広重徹『科学の社会史(下)–経済成長と科学』

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 第7章では、教育に焦点が当てられる。大正時代に実現した高等教育拡張の負の遺産として、卒業生の直面した進学難・就職難があった。1931年文部省が提出した改革案を皮切り位に議論が盛んになったが、多くの改革案に共通する特徴として、(1)人格教育の強化(マルクス主義の広がりへの思想的対抗策)、(2)教育の実際化(職業教育重視)、(3)画一性の打破(教育内容に柔軟性を持たせる)、(4)修学年数短縮(経済的負担の軽減)などが挙げられるという。産業の高度化、戦争体制をめざしての生産力の上昇、それにともなう労働者の知識水準の一定の向上の要求と専門家への需要の増加が反映され、案外ともいえるほど近代化への思考をもっていたことがわかると、著者は指摘する。しかし経済不況による失業者の増大、就職難が昭和初期の教育改革論の動機であったため、高等教育の拡大が話題に上ることはなかった。また経済恐慌が深刻化する中、労働運動が激化し、文部省は思想対策に乗り出した。特に社会科学の方面では学問・思想の自由をめぐる議論が、そこから生じてきた。1930年代初めは高等教育縮小が望まれていたのにも関わらず、自然科学系の大学・専門学校は新設された。阪大設立はその一例だが、それを実現させたのは地元財界からの議会勢力への働きかけであった。背景には基礎的研究に裏付けられた技術の発展への待望があった。満州事変後、軍事化が進む中、景気は回復し失業者は減少し、理工系の就職率も好転する。それは日中戦争で拍車がかかった。会社・向上は在学中の理工系学生を競って奪い合った。そうした中、政府は1938年、国家総動員法を発動して、学校卒業者使用制限を公布し、翌年実施された。そして、この時期になってようやく新設校が一挙に増えた。文部省が人格行政中心の教育改革を唱えていたのに対し、1935年に内閣調査局とともに設置された内閣審議会では、より近代的・合理的な教育改革が議論された。例えば、動員による専門家の需要の増加から女子大学の創設を力説したり、私立大学の自然科学に関する施設に助成をしたり、共同/総合研究を促進するために必要な制度の整備が議論された。また、商工省の生産管理委員会が1938年に提出した報告書の中には「産学協同制度(cooperative system)」の導入をすでに主張していることが注目されるという。教育審議会は42年5月に廃止され、第東亜建設審議会第2部へと引き継がれ、5月の答申では、教育に関する国家統制の徹底、理科系の拡充が主張された。またこの時期軍部からの要請で修学年数の短縮が求められたが、これには学科側の反対があり、対抗策として第1期2期からなる大学院制度が整備された。これは現在の修士/博士のコースからなる大学院制度へ引き継がれている。だが、戦局の悪化とともに、教育は急速に崩壊していった。

 

 第8章 科学動員の終焉では、まず「南方科学」のブームについて述べられる。南方科学とは、日本が占領した東南アジア各地において、天然資源の開発や日本人が南方の環境に純化するための研究のことで、1942年から多くの科学者が陸軍司政長官に任ぜられ、既存の研究機関の長として赴任した。その一方国内でも多数の南方研究が始まり、占領地への科学調査団の派遣なども行われた。筆者はここで、南方研究に従事した科学者の欧米諸国への劣等感に注目している。次に欧米の科学文献からの隔絶を受けて、文部省によるドイツの科学情報速報計画と、技術院による科学技術文献蒐集翻訳機関について言及される。官庁で組織が重複する中、合理的な「組織」として注目されたのが、1942年に設置された「研究隣組」であった。これは、研究テーマが近い科学者同士を「隣組」にし、相互連携を密にすることを図るもので、1943年に仁科芳雄が委員長に就任した。もう一つ、同じ年に設立した「調査研究連盟」も、企業に属する研究機関の相互連絡を密にし、政府の統制化に置くことを目的としていた。これは1944年に解体し、財政法人調査研究動員本部に変わる。特に国内の特許に関しては、技術の公開に様々な障害があり、進展しなかった。1942年頃いろいろな組織が出来、科学動員が進んでいるとの印象を受けるが、実質的には、組織の重複、セクショナリズム、人手不足、連絡の悪さなどを原因として、停滞していたという。1943年の工業化学会が政府に提出した意見書では、研究者に責任感がない、実用化への熱意が不足しているなどの受け身の姿勢が指摘されていた。新たな進展は、ミッドウェー海戦を境に戦局が悪化していくことでおき、43年以降になって漸く科学動員への要請が真実みを帯びてきた。43年10月には、研究動員会議官制と、臨時戦時研究員設置制が公布され、翌年には第一次戦時研究員が66名任命された。6月に電波兵器研究を中心に行った多摩陸軍技術研究所と、超短波研究を行う海軍島田実験所が設置され、11月には理化学研究所に「決戦研究部」が設置され、戦時研究に励んだ。しかし、動員自体はなかなか進まなかった。理由としては研究資材がとてつもなく不足していたことと、組織の重複もかえって増大したことが挙げられる。そして敗戦を迎える。科学動員の最大の遺産は、学会の前近代性を打破する努力がなされたことで、科学行政の経験がつまれ、数々の個別的な制度、施設が創設されたことも大きな意味を持っていると述べられる。特に科学研究費という制度は重要な「遺産」だった。

 

文献:広重徹『科学の社会史(下)-経済成長と科学』

 

科学の社会史〈下〉経済成長と科学 (岩波現代文庫)

科学の社会史〈下〉経済成長と科学 (岩波現代文庫)