水沢光「日中戦争下における基礎研究シフトー科学研究費交付金の創設」『科学史研究』第51巻(2016年)、210-219頁。

 【概要】
 1939年3月に創設された科学研究費交付金(現在の科学研究費補助金の前身)は、それ以前の予算規模に比べて格段に大きく、また基礎研究に重点を置く特徴を持っていた。科学研究費交付金の創設に関しての従来の指摘は、『学制百年史』に、科学振興調査会は、戦時下の科学封鎖を打開するために国内の科学研究の振興の必要性が認識され、その答申に基づいて文部省が創設したという説明がある。しかし、1939年時点ではまだ日本に対して科学封鎖は本格化していなかったことから、この説明には実情にそぐわない点がある。また先行研究として、広重は、1938年に陸軍大将であった荒木貞夫が文部大臣に就任したことを契機に、文部省が科学行政に積極的になったという分析をしている。しかし、実際には荒木が就任する以前から文部省は政策の転換を模索していた。一方、沢井は文部省と企画院の対立に注目し、企画院の科学審議会に対抗する形で、科学振興調査会を創設したのだと説明している。また河村は科学振興調査会幹事の有光次郎の日記をもとに、文部省の行政が企画院の活動の影響を受けていたことを明らかにしている。水沢は、こうした研究は当時の文部省の状況を理解する上で重要であるとした上で、戦時下で基礎的研究を重視する政策が実行されるに至った社会経済的背景についても検討される必要があると述べる。 
 第2節では、科学研究費交付金が創設された時点では、まだ科学封鎖が本格化していなかったことが明らかにされる。理工系分野における海外学術情報の入手情報に関して、1930年代後半から、太平洋戦争開始までは、二つの期間に分けることができる。第1期は、1939年9月の第二次世界大戦勃発までで、学術情報の入手が順調だった時期である。第二期はそれ以降で、各国による輸入制限が本格化する時期である。1930年代以降、理工系の学術書の輸入は、軍需工業の活況による需要拡大を受けて、著しく増加した。1938年になると、満州事変以降、日本製品へのボイコットの影響で、政府の為替管理政策による輸入制限がかかり、洋書輸入に大きな影響を与えた。だが、これはあくまで各国による輸入制限ではなく、貿易赤字を原因とした輸入制限だった。一方で1938年の半ば頃から、軍需製品の油種規制や、日本人留学生の受け入れ規制が行われるようになる。輸出規制の影響で最も顕著だったのはアメリカで、1939年以降、アメリカ政府の以降により日本への航空機および航空部品の輸出はほとんど行われなくなった。また1939年初頭には各国の教育研究機関においても、日本人留学生の受け入れを制限したり、視察を拒否したりする動きが広がってきた。この時点で、書籍の輸出を制限するような施策を打ち出したのは、ソ連などごく一部の国だけだった。その後第二次世界大戦が勃発すると、イギリス、フランス、イタリアなどでも書籍の輸入制限が本格化した。実際に理工系分野の学術書の入手が困難になるのは1941年半ば以降だった。このことから、科学研究費交付金が創設された1939年3月の時点においては、まだ科学封鎖は本格化していなかった。ましてや、科学研究費交付金の創設の元となった科学振興調査会の設置が検討されたのは1938年前半の時点である。
 それでは、1938年に文部省が科学行政を積極化したのはなぜか。第3節では科学界の進言について考察することで、科学封鎖とは別の問題が存在していたことが明らかにされる。先述したように、科学研究費交付金の創設は、科学振興調査会の3回にわたる答申に基づくものでだったが、その科学振興調査会の設置は1938年春に行われた桜井錠二、田中舘愛橘らによる科学界からの木戸幸一文部大臣への進言をきっかけにしたものであった。また『木戸幸一日記』によると、その進言は具体的に、4月25日の正午に、東京神田の学士会館で、桜井錠二、田中舘愛橘ら科学者側と、木戸幸一ら文部省との間で、昼食をとりながら行われたことがわかる。水沢は、進言の背景には日中戦争に伴う不足資源問題の深刻化があると指摘する。日本学術会議による研究費補助は、軍需工業や不足資源の補填に関わる総合研究の額が、1936年から38年にかけて、3倍以上に増加している。また5月30日に学術会議が提出した建議からも、大学の研究者層、設備、研究費が貧弱であることが、日中戦争下で要求される総合研究を実施し、緊急問題の解決の障害になっていると述べていたことがわかる。また不足資源の問題を通じて科学振興策の拡充を求める科学界の主張は、社会的にも受け入れやすいものであった。こうした状況で、進言は科学振興調査会の設置へとつながった。科学振興調査会は第二回の総会において、特別委員会を設置し、そこでは日本が今後科学封鎖を受ける恐れがあるとの懸念が表明された。科学封鎖への危惧は、具体化しつつあった科学振興策を、後押しする役割を果たしていた。そして1939年文部省は科学研究費交付金300万円を予算に計上する。日本学術振興会の研究費が応用研究に重点をおいていたのに対し、科学研究費交付金は基礎的な分野の研究を推奨するという特徴を持っていた。実際、報告書からも多くは戦時下の緊急問題とは直接関係のない基礎研究であったことがわかる。1930年後半以降の研究費の推移をまとめると、日中戦争の元で、当初、応用研究が拡大したが、研究を進めるなかで、大学の研究環境が貧弱であることが障害になっているという認識が広がった。そのため、1939年以降、戦時下であるにもかかわらず、基礎研究の援助に重点を置く科学研究費交付金が創設されることになった。つまり、1939年に応用研究の推進から、基礎研究への重視へと「基礎研究シフト」がおこった。

 

 

科学史研究 2012年 12月号 [雑誌]

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