広重徹『科学の社会史(上)-戦争と科学』

 普通「社会史」というと、歴史学の講義などではこう説明されると思う。19世紀のマルク・ブロックらに代表される実証主義歴史学は、国ごとの政治の流れを中心とした歴史が主流で、政治上重要な人物や法律の制定などに焦点が当たっていた。一方で政治上重要なファクター以外に焦点を当てたような歴史、例えば一般民衆の「心性」を記述する歴史といった、「政治史の檻」から脱却した20世紀のアナール学派に代表される歴史が社会史や文化史であるといった具合にだ。しかし、科学史でいう「社会史」はこうした通常歴史学で用いる意味と少し異なる(と吉岡斉氏の解説では述べられる)。科学史は科学の歴史であるから、まず科学の学説の歴史を記述する学説史がある。これはインターナルヒストリーと言われる。一方で、科学の社会的活動としての歴史が「社会史」(エクスターナルヒストリー)となる。本書は後者の科学史の書になる。また、本書が多くのページをさいて論じている戦時科学史であり、特に制度的な側面に焦点を当てて、科学動員がどうなされ、戦時「体制」がどう形成されていったのかが分析される。
 戦時科学史の制度的な側面の研究の意義、重要性を思いつくままに列挙すると、3つくらいあると思う。
 まず第一に、普通、制度が整って初めて研究成果が出るという事情だ。科学が近代化するためには、まずそもそも制度が近代化されていたければならない。第二に、多くの大学、研究所、助成金といった制度は戦時から戦後にかけて連続して残っているということだ。例えば、京大は日清戦争の賠償金で創設されたし、現在の文科省科研費日中戦争中に制度化された。だから、現在の科学研究の実態を捉えるために、それらが整備されたルーツまで辿って、どんな契機で生まれたかを調べることは不可欠になると思う。最後に、制度という「仕組み」の中では、たとえ平和思想の持ち主である科学者であっても、その制度の中で研究に従事するほかはないという意味で、強固であるということも、重要な理由だと思う。実際科学研究はポケットマネーでできるものではなく、政府からの資金制度の中で営行わざるを得ない。
 以下では戦時科学を扱った第4章から第8章を、(かなり荒い部分もあるが)まとめておきたいと思う。

   

 第4章では、科学動員の最初の一歩がどのように踏み出されたか、また国家の科学への投資の第二段階を画することになる日本学術振興会がどのように誕生し、どのような歴史的意義を担ったかが考察される。1927年に金融恐慌が勃発し、経済的苦境から脱却すべく、それを機縁として明確な中国進出を掲げたことが、その後の日本の科学動員の進路に決定的に方向付けが与えた。日本の軍国主義化と引き換えの財政膨張と産業の発展が科学研究の発展を促進する条件を与えた。科学史的な観点から見て重要なのは、内閣資源局の行った事業であると、筆者は述べる。資源局は内閣総理大臣に属し、人的、物的資源の調査と、統制運用計画に関する事項統括する役割を担っており、1927年に発足した。成立の事情からも明らかなように、これらは軍事目的の動員を目指す機関だった。1933年には「国家重要研究事項」を発表し、これは将来研究補助金を出すときの優先基準にものなると言われた。研究補助金の大規模な助成は資源局ではなく、のちに創設される日本学術振興会によって実現された。当時の研究費や研究機関の実状に関して、今日の総務省の統計のような完備したデータはないが、1930年に資源局が行った調査から、ある程度の状況は読み取ることができるという。それによると、当時工学関係の研究機関の数は、349(国立73、公立83、私立193)であった。研究者の数は2729人(国立829、公立551、私立1349人)であった。研究経費は人件費703万円、研究費705万円、その他164万円の総額1572万円で、 1970年当時の金額に換算すると、75億円に相当するという。一機関あたりの研究者数は、国立で15名弱、公立で7名弱、私立で約7名であり、研究といっても名ばかりのことしかできなかった。また研究経費には軍関係のものを含んでいないが、資源局の松井春生が機関紙に寄せた文章から、総研究費は3000万円に達すると分かり、差額の1400万円が陸海軍の経費を表すものであると考えられる。(軍の機関数は17で、全体の20分の1しかないが、研究費は半分近くを食っていたことになる。)経常費以外に当時利用できた資金源は、政府各省の補助金と、民間財団の資金と、帝国学士院の研究補助金があった。研究活動の内容について見れば、研究機関の間の連絡統一を図る必要が強く感じられていたことがわかるという。研究費の増大と研究体制の近代化、合理化が、国家による統一と一体のものとしてとらえられていた。そして、研究費の増大と諸機関の連絡調整の促進という点で、著しい前進をもたらしたのが、日本学術振興会であった。桜井錠二や古市公威、小野塚喜平次の学会長老らの呼びかけで、1931年に学士院に集まり、協議したことをきっかけに、1932年に正式に誕生した。学振の意義は、その桁違いの額の大きさであり、商工省や学士院の補助金を合わせても、その3倍近い額にも上った。さらに重要なことは、学振が個人研究費ともに、総合研究を促進しており、大学や研究機関の間の連携を図り、研究活動を産業軍事に結びつける狙いを持っていたということだった。このような豊富な資金と、近代化への志向とに支えられた学振は、また、日本の研究水準を上昇させた。たとえば、2人のノーベル賞受賞者を出した原子核宇宙線の研究は、学振の第10小委員会によって、本格的軌道に乗った。戦争へ向けての科学の国家的動員の中で、初めて研究らしい研究が行われ、世界水準に近づくことができた。

 

 第5章では、最初に軍事国家を目指しての科学振興と並行して進められた思想言論の抑圧について述べられる。1932年の特別高等警察部の設置、1933年の河上肇の検挙、小林多喜二の虐殺、メートル法反対運動を経て、35年の天皇機関説事件で教育、文化の国家主義的統制の決定的な前進がもたらされた。また36年の二・二六事件によって、日本は決定的にファシズム体制に向かうことになる。こうした中、小倉金之助石原純は文化統制にたいして、「科学的精神」を対置することによって抵抗を試みた。しかし今日的な観点からすると、こうした抵抗には内在的な弱みがあったと著者は主張する。それは20世紀の科学は社会科学やマルクス主義の代用とするわけには行かず、思想なしでやっていける科学になっていたということを見落としていたことにある。19世紀の間に科学は、それを生み出した思想的なものを離れ、どこにでも誰にでも使うことのできる道具的なものに変貌していた。ここでは科学を推進することが社会的反動と矛盾することなく結びつき、さらには戦争協力の論理にさえ転化しうる可能性をも含んでいた。こうした点を見逃していたことが、「科学的精神」の批判論理としての限界だったと指摘する。一方、軍部は経済、産業の合理的な計画統制が必要で、その一環として科学研究の動員が重要であることを認識していた。1929年の軍制調査会、31年の陸軍改革案、33年の陸軍志野学校の設立、37年の陸軍航空技術研究所の設立などが着々と進んでいった。とりわけ注目していたことは気象事業であった。また31年の重要産業統制法により、軍事上・国策上必要なときは技術の改善・研究を政府が命じうるということが定められた。また植民地においても科学振興が進められた。31年の上海自然科学研究所の設立、07年の関東州督府中央試験所設立などが進められ、後者では、新しいコンツェルン満州に進出し、大胆な重化学工業の建設に手をつけ、財閥系企業が大々的に乗り出す下地をつくった。また、満州国は、国内では官庁の割拠主義が強くて到底不可能だったことができる、技術官僚にとっては国家統制計画の最良の実験場であったとも指摘される。1935年には陸軍の働きかけで、内閣審議会と内閣調査局が設置され37年日中戦争が始まったことを契機に、企画院と資源局を合わせた動員の中枢機関として、企画院が設立された。なお、企画院はもとの内閣調査局である。この企画院のもとで国家総動員法が制定された。また38年に企画院の審議の結果、科学審議会が創設される。ここは、不足資源の科学的補填について調査審議することを目的とした。

 

 

 第6章 科学技術新体制では、日中戦争の長期化に伴って登場した科学動員の新しい側面について述べられる。新しい要素とは、第一に1938年の内閣改造で、陸軍大将荒木貞夫が文部大臣になったことを契機に、文部省による科学行政の積極化が始まったということである。1938年8月にはさっそく科学振興調査会が設置され、ここで文部省の諮問に応じて科学振興に関する重要事項が調査審議されるようになった。そして、調査会自らの建議で、1939年文部省科学研究費交付金が創設され、その事務を担う独立課として科学局が1942年発足した。この科研費の創設の背景には、基礎科学が十分でないとの認識であり、荒木は、科研費は何の役に立つかなど言わずに、使い捨てにするつもりでなければならないと述べている。そして1938年以降の科学動員に現れるより一層重要な新要素は、資源問題から産業技術全般への目標の拡大である。1939年5月に企画院の中に独立の科学部を設置して、そこで科学動員と科学研究を扱うことになった。また7月には科学審議会に対して、「機械類の国内供給力充足に関する具体的な方策」についての諮問が発せられた。またノモンハン事件第二次世界大戦の開幕がこうした動員拡大に拍車をかけた。科学動員の動きの中心は企画院と興亜院だった。後者は陸軍の強い要求で1938年に対中国政策の一元的中枢として設置された。部長には宮本武之輔が任命された。また1940年には科学動員計画要項が閣議決定され、研究者と資材の確保、配分が計画された。企画院は1940年9月に「科学技術新体制確立要綱」の原案を完成させ、技術行政の統一機関として、技術院を置き、同時に科学院をおいて官公私立の研究機関をそのもとに統合再編成し、設備の拡充と経費の増大をはかるという構想をした。ここでは私企業の特許を公開させ、技術の国家管理が図られたが、産業界からの、技術向上心を鈍らせるという批判や、縄張りを守ろうとする既存官僚組織からの反対、また科学者サイドからの研究は自由に行うことによってのみ成果をあげる得るといった批判が出て、構想は流産してしまった。学術振興会や文部省などからも同様の抵抗があった。この時期は学会長老よりも基礎科学の中堅層から、学会主流への批判と、戦争協力の声が上がり始めた。難航を極めた「科学技術新体制確立要綱」は1941年5月にやっと閣議決定にこぎつけた。ここには研究体制の近代化・合理化への意志が強く感じられる一方、その実施にあたっては多くの抵抗を呼び起こし、特に行政機関としての技術院の官制が公布されたのは1942年だった。技術院は陸軍の主張を受けて、航空中心の科学技術の躍進を図ることに重点が置かれた。

 

文献:広重徹『科学の社会史(上)–戦争と科学』(岩波現代文庫、2002年)

 

科学の社会史〈上〉戦争と科学 (岩波現代文庫)

科学の社会史〈上〉戦争と科学 (岩波現代文庫)