今週に読んだ雑誌論文や論考に対するコメントなど

(1)河村豊「戦時科学史から見た軍事研究と科学者」『現代思想』第44巻21号(2016年)、73-85頁

 

 2015年に始まった防衛省による「安全保障技術研究推進制度」及び、2016年に閣議決定された文科省経産省による「科学後術イノベーション総合戦略2016」を受けて、大学は防衛技術や安全保障技術などを対象にした研究費を申請できることになり、どのような態度をとるかを巡って対応が迫れれている。本稿ではこうした現代的問題を歴史的課題と捉え、これめでの戦時科学史の研究の成果を振り返り、再評価しつつ、70年前に行われた戦時研究、軍事研究を見直すというものである。
 戦時科学史について議論するために、河村はまず3つの「座標軸」を設定する。一つ目は戦時科学史研究をどう評価するかという問題。第二は当時の科学者がどのような戦時研究、軍事研究に加わったかという移行プロセスの問題。第三は軍事研究に動員された科学者の意識を決定していた要因は何かという問題である。(これらがどういう意味で「座標軸」であるかは不明だが。)
  第一の論点について、広重徹の「科学の体制化」論、常石敬一の「科学者の組織的犯罪」論の成果を振り返る。まず前者について、広重の「体制化」は二つの意味で用いられていると指摘する。一つ目は序章で述べられる「科学が国家と産業のそれぞれに包摂され、研究開発において国家と産業が癒着することによって、国家・産業・科学の三位一体ができあがる」という意味での「体制化」、つまり官産学体制(日本型の科学の体制化」)の意味である。二つ目は第9章において触れられる戦後アメリカの事例で、「産・軍・学そして国家の一体化」つまり産軍学官の四位一体の体制化(アメリカ型の科学の体制化)である。ここで、広重が『科学の社会史』を書いた1960年代は軍事研究に関わる資料にアクセスできなかったことから、日本の「軍」部の要素を取り除いて、「国家」の影響を語っていることを指摘する。そして現代的な観点からみると、戦時中の軍産学体制から戦後の産官学体制へとどのように転換してかという問いがいまれるという。(この辺りの論理展開がイマイチ不明。)そこから、敗戦後の脱軍事研究の選択の過程を、戦時科学史研究の末期問題として扱う必要があるということを述べる。後者については、常石が提示した「医学者の組織的犯罪」論(大学教授が陸軍委託研究員という形で現場研究員と軍とを媒介し、現場研究員はキャリアアップの指導と映る形で軍事研究に従事させる構造の中で行われる行為)を「科学者の組織的犯罪」と広げることで、組織内の秘匿性という問題点を浮き彫りにしている。(しかし秘匿性が問題であるという指摘は、なにも「組織的犯罪論」のみから抽出できる論点ではないだろう。「組織的犯罪論」からはもっと重要な論点を導けるような気がする。)
 第二の論点を考えるに際して、河村はまず、日本学術振興会が1937年に導入した「事変緊急研究」が始まった時点を、戦時研究の出発点と定める。その理由は、日中戦争で生じた要望を、学術振興会が陸海軍や他の政府機関から直接取り入れたこと、及び軍部側が科学者に積極的に意識改革を呼びかけたからであると述べる。しかしこの時点ではまだ、基礎研究をどのように応用研究や開発研究につなげていくかという手法が確立していなかった。そして戦時研究の次の段階においても、研究開発の手法を開拓する方向に進むことはなかった。次の段階とは、企画院および文部省の官僚が長老科学者から基礎的な科学振興の役割を奪うようになることである。しかしイギリスやアメリカが兵器開発のために基礎研究を進める軍事研究体制が整備していたのに対し、日本は資源の充足、産業振興のための研究に向かっていたという。転機となったのは、ガダルカナルからの撤退以後の軍戦備計画の変更で、43年に閣議決定された「科学研究の緊急整備方策要綱」である。これにより研究者、組織の数が拡充され、内容も通常の学術研究から、テーマ別に複数の研究者を共同で従事させる「共同研究」にシフトした。そして科学者に対しても戦争に向けた強いメッセージが発せられていた。科学局長や首相は「戦時的に頭を切り換える」ことを求めた。これに対し、当時の科学者はどう反応したのか。当時の東大総長だった内田祥三国家に大切な研究をやることが”道自ら通ず”と述べており、両者とも「心構え」が問題になっていたと指摘する。

 

(2)水沢光「陸軍における「航空研究所」設立構想と技術院の航空重点化」『科学史研究』第42巻(2002年)、31-39頁。

 

 日本の戦時科学技術動員の中枢として機能していた機関は、1941年に閣議決定された「科学技術新体制確立要綱」に基づいて設立された技術院だった。その設立に関しては行政対象を航空技術に絞るように陸軍が強い要求を行い、その結果、技術院は航空技術の刷新向上を中心とする行政機関となったことが知られている。技術院の設立に関する先行研究では、技術官僚のイニシアチブに注目する一方、陸軍の要求を技術官僚の構想を「ゆがめた」ものと評価されており、陸軍の要求は外圧として唐突に現れたものとして描いていた。本稿では陸軍の要求はどのような経緯で出てきたのか、またそれ以前の時期に陸軍が航空技術に対してどのような要求を掲げていたのかを分析し、技術院の活動に与えたもう一つの流れを明らかにする。
 第1節では、1930年代後半の陸軍における「航空省」及び「航空研究所」設立構想が取りあげられる。陸軍内で民間航空に関する具体的な統制策が出るきっかけは1931年の満州事変の際に、陸軍が日本航空輸送の転送機を徴用して、特殊輸送に従事させたことに成功したことだった。当時逓信局航空局には民間航空を軍事的な観点から動員する体制を持っていなかったので、民間航空に関する統制案の立案が進められることになった。このとき立案を主導したのは「統制派」と呼ばれるグループである。これは「皇道派」に対して現実的で具体的な改革構想を研究していた派閥であった。統制派は「対内国策要綱案に関する研究案」において、「航空院」及び「航空技術実験所」の設立を提案している。前者は、民間航空の振興・指導統制のための内閣直属の行政機関であった。後者は、民間会社に航空技術の指導・普及を行うことができる、学術研究のための研究所であった。
 もう一つの流れとして、陸軍航空視察団の提言がある。1935年4月から12月にかけて、ドイツ・フランス・イギリス・イタリア・ポーランド・アメリカを視察し、提出された報告書には、航空省の設立、および、内閣直属の「航空技術研究委員会」および「国立中央航空研究所」の設立を提言した。前者はヨーロッパからの影響、後者はアメリカ・イギリスの視察に基づいている。これら「対内国策要綱案に関する研究案」と陸軍航空視察団の提言は、逓信局航空局に代わる行政機関の新設を提言した点で共通していた。
 こうして、陸軍は新たな行政機関の新設を新内閣に執拗に要求していく。時期としては(1)1936年広田弘毅(こうき)内閣、(2)1937年2月の林銑十郎内閣、(3)同年6月の第一次近衛文麿内閣に対して積極的に要求を繰り返した。
 第2節では、陸軍の構想に対する海軍・逓信局の反応とその帰結が述べられる。陸軍内での民間航空の振興・指導統制策の構想は、逓信局の民間航空振興策にも影響を与えた。1935年に航空事業調査委員会における閣議決定によって、大規模な航空振興計画が計画された。こうした逓信省の計画は陸軍の要求に基づくものであった。1933年以降、航空事業調査委員会の委員には陸軍次官や陸軍航空本部長が務めており、陸軍はこの委員会を要求実現の手段として位置付けていたのである。そして37年小松茂逓信局航空局長に就任すると、軍事的観点から民間航空の振興・統制を強調する政策を打ち出すようになった。
 さて、陸軍の求めるこうした民間航空振興において、航空局を廃止して「航空局」として外局化させる構想があったが、これには二方面からの反発を受けた。一つは逓信局自体である。理由は逓信局が所轄する「航空に関する事項」を手放すことになるからである。もう一つは海軍である。海軍は航空省の創設を「空軍独立」に関係付けて捉えていた。海軍と空軍は一体となって訓練を行う必要があることから、こうした動きに反対したのだった。結局、1938年に逓信局の内局だった航空局が外局になるという形に収まった。
 この時期とほぼ同時に、逓信局と海軍による中央航空研究所の発足が準備されていた。設立をめぐる逓信局と海軍の連携の背景には、とりもなおさず、陸軍の求める航空省の設立を共同で葬り去るという狙いがあった。そして1939年4月に、陸軍を蚊帳の外に置いたまま、中央航空研究所が設立された。
 第3節では、技術院の高重点化へとつながるその後の展開について明らかにされる。中央航空研究所の設立が進む一方で、企画院科学部を中心とした技術官僚によって、科学技術動員の中枢機関である技術院が1942年に設立される。技術院と中央航空研究所の設立は、それぞれ固有の推進主体と起源を持つもので、ある意味独立した問題だった。しかし、陸軍の要求を通じて両者は奇妙な接点を持つようになった。
 技術院は航空技術の振興を中心とする行政機関として設立されることになったが、その背景には陸軍が行政対象を航空技術に絞るように強く要求したことがある。技術院の設立に伴い、逓信局所轄の中央航空研究所は技術院の監督下に置かれることになった。この移行には二転三転したという。文部省も逓信局も移管に対して反対する旨を企画院に提示していた。しかし、(その後の詳しい経過を不明だそうだが)1942年に中央航空研究所は技術院の監督下に移管した。背景には、やはり陸軍の海軍への反発があった。陸軍は、中央航空研究所の建設における海軍・航空局の連携に反発し、主権の回復をねらい、中央航空研究所の内閣への移管を望んだのである。
 以上をまとめると、技術院の航空重点化に背景には陸軍の要求があったが、それは中央航空研究所の運営における主導権を回復させ、技術院の監督下におくことを主張したという経緯があった。よって陸軍の要求が技術官僚の構想をゆがめたという評価は一面的であり、実際には技術院と中央航空研究所の建設は陸軍の要求を通じて互いに密接な関係を持つようになっていったのである、と結ばれる。
 本論文は、出来事の因果関係が明確に整理されており、論理的整合性のある説明がパズルのように美しく展開されていて、非常にわかりやすく、読んでいて興味を注がれる内容だった。こうした歴史の新しい「流れ」を論理的に導き出すところに、歴史研究の醍醐味を感じることができた。

 

(3)水沢光「アジア太平洋戦争期における旧陸軍の航空研究機関への期待」『科学史研究』第43巻(2003年)、23-30頁。

  前掲の論文の続編にあたる論文。前の論文では、陸軍における構想の起源と、その構想に対する他官庁の反応を主に取り上げたが、陸軍による航空研究機関への具体的な要求と、その影響までは扱うことができなかった。本研究では、航空研究機関でおこなわれた研究課題を、陸軍がどのように位置付けていたのかを分析することで、航空研究機関の航空技術に関わる研究開発全体のなかでの意味・役割を明らかにする。資料としては、陸軍がドイツ・イタリアへ派遣した2つの使節団の報告書が用いられている。
 第1章では、1937年までの陸軍による航空研究機関への期待の特徴と、そうした期待の背景が明らかにされる。まず日本の航空機工業の発達は3つの時期にわけることができるという。第1期は1910年-1915年までの輸入期、第2期は1915年ー1930年までの模倣時代、第3期は、1930-の自立時代である。航空技術の自立化の進展に合わせて、陸軍は1933年「陸軍・航空本部器材研究方針」を制定し、航空技術の研究開発に関する本格的な検討が始まった。そして自立時代に相当する1935年以降、陸軍内では国内の航空技術の研究体制に対する批判が顕在化していった。批判の要点は1935年4月から12月に欧米を視察した陸軍航空視察団の報告に見て取れる。その中で、内閣直属の「航空技術研究委員会」の設立を求め、東京帝国大学航空研究所では学術研究に主体が置かれ、工業化・実業化んい守るべき成果がないことから、軍民共通の航空技術の研究を実施する「国立中央航空研究所」の設立を提言する。その後、1936年10月から1937年2月に主にドイツを対象に再び視察団が派遣され、ドイツの組織をモデルに、研究体制に対する提言が提示された。報告書では民間航空機製造会社と密接な関係を持つ大規模な中央航空研究機関の設立を求めている。そして機体や発電機のような軍民共通の研究事項はここに委ねられるべきだとした。研究機関に期待された具体的な内容は特定の軍事目的に基づく研究の実施であった。
 第2章では、陸軍からの要求による、東京帝国大学航空研究所の性格の変化を分析する。1918年に航空に関する学術研究をおこなうことを研究所の目的として設立された東京帝国大学航空研究所では、実用的な研究は陸海軍及び航空機製造会社に任せることを原則としていた。しかし、1940年頃になると、陸軍からの委託研究が取り込まれるようになる。それには3つの主要な委託研究があった。第一は高高度飛行機に関するもの、第二は高速機に関するもの、第三は、長距離の研究だった。(ちなみに第二の高速機の委託研究は、1940年に基礎設計は開始され、機体製作は陸軍専属工場であった川崎航空工業岐阜工場において実施された。そこは、私の実家から車で30分ほどの場所にある 。)なぜ、東京帝国大学航空研究所は委託研究を引き受けたのか。筆者は、「研究所の運営は、外部からの委託研究費に頼らざるを得ない構造になっており、研究所が自ら指針で陸軍からの委託研究を受け入れるようになっていた」と分析する。1941年での研究所の全体予算は79万円で、各部あたり年間2-5万円であり、これは実用発電機1台すら購入できない状態であった。こうした状況下で、外部からの委託研究費によって、新しい設備の購入費用を賄っていた。研究所は、陸軍からの委託研究費に依存せざるをえない構造になっていたのである。
 第3章では、海外情報の途絶を受け、1941年に陸軍が「独創的技術発達ノ温床」を求めていたことを明らかにする。1940年の日独伊三国同盟の締結を受け、41年に再びドイツ・イタリアへ視察団が派遣され、陸軍の航空研究機関への期待は新たな展開を見せた。海外情報の途絶と関連して、新技術を生み出す研究環境の整備を提言したのである。報告は、国内の航空研究機関がより一層、総合的な研究成果を発揮できるように、軍部の主導的統制指導を強化することを求めた。
 第4章では陸軍の主張が、技術院での研究課題につながったことが明らかにされる。技術院の第二部が航空技術を担当していたが、第二部が1942年に作成した「航空技術躍進ノ為現在実施シ又ハ計画中ノ事項」で、陸海軍の航空兵器の基礎研修を実施することを、陸海軍側と話し合っているとされる。そして技術院は、陸軍の要求に会う沿う形で、航空技術研究の指導的統制機関として、航空研究機関の拡充を行うことを計画した。それによると、21箇所の研究所を増設し、技術院の一元的統制指導のもとで研究が実施される予定だった。そしてこの計画は1941年の6人の視察報告が直接影響していたと考えられる。なぜなら、計画要綱に、附表としてドイツにおける研究体制の情報が示されていたからである。使節団の報告で求められた研究課題は、実際に技術院での課題として取り上げられた。1942年の予算より技術院で取り上げられた課題のうち、41年の使節団報告と関係する課題は13件あった。(その中には中谷宇吉郎による「航空機着氷防止ノ研究」が含まれている。)これらの課題は第二部の課題28のうち、金額ベースで47%を占めていた為、ドイツから持ち込まれた基礎的な研究課題が研究機関で小規模分散的に実施されていたと述べられる。

 

 

現代思想 2016年11月号 特集=大学のリアル ―人文学と軍産学共同のゆくえ―

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