたが、多分3000字から4000字程度だったと思います。(評価はA+でした。)

 

デュルケム「社会学的方法の基準」書評

  科学としての社会学と心理学の方法の比較の検討

 

 日本では慣習的学問分類として自然科学、人文科学、社会科学という三つの体系がある。そしてこれに加えて、それぞれの各々の学問体系の中で進んだ専門化、細分化の流れに問題意識を持つ形で人間科学という新しいアプローチがなされたてきた。フランスでは人間科学と人文科学はともにsciences humainesといわれる。いずれにせよ重要なことは、社会科学や人間科学(人文科学)は共に自然科学を規範とする「科学」としての学問の成立を目指してきたということだ。そしてデュルケムは社会学的方法の基準の中で、近代社会を対象とする「科学」としての社会学の構想を述べている。本レポートでは彼のそうした社会学の構想の科学的な方法論に着目し、その概要と本質をまとめた後、人間科学の中で科学を志向した心理学における科学的な方法とを比較し、各々の方法の問題点を探ることを目的とする。

 自然科学において、例えば物理学は天体を科学の対象とし研究する。化学は有機物や無機物などの物質を対象としている。また精神医学等を除けば、通常医学は人間の身体をその対象とする。ここで共通するのは自然科学の対象は客観的な「物」であることだ。デュルケムもこの本の冒頭で社会学が対象とする「社会的事実」を定義する。彼は社会学特有の際立った特徴を持った事実が存在するという。それは「行動、思考、および感覚の諸要式からなっていて、個人に対しては外在し、かつ個人のうえにいやおうなく影響を課することのできる一種の強制力を持っている」ものと定義する。具体例として彼は近代社会における法や道徳などをあげている。それらは私たちの行為の外部にあって、かつ法に反すれば反作用を受けるし、道徳に反すれば公共意識によりその行為を抑制される。あるいは「集会のなかに生じる熱狂、憤激、憐憫」もあげている。これらも個人の意識を起源とせず外部からやってくるものだ。そしてこれらは個人から明確に区別される「一種独特の実在」を成している。つまり社会的事実とは個人の上に外部的な拘束をもたらし、個人から独立して存在する固有の行動様式である。そして彼はこれらを「物のように」研究する必要性を述べている。

 そしてこうした方法によって社会的事実を観察する際に彼はある注意を喚起している。それは科学の対象が持っている様々な種類のイメージによって私たちが抱く観念を取り除くことだ。例えばコントは従来の社会学で過去における人類の進歩をテーマとしたが、デュルケムはそうした進化はコントの主観的な表象だといい、科学における観察の中で認められるものは「相互に無関係に発生し、発展し、消滅をする個々の社会」しかないと述べる。

 さて次に彼が問題にしたのは観察における異常と正常の区別である。そして彼は「一般的な諸形態を示している事実」つまり最も平均的な類型の事実を正常的といい、他方を病理的と名付けることにする。ここで正常的であるということは有益であることを示さない。例えば彼は犯罪は正常的な現象という。なぜなら犯罪はどの社会にもいつの時代にも一定に現れるため、突如犯罪率が下がることの方がむしろ異常だと言うのだ。つまり犯罪はあるべきではないという意味での異常は、主観的な観察であり科学ではないというわけだ。

 次に正常や異常の判断は或る社会種との関係で導かれる物であるとし、社会種の類型に関する基準を示していく。そこで彼は分類するに際して「単純な社会とは、その内部にそれよりも単純な諸社会を含んでいない」ものと定義し、それを基礎とし「諸社会の示す合成の度合いに応じてそれらの社会を分類」することで変種を判断すると述べる。

 続いて彼は説明に関する基準を展開する。社会は単なる個人の集まりではなく、集団のある現象は個人の心理に起因するものではないことが述べられている。これは生物が無機質の分子の集まりに過ぎないのにもかかわらず、それらを結合させることが生物の特徴を生じさせることと同じだと主張する。従って「社会的事実の決定原因は、個人意識の諸状態ではなく、それに先立って存在していた社会的諸事実のうちに探求されなければならない」と結論づける。

 最後に証明に関する基準が考察される。彼は社会学的説明とは因果関係の確定にあると述べる。そして比較に際して「おなじ一つの原因にはつねにおなじ一つの結果が対応する」命題の設定の必要性を説く。つまり原因が複数存在する原理を避けている。

 以上デュルケムの科学としての社会学の方法論の本質をまとめると、まず扱う対象を客観的な物であり、個人の意識の外部の現象と定め、それらを主に一対一の因果関係によって説明するというものである。

 次にこうしたデュルケムが構想した社会学の「科学」的方法を、同様に科学を目指した心理学の方法と比較する。まず科学としての心理学の確立は、19世紀のドイツにおいてヴントが構想した実験心理学である。ここでの心理学が対象としたものは意識内容であり内観法によって記述しようとした。内観法とは自分の意識の内部で生じるはたらきを自分で述べる方法である。これはデュルケムの「社会的事実」と比較すれば明らかに自然科学から遠ざかった対象である。なぜなら、デュルケムが言う社会的事実とは個人の意識の「外部」にあって強制力をもった独特な現象だからである。つまりこれは観察者の主観的な意識からは明確に区別されたものであるのに対し、ヴントの実験心理学における対象たる意識内容はこうした主体である観察者の意識と区別されていない。つまりその内容は観察者しか分からないのであって、客観性はほとんど持ち得ない意味でデュルケムの方が科学的と言える。

 ところで心理学でも当然こうした実験心理学の内観法を問題視する中で新しいアプローチが生まれてきた。それが20世紀初頭にワトソンらによって提唱された行動主義心理学である。これは心に働きかけるある刺激に対してある反応を示すという図式を想定し、専ら刺激(S)と反応(R)との関係を観察するという方法であった。次にこうした行動主義の心理学者であるソーンダイクの実験における対象とデュルケムの社会的事実との比較をする。

 ソーンダイクはオペラント動機付けの実験の中で、問題箱を使った方法を行った。問題箱とは箱の中の踏み板を踏むことにより扉が開く仕組みになっているものだ。ここに空腹状態の猫を入れ、行動の観察を行った。ここで分析の対象としたのは「試行回数」と「脱出までの所用回数」である。この数字の比較により成功体験という快を伴う行動は反応傾向を高めるという効果の法則を導いた。この方法が観察の対象とした「数字」は社会的事実よりもより明確に客観的である。なぜなら数字は自分の外部にありかつ観察者の個人とは区別される指標だからである。そして数字は例えば物理学や化学でもその対象となるため自然科学に極めて近い科学的対象であるといえる。対して社会的事実では例えばデュルケムは法律や会合での熱狂を挙げた。確かにこれらは個人の意識の外部にあって場合によっては個人を抑圧するものだ。しかし結局法律とは政府、突き詰めれば人間がつくった制度である。あるいは熱狂も人間の感情の現れである。ここでこれらは心理的なものが介入しているということを指摘するわけではない。そうではなくてこれらの対象は人間を含んでいるため、それ自身では明確な客体として科学の対象にはならないのではないかと考える。例えば熱狂では熱狂を感じている自分が同時に他者にとっては熱狂を生み出す主体であることもありうるのだろう。また法律を提出し、承認した人々もまた同時にその法律に従うことになる。つまり特に人間を科学の対象とするにはそれ自身から独立した指標、例えば数値などを用いるような記述方法を独立して定めない限り正確な科学にはならないはずだ。つまり観察者としての主体と対象としての客体をはっきりと分ける必要があるだろう。そのための記述方法をデュルケムはこの書物のなかで触れていない。

 次に彼が着想した社会種の「類型」に関する科学的方法と心理学における人格の「類型」のその方法とを比較する。

 心理学における類型論とは幾つかの典型的な性格を持った人格モデルを想定し、それらとの類似度を評価するというものだ。分析心理学者であるユングは内向・外向という心理的方向性と感覚型、直感型、思考型、感情型という四つの心理的機能によって類型のモデルを考案した。この類型とデュルケムの社会種の類型を比較すると、共に科学的な方法とは言い難い問題を抱えることがわかる。まずデュルケムの類型では「単純な社会とは、その内部にそれよりも単純な諸社会を含んでいない」と述べるがそもそも単純とは何かを表す指標が外部に存在しない。そのため社会同士の比較をしても各々の関係は見えてこない。一方、ユングの類型論でも心理的方向性や機能に分類する際の客観的な指標がないため、科学的な手続きとは言えない。一方これに類似してギルフォードらが提唱した特性論があるが、これは性格テストの結果を統計的に処理する方法なので、数値という外的指標を分析するためより科学に近い方法と言える。

 以上デュルケムが構想した科学としての社会学の方法と同じく人間科学を志向した心理学の方法を比較して言えることは、デュルケムはこの書物の中で観察主体と客体対象を明確に区分するような外的指標を設ける形での記述方法に触れていないことが問題であると言える。またそれは心理学の幾つかの理論でも同様である。

 

文献:エミール・デュルケーム社会学的方法の規準』宮島 喬訳(岩波文庫、1978年)

鈴木昌夫、竹内美香『心理学入門:快体心書–”身体と心”の基礎と臨床』(川島書店、2005年)     

 

社会学的方法の規準 (岩波文庫 白 214-3)

社会学的方法の規準 (岩波文庫 白 214-3)

 

 

 

心理学入門:快体心書―“身体と心”の基礎と臨床

心理学入門:快体心書―“身体と心”の基礎と臨床