フランクル『夜と霧』を読みました。

 アドルノはかつて、アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮だと述べた。アウシュビッツの収容所で起きた歴史の巨大なトラウマを表象しようとしても、表象した途端にそれは裏切られ、嘘になり、詩人は表象不可能性の臨界で立ち止まらなければならないというわけだ。(しかしそれでもなお、パウル・ツェランのような詩人は、朗々と美しく歌える詩を粉々に砕いて、その破片の集まりからかろうじてアウシュビッツを表象できる詩とは何かを試みたし、クロード・ランズマンは『ショア』という長大なドキュメンタリー映画において、生き残りの雄弁な証言をフューチャーするのではなく、巨大な外傷経験が回復することで、口ごもり、震え、沈黙する姿を通じて逆にアウシュビッツを表象しようと試みた。)
(これに関する議論は「表象とその臨界」をテーマにした浅田彰・渡邉守章による対談に詳しい。↓)

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 さて、『夜と霧』は、心理学者である著者が強制収容所の体験を証言したもので、教科書にも乗るほどの名著であるということはよく知られていると思う。本書では、強制収容所で著者自らが体験したこと、あるいは観察したことから、被収容者の心の反応を三段階に分類し、それぞれにおいて、いかに過酷な環境で労働させられたか、そして他の被収容者が死んでいくか様が、しばしば個人的な体験も含めて、詳細に語られる。しかし一方で、ガス室大量殺戮といった陰惨な出来事に対しては、著者は口ごもり、語ろうとしない。例えば18頁にはこう書かれている。

 

 「それはわたしたちの移送団のほとんど、およそ90パーセントにとっては死の宣告だった。それは時をおかずに執行された。(わたしたちから見て)左にやられた者は、プラットホームのスロープから直接、焼却炉のある建物まで歩いていった。その建物には −そこで働かされていた人々が教えてくれたのだが− 「入浴施設」といろんなヨーロッパの言語で書かれた紙が貼ってあり、人々はおのおのの石けんを持たされた。そして何が起こったか。それについては言わなくれもいいだろう。すでに数々の信頼できる報告によって明らかにされているとおりだ。」

 

 本書を読むと、恰もホロコーストを理解したような気になるが、その実態を理解したと錯覚してはいけない。本書はいかにホロコーストが悲惨な体験であったかを語る本ではなく、そこに置かれた人間の「希望」を語り、人間そのものについての深い洞察を与える本だ。

 僕は読んでいて驚いたことが二つあった。一つ目の驚きは、112頁の一節を読んだ瞬間に起こった。

 

 「強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。」
 そして、その後こう続く。
「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。」
 
 僕は最初、意味がわからなかった。著者はついに、気が狂ったのかもしれないとさえ思った。収容された著者に生じたのは、ナチスに対する怒りでもなく、解放への欲望でもなく、こうした苦しみにさえ意味があるという「希望」だった。実際にこうした希望を持てた人間は少数だったのかもしれない。しかし、フランクルは「それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明してあまりある(p114)」と言う。人間とはいかに不思議な存在なのだろう。「人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ。(p145)」

 

 二つ目の驚きは、旧訳者のあとがきを読んだときに訪れた。そこには「彼の両親、妻、子供たちは、或いはガスで殺され、或いは餓死した」とある。ああ、そうだったのかと胸が締め付けられる思いがした。本文で、家族や妻が殺されたとの記述はない。しかしそれを想起し、示唆するような記述はある。ここでは、最後の箇所を引用したい。

「収容所で唯一の心の支えにしていた愛する人がもういない人間は哀れだ。夢にみて憧れの涙をさんざん流したあの瞬間が今や現実になったのに、思い描いたのとは違っていた、まるで違っていた人間は哀れだ。(p155)」

 著者は、あたかも客観的に「人間」という言葉を用いて、愛する妻がいない人間の悲しみを語っている。しかし、それは他ならない、著者自身の姿であった。

 

 最後に、科学史を学ぶはしくれとして、触れておきたいことがある。それはアウシュビッツヒロシマといった悲惨な出来事が、科学を介することで実現されたという事実だ。毒ガスの開発は、ドイツのハーバーが、原爆の開発は、元は科学の内部の知識を、アメリカのマンハッタン計画という形で多くの科学者・技術者が動員されることで、実現されたものだった。この事実が提起する問題は大きいと思う。この悲惨さを、科学のもつ非人間性などと、一言でまとめることはできないかもしれないが、科学技術を介した暴力、あるいは殺戮は、そうでない場合と決定的に断絶し、跳躍していると思わざるを得ない。

 

 文献:ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧ー新版』池田香代子訳 (みすず書房、2002年)

 

夜と霧 新版

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