劣化ウラン弾の問題に引きつけて:藤垣裕子「科学者の社会的責任 第四回」

 前回、『劣化ウラン弾』を通じて、劣化ウランによる被曝と先天性障害などの健康被害との因果関係が「科学的」に証明できないからといって、対策をしないことは良いのかどうかという問題を抽出した。(WHOはイラクにおけるアセスメントの結果、因果関係は明確に実証できないと結論付けていた。) そして、前から追っている4月の『科学』の藤垣氏の論考が、ちょうど「予防原則」に関する議論だったので、劣化ウランの問題に関連させながらまとめていきたいと思う。

 

【要約】

 まず予防原則を正確に定義すると、「環境や人の健康に重大で不可逆的な悪影響が生じる恐れがある場合には、その科学的証拠が不十分であっても対策を延期すべきではない、もしくは対策をとるべきである、とするリスク管理の原則」となる。予防原則を採用する場合、責任をどのように設計するかは難しい問題を含むという。なぜなら、時々刻々と変化する事実(=作動中の科学)に対応して、ある時点での「事実A」に基づいた判断が、数十年後の「事実B」からみて誤っていた場合、前者の判断による責任は、どのように定式化すべきかという問題が生起するからだ。具体的に、「もんじゅ裁判」では、設置許可当時問題がなくても、現在の科学的水準に照らして不十分であることがわかれば、設置許可処分は違法であるとして取り消すべきであるという、事実B重視の判決が下された。一方、「薬害エイズ事件」では当時の医療水準がいわばそのときの法律にあたるため、今日の医療水準からみて誤っていたとしても適法であるという、事実A重視の判決が出た。また「もんじゅ裁判」の事例では、国際比較によると、日本が取った対応に遅れが見られた。これは国としての意思決定システムの責任の問題である。システムとしての責任を考える際は、統計学の「第2種の過誤」つまり「厳密に解明できないこと=問題がないこと」としてしまう傾向を行政に応用し、それを避けなければならないという。そのために①科学的不確かさが残っていても対応するシステムと、②同時並行して科学的探求を続けていくシステムと、③新知見が出てきた時の責任の分担システム、とを構築していく必要があるという。

 第2節では、科学者の予測を超えて研究成果が社会に影響を及ぼす事態における責任について考察される。この問いに対し、J・フォージは「標準的見解」に対して、「広い味方」を提示した。つまり、行為の結果に対して行為者が責任を負うのは、行為者が結果を意図していた場合に限らず、結果が十分予見されるに足る証拠がある場合にも責任が生じるという考えを示した。昨今の例を出すと、無人飛行技術と遠隔操作技術を組み合わせれば、人間が容易に入ることのできないドローンを飛ばし、情報を得るといた民生用の用途が開けると同時に、それは軍事用の無人殺戮兵器の開発の用途にも開けている。開発者の「意図」が民生用であって、兵器を作る意図がない場合でも、この「広い味方」をとれば責任が生じるというわけである。

 第3節では、科学者にも長期影響が予測できないような状況でなんらかの公共意思決定を行うとき、科学者の助言は一意に定まるべきか、幅があるのが当然と考えるべきかという問題が扱われる。結論だけまとめると、筆者は、専門家同士の意見の対立を公に開くの避け統一見解(unique voice)を出そうとすれば、公衆にいつまでも科学への幻想を抱かせることになると述べる。したがって専門家は幅のある助言を投げかけ、そして市民の側は専門家に行動基準を一つに決めてほしいと丸投げするのではなく、幅のある情報の中から自ら選択する力(シティズンシップ=市民性)を持つ必要があると結論づけている。

 

劣化ウランの問題と関連して】  

 まず、劣化ウランによる被曝と先天性障害などの健康被害との因果関係は、領域的には「疫学」に分類されるだろう。しかし、本稿が示唆しているように、疫学に限らず、そもそも科学全体が時々刻々と変化する「作動中の科学」なのであり、科学的知見が変化することはごくあたりまえだという事実は抑えるべきかもしれないと思った。しかしその上で、(自然)科学の諸領域における科学的知見の妥当性境界の変遷を比較することは意味があると思う。特に人間を対象にした科学や、観察不可能な対象を持つ科学は、その他の領域に比べて知見が変化しやすい、あるいは確率でしか表現できないという事態があるような気がする。そこに特有の問題を見出せるかもしれない。

 また 、J・フォージの「広い見方」は、一見正しいように見えるが、その根拠をしっかり定めないと空虚な論になりかねないと思う。劣化ウランの例に落とし込むと、劣化ウラン原発に端を発し、その原発は原爆に端を発し、さらに原爆は実験室内部の核物理学の知見に由来している。フォージの見解を認めるなら、こうした過程に手を貸した人々、遡れば核物理学に貢献した物理学者まで責任をとらなければならないということになりそうだが、それは実現できるのか。

 一方筆者のいう、専門家はユニークボイスではなく幅のある助言を出した上で、市民がその中から選択するというアイデアは重要だと思う。劣化ウランの健康への影響は様々な見解があるにちがいない。(実験デザインを少し変えただけで、大きく結論に影響するということもありそうだ。)しかし、その数多くの情報から市民が選択する場合、その基準は科学的妥当性だけではなく、その非人道性を訴える力、あるいは政治的な非対称性を訴える力なども加わり、それらを合わせて決める道が開ける。ただそれをどういう仕組みで、どう実現するかはとても難しい問題だ。

 

文献:藤垣裕子「科学者の社会的責任第四回」『科学』第88巻第4号(2018年)、392-398頁。

 

科学 2018年 04 月号 [雑誌]

科学 2018年 04 月号 [雑誌]

 

 

 

科学者の責任―哲学的探究

科学者の責任―哲学的探究