今週読んだ雑誌論文や論考の概要など

(1)青木洋・平本厚「科学技術動員と研究隣組-第二次大戦下日本の共同研究」『社会経済学史研究』通号68号(2003年1月)、501-522頁

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https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/68/5/68_KJ00004582648/_pdf/-char/ja

 

 本稿では、太平洋戦争末期に2年弱の間に技術院が主導した共同研究制度である「研究隣組の発足、展開の過程、その成果、影響が明らかにされる。1940年に結成された技術者団体である全日本科学技術統同会は、1942年に商工省より社会法人の許可を受け、学協会の科学動員への協力団体である全日本科学技術団体連合会=全科技連
に加盟し、それ以来研究隣組は全科技連の事業となった。統同会の案は全科技連と技術院に提出され、42年11月以降「模範的隣組」の選定に向けて動き出した。そのモデルとして選ばれたのは「真空管同好会」だった。背景には最先端技術としてのエレクトロニクスの台頭および、電波兵器の軍事的重要性があった。43年1月には内閣より「助成金交付指令書」が下され、隣組事業は正式に承認された。(最初の助成金額が8万。)研究隣組は、1943年3月から終戦までの2年半活動が続けられた。隣組の結成方法として一番多いのは委員会・幹事推薦だった。また研究主題の特徴は、戦時特有ないし緊急の課題として取り上げられていくことだった。組員数は総数で3082人だったが、当時の科学技術者の実数が25万人ということを考慮すると、組織率は全体の1.2%で、高くはなかった。しかし一方で、他の戦時下の共同研究制度と比較すると、例えば日本学術振興会の共同研究に従事した研究者は2027人であり、隣組の研究者数は最も多かった。また月平均0.51回会合が開かれた。予算については、43年度は約28万円で、収入は政府助成金とその利子だった。支出は運営委員会の費用で7万2100円、隣組費が19万8000円だった。後者は会合に伴う費用だった。つまり隣組に支給される費用は研究費ではなく、あくまで、会合を開くための費用だった。この点に同一主題の研究者が集まること自体を重要視していた本制度の特徴が表れている。終盤に入ると、1944年5月に運営委員会で京都・九州両帝国大学の関係者より23組の隣組の申請がなされた。しかしこれは大学の研究者を中心とした隣組であり、研究生産現場の有機的連絡という理念とはかけ離れていた。いわば、予算獲得のために大学関係者が結成したものだと捉えられても仕方がなかった。このように終盤にはその理念が形骸化していったが、しかし具体的な成果もあった。例えば大量生産に関する隣組(1001番)は、日本で最初に統計的品質管理の研究、実践に取り組んだグループだった。高誘電材料に関する8012番の研究では強誘電体「チタン酸バリウム」が発見され、これは電子材料と物性論の共同研究であったからこその成果だった。そして、戦後日本における強誘電体研究所と、コンデンサ・メーカーの躍進につながった。また実際に隣組に参加した研究者の回想からわかるように、本制度はそれまで孤立していた各学会の壁を取り払って、異なる研究所、大学、企業の研究者間のコミュニケーションの体験になったという重要な遺産もあった。

 

(2)水沢光「日本における研究助成の制度化(小特集 日本戦時科学史と現代)」『科学史研究』第56巻(2017年)、138-142頁

 

   本発表は、研究助成の制度化をめぐる近年の研究成果を概観し、今後の研究を進める上での土台と、戦時研究の現代的意義を考える基盤を提供するものだと述べられる。
  第2節では、研究助成の対象について整理される。1933年に創設された日本学術振興会研究費は、当初から応用研究を重視しており、特に日中戦争勃発後、軍部からの要請を受けて、「総合研究」が急速に進展した。また後年、工学分野の割合が増加するが、その背景には産業界からの用途指定寄付金を受け取るようになったこと、1938年以降軍部や官庁からの委託研究費も受け取るようになったことがあると指摘される。一方で、1939年に創設された科学研究費交付金は、基礎研究に重点を置くものであった。ここでが共同研究においても、研究課題一件当たりの額は比較的少なく、幅広い分野に研究費が配分される小規模分散型の研究助成だった。そして戦後まで一貫して自然科学の各分野に満遍なく研究費を配分し続けた。
  第3節では、制度化の背景が整理される。1939年の文部省の科学研究費交付金の創設の背景には、企画院の一連の科学行政(1938年に科学審議会を設置、39年に総動員試験研究令を施行、41年に技術院を設立)の展開に刺激を受けたことがある。また日本学術振興会の設立や、科学研究費補助金の創設は、科学振興をもとめる科学運動の成果でもあった。日本学術振興会は帝国学士院の院長だった桜井錠二らの建議を直接のきっかけとしている。そして、基礎研究を重視する科学研究費交付金の創設の背景には、「基礎研究こそが技術発展の根源」という「リニア・モデル」の考え方が日本でも共有されていたこと、および、1938年後半から始まった対日封鎖の動きがある。
 第4節では、研究助成の影響について整理される。日本学術振興会研究費と科学研究費交付金の創設に伴い、研究活動の量的拡大をもたらしただけでなく、客観性や実証性を重視する研究内容の「科学」化といった質的な変化をももたらした。美術史研究者の太田によると、古美術研究への助成金の拡充と研究者の社会的責任の自覚の向上により、真贋鑑定の精度向上を目指すべく、化学的、光学的といった科学的方法を確立しようとしたという。また研究助成は、大学の研究者と産業界、陸海軍との共同研究の進展をももたらした。総合研究の委員会は各セクターの相互交流の場となった。日本学術振興会研究費は、それまで各セクターを超えた交流の乏しかった状況を部分的に打破しながら軍産学の結びつきを強める働きをしたと分析される。

 

科学史研究2017年7月号 No.282

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